2020年5月27日水曜日

純粋経験とは”ゾーン”のことではない

『善の研究』における西田の純粋経験の説明は、互いに相容れない様々な論理がごっちゃになっているため、その文章を全般的に吟味せず部分的に切り取っていけば、それを読む人の都合の良いようにいろいろな解釈ができてしまう。そして、そういった解釈を許すような西田の論理の甘さもある。

精神集中していても、していなくても、思考・判断していても、「私」について考えていても、やはり主客未分である/精神集中と時間感覚
https://keikenron.blogspot.com/2019/05/blog-post_31.html

の記事で既に説明しているが、精神の”状態”に関係なく、経験していることは皆純粋経験なのである。経験が「純粋かどうか」なのが問題なのではなく、「純粋に」ピュアなままに経験を受け取っていこう、これが純粋経験論なのだ。このあたり広く誤解されているし、西田自身がひどくブレてしまっている(実際に会って指摘したいくらいである)。

念を押しておくが、「ありのまま」とは物自体を見て取るとか、そういった仮想概念を「ありのままの状態」「本来の状態」とか見なすのではなく、あくまでそこに何か見えた、それを「リンゴ」と呼んだ、そのリンゴが「赤い」と思った(実際に思ったのならば)・・・そういった具体的経験の事実をただただ見ていく、ということなのである。

話は戻るが・・・純粋経験とは、精神集中、あるいは競技などしているときに入り込むような”ゾーン”の状態やら、というふうに限定されるものではないのだ。集中しているかどうかと主客未分とは全く別の問題なのであって、別に気分が散漫な時でさえ、私たちの経験として「自己」「我」というものが現れることなどないのである。

別にゾーンに入って、自信に溢れていて力はみなぎっているのに冷静・・・といったふうないつもと違う状態であることと、純粋経験であるかどうかとは全く別の問題なのである。

さらに言えば「私」のことについて考えている時でさえ、そこに現れているのは「私」という言葉と、それに伴う何らかのイメージやら、あるいは映像や鏡に映った人の顔やら、そういった具体的な視覚的経験(あるいは情動的感覚なども現れているかもしれない)でしかないのである。そこに「自己そのもの」「我そのもの」を探そうとしても、どこにも見つかることはない。

私たちは鏡に映っている人の顔を「私の顔」と思うだけである。

また、よく見かけるのが、統一したり統一が崩れたりしながらより高次な統一へ進む過程・・・のような説明である。統一しても統一しなくても純粋経験ならば、統一しているか否かは純粋経験であるかどうかの区分とは関係ない、そんなこと普通に考えれば当たり前の話である。この当たり前を”ありのまま”に受け取らず、余計な詭弁を弄して何か生み出そうとするのが多くの西田哲学の研究者の現状であるように思えるのだ。(それこそ「裸の王様」)

そもそも「統一」とは何なのか? 何が統一しているのか? 数学の答えがやっと分かるのは、ただ「答え」となる数字や記号が浮かんできて、達成感と呼ぶこともできそうな何らかのスッキリ感のような情動的感覚が現れている、ただそれだけではなかろうか? 問いの「答え」が見つかることは「統一」なのであろうか? 具体的経験の事実としては、ただ「答え」が現れただけなのである。

後期の西田哲学では矛盾がどうたらとか出てくるが・・・そういう前に、「矛盾」とは何なのか、そこを明らかにする必要がある(どのような具体的経験をもって「矛盾」と呼んでいるのか明らかにするということ)。そのあたりの厳密な検証なしに、ただただ言葉の遊びに陥っている、それが実際のところなのである。

2020年5月24日日曜日

ヒューム『人性論』分析:「同一性」について

ヒューム『人性論』分析:「同一性」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report29.pdf

が出来ました!
あとは「存在」と「経験の位置づけ」に関してまとめれば第一篇の分析は終わりです。

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 本稿は、ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)における「同一性」に関する分析である。
 ヒュームは同一性も「知覚」であると説明しているにもかかわらず、一方で「万物は流転する」のような哲学的常識に縛られ、印象は常に変化・消失し、同じものは現れないという“思い込み”を取り払えないまま同一性について説明しようとして袋小路に入り込んでいるようだ。
 しかし、私たちが「同じだ」と思うのは、ただ“端的に”そう思うのであって、「違う」「変化した」と“端的に”思うのと同じことなのである。私たちがどう見ても「同じだ」と思うとき、そこに「相違」を見出せないとき、そこに「変化」「相違」があるといかに証明するのであろうか?
 本文中で詳細に論じるが、「相違」「変化」を承認しようとするのであれば、「同一性」も同じように承認すべきなのである。「同一性」を根拠づける必要があると言うのであれば、同様に「相違」「変化」も根拠づける必要があるのだ。しかし私が知る限り、哲学者たちは「相違」「変化」「差異」は根拠なしに承認しているのに、「同一性」だけに根拠づけを求めようとする(場合によっては根拠がないと主張したりする)。
 ヒュームだけでなく多くの哲学者たちが同一性について上手く説明できないのは、一方の事実(具体的経験)のみを採用し、他の事実を無視しているためではないかと思われるのだ。まさに次のジェイムズの言葉のとおりである。

 経験論が根本的であるためには、その理論的構成において、直接に経験されないいかなる要素も認めてはならず、また、直接に経験されるいかなる要素も排除してはならない。(W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』岩波文庫、49ページ)

