2019年3月2日土曜日

「関係そのもの」「関係をもたらす何らかの力・作用・きずな」の印象・観念などどこにもない

現在、ヒュームとジェイムズの「関係」について批判的分析をしている最中なのだが・・・ヒュームに関しては「因果関係」をどこまで扱うか、改めて別稿で詳細に分析するか迷っているところである。

ちょうど(?)以下の論文を見つけたので、私なりの見解を述べてみたい。

豊川祥隆著「ヒュームの関係理論再考―関係の印象は可能か―」『イギリス哲学研究』 39(0)、日本イギリス哲学会、2016年、67~82ページ

関係の観念が複合的であると言うとき、その意味の候補は二つある。第一に、関係の観念を、複数の対象のみに構成されたものと考えることができる。その場合、ある関係にあるA、Bという対象があるとき、この二つが単に並置されることで、関係の観念が構成される。第二に、関係の観念は、複数の対象に加え、関係を成立させる事情を包括すると考えることができる。その場合、関係の観念はA、Bという対象に加え、それらを比較する際の事情を含んでいる。
 ヒュームがこのどちらを考えていたかについては、ヒュームが関係について言及する箇所以上に明示的な論拠はない。しかし、この二つの候補のうち、明らかに前者は不合理である。前者ではただ単に複数の対象を並置することで関係の把握が遂行されることになるが、これはわれわれの認識の仕方と適合しない。複数の対象をただ知覚するのと、その知覚と共に関係を把握するのは別の事柄である。複数の対象をただ知覚するのと、その知覚と共に関係を把握するのは別の事柄である。また前者の場合、諸観念を比較する理性は不要になってしまうが、これはヒューム自身の言葉と相容れない。従って、関係の観念は、複数の対象に加え、それらを比較する際の事情を含んだ観念であると考えられる。(豊川氏、68~69ページ)
・・・ヒューム自身の説明のブレがあるために、いろいろな解釈ができるかもしれないのだが、基本的に「理性」というものを前提とした根拠づけは、経験論の論理からは逸脱したものであるといわざるをえない。「理性」という言葉に対応する観念・印象をいくら探しても見つかることがないからである。

AとBが実際に並置されている、AとBとが並んでいる様子がそこに見えている、その印象が、まさに「場所的状態」なのである。そこに「A、Bという対象に加え、それらを比較する際の事情」というものなどどこにもない。それを認めることは、観念と観念、印象と印象との間に、経験として現れることのない「想定概念」を差しはさむ、あるいは背後に措定する、というまさに合理論的論理に陥ってしまうのだ。

「関係」と呼ばれるものは、まさに経験にそのまま現れている。その現れている状態を「関係」と呼んでいるのであって、経験と経験との間を取り持つ「力」「作用」「きずな」そういった措定概念を持ち出すことの根拠がまったくどこにも見当たらないのである。
ここでは、対象が現前している場合における関係の把握が、「感覚」と表現されている。それゆえ、前節で挙げたヒュームの印象についての語法を考えれば、ここでの「関係の観察」も、観念ではなく印象を通じて行われていると考えられる。(豊川氏、74ページ)
・・・つまり実際に対象が”並置”している、あるいは”継起”している、それらは「論拠」によって根拠づけられることではない、実際にそこに並んで立っているではないか、その印象こそが「関係」と呼ばれるものだ、そういうことなのであって、そこに”二つの対象の間を取り持つ力・作用・きずな”の印象を措定する必要はない、豊川氏の言われる「関係を成立させる事情」とはまさにこの具体的知覚そのものだ、ということなのだ。
関係の観念の成立のためには、もう一つの類似の把握が必要である。すなわち、個々の事情の間の類似が知覚され、その事情が一般化される必要がある。それにより初めて、対象の間で成立する関係の一般的把握が可能となるからである。(豊川氏、70ページ)
・・・ヒュームが「関係の印象」という表現を用いないのはもっともである。そもそもそういうものなどないのだから。そして、関係を把握するのに「関係の一般的把握」は必要ない。まず特定の経験があり、そこから何らかの「関係」を見いだした(しかし「関係そのもの」の印象ではない)という事実がそこにある。まずその経験が所与としてあるのだ。もちろん「関係そのもの」、言い換えれば「関係をもたらす何らかの力・作用・きずな」の印象・観念などどこにもない。
従来の解釈者のように関係の印象の考察を回避する場合、その根拠がない以上、ヒューム哲学は関係の観念を扱えないという批判(Cf. Prichard, 1950: 177/8, Green, 1992: 172-6)を招く。そのため、ヒュームが関係の観念を正当に扱うためには、やはり関係の印象の存在を提示する必要がある。(豊川氏、71~72ページ)
・・・「関係」という「言葉」はあっても複数の印象・観念の間にあってそれらを繋げる何か(力・作用・きずな)といったものの印象・観念というものは知覚経験として現れることがない、ここが経験論のキモ(の一つ)なのであって、ここで「関係の印象」というものを探すことは、根拠のない推論・想像に向かってしまうだけなのだ。

