2019年7月21日日曜日

「生きる意味」の問いにまつわる問題点

生きる意味とは何か、という問いに対し、意味はあるとかないとか、その問いと同じレベルで考えているようではいつまで経っても堂々巡りから抜け出せないと思うのだ。

まずは、以下の問題について答える必要があると思う。

1.「意味」とは何か
2、「意味」とは唯一のものなのか

・・・これらのことを明らかにすることなしに意味があるとかないとか議論したところで、様々な見解がただ出てくるだけで、議論が堂々巡りするだけではなかろうか。

哲学者側における問題点としては、イデア的な考え方が「意味」の問題の解決を阻害しているように思えるのだが・・・具体的に説明してみよう。



1.「意味」とは何か


「意味」とされるものには(1)言葉の意味(2)機能的意味の二種類がある。それらを混同してはならない。

(1)言葉の意味(言葉と経験の関係)

「リンゴ」「美」「鈴木さん」それら言葉が指し示すもののことである。結論から言ってしまえば、言葉の意味とは、常にそれに対応する具体的・個別的事象・経験であって、「リンゴ」という言葉に対応する唯一のイデア的なもの、「美」という言葉に対応する唯一のイデア的なもの、では決してないのである。

そこに見えているものが「リンゴ」であり、また別の場所で見たものも「リンゴ」である。もちろんそれらの間の共通点を見出すことはできる。たとえば「赤色」という共通点(青りんごもあるが、ここは一つの例えとして・・・)を見出したとして、その「赤色」は何か、と問われれば、赤い絵の具の赤、リンゴの赤、画用紙の赤・・・というふうに、やはり具体的事物を指し示すしかないのである。

つまり言葉に対応する唯一のイデアのようなものに到達することはなく、どこまでも言葉とそれに対応する個別的・具体的事象、経験との関係としてしか「意味」というものは現れることはないのである。

「美」や「善」という抽象的概念においても同様である。「美」という言葉を表す唯一のイデア的なものなどどこにも見つからない。「美しいもの」は何だろう・・・と想像してみたところで、浮かぶのは具体的な景色やら絵画やら人物やら、あるいはその時感じた情動的感覚やら・・・やはり個別的・具体的事象あるいは経験でしかない。「善」とは何か、と考えてみたところで、具体的行為やらそれに対して感じる気持ちやら、やはり具体的事象・出来事・経験でしかない。「美」「善」とは何か話し合ってある程度の共通点を見出すことは可能であるが、完全一致するとも限らない。「美」「善」という言葉に対応する「意味」は各々の個別的・具体的経験としてしか現れないのであるから、当然のことであろう。繰り返すが、共通点は見いだせる。しかし「美のイデア」「善のイデア」など終ぞ見つかることはない。



(2)機能的意味(因果関係)

食べ物を食べて生物は生きている、ある商品の需要が急増して価格が上昇した、太陽の光をうけ光合成しながら植物は生きている、溶岩は火山の噴火によりもたらされた・・・そういった原因・結果の関係、つまり因果関係に基づいた機能としての意味である。

太陽の光は植物が生きるのに役立っている(必要である)、食べ物は生物が生きるのに役立っている、商品の需要が価格の上昇に関わっている、火山活動によりもたらされた土壌が農業の役に立っている(あるいは火山灰が農業に損害を与えた)・・・というふうに特定の出来事を成立させるために必要であった、その要因になった、そういった特定の事象の成立に対する機能を、「意味」として呼ぶことがある。

私がその部屋の掃除をしているから皆が快適にその部屋を使うことができている、とか会社から給料を貰えたから自分用のパソコンを買えたとか、そういった日常的に考える機能的意味もやはり因果関係に基づいている。

ある行為をいくらがんばってもそれが結果につながりそうもない時、「こんなことして意味があるのか」と考えてしまったり、他人から言われたりするかもしれない。

因果関係には、(科学的)客観性があるものと、ないものとがある。客観性がない因果推論は「正しい」と断定できるものではないのだが、だからといって「間違い」と断定もできないものも多い。

因果関係の(科学的)客観性とは、事象の繰り返し(いつ見てもそうである・誰が見てもそうである)によってもたらされている。しかし私たちの日常生活において、そういった繰り返しを見いだせない事象、あるいはわざわざそれらを調査しようとも思わない些細な出来事も多いのではなかろうか。(また、科学的理論においても100%の再現性を持つものなどほとんどないのではなかろうか)

