2022年2月26日土曜日

パラドクス以前の問題/いったい何を「証明」するのか

 野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)つづき・・・

187ページの、

「この文は偽である」

・・・そもそもこの文の真偽をどうやって判定しろというのであろうか? 「この文」とはどの文であろうか? 「この文は偽である」という文章そのものを指しているとしても、いったいこの文章の中のどこに真偽を判定すべき箇所があるのだろうか?

真偽を判定するためには、文の「形式」ではなく、その文が「何を指し示しているのか」、真偽を判定すべき「対象」というものが必要なのである。文章とそれが指し示す対象との関連づけがあって初めて真偽というものが判定可能なのである。

真偽が「形式」で決まるという論理学における「誤解」が問題なのであり、自己言及のパラドクス、ラッセルのパラドクス云々以前の問題なのである。

この誤解の上に立つ砂上の楼閣が論理学なのだろうか・・・?

***************

215ページからの「付録 命題論理の公理系LPの定理の証明」についてであるが、「証明」という表現に違和感を抱かざるをえない。

おそらく多くの人が感じているのではないかと推測するのだが、自身で自身を証明する、あるいは公理系のある規則で別の規則を説明しているだけなのである。

そもそもA⊃Aは論理で「証明」するようなものではない。それを「結合」規則や「背理法」規則を用いて説明するとはいったいどういうことなのか・・・

・・・つまり、ここで「証明」されているのは規則そのものの「正しさ」ではなく、「規則間の無矛盾性」なのである。他の規則を挿入しても矛盾なく別の規則にたどり着くことができる、そういうことである。

規則・公理そのものの「正しさ」はまったく「証明」されてなどいないのだ。規則間の無矛盾性と規則そのものの「正しさ」の証明とを混同しないことが重要ではなかろうか

先日引用した野矢氏の言葉についてだが、

けっきょくわれわれには、自分自身が使っている論理の無矛盾性を証明することなど、できないんですよ。その証明に再び当の論理を用いますから。(野矢氏、154ページ)

・・・野矢氏は「無矛盾性」というものが論理そのものに対してのものなのか、論理(規則・公理・定理)間におけるものなのか、あまり明確に認識されていないようにも感じられるのだが、どうだろうか?

論理そのものの「無矛盾性」は上記の野矢氏の言葉のとおり「論理」で証明などできない。一方『論理学』の本においてある程度証明されているのは、むしろトートロジーとしての”定理間”の無矛盾性ではないかと思うのだが。

2022年2月23日水曜日

議論がおかしな方向へ向かう契機 /「概念を分析」とはいったい何を分析するのか?

西田研究している方たちにはぜひ読んでほしいのだが、拙著

純粋経験から「離れる」ことはできない
~西田幾多郎著『善の研究』第一編第一章「純粋経験」分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report13.pdf

で以下のように指摘している。

西田は、純粋経験における「一事実」の定義をしただけだったにもかかわらず、その「一事実」から「他の事実」への「変化」を、「純粋経験を離れる」と誤認してしまった(宮国、5ページ)
・・・ここは非常に重要なポイントだと思う。今のところ、ここに気付いている研究者の著作に出会ったことがない。この取り違えが純粋経験に関する説明の混乱、論理の矛盾を引き起こしてしまっているのだ。純粋経験から離れられないのであれば、ずっと純粋経験である。ただそれだけのこと、そこに矛盾もないし、屁理屈を使って辻褄を合わせる必要もない。

**********

一方、野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)を読んでいて思ったのだが、論理学の方向性に狂いが生じている一因として、ラッセルのパラドクスの位置づけの誤認があるのではなかろうか。

ラッセルのパラドクスは二階述語論理の問題ではなく、言葉のトリックの問題でしかない。言葉の意味とはその言葉に対応する具体的事象・経験であるという、日常生活において当たり前すぎる事実を認めていない多くの哲学者たちの考え方に原因があるのだ。