「感じとしての印象」(豊川氏、75ページ)というのはありえない。私たちが思考するとき、違和感やら安心感というか納得したときのすっきり感とでもいおうか、そう呼ばれる情動的感覚がある(より厳密には、特定の具体的体感感覚とそれを違和感、すっきり感と言語表現した事実があるだけだが)。ヒュームはそれらを「情念」に含めているし、実際具体的感覚であることに変わりはない。ただそれらは、あくまで思考を導いていく道しるべ的働きをしているだけで(因果的に考えれば)あって、決して「関係」の印象ではない。
類似、同一性、(性質の)程度、空間と時間、反対といった関係は、受動的直観によっては悪され、その把握が「感覚」と比喩される点から、われわれに本性的、一般的に把握されうるものだと言える。同様のことは、差が十分ある場合、数、量にもあてはまる(Cf. T.1.3.1.3)。また因果関係については、対象の推移の仕方の「類似の観察」が必要であること、そしてそこから生じる因果推論がしばしば本性的、本能的と考えられていることから(Cf. T.1.3.8.2, E.5.2f)、やはり他の哲学的関係と同様であると考えられる。(豊川氏、77ページ)
・・・これも、結局は、これら「関係」と呼ばれるものが実際の観念の並列・継起、そういった具体的知覚として現れていることを示していないだろうか? 「感覚」と”比喩”されるのではない。具体的感覚として実際に現れている、そういうことなのである。「本性的」「本能的」というのが”比喩”なのであって、「理性」と同じくそのようなものの印象・観念など実際にはどこにもない。

豊川氏の本論文は、印象⇒観念、という関係から「関係」の印象・観念について論じられたものであるが、豊川氏も、そしてヒュームも見落とした「言葉」と印象・観念との関係も論じるべきであろう。ヒュームはしばしば「〇〇の観念」という表現を用いるが、実際のところそんな心像=観念、などどこにも現れていないことが多いからである。

要するに「〇〇という言葉」「〇〇という用語」と表現すべきところを、ヒュームは経験における「言葉」の位置づけを無視しているために、「〇〇の観念」としてしまっている、そういう箇所が多く見受けられるのだ。

例えば「時間の観念」と言っても、そのようなもの具体的に現れてなどいない。「時間そのものの印象・観念」などないのである。ただ現れているのは継起する(あるいはしない)印象・観念(感覚や心像など)だけなのだ。

2019年2月17日日曜日

経験は「変化として出現する」のではない、変化しているのか、していないのか、どちらかである/ 怒りや愛や恐れが純粋に精神の変容としての感情であるというのは、端的に誤りである

W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』(岩波文庫)は、第7章までざっと読んでみた。今は、さらに読み込みながらジェイムズの純粋経験の問題点について検証しているところである。

1.時間論に関してジェイムズはヒュームより後退している


ジェイムズの言う「変化」「連続」には、私が考えた以上にジェイムズの妄想というか、恣意的イメージが入り込んでいるようだ。ジェイムズは時間に関してヒュームよりも後退した見解を持っているように思える。「一の内なる多」についても、批判的検証が必要であろう。
 わたしがすでにあなた方に述べたように、「通り過ぎようとしている」瞬間は、それ自身の内側にもその外側にも「差異の顕現」を伴っている、最小限の事実である。われわれがひとつの感覚野において過去と未来とをともに感じないのであれば、われわれはそれらをまったく感じていないことになる。われわれは通り過ぎようとしている時間をみたす質料の内に、同一の、一の内なる多というものを経験する。われわれの思考がその包暈へと向かって駆け込むことは、思考というものがもつ永遠の特異性である。(ジェイムズ「第7章 経験の連続性」175ページ)
われわれの経験は、連続性のまっただなかにあって変化として出現する。(同、175ページ)
・・・経験を時間の流れを前提として見ているからこのような見解になるのである。

経験は「変化として出現する」のではない。変化しているのか、していないのか、そのどちらかである。変化を感じたとき、それが時間の流れになる。変化していないと感じていれば、そこに時間の流れというものなどないのである。

そして、ヒュームの言うように、時間の流れをもたらすのは視覚経験だけではなく、現れてくるあらゆる経験なのである。目の前にある景色が全く変化していなくても、その景色を見ながら何か言葉が浮かんだり、イメージが浮かんだり、情動的な感覚を覚えたり、そういった新たな経験が現れたならば、そこに「変化」というものが生じているのである。

そして、一つの経験に変化というものが入り込んでいるのではない。変化したらそれが経験、変化していなければそれも経験なのである。

ジェイムズは連続と離接を同等に扱うべきだ、と述べている。同じように変化と不変も同等に扱うべきなのである。「われわれが一方に偏ったり、気分にまかせて好き勝手をする権利はないのである。」(ジェイムズ「第2章 純粋経験の世界」58ページ)

ジェイムズはここで自分自身が「引き算」的思考に陥っていることに気づいていないのだ。


2.怒りや愛や恐れが純粋に精神の変容としての感情であるというのは、端的に誤りである


「第5章 純粋経験の世界における感情的事実の位置」では、
 さて、何よりもまず、わたしが先に挙げた反対者たちがいうように、怒りや愛や恐れが純粋に精神の変容としての感情であるというのは、端的に誤りである、そうした経験の少なくとも大部分は、同時に身体の変容でもあるということは、情念にかんするジェイムズ=ランゲ説として、多くの文献によって説明されている。さらに、われわれのすべての苦痛は局所的なものであり、われわれはそれらを主観的な語彙によっても客観的な語彙によっても自由に語ることができる。われわれは自分の痛い場所を意識し、それが器官の大きな場所を占めていると語ることもできるし、自分が内的に苦痛の「状態」にあると語ることもできる。こうした両義性は、すべての価値評価的な言葉にも同様にみられることである(ジェイムズ、148~149ページ)
・・・という文章を読んで、私がだいぶ前に書いた