つまり、日常的に私たちが機能的意味として考えるものは、客観性があるものもあれば、客観性を持たないただ主観的な憶測であるものも含まれている。自分が「意味がある」と思っていても、実際はそうではない可能性もあるのだ。

・・・そして、ここで理解してほしいことは、機能的意味というものも、具体的な事象・具体的経験に基づいた因果把握によりもたらされるものであって、たとえそれが科学的客観性を有さないことがあるにせよ、具体的事象に基づいた推論であることに変わりはない。つまり、具体的経験から離れた抽象的な「意味」というものが存在しているわけではないのだ。

もちろん(実際には因果関係が見いだせなくても)「意味」があったと思い込むことも可能である。そのことによって気持ちが落ち着いたり前向きになれたりすることもある。ただ、そういう場合においても、事実として言えることは、「思い込む」ことが「気持ちの落ち着き」をもたらした、という因果関係、「思い込んだ」ことに機能的意味があったということ、言えることはそこまでである。



2、「意味」とは唯一のものなのか


(1)言葉の意味について

多くの哲学者たちの間では、プラトン(ソクラテス)の時代から、「美そのもの」「善そのもの」というイデア的なものがその言葉の意味として考えられる傾向がある。あるいは特定の言葉に対応する唯一の「本質」としての意味というものがある、と考える人たちもいるのではなかろうか。

「リンゴ」という言葉に対応する、唯一のイデア、あるいは本質・・・個別の具体的な経験(視覚的経験など)を超越した、何者かがあって、それが「リンゴ」という言葉と対応する「意味」であるかのような誤解がまかり通っているように思えるのである。

しかし、そのようなものどこを探しても見つかることはない。「リンゴ」という言葉に対応するものは、常にその時その時に現れる個別的・具体的経験(具体的感覚、あるいいは個別的心像)でしかない。このことは各々が、自らの具体的経験を振り返ったり実際に試してみれば明らかになるであろう。唯一のイデアのようなものは、いくら探しても現れない。自らが「リンゴ」を代表するものを想像してみたところで、やはりそれも個別的・具体的なリンゴの心像でしかないのだ。

つまり言葉の意味とは、常に個別的・具体的経験としてしか現れないのである。これは先に述べたが「美」「善」という抽象概念においても事情は同じである。


(2)機能的意味について

機能的意味は、どの事象について考えるかによって、つまり特定の視点があって初めて特定できる。

人間についてのみ考えてみても、他の人がかかえていた荷物を代わりに運んであげて「助かった」と言われたら・・・私が荷物を運んであげたことでその人が助かった、ということで私が荷物を運んであげたことが「機能的意味」を持っていたと言える。

養老孟司著『唯脳論』(筑摩書房)45~47ページで鎌倉時代の九相詩絵巻が紹介されていたが、あのように死者が野ざらしにされてしまった場合も、微生物がそれによって生きることができたわけで、微生物にとって人間の死が機能的意味を持っていたと言うこともできる。別に死ななくても、お腹の中で乳酸菌やら様々な菌が生活(?)しているわけで、それらの菌の生存から考えれば、人間の日常生活は機能的意味を持っているとも言える。

人は生きながら様々な影響を別の人やら生物やらに与えているわけで(もちろん死も様々な人に影響を与えているだろう)、それらの個別の事象に視点を移せば、さまざまな機能的意味を持っていると言うこともできるのである。

・・・つまり、機能的意味においても、そこに「唯一の意味」を特定できるものではない。人は様々な影響を良くも悪くも他者に与えながら生きている。自分自身で特定の役割を重要視することはできる。しかしそれが「唯一の生きる意味」と決めつけることもできないのである。(もちろん思い込むことはできるが)

ただ、一般的に人々が「生きる意味」を問うとき、微生物の生存に役立ったという答えをされても満足できないのではないだろうか?