 最後の二章では「人格の同一性」についても論じている。ヒュームが「記憶」に着眼したのは非常に的確であると思う。しかし「同一性」に関するヒュームの不正確な認識がその理論を歪めているので、それらの問題点について指摘しておいた。

 私はこれまで『人性論』に関する以下のレポートを作成しているので、参考にしていただければ幸いである。

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
(抽象観念および言葉の意味、時間・空間、複雑観念、因果関係)

ヒューム『人性論』分析:記憶と想像の違いとは?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report27.pdf
(記憶と想像との違い)

ヒューム『人性論』分析:「信念」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report28.pdf
(信念について)


 なお、本稿における引用部分は上記の『純粋経験の哲学』のもの以外は、すべて『人性論』からのものである。




<目次> ※()内はページ
Ⅰ.「同一性」とは「知覚」、所与として現れる経験(3ページ)
Ⅱ.「同じ」ことを疑うのであれば「違う」ことも疑わなければならない(4ページ)
Ⅲ.「同じ」にもいろいろある(7ページ)
Ⅳ.「人格の同一性」は記憶による(9ページ)
Ⅴ.「自己」「人格」という“実体”はない(11ページ)
<追記>(12ページ)

2020年5月16日土曜日

哲学に創造性は必要ない

ただ経験をそのまま記述するのに創造性は必要ありません。経験として現れないファンタジー世界を構築しようとするから創造性が必要になるのです。

そういったファンタジー的哲学(哲学といってよいのかわかりませんが)であるほど、芸術と親和性が高いようにも思えます。ファンタジーを作り上げることに問題はありませんが、それを”哲学”と呼ぶには違和感を感じてしまいます。


哲学に、具体的事例を用いた説明は必要ですが比喩は必要ではありません。それどころか、むしろ論理の飛躍をもたらすことの方が多いように思えます。

言葉で説明できないことは説明できない、あるいは説明しきれない、と言えば良いだけでです。哲学書で比喩が用いられているときは、気を付けて読む必要があるでしょう。なぜならそこで説明しようとする事柄と比喩として挙げられている事象とが同じことであるのか、異なる要素がそこに紛れ込んでいないのか・・・しばしばそこに論理の飛躍があるからです。

文学的に飾られた哲学書は、特に疑ってかかる必要があると思います。もちろん、哲学理論そのものでない部分において比喩を用いることに関しては特に問題はありません。

哲学は基本的に、芸術や文学のインスピレーションになるようなものではありません。ただ、当たり前のことを当たり前に説明することが、それはそれで癒しになる場合もあるし、人によってはそれがインスピレーションになりえることがあるかもしれませんが・・・


また、たくさん本を読めば「答え」に近づけるかと言えばそうでもないと思います。今の私にとって哲学書や哲学論文は、あくまで「哲学”業界”で問題とされている論点は何か」「哲学者がどのような思考プロセスで理論を作り上げているのか」を知るためのものでしかありません。

哲学はまさに「裸の王様」であると思います(これは比喩)。普通に考えて全く理屈に全く合わない説明であるのに、そこに難しそうな抽象的な専門用語をあてがうことで、一般の人たちが反論しにくいようにしているのです。たくさん本を読むことは、そういった”抽象的な専門用語を用いた理論武装”を強固にするだけのような気がします。

むしろ、そういった武装を取り外して、余計な知識はいったんほったらかしておいて、ただ私たち自身に現れる経験がどのようなものなのか、それを具体的に見直してみることが重要であると思います。まさにそれが哲学という学問における”フィールドワーク”であると言えます。すると、抽象的な理論武装がいかにナンセンスなものであったのかが、明らかになってくるはずなのですが・・・


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今はヒューム『人性論』の「存在」に関する分析をしています。いくつかの論点が混同されたまま論が進められているので、そこがヒュームの説明を分かりにくくしています。

2020年5月5日火曜日

ヒューム『人性論』分析:「信念」について

「信念」についてやっとまとめました・・・ここの部分はちょっとややこしかったです。

ヒューム『人性論』分析:「信念」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report28.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「信念」に関するものです。ヒュームは「印象⇒観念」という枠組みに固執するあまり、信念の問題における情念・情動的感覚の位置づけを見誤っている、そのため信念とは何か正確に説明できなかったと言えます。そもそも信念の問題は、「印象⇒観念」という枠組み、あるいは観念の「勢いや活気」というもので一律に説明できるようなシンプルなものではありません。

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<目次> 
Ⅰ.ヒュームの言う信念の“本性”とは?
Ⅱ.ヒュームの思考実験は何を明らかにするものなのか
Ⅲ.印象⇒観念の枠組みだけでは説明できない
Ⅳ.観念の活気や情感・情念の強さだけでは説明できない
Ⅴ.情念は、因果推論の“影響”のみでなく、事実認識を導くものとしても現れる

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これまでに以下のレポートにおいて『人性論』の分析を行っているので、ご興味のある方は参考にしていただければと思います。

ヒューム『人性論』分析:「関係」について 
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
・・・抽象観念および言葉の意味、時間・空間、複雑観念、因果関係について

ヒューム『人性論』分析:記憶と想像の違いとは?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report27.pdf
・・・記憶と想像との違いについて


あとは存在、因果推論における経験の位置づけ(経験論と合理論の論争における論点の問題点も)、自己の同一性で、第一編「知性について」の分析は終わりです。

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...