感情・欲望、意識・自由という概念の再検証~ 『フロイト思想を読む』分析を中心に
http://miya.aki.gs/miya/genshogaku2.pdf

・・・を思い出してしまった。要するに「精神」というものなど、純粋経験の具体的事実としてはどこにも現れていないのである。具体的経験として現れているのは、やはり具体的な何らかの体感感覚なのである。

昨日NHKの子どもに怒られる番組(NHKの番組紹介ページへ)を見ていたら、胸が締め付けられる感覚も、実際に心臓に痛みを感じているものであると説明されていた。心臓が痛みを感じているというのは因果関係を辿った知識であるが、純粋経験として見ればそれは具体的な胸の痛み、あるいは実際の苦しさとして現れているのである。

以下、上記拙著からの一部引用である。
厳密に言えば「くやしい」とか「情けない」というのは果たして”感覚”そのものなのか、ということである。実際には、「叱られた」「たたかれたて痛かった」、そして同時に、あるいはその後に、わなわなと打ち震えるとか、胸の奥に何かこみ上げてくるとか、言葉では明確に言い表しにくい感覚が出て来ているであろう。あるいは涙が出るなどの分かりやすい体験の可能性もある。それらの感覚や、「叱られた」「たたかれたて痛かった」という体験をもとに、「くやしい」あるいは「情けない」と“判断”しているとも言えるのである。
 つまり、「くやしい」「情けない」という感情は、”感覚”そのものなのではなく”判断”である、と言えるのである。 (宮国、3~4ページ)
  涙が不意に出たとき、それが「悲しい」からなのか「悔しい」からなのか? そのとき胸が苦しかったり、体がうち震えるかんじだったり、その他言葉では言いつくせない感覚も味わっていたとする。そのとき自分は「悲しい」と感じているのか「悔しい」と感じているのか、あいまいで判断が難しいことも考えられる。
 「悲しい」「悔しい」ともに、あくまで“概念”、つまり“言葉”である。結局のところ、自らが置かれたシチュエーション(例えば大事なものを失くした、叱られた、など)や、自らが感じている感覚などを考え合わせた上で、どの概念をあてはめようか判断しているのではないか。そのとき、判断(どういった感情のカテゴリーで今の感覚を表現しようかという判断)に迷うこともあるだろう。
 「好き」「嫌い」という感情については、さらにわかりやすいであろう。私たちは、「好き」「嫌い」という感覚そのものを感じているのではない。あるものを見て感じた様々な感覚、あるいはそのときにとった自らの行動を振り返り、そのものが「好き」だったのだ、あるいは「嫌い」だったのだ、と“判断”している。この「好き」「嫌い」という“判断”は、新しい経験を積み重ねることで変化しうることであるし、過去を振り返ってみて、当時の状況や自らの行動を分析しなおし、当時は「嫌い」と思っていたが、本当は「好き」だったのだ、と結論づけることもあろう。(宮国、4ページ)

2019年2月11日月曜日

プラグマティズムではなく、言葉の意味の「対応説」

『純粋経験の哲学』(ジェイムズ著・伊藤邦武編訳、岩波文庫)「第3章 活動性の経験」では、ジェイムズが、言葉について述べた箇所がある。
 こうした表現によって経験を記述する者は誰でも皆、活動性についての記述を行っているのである。これらの言葉が何らかの意味をもつとすれば、それが指示するものは現実に見出されているものでなければならない。(ジェイムズ、108ページ)
「騒がしい」「赤い」「甘い」ということが、耳や目や舌をもつ者にとってのみ、何事かを意味するのと同じである。こうした経験の原初形態においては、知覚されることが存在することである。(ジェイムズ、110ページ)
・・・こういった、言葉と経験との対応関係を考えれば、
プラグマティズムの方法は、事実にかんする相違をどこかで生じさせないような言明は、異なった真理とはいえない、という要請から出発する。そしてこの方法は、信念における一切の相違の意味を、その信念にかんする議論をできるだけ速やかに実際的な問題や具体的な問題に帰着させることによって、決定しようと試みる。一方、純粋経験の原理もまた方法論上の要請である。それは、何らかの特定の時点でいずれかの経験者によって経験されうること以外の、いかなるものも事実として容認されてはならず、また、そのように経験される事実のもつ特性のすべてが、最終的な実在の体系の内のどこかに確固とした場所を確保されなければならない、と要請する。いいかえれば、いかなる実在的なものもどこかで経験されなければならず、経験されるいかなる種類のものもどこかで実在的でなければならない、というのである。(ジェイムズ、102ページ)
・・・わざわざ「プラグマティズム」という用語を持ち出すまでもないのである。結局、「言葉」が意味を持つ、言語表現が「矛盾していない」ということは、それに対応する何がしかの「具体的な経験」がそこに見出される、ということなのである。

それは「要請」ではない。あくまで具体的経験の事実、所与の事実である、ということなのだ。

経験が「二度数えられる」のは「異なる文脈」ではなく「同一の文脈」によるもの/「関係」の「感じ」など具体的経験としてあらわれていない

いま、ジェイムズ『純粋経験の哲学』(岩波文庫)の「第二章 純粋経験の世界」(および第一章も少し)を、「関係」という観点から分析したレポートを作成しているところである。さっき

山根秀介著「ウィリアム・ジェイムズの多元的存在論 : 「関係」概念をめぐって」『舞鶴工業高等専門学校紀要』 (52)、2017年、55~63ページ

・・・という論文があるのを見つけた。そのうち取り寄せて読んでみたいのだが・・・

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今日は、

八五郎屋の書庫
http://www5b.biglobe.ne.jp/~hatigoro/index.html

というウェブサイトに掲載されている、『ジェイムズ経験論の諸問題』(三橋浩著)の、
第二章 ジェイムズ経験論の中心思想
第三節 純粋経験の世界
http://www5b.biglobe.ne.jp/~hatigoro/REVIEWS%20on%20WJ-spje23.html