・・・要するに「人の役に立てているかどうか」を問うている場合が多いのではなかろうか。自分は誰かの役に立てているか、誰かに良い影響を及ぼしているのか。その場合においても、人は様々な影響を人々に与えている。自分自身でそのうちの特定の役割のみを重視・強調することはできる。しかしそれはただ「そう思い込んだ」だけであり、視点を変えればまた別の機能的意味が見いだせてしまう。

ちなみに、具体的事象・経験として現れない抽象的概念を生きる意味として挙げたところで、それが本当に機能的意味を有しているか、因果関係を見出すことができない限りは確かめようがない。どこまでも憶測以上のものにはならない。意味の問題を抽象的に議論したところで解決を見ることがないのはそのためである。



3.「意味」とは具体的・個別的経験に基づくものであって、そこから離れた「意味」というものはない


ここまで述べてきたように、言葉の意味であれ機能的意味であれ、具体的経験に基づいていることに変わりはない。主観的に「思い込む」ことはできるが、それは意味が「思い込み」によってもたらされることとは違う。一方で「思い込む」ことが何らかの効果をもたらすとすれば、「思い込む」ことに(機能的)意味があるということにはなる。ここを混同してはならない。

いずれにせよ、「意味」が具体的事象・経験に基づくものである以上、そこに唯一のイデア的なものなど見いだせない、「意味」をそのようなものとして見てはならない、ということなのである。

「意味」をイデア的なものと見なしている間は「生きる意味」の問いに対し堂々巡りする他はないであろう。



<関連レポート>


「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
  ~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report22.pdf

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf



2019年7月14日日曜日

芸術的・文学的ナンセンスは、論理的矛盾が厳然とした事実としてあるからこそ成立する

(※ 2019年7月18日に1の部分を修正しました)

続 壺 齋 閑 話
http://blog2.hix05.com/

の、

比喩とレトリック
http://blog2.hix05.com/2019/07/post-4547.html

・・・の記事について、私の見解を述べておこうと思う。レトリックと論理との関係という興味深いテーマである。

※ 壺齋散人氏と私との見解のずれは、「論理」とは何なのか、あるいは「論理的」とはどういうことなのか・・・これらに関する見解の違いも関係していると思われるが、「論理」についてはそのうち野矢茂樹著『論理学』東京大学出版会、の分析をしながら詳細に説明していくつもりである。現時点においては、

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

・・・で論理とは何かについて説明している。


1.因果=論理、比喩・暗喩=非論理、という決めつけはおかしい


念をおしておくが、私は

因果的思考=科学的思考、ではない
https://keikenron.blogspot.com/2019/07/blog-post.html

・・・の記事において、壺齋散人氏の因果関係に関する見解の問題点を指摘したのである。因果=論理、比喩・隠喩=非論理という見方は一面的で、因果関係に関する誤解に基づいたものなのである。

因果推論にも非論理的なものが多いし、論理的かどうかも定かではない因果推論をしながら、私たちは日々生活している。

一方、比喩もそこに何らかの「論理」というものがあるからこそ成立している、ということなのだ。

そして、論理的とは何か、非論理的とは何か、そこを取り違えてはならない、ということである。

因果関係というものそれ自体を「論理」と呼べるかもしれない。
しかしその「論理」というものが、実際に因果関係が(恒常的相伴という形で)客観性を有していると認められるからこそ「論理」として成立しうる。

そして、たとえば「私に仕事がないのは芸能人の〇〇が私を呪っているからだ」とか、知り合いでもない人を自分の境遇の「原因」と考えるような思考を”論理的”であると呼ぶだろうか? 確かに因果関係(因果推論)ではある。しかしこういう客観性・必然性を持ちえないような因果推論を論理的と呼ぶのか、ということである。

因果関係だから論理的なのではなく、因果関係が「正しい」から論理的なのである。そして因果関係が「論理」として成立するのは、「正しい」因果関係というものが具体的事実として認められるからこそなのである。

つまり、「論理」と「論理的」というのは意味合いが少し違う、ということでもある。上記の因果推論の事例は「おかしな論理」と呼ばれるかもしれない。しかし「論理的」ではない。

一方、比喩にしてみても、「このリンゴは鋏のようだ」とか、関連性も類似性も見いだせないようなものを「比喩」とは呼ばないであろう。ただ、比喩とは様々な背景があり、いかなる形で類似性を見いだせるかは、時と場合により変化してくる可能性もある。「このリンゴはあなたの心のようだ」という比喩は、シチュエーションによっては成立しうるであろう(後で説明するが壺齋散人氏の言われる換喩や提喩の部類に入るかもしれない)。

ただ、いずれにせよ、そこに共通性、類似性、関連性が見出せなければ比喩として成立することはないのである。


2、比喩にも論理がある


直喩にしろ隠喩にしろ、あるものと別のものとを、属性の共通性に基づいて比較するという働きからなっている。(壺齋散人氏)
・・・つまりそこに何らかの論理性が認められるからこそ比喩が成立する、ということなのである。