もちろん無限・有限の話でもない。議論の方向性がここで大きくずれてしまっているのだ。

言葉の意味がこっそり変更されていたり、対応する事象を無視して言葉のみを実体化し、あたかも別の”何か”が存在しているかのように扱う実体化の錯誤がパラドクスを引き起こしているのである。

よくよく考えてみてほしい。

「7+5」という概念を分析(野矢氏、158ページ)

とはいったい何を分析するのであろうか? 「7+5」という記号の形? もちろんそうではなかろう。「概念」という言葉がミスリーディングなのだ。「概念」というものがいったいどこに存在しているのであろうか? あるのは言葉・記号・数字とそれに対応する具体的事象・経験でしかない。「概念を分析」と言いながら、結局何を分析しているのか、おそらく野矢氏も明確に自覚していないのではないか。

カント自身が説明している。指を使って5やら7やらを確かめているのである(カント著『純粋理性批判』 篠田英雄訳、岩波書店、70ページ)。そこに見えている5本の指、7本の指を用いて5やら7やらを再確認しているのだ。これはどうにもならない事実である。往生際悪く「5本の指の表象」(カント、70ページ)という表現を用いているが、「表象」なんてものも実際どこにもなく、結局そこに見えている指そのものなのである。


他にもいろいろつっこみどころはある。

そもそもが「すべての」「ある」という漠然とした量を扱う述語論理からどのようにして2とか3とかいう数の論理を導こうというのであろうか? 逆ならばまだわかる。これも二階述語論理の問題とは言えないのではなかろうか。

野矢氏自身がメタ論理を否定するような発言(?)をされている。
けっきょくわれわれには、自分自身が使っている論理の無矛盾性を証明することなど、できないんですよ。その証明に再び当の論理を用いますから。(野矢氏、154ページ)
・・・それは「メタ論理」ではなく、単なる「確かめ算」にしかすぎない前回のブログ記事参照)。ここまで分かっているなら、なぜわざわざ「メタ」という言葉を持ち出すのだろうか? むしろメタ論理を否定すべきなのでは、と思うのだが。

前回の記事でも述べたようにトートロジーは論理で「証明」されるようなものではないのだ。


<参考文献>

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析
(5本・7本の指云々の話は付録部分で論じています。)




2022年2月21日月曜日

「メタ論理」は幻想なのでは・・・?

野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)、第3章「パラドクス・形式主義・メタ論理」のところをゆっくり読んでいます。

(私の誤解も含まれていたようなので、一部消しました:2022年3月21日)

メタ論理の証明というのは、われわれの推論実践としての述語論理の無矛盾性を前提にして進められる・・・(中略)・・・それを前提しておいて述語論理の公理系の無矛盾性を証明するというのは、なんだか八百長くさい感じがする(野矢氏、154~155ページ)

・・・という道元・無門の疑念に対し、

ともかく、あらゆる証明はわれわれの推論実践が無矛盾だということを前提にしています。だから、そこを非難したってしょうがありません。その前提のもとに、ある公理系に矛盾が含まれていないかどうかを調べるわけです。(野矢氏、155ページ)

・・・と回答されています。しかし「証明の証明」(野矢氏、146ページ)というよりも、トートロジーであるということの再確認でしかない、それは「メタ論理」ではなく、単なる確かめ算的なものでしかないように思えます。いや、それでいいのだよ、と言われるのかもしれませんが・・・

ラッセルのパラドクスは、言葉の意味の変更や概念の実体化が行われた結果です。メタ論理云々というよりも、言葉のトリックの問題だと思います。

意味論であろうと構文論であろうと、論理の正しさは究極的には形式によって定められるものではなく、具体的事象(と言葉との対応関係)により確かめられるものなのです。論理の上の階層にメタ論理があるのではないのだと思います。

論理学的に「正しい」とされる論理形式を用いたとしても、事実と異なったり矛盾したりしている前提を用いて、間違った推論結果が導かれた場合、その事例において推論形式が本当に「正しい」のかどうかなんで、判断のしようがないのです。