・・・について、いくつか指摘しておきたい。

1.経験が「二度数えられる」のは「反対せる文脈」によるものではなく、「同じ文脈」つまり因果的に導かれた主客の世界を前提とした経験の捉えなおし

われわれが意識と内容の問題をとりあげる際に、経験は意識と内容からなりたっているという場合と、経験は意識にも内容にもなりうるという場合とでは、その経験に対する見方が全く異質であることに気づかなければならない。ジェイムズの説明が奇妙にみえるのは、往々にして前者の立場の目を通して判断されている場合が多いからであって、もしわれわれがジェイムズの根本的経験論に親近感をもとうとするならば、かかる姿勢を一時放棄したところからはじめなければならないであろう。(三橋氏)
・・・問題は双方ともに恣意的な経験”解釈”である、ということだ。「引き算」的思考(経験は意識と内容からなりたっている)は論外として、ジェイムズの主張する”経験は意識にも内容にもなりうる”という見解も、経験を「額面通り」に捉えることに失敗しているのである。

経験はどこまでも「経験内容」であり、それが「意識」というものになるわけではないし、「認識する主体」になるわけでもない。

そして「私」というものは、あくまでも「経験内容」として現れるものなのである。
(※このあたりの論点については、拙著「“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である ~『純粋理性批判』序文分析」(http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf)Ⅴ.存在は「現象としての物」から因果的に導かれる(18 ページ~)でも扱っています)
われわれは知覚の哲学が一つの存在を外的空間とわれわれの精神の両方に認めるパラドックスに呷吟していたのを知った(三橋氏)
・・・そのようなパラドクスなどどこにもないことは、既に拙著

純粋経験には「意識」も「思考」も「作用」も「証人」もない
~「意識」は存在するのか(W.ジェイムズ著)の批判的分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report12.pdf

・・・で説明した。ジェイムズはしばしば”比喩”で失敗している。”直線と直線との交点”とかいう比喩は具体的経験としてはやはり「額面通り」ではないのだ。そんな「直線」などどこにもない。

結局のところ、部屋があってそこに私がいる、そこに机があって本を読んでいる私がいる、という第三者的存在把握が前提になって、初めてそこに「外的空間」と「精神」、あるいは外的存在物と意識、という分離が成立しているのである。

主客の分離が前提とされて初めて、経験が二度数えられるのである。
「そこから全く異なった線に沿ってかなたへと追求されうる違った過程の一つのメンバー」なのである。「同一の事物は他の経験への多くの関係をもっているので、それは全く異なる連合体系においてもうけとられ、又反対せる文脈contextにも属しているとみなされる。(三橋氏)
・・・という見解は全く的はずれ、経験が二度数えられるのは、因果的に把握された主客の世界によりもたらされるもの、つまり”反対せる文脈”ではなく”同じ文脈”による解釈なのである。
 そこで心的実体ではないところの意識とは具体的に何を意味し、人間の活動においてどのように作用しているかを吟味することは純粋経験や、根本的経験論の理論的解明に決定的な役割を果たすと考えられてくるだろう。そのためにはまずわれわれはジェイムズにおいては意識が流れているという事実を伝える以外のなにものも意味しない点を留意すべきである。純粋経験とは意識の流れが他からのなんらの制約をうけることなく認められる場であり、そこにおいては意識はその対象についての考えと不可分の関係において存在している。従って意識の流れとはわれわれの直接的経験の場においては、あるいはわれわれの精神が実在と一体となっている認識的世界においては、常に考えの流れとして現象している。(三橋氏)
・・・「意識が流れているという事実を伝える」とはどういうことか、結局それは「言葉」なのである。感覚的経験が現れた、それを「伝える」とは言うものの、”経験を額面通りに捉えれば”単にそれを「言語化した」「言語表現した」という事実があるだけで、そこに「意識」というものの「作用」を”措定”する必要などどこにもないのである。


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2.「関係そのもの」の経験はない


次に「関係」についてであるが、
 ジェイムズはそのことを端的に次のようにいう。「われわれは青の感じ、冷たさの感じをいうのと全く同様に容易に、そしての感じ、もしもの感じ、しかしの感じ、によっての感じをいうべきである。」(18)これはまさにわれわれの意識状態の中にあるものであり、考えの推移的部分を形成している。
 考えの推移的部分の強調は客観的には無数に存在する感じとしての関係の支持であり、主観的には考えの流続性の証左である。そして結果的にはそれはわれわれの知性に経験論における結合的関係の存在を認めさせる。このことはさらに純粋経験の世界の理解を容易にさせている。なぜならば純粋経験の世界とは直接的に経験される結合的関係の実在性をもって成立するからである。もし結合的関係が感じとして認められなかったら、経験のもつ文脈は根底からくずれさられるであろう。いいかえれば経験とはわれわれにとって全く意味をなさない抽象的対象として個々ばらばらにとりあげられ、それによってわれわれは経験を外的にしか内省できないことになるであろう。(三橋氏)
・・・関係を「感じ」として具体的経験として扱うのはおかしい。「額面通り」の経験ではない。

「関係」を具体的経験として「額面通り」に捉えるとはいかなることなのかについては、既に

「宇宙」「世界」「混沌・カオス」・・・経験を「額面通り」に受け取らず「抽象的な話」と混同している
https://keikenron.blogspot.com/2019/01/blog-post.html