そして換喩と提喩も因果関係に基づいている。そして、それが成立するためには、当然そこに何らかの論理性が認められるのである。ただその因果関係の科学的客観性がどれくらい認められるか、そこの保障はないのであるが・・・場合によっては一部の人たちの思い込みで本当に正しいのか分からない場合もありうるが。ただその場合においても、とりあえず一部の人たちの間ではそうであると思われている事柄なのである。

ただ、もし壺齋散人氏が言われるように、(特定の業界?において)ナンセンスも比喩に含まれているとすれば、比喩には論理的なものとナンセンスの両方がある、ということになる。

しかし、壺齋散人氏が示された聖母マリアに関するレトリックの事例は、比喩というものが成立しているからこそ成り立つナンセンスではないだろうか。

そしてナンセンスを比喩に含めることには少々問題があるのではないだろうか。ナンセンスが比喩に基づく場合があるとしても、あくまでも比喩は比喩、ナンセンスはナンセンス、別物ではないか、と思うのだが。

・・・ということで、次にナンセンスについて論じてみる。



3.芸術的・文学的ナンセンスは、論理的矛盾が厳然とした事実としてあるからこそ成立する


私は前回の記事では、(壺齋散人氏が今回の記事で説明されているような)ナンセンスな表現が新たな想像をもたらす、そういう事例については説明していなかったので、その問題についてここで述べてみよう。

論理的なナンセンス、つまり「矛盾」とは、言語表現に対応する経験がどこにも見つからないということである。「丸い三角」「四辺が等しい三角形」そういった言語表現に対し、それに対応する事象・事物を見つけることができない、想像さえできない、そういうことである。

誰かがわざと矛盾的言語表現を用いた文章を書き、それを読んだ人が何らかの不思議な感情やら感覚やらを持ったり、あるいは何らかの想像をかきたてられた、そういう可能性はもちろんある。

しかし、それはそこに「論理的な矛盾」というものが厳然たる事実として認められたうえで成立している(だからこそナンセンスと呼ぶのである)。そして、そこに現れた想像やらは、あくまでその言語的矛盾の問題とはまた別の事象なのであって、そこにおいて論理的矛盾が「解消」されたりするわけではない。

オノ・ヨーコさんの作品を見たときのことだが、4本のスプーンが並べてあってそれに「THREE SPOONS」と説明が書かれているものがあった。私は芸術は疎い方なので、その作品に関する評論をここでする気はないのだが・・・私自身、おもしろい、いろいろと想像を掻き立てられるなぁと感じた。

しかし、それはそこに実際に4本ならべられているスプーンと「3本のスプーン」という言語表現ととが「矛盾」しているからこそ成立する芸術なのである。「3本のスプーン」と書かれているのに、そこに4本のスプーンがある。どう見てもおかしい。おかしいからこそ、「ひょっとして実際にはないものが私には見えているのではないか」と自分の視覚というものを疑ってみたり、あるいは様々な物語、たとえば「誰かがいたずらでこっそり1本足したのだ」とか別の物語を作ってみたり、その他さまざまな想像が浮かんでくる。

4本のスプーンが並べられているところに「FOUR SPOONS」とタイトルを付けたところで、そこに何の物語やら感覚も生まれない。ナンセンスの効用というものはそういった想像を生み出すところにあると思う。しかし、何度も言うようだが、そこに「矛盾」というものが厳然と存在しているからこそ、その芸術が成立しうるのである。(反対に、ナンセンス的表現ばかりの場所で一つだけ正しい表現に基づく作品を提示したら、それはそれで芸術的何かになりうるかもしれないが)

(壺齋散人氏の説明からは内容的に少しずれてしまうが)
そこにおいて、ポストモダン的な説明、あるいはソシュールの言語学的な説明は詭弁でしかない。そこにシニフィエとシニフィアンの関係における「恣意性」などどこにもないのだ。「THREE SPOONS」とそこに見える4本のスプーンとは、やはり言葉と意味の関係としては確かに食い違っているのである。その厳然たる経験の事実がそこにあるからこそ、ナンセンス的表現による様々な想像というものが成立しうるのである。