論理形式とは、私たちの日常生活における一般的事実認識から導かれたもの、そして私たちが経験したことのない事象においても、その論理形式(そして、それを支える事実関係)が不変であろう、と前提した上で成立しているのです。「意味抜き」(野矢氏、106ページ他、似たような表現あちこちにあり)とは、前提条件が不変であるという仮定なのであって、一見形式のみを扱う構文論であっても、その「正しさ」を確かめようとすれば、結局具体的事実に立ち戻るしか他に方法がないのです。

そして論理を支える現実世界の具体的事象が変化したり、その事象の見方を変えたりしたとき、論理を支える「大地」(野矢氏、155ページ)がひっくりかえる可能性もあるのです。


・・・とりあえず『論理学』、ゆっくり読み進めていきます。



<関連記事・文献>

論理と事実認識との関係を見誤るとパラドクスに陥る

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証



2022年2月13日日曜日

論理と事実認識との関係を見誤るとパラドクスに陥る

 野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)、命題論理と述語論理、何回も読み直して、今やっと第3章・・・

ラッセルのパラドクスのところ読んでみて感じたのは、

(1)概念の実体化の錯誤

(2)事実認識→論理、という順番の取り違え

この二つがパラドクスを生じさせているのかな、と思った。そしてこの二つの誤謬をもたらす根本原因として、

<「言葉の意味とは、それに対応する具体的事象・経験である」ということを認めないという誤謬>

があるのだと思う。

無限・有限云々による説明はラッセルのパラドクスの問題と少々ずれているように思えるのだが・・・

勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』放送大学教育振興会(2017)、第4章「ヒュームの懐疑論と寛容論」からの文章であるが・・・

語の意味を知るとはいわゆる「メンタルイメージ」(語に対応する私秘的なイメージ」をもつことではない。たとえば、「政府」や「征服」などの一般名辞の意味を意味を知ってそれを適切に用いる行為者になることができるということは、その名辞の下に包摂され集められている諸観念を生き生きと想像出来るようになることではなく、むしろ、その名辞を他の名辞との関連上適切な仕方で用い、通時的な自分自身からも、会話の相手からも、承認されるようになるということである。(勢力氏、80~81ページ)

・・・現代の哲学者の間では、こういう考えの人の方が多いように思える(あくまで印象にしかすぎないが)。先日簡単に説明したフレーゲ的な見解に近いのかもしれない。

(私が)何度も繰り返し強調してきたことであるが、言葉の意味とは、それに対応する具体的事象、具体的経験(見えているもの、聴こえているもの、感じているもの)なのである(ヒュームの言う「印象」「観念」)。

それは論理も同じで、論理の「正しさ」を検証しようとすれば、究極的には具体的事例を持ち出して確かめるしか他に方法はないのである。(それについてはこれまでのブログ記事、あるいは下に示す参考文献で詳しく説明しているのでそちらをご覧ください。)


(1)概念の実体化の錯誤

集合のパラドクスにおいて、「犬の集合は犬か? 違うな」(野矢氏、133ページ)と説明されているが、それは「集合」という”概念”があたかも実体として存在しているかのように扱い、具体的事象から遊離した別個の論理を導き出すことで、現実と乖離(パラドクス)させているのである。

犬の「集合」とは、たくさんの犬が集まっている具体的状況、あるいはあちこちに散らばっているたくさんの犬を想定しているものであって、それは集合であろうと単独であろうと犬であることに変わりはない。集合であろうとなかろうと犬は犬なのである。

「集合」という「言葉」が犬でないのは当たり前である。しかし(犬に関する)集合論で具体的に問題となっているのは犬そのものであって、「言葉」ではないはずだ。

また、「自分自身に述語づけられないような述語」(野矢氏、131ページ)とは、述語論理における変数そのものでないことに注意が必要だ。述語とは、あくまで「・・・は日本語である」とか「・・・は犬である」という”言葉”である。

「・・・は犬である」と述語的に使われるとき、それは具体的な「犬」を指し示す命題であると思う。しかし「犬である」という”言葉”だけを抜き取り、「犬である」を主語のように扱うとき、それは犬そのものを指しているのではなく、「犬である」という”言葉”それ自体を指し示しているのである。