・・・の記事でも説明した。
われわれは経験をまたずアプリオリに、「に隣接して」を含まずに「と共に」のみから成る宇宙を想像することが可能である。同様に、「に似て」のみから成る宇宙、「の次に」のみからなる宇宙、あるいは、作用性をもたずに「に似て」のみから成る宇宙、「のために」をもたない作用性、「わたしの」をもたない「のために」の宇宙を、それぞれ想像することが可能である。これらはそれぞれ独自に統一性をもった宇宙となるであろう。人間の経験の宇宙は、その時々の各部分において、こうした統一性のひとつであるとともに、すべての統一性の度合いを含んだものでもある。(ジェイムズ『純粋経験の哲学』52ページ)
・・・アプリオリという表現は論外として、私たちは「宇宙」を想像するのではなく、あくまで具体的に「隣接して」いる事物、「似ている」事象、そういったものを観察・経験しているだけなのである。鈴木さんと山田さんが並んで立っている状況、「同じ」碁石が二個並んでい置かれている状況、笛の音が聞こえてきて、「ド」の音から「レ」の音へ変わった状況、そういった具体的場面としての経験が実際にある(そしてそれを「隣接」とか「同じ」とか「変化」とか言語表現した事実が実際にある)、それを「額面通り」に捉える、まさにそのことなのである。
 ところでここに一つ問題が生じる。結合的関係が純粋経験のキイポイントであるとしても、単なる結合的関係の一連的な存在で、考えの流続性が説明されるといわれるのであろうか。いいかえれば、われわれの認識の段階において考えの流続性ないしは連続性という事実の存在が判明されたとしても、そのエネルギーはどこにあるのか不明にされているために、その内的自発性がみいだされない、という問題である。(三橋氏)
・・・つまり、三橋氏の言われるような「エネルギー」というものをそこに”措定”する必要などどこにもないということなのだ。それこそ「引き算」的思考なのである。
もし結合的関係が感じとして認められなかったら、経験のもつ文脈は根底からくずれさられるであろう。いいかえれば経験とはわれわれにとって全く意味をなさない抽象的対象として個々ばらばらにとりあげられ、それによってわれわれは経験を外的にしか内省できないことになるであろう。(三橋氏)
・・・と三橋氏が述べられているように関係が「感じ」として認められなくても「外的に内省」できるのである。外的・内的関係なく(そのようなものは事後的解釈)、具体的映像やら具体的感覚として、あるいは心像として現れている、ということなのだ。

経験を言語表現した事実は、純粋経験の具体的事実として認められるものである。ただ、その経験と言語とのつながりをそれ以上論理的に説明することはできない。経験と言葉とがつながった経験は、あくまでも”所与”の事実、その「理由」とはその経験から「引き算」で導かれるものではなく、あくまでその”所与”の経験から「足し算」でもたらされるものなのである。

そして、「足し算」とは結局のところヒューム的因果関係の構築による「経験則」の構築のことに他ならない。

2019年1月30日水曜日

何と何の整合性なのか/「足し算」とはどういうことなのか

大厩諒著「純粋経験の統一的解釈の試み : ジェイムズ哲学の方法論的考察を通して」、『哲学』2016(67) 、日本哲学会、2016年、169~185ページ
URL:https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2016/67/2016_169/_pdf/-char/ja

・・・をざっと読んでみた。問題は「整合性」とはいったい何と何の整合性のことを指しているのか、ということである。

おおざっぱに言って、二通りあると言える。一つは、以下に示すジェイムズ自身の言葉、
この経験をしっかりつかむということは、それを額面通りにとって、過大視も過小視もしないということを意味する。そしてそれを額面通りにとるとは、何よりもわれわれがそれを感じるままに把握するということであり、それについて抽象的な話をすることと混同しないということである。連接的経験についての抽象的な話をするとき、われわれは二次的な概念を創案することになり、それによってその経験の示唆するところを中性化し、現実の経験が理性的に可能になるという幻想に再び舞い戻るのである。(ジェイムズ『純粋経験の哲学』55ページ)
・・・この経験を「額面通り」にとる、という指針を貫くのかどうか、もう一つは、ジェイムズ自身の見解における矛盾する説明どうしを、特定の論理を導入することによって「整合的」に説明しようと試みることである。

後者の道を取れば、前者の指針と齟齬を来してしまう。結局ジェイムズが批判しようとした超越論的な原理(ジェイムズ、58ページ)を導入せざるをえない、実質的に経験論を放棄してしまう結果となってしまうのである。