そして(繰り返しになるが)新たな想像・発想によって、その矛盾が解消されたり消えてなくなったり乗り越えられたりするのではない、矛盾は矛盾としてそのままある。



4.間違った表現の方が感情・情動を引き起こしやすい


ここからは因果的分析、仮説的分析である(しかしちゃんと調べれば恒常的相伴が認められると思うのではあるが)。

正しい文章は当たり前の事実を説明しただけであって、私たちはただ普通にすらすら読んでしまうことが多い。一方、矛盾した文章表現は、それを読んだときに違和感などの情動的感覚を引き起こしやすくなるのではなかろうか。

ただのリンゴを机に置いて「リンゴだ」と説明したところで、当然すぎて何も感じないであろう(リンゴだ食べたくてしょうがない場合はそうでもなかろうが)。

一方、その時「これはサツマイモだ」などと説明したら、それを聞いた人は「それはおかしいだろ!」とツッコミを入れたり、口に出さないまでも何らかの違和感のような情動的感覚を抱くであろう。

つまり、正確な表現よりも間違った表現の方がより強い感覚を引き出す可能性がある、ということなのだ。矛盾した表現はより人目をひきやすい、より多くの注目を集める一つの手段であると言えるのかもしれない。

逆説的なことを書けば興味を引かれる。人目を引く。その後で最後にちょっと正しいことを書けば、それがなんだか”深淵な”真理のように思えてくるかもしれない。

そういった文章的トリックというものもありえよう。ただ、そういう演出によってもたらされた何らかの感覚、あるいは想像というものは、確かにそれはそれで一つの事実、私たちにもたらされた新しい経験であることには変わりない。それは否定できないものである。

ただ哲学などの学問においては、その文章的トリックに引きずられず、事実は事実として具体的経験は具体的経験としてありのままにとらえる必要があると思うのだ。

2019年7月6日土曜日

因果的思考=科学的思考、ではない

続 壺 齋 閑 話
http://blog2.hix05.com/

の、

因果的思考と隠喩的思考
http://blog2.hix05.com/2019/07/post-4536.html

・・・の記事に関して、

「因果的思考が科学的な思考と言えるとすれば、隠喩的な思考は文学的な思考」(壺齋散人氏:ブログ著者)

・・・という見解は因果関係の説明としてはあまりに問題があるので、一応指摘しておく。


1.必然性がないから推論なのである


ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_6.html

因果推論するのに必然性あるいは恒常的相伴は必要ない
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_24.html

・・・の記事でも(私は)述べているが、まさに上記のタイトルどおり、ヒュームは因果関係が「必然性」を持つとはどういうことなのかという問題と、なぜ因果推論できるのか(因果推論の原因)の問題を混同、あるいは取り違えている。それゆえに説明が混乱を来してしまい、さまざまな解釈が可能な文章になってしまっているのだ。

よくよく考えてみてほしい。推論に必然性があるわけがない。必然性があったら推論ではない。当たり前の話である。


2.科学のみが因果関係ではない


たとえば、
「そこでは人間に対して腹を立てた動物は病気を送り込み、人間の見方である植物が薬を供給して応戦すると解釈され、「胃病と足の痛みは蛇、赤痢はスカンク、鼻血はリス」 等々・・・のせいにされる。」(『レヴィ=ストロース 構造』現代思想の冒険者たち 20 、渡辺公三著、講談社: 228ページ、アメリカ合衆国南東部のインディアンの事例) 
 ・・・これらは、

動物が腹を立てる→病気を送り込む
植物=薬→病気の応戦する(病気を治癒する)
蛇→足の痛み・胃痛
スカンク→赤痢
リス→鼻血

・・・というふうに、やはり因果関係による物事の把握であることにかわりはない。宗教、呪術、占い、その他科学以前の様々な世界把握も、やはり因果関係の把握のそれぞれのやり方なのである。

あるいは「あの人は私が嫌いだから私にだけプレゼントをくれなかったのだ」とか「字がきれいな人は心もきれい」だとか、そういった必然性とは無縁の因果推論をしながら、私たち(?)は生活している。間違いかもしれないし、場合によっては正しいかもしれない、恒常的相伴(随伴)も見いだせないが、正しいか間違いかも確かめようがない(あるいは確かめるほどのことでもない)事柄も多いのである。(「字がきれいな人は心もきれい」というのは誤りであるとは思うが・・・そもそも「心がきれい」の定義があいまいである)

「因果関係についての判断は、科学を支えている」(壺齋散人氏)という見解はもっともであるが、「因果的思考とは、因果関係が論理学の土台をなしているという意味で、論理的な思考と言ってよい」(壺齋散人氏)と断定して良いのだろうか? 必然性、あるいは科学的客観性のない因果推論を、私たちは日常的に行っているのである。それが”論理的”なものなのか、それさえも分からないような因果的”判断”もあるのだ。

つまり、因果関係⇒論理的、という壺齋散人氏の見解は事実に即していない。要するに、その因果関係が具体的経験として実際に現れている(そしてそこに恒常的相伴・随伴が認められる)ことが「客観的に正しい」、つまり論理的なことなのである。


3.比喩も論理である


壺齋散人氏は比喩を「非論理」としている。果たしてそうであろうか?