つまり言葉が同じでも言葉の意味が全く違っているのだ。


(2)事実認識→論理、という順番の取り違え

床屋のパラドクス(野矢氏、134ページ)について・・・もしこれが日常生活における出来事だとすれば、床屋自身はひげを自分で剃っても良いし剃らなくても良い。別にどちらでも良い。

床屋自身が持ち出した論理が現実を包括しきれていない、ということである。

不在市長の市長(野矢氏、135ページ)も、「不在市長の市長」で別に何の問題もなかろう。それ以前に、不在市長が住む市を作ってしまうと、彼ら”不在市長”はそこの市民としても二重に登録されてしまっているのではないか? 現実的に考えればラッセルのパラドクス以前の問題が生じてしまっている。

優先させるのはあくまで現実世界(別に空想の世界でも良いのだが)であって、論理はそれに従うもの、論理と現実とが齟齬を来しているのであれば、修正すべきは「論理」の方なのである。


述語論理の前提として議論領域がある。例えば議論領域が「人間」だとすれば、その述語論理が成立する前提として、私たちの「人間」に関する様々な一般的知識が前提となっている。現実世界における「人間」の一般的理解がまず先にあり、それを前提としてその述語論理の正しさが保証されているのである。

繰り返すが、論理は「形式」により正しさを担保されるのではない(あたかもそう見えることがあるが)。あくまで具体的事象・経験(それが事実であろうと想像であろうと)により(究極的には)その正しさが担保されているのである。

事実認識(あるいは想像された具体的事象)がまず先にあり、論理はそこから導かれる、あるいはその正しさを確かめられる。この順番を取り違えてしまったのがパラドクスなのである。


※ 想像といっても、具体的事象として想像する(描いたりすることも含む)ということであって、言葉だけ思い浮かべて理解した気になることとは違う。ここは注意。



<参考文献>

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf


「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証

http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf



2022年2月3日木曜日

フレーゲの「文脈原理」は根本的に間違っていると思う

(野矢茂樹著『論理学』東京大学出版会、第2章に関して・・・)


フレーゲの意味に関する認識には根本的な過ちがあると思っている。

 つねに銘記さるべきは、完全な文の全体である。そこにおいてのみ、語は本来意味をもつ。(野矢氏、90ページ。フレーゲ『算術の基礎』からの引用。)

分析哲学系の哲学者たちは、語の意味が、その言葉に対応する具体的経験、具体的イメージ、具体的感覚であることを拒否しているように思える。

私たちは「イワシ」とは何かと聞かれれば、イワシそのものを思い浮かべるし、食料品店にいるのであれば、そこに売っているイワシを指し示すだろう。

語の意味とは、それに対応する具体的事象、そこに見えているもの、聴こえているもの、感じているものなのである。

文の全体がどうであろうと、語は意味を持つ。それゆえに「丸い三角」が矛盾であると言えるのである。その文が「完全」であるとか「不完全」あるいは「でたらめ」と思うのは、それぞれの言葉の意味を知っているから(あるいはまったく知らない聞いたこともない訳の分からない字の羅列であると分かるから)なのである。

あるいは文章が具体的事象をきちんと説明できているのか、説明しようとする事象をその文章が正確に示せているのか、そういった具体的事象(経験)と言葉(文章)との対応関係というものが(究極的には)問われているのである。それが文章の「正しい」「間違い」なのだ。

その当たり前の事実を無視し、語と語との関係から語や文章の意味を説明しようとしたところで、論理が堂々巡りするだけなのである。

数学を論理学に基礎づけるという試みそれ自体が、どだい無理な話なのだ。

数学・算数も究極的には言葉(数字)と具体的経験との(論理的に説明できない)関係が出発点となっているのである。

論理がアプリオリなのではなく、具体的経験から論理が導き出されるのである。


とりあえずは『論理学』を(他の文献とを行ったり来たりしながら)じっくり勉強して、他のものに取り掛かろうとおもう。


<参考文献>

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf

(付録として「緒言」の分析も付け加えています)


実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...