ジェイムズは、以下のように述べている。
わたしが信じるに、経験とはそのような内的二元性をもつものではない。経験が意識と内容に分離されるのは、引き算によってではなく足し算によってである―足し算とはすなわち、経験のある所与の一片に他の経験の断片の集合が加えられることによって、その一片がさまざまな仕方で、異なった二種類の用途あるいは機能を果たすようになるということである。(ジェイムズ、17ページ)
・・・ここで「足し算」とはどういうことなのであろうか? ジェイムズ自身、明確に気づいていないようなのであるが・・・結局、「存在」やら「主体(あるいは主客の分離)」という事実把握は、経験そのものを”成立”させる何がしかの想定要因によってもたらされるのではない(つまり「引き算」では見つからないということ)、そうではなく、あくまで経験と経験との事後的な関連付けによって(つまりヒューム的な因果関係構築によって)導かれるもの、経験と経験との「足し算」によって導かれるものである、ということなのである。もっとも、経験を成立させる何かを論理的に導いたつもりでも、その論理自体が経験と経験を関連づけて導かれた因果的経験則に行き着いてしまうのであるが・・・
存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じものである。なにかをただ反省するのと、それを存在するものとして反省するのとは少しも違わないのである。存在の観念は、なにかある対象の観念と結びつけられても、この観念になにも付け加えはしない。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、37ページ)
・・・とヒュームが説明しているように、個別の経験それ自体からは、いくらそれを分析しようとしても「存在」というものをもたらす作用やら要素やら、そういったものを見つけ出すことはできないのである。
所与としてのい純粋経験、「単なるあれ」には、ほかの経験と結びつき、さまざまな役割を果たしうる能力ないし潜在性が備わっている(大厩氏、176ページ)
・・・というふうに、経験そのものの「性質」を分析して(引き算して)見出すようなものではないのだ。「能力」あるいは「潜在性」とは後付け的な理屈にすぎない。
 純粋経験のこうした自己展開が生じるのは、主体に与えられる純粋経験がつねに不十分なものであり、その内容を塗り替える「より以上のもの(more)によって不断に縁どられている」(ERE35)からだ。すなわち、「世界が与えてくれる一連の推移的な諸経験」(ERE14)が、所与としての純粋経験に対して外部から押し寄せてくる。これによって経験内容は更新されつづける。(大厩氏、177ページ)
・・・純粋経験の「自己展開」とは、結局のところ、経験はあくまで”所与”の事実、勝手にただ現れてくるだけの事実、「より以上のもの」というのもそれも実際の経験の事実、場合によっては経験と経験の関連づけが見出され(つまり「足し算」)、主客が分離しているという理解をもたらしているのである。ただそのとき物理的存在としての人間という主体ではない観念的(?)な主体というものが経験として実際に現れているのか、それらが「足し算」によって実際に根拠づけられているのか、そこをさらに疑う必要はある。(だからこそヒュームは「知覚の束」という表現しかできなかったのである)

大厩氏は「自我という経験群」(大厩氏、175ページ)という言葉を使われているが、そのような”経験群”とはいったいどこにあるだろうか? そのような用語はジェイムズ自身が使っていないのではないか?(174~175ページに引用されているジェイムズからの引用文に関しても、そのような表現はなされていない)

そもそもが「主体に与えられた」と理解していようがしていまいが、経験は経験、何も変わりはしないのである。先に私が引用したヒュームの文章にあるが、「なにかをただ反省するのと、それを存在するものとして反省するのとは少しも違わない」のである。同様に、ある経験を「ただ現れたものとして捉えようと、それが主体に与えられたものとして捉えようと、何も変わりはしないのである」。
主体に与えられるものとしての純粋経験は「直接的な生の流れ」であり、「この流れが材料となり、われわれは概念的カテゴリーを使って、そこにあとから反省を加える」(大厩氏、176ページ)
・・・となれば、カントといったいどこが違うのか?という話になってこよう。さらに「宇宙の自己表現」とまで言ってしまうと、私が最初に引用した、ジェイムズ自身の「経験を額面通りにとる」という指針といったいどのように”整合性”を保てると言うのであろうか?

2019年1月25日金曜日

「宇宙」「世界」「混沌・カオス」・・・経験を「額面通り」に受け取らず「抽象的な話」と混同している

『純粋理性批判』の先験的感性論、あるいは『純粋経験の哲学』の分析もきっちりしておきたいのだけど、その前にヒュームの『人性論』に関してまとめて、それをふまえた上で他の著作を見ていこうと思う・・・が、正直けっこう難しい。もう少し時間がかかりそうである。

ヒューム自身の「観念」という言葉の使用法にかなりブレがある、「単純観念」と「複雑観念」との区分のあいまいさ、ブレ、「複雑観念」と「関係」との関係(?)やら・・・時間がかかるかもしれないが、テキストをしっかり読んでじっくりまとめていきたいと思う。

とにもかくにも、ヒューム自身が述べているように「観念」とは「心像」なのである。一方、ヒュームは言葉をときに考慮してはいるが、多くの場合は無視している。それゆえに、ヒュームが「〇〇の観念」と言うとき、そこに心像があるものとないものとがごったになってしまっているのだ。

言葉を除外する弊害は他にもある。一ノ瀬氏が指摘されているように、
「Rさんは日本人女性である」という理解と、「Rさんは日本人である」という理解との間のように、原因結果ではなく、単に論理的な関係でも、観念についての「私たちうの事実」としては、「近接」、「先行」、「恒常的な相伴(恒常的連接)」を満たしてしまい、ヒュームの枠組みだと原因結果になってしまうのではないか(一ノ瀬正樹氏「原因と結果と自由と」ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社:19ページ)
・・・ということも言えてしまうのである。実際には、「Rさんは日本人女性である」「Rさんは日本人である」ともに、その言語表現が指し示す「印象」あるいは「観念(心像)」はどちらも同じものである。観念が近接・先行・恒常的相伴しているのではなく、同じ印象・観念を異なった言語で表現しただけなのだ。

一方、”もっと巧妙な形で「共通原因」が隠されている場合には、原因結果でないものを因果関係と見誤ってしまうことを排除できないのではないか”(一ノ瀬氏、19ページ)という指摘に関しては、これはヒューム理論の不備ではなく、因果関係が持つもともとの性質である。だからこそ、科学理論は次々に更新され、過去に常識だったものが間違いであったと分かったりするのである。