「主語に内在する属性の共通性にもとづいて、AとBとを結びつける思考を隠喩的思考と呼びたい」と壺齋散人氏は述べられているが、比喩・隠喩も、結局は、AとBの属性の共通性、あるいはAとBとの類似性という、類似・同一という関係(ヒュームはこれらの関係は経験によって知らされるとしている)に収れんされるのである。

属性の共通性、あるいは類似性が認められないような場合は、比喩・隠喩として成立しようがないのである。(それこそ”非論理”である)

つまり、「因果的思考が科学的な思考と言えるとすれば、隠喩的な思考は文学的な思考」(壺齋散人氏)という見解は、あまりに雑、恣意的な分類であると言わざるをえないのである。隠喩が科学的だとは言わないが、少なくとも論理にかかわる問題であるとは言えるのだ。


4.「思考」とは何か


「人間の思考の基本的かつ最小の単位は判断である」(壺齋散人氏)という根拠はいったい何なのであろうか? そもそも「判断」とは何なのか?

「思考」と一言で言うものの、実際にはさまざまな事象として現れる。そしてその境界は非常にあいまいなのである。

何かイメージが湧いてきて、それらが様々な形で組み合わさったり変化したりする場合、それは「思考」なのだろうか? 想像と思考との区別はどこにあるのだろうか?

机に何か置いてあるのが見えて「リンゴだ」と思ったとする。これは「思考」なのだろうか? 一般的にこれも「判断」であると思うのだが・・・「現代の記号論理学は、人間の判断を五つの最小単位にパターン化している。否定、連言、選言、条件法、同値である」と壺齋散人氏は述べられているが、「リンゴだ」という判断は五つのうちのどれにも当てはまらない。そもそも私たちの思考が「記号論理学」に基礎づけられていると思うこと自体が勘違いなのである。

それらの判断が「正しい」かどうか本当に”論理的”であるかどうかは、結局その言語表現が実際の経験・事象と対応しているかどうかで”判断”されるものなのである。


5.蓋然性はprobabilityの訳、要するに確率的なもの


ヒューム自身の説明とは離れてしまうのであるが、

因果推論はしてみたものの、その推論が正しいかどうかはそれが具体的事象として実際にそうなるかどうかで決まる。「雲が立ち込めてきたから雨が降るだろう」と推論したとして、実際に雨が降ればその推論が正しかったことになるし、雨が降らなかったら間違っていたことになる。

昔、天気予報はよく外れていたが、理論(要するに因果関係の連鎖)を精緻化することで、今は前よりもよく当たるようになったとする。先日テレビで見たのだが、昔の天気予報の的中率と現在の的中率を比較して、現在の方が向上していると説明されていた。つまり、現在の方がより「正確」な推論をできる確率が高まっている、ということなのだ。

私たちは、日常的なことでも、(今良い事例が思い浮かばないのだが)まずこうやってみて、うまくいかなかったから、やり方を少し変えてみて、今度はうまくいった・・・しかし同じようにやっていてもあるとき失敗してしまった、今度は別の要素を修正してみたらうまくいった・・・というふうに試行錯誤を重ねながらより正確に将来予測できる因果推論のモデルというものを構築していく。

もちろん、試行錯誤さえ必要ないくらい明白な因果関係もある。火に手を近づければ熱く感じる、とかそういった事柄である。

恒常的相伴(随伴)が獲得できるプロセスに程度の差はあれ、このようにして因果関係の必然性というものはもたらされていくのである。

それは未来の出来事とは限らない。古文書などを探し新たに見つけた事例なども、それが過去の出来事であったとしても、その人にとっては新たな経験であることに変わりはない。



<関連記事・レポート>


ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
・・・ヒュームの因果関係に関する見解の問題点を指摘しています。

ヒュームは因果推論における「経験」の位置づけを見誤っている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post.html

ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_6.html

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...