また、言語を除外する弊害はさらにある。快苦、情念、欲望といった事柄の分析において、実際に「観念」として現れているもの、「言語」としてしか現れていないものがある。それらの区分があいまいになってしまうのである。経験⇒言語表現、という関係を、経験⇒経験という因果関係と取り違えている箇所もあるように思える。このあたりは後日じっくり分析してみたい(『人性論』の後半部分になるので、だいぶ後の話になりそうであるが・・・)。

また、ヒュームの「信念」に関する分析も興味深い。情動的な面から信念を見ていく方向性は別に的外れなものではないと思う。

・・・ただ、情動から一律的に説明できるかといえば、それも疑わしいのであるが。

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ジェイムズの『純粋経験の哲学』第2章「純粋経験の世界」は経験論の指針となるような重要な記述がある。
この経験をしっかりつかむということは、それを額面通りにとって、過大視も過小視もしないということを意味する。そしてそれを額面通りにとるとは、何よりもわれわれがそれを感じるままに把握するということであり、それについて抽象的な話をすることと混同しないということである。連接的経験についての抽象的な話をするとき、われわれは二次的な概念を創案することになり、それによってその経験の示唆するところを中性化し、現実の経験が理性的に可能になるという幻想に再び舞い戻るのである。(ジェイムズ『純粋経験の哲学』55ページ)
・・・ここで「関係」というものをどうとらえるか、ということなのだが・・・要するに、経験の推移やら変化やらは、実際に経験していることなのであるから、その経験をありのままに受け止めるしかない、ということなのである。具体的経験は具体的経験なのだから。

しかし、そこからさらに進んで「抽象的」な話と混同してしまっている箇所がある。例えば、52ページで説明されている「宇宙」である。
われわれは経験をまたずアプリオリに、「に隣接して」を含まずに「と共に」のみから成る宇宙を想像することが可能である。同様に、「に似て」のみから成る宇宙、「の次に」のみからなる宇宙、あるいは、作用性をもたずに「に似て」のみから成る宇宙、「のために」をもたない作用性、「わたしの」をもたない「のために」の宇宙を、それぞれ想像することが可能である。これらはそれぞれ独自に統一性をもった宇宙となるであろう。人間の経験の宇宙は、その時々の各部分にお9いて、こうした統一性のひとつであるとともに、すべての統一性の度合いを含んだものでもある。(ジェイムズ、52ページ)
・・・アプリオリという表現は論外として、私たちは「宇宙」を想像するのではなく、あくまで具体的に「隣接して」いる事物、「似ている」事象、そういったものを観察・経験しているだけはないのか? 実際にそういう「宇宙」が具体的心像、具体的経験として浮かんできているのか? 直接ジェイムズに問うてみたいくらいである。

ここでジェイムズは経験を額面的にとらず抽象的な話と混同してしまっているのだ。そもそも純粋経験の「世界」とは何なのだろうか? 「世界」とは「宇宙」と一緒でやはり具体的経験として現れてはいない事柄なのである(もちろん現代社会において世界地図とか宇宙空間の映像イメージというものは経験として現れてはいるが)。

関係に「実在としての場所」(ジェイムズ、49ページ)を見出すということは、それらの関係が具体的経験として現れている事実を「額面通り」に受け取ることなのであって、そこで抽象的な用語を持ち出すことではないのだ。
まず第一に、連接と分離は、すべての出来事においてともに生じている現象であり、われわれが経験を額面通りに受けとるならば、等しく実在的なものとして説明されなければならない。(ジェイムズ、57ページ)
・・・そういうことである。さらに、
第二に、もしもわれわれが連続的に連接しているものとして与えられている事物を、実際には分離したものとして扱うことを主張し、そのうえで同一が必要なときに、想定された分離を克服するための超越論的な原理を求めるというのであれば、これとは反対の操作をする用意ももっていなければならない。すなわち、われわれの単に経験されているにすぎない非連続を、より真に実在的なものとするためには、同じように非統一のための公示の原理を求めなければならない。この点で成功しないのであれば、われわれは最初の所与の連続性もそれ自身の基盤のうえに立たせておくべきである。われわれが一方に偏ったり、気分にまかせて好き勝手をする権利はないのである。(ジェイムズ、57~58ページ)
・・・これは、私が

カントの恣意的な「経験観」(および「認識」について)
https://keikenron.blogspot.com/2018/12/blog-post_23.html

・・・の記事で説明したことと同じである。「変化」「差異」をありのまま受け入れるのであれば、「同一性」「不変」もありのままに受入れなければおかしいのではないか、ということである。これは連接・分離についても同様である。

ジェイムズは経験論における重要な指摘をいくつも残している。ただ、ジェイムズ自身がそれを徹底できなかった箇所がある、それを厳密に検証し、より厳密な経験論というものを構築していくのが、ここでの私の仕事である。

他にジェイムズが「抽象的な話と混同」しているものとして、「混沌」が挙げられる。
 われわれの宇宙は、それが現れるとおりに捉えられるかぎり、そのだい部分が混沌としたものである。経験全体はさまざまな連結からできているが、どの単一の連結も経験すべてを貫いていない。(ジェイムズ、52~53ページ)
・・・「宇宙」というものが経験のいったいどこにあるのか、それはジェイムズの抽象的イメージ図でしかないのではないか? 私たちの経験はただ経験されていること、見えていること、聞こえていること、感じられていること、それが「混沌」というのはあくまで抽象的用語を用いた事後的解釈でしかない。ただ見えたものを「リンゴだ」と思ったとき、そのどこに「混沌」があるのだろうか? 言葉で把握されたものは把握されたもの、言葉で把握されなかったものは把握されなかったもの、ただそれだけである。
直接に与えられるとおりの経験の体系全体は、それ自体としては半カオス的なものとして現れており、その内で、最初の項から多数の方向に経路が引かれ、次から次へと非常に多くの可能な経路が生じながらも、同じ終着点に辿り着くということである。(ジェイムズ、69ページ)
・・・これもおかしい。具体的経験としては、ただ具体的心像やら言葉が現れているだけ、ある知覚が別の心像やら言葉を連想させていく、そのプロセスであるにすぎないのであって、そこに「半カオス」という抽象的用語の入り込む余地などないのである。

また、後日じっくり分析したいが、ジェイムズの「認識」はおかしい。「ひとつの経験が別の経験の認識主体となる」(ジェイムズ、59ページ)とはいったいどういうことなのか? 経験は主体ではない。「認識するものと認識されるものとの関係」(ジェイムズ、59ページ)の説明としては論点がずれていないか?

80ページからの「六 異なった精神による同じものへの終着」に関しては、拙著

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である ~『純粋理性批判』序文分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf

・・・における、Ⅴ.存在は「現象としての物」から因果的に導かれる(18 ページ~)に共通する視点かなとは思う。こういった経験から導かれる一見あたりまえな説明が、まさにその答えなのではないかと思うのだ。「認識するものと認識されるものとの関係」についてはむしろこちらの理屈から説明すべきだったのでは、とさえ思える。



2019年1月1日火曜日

2019年にやりたいこと

年末は、仕事の合間にカントの『純粋理性批判』とジェイムズの『純粋経験の哲学』を読んでいました。

今年は、
(1)ヒュームとカントの比較:カントは本当に「独断のまどろみから目覚めた」と言えるのか、非常に疑わしいと思います。ヒューム理論がもっている経験論のキモ(ヒューム自身にもブレがあった)を感知しないまま、”妄想的”哲学へ邁進してしまった感があります。

私なりの分類としては、カント、ヘーゲル、フッサールは「妄想系哲学」であると言えると思います。使われる用語が、全く経験によって根拠づけられていない、いったい何を根拠にそう述べているのか、実のところ全く明らかではないのです。

(2)ヒューム⇒ジェイムズ⇒西田(『善の研究』の第一編のみ)という流れで、経験論がいかにして深められていったか、そして何にたどり着けなかったのか、それらをまとめることで純粋経験論がいかなるものなのか、より分かりやすい形で示していきたいです。

ジェイムズは、純粋経験を非常に限定したものとしてしか見ていなかった、時間というものを全くエポケーできていなかったと思います(時間に関してはヒュームより後退しています)。純粋経験というものを恣意的に限定してしまった、それ故に(特に真理問題に関して)プラグマティズムによって補填せざるをえなかったのです。

それを西田は、思惟や意志、知的直観でさえも純粋経験であることを示そうとしました。そこがまさに西田哲学のオリジナリティーであると思います。しかしそれが上手くいかず、様々な矛盾をその理論に残してしまいました。その後の西田の理論は、その矛盾の辻褄合わせ以上のものではないと思います。私は、西田が哲学という学問に残した最も重要な功績は『善の研究』第一編であると思っています。

『善の研究』第一編の分析は、こちらのページからダウンロードできます。
http://miya.aki.gs/mblog/category.html

(3)野矢茂樹著『論理学』分析・・・野矢氏の見解のブレがみられるし、指摘したい問題点もいくつかあるのですが、やっぱり今年は無理かな・・・論理学の問題を解いていく作業は、それなりにおもしろいのですが、やはり時間が必要なので、じっくりやっていきたいです。

以下、2014年の8月に、以前のブログに書いた記事です。

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否定詞が真偽を常に反転させるわけではないということについて:野矢氏『論理学』検証その7

野矢氏は、否定詞が真偽を常に反転させるわけではない、という事実を否定されているわけではない。「無門は昨日道元と寺にいたのではない」という文を例にあげ、これは真理関数的ではないと述べられている。その上で、”「真理関数的ではない,イコール論理的ではない」とはなりません”(『論理学』野矢茂樹著、東京大学出版会、1994年:23ページ)とも述べられている。

最初に述べたように,論理というのは言語のあらゆる局面に浸透しています.そして,真理関数という考え方は,そのごく一部を整理して取り出したものにすぎないわけです.(野矢氏,23~24ページ)
道元 確かに命題論理は極限された場面を扱う,と最初に言っていたが,しかし,それは否定詞と接続詞への語彙の制限ということだっただろう.ところが,いま問題になっているのは,まさにその否定詞が真理関数的に働かない場合がある,ということだぞ.(野矢氏,24ページ)
・・・野矢氏は論理学が「現実の推論実践に対する一つの近似」(野矢氏,24ページ)と述べられているが,この問題については一旦ペンディング扱いとなっている。

ならばなぜ、「つまり否定詞とは,文の真偽に働きかけるという観点から言うならば,ある文の真偽を反転させるという働きをもった言葉にほかならないのである.」(野矢氏,16ページ)という説明を先にしなければならないのか、という話になってこよう。

そして、「現実の推論実践に対する一つの近似」という表現にも疑問が残る。論理学における推論も確かに現実における推論実践の一つなのである。要するに、「近似」なのではなく、論理というものの「一部」である、という表現がより的確なのではなかろうか。

厳密につきつめれば、

私たちの体験から導かれた事実関係における真偽→論理抽出

であるのだが、野矢氏がこのことに気づいておられるのか、あるいは、

論理→真偽

という誤った論理学的認識から脱却できていないのか、そこを読み進めながら見極めていこうと思う。


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