2022年2月13日日曜日

論理と事実認識との関係を見誤るとパラドクスに陥る

 野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)、命題論理と述語論理、何回も読み直して、今やっと第3章・・・

ラッセルのパラドクスのところ読んでみて感じたのは、

(1)概念の実体化の錯誤

(2)事実認識→論理、という順番の取り違え

この二つがパラドクスを生じさせているのかな、と思った。そしてこの二つの誤謬をもたらす根本原因として、

<「言葉の意味とは、それに対応する具体的事象・経験である」ということを認めないという誤謬>

があるのだと思う。

無限・有限云々による説明はラッセルのパラドクスの問題と少々ずれているように思えるのだが・・・

勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』放送大学教育振興会(2017)、第4章「ヒュームの懐疑論と寛容論」からの文章であるが・・・

語の意味を知るとはいわゆる「メンタルイメージ」(語に対応する私秘的なイメージ」をもつことではない。たとえば、「政府」や「征服」などの一般名辞の意味を意味を知ってそれを適切に用いる行為者になることができるということは、その名辞の下に包摂され集められている諸観念を生き生きと想像出来るようになることではなく、むしろ、その名辞を他の名辞との関連上適切な仕方で用い、通時的な自分自身からも、会話の相手からも、承認されるようになるということである。(勢力氏、80~81ページ)

・・・現代の哲学者の間では、こういう考えの人の方が多いように思える(あくまで印象にしかすぎないが)。先日簡単に説明したフレーゲ的な見解に近いのかもしれない。

(私が)何度も繰り返し強調してきたことであるが、言葉の意味とは、それに対応する具体的事象、具体的経験(見えているもの、聴こえているもの、感じているもの)なのである(ヒュームの言う「印象」「観念」)。

それは論理も同じで、論理の「正しさ」を検証しようとすれば、究極的には具体的事例を持ち出して確かめるしか他に方法はないのである。(それについてはこれまでのブログ記事、あるいは下に示す参考文献で詳しく説明しているのでそちらをご覧ください。)


(1)概念の実体化の錯誤

集合のパラドクスにおいて、「犬の集合は犬か? 違うな」(野矢氏、133ページ)と説明されているが、それは「集合」という”概念”があたかも実体として存在しているかのように扱い、具体的事象から遊離した別個の論理を導き出すことで、現実と乖離(パラドクス)させているのである。

犬の「集合」とは、たくさんの犬が集まっている具体的状況、あるいはあちこちに散らばっているたくさんの犬を想定しているものであって、それは集合であろうと単独であろうと犬であることに変わりはない。集合であろうとなかろうと犬は犬なのである。

「集合」という「言葉」が犬でないのは当たり前である。しかし(犬に関する)集合論で具体的に問題となっているのは犬そのものであって、「言葉」ではないはずだ。

また、「自分自身に述語づけられないような述語」(野矢氏、131ページ)とは、述語論理における変数そのものでないことに注意が必要だ。述語とは、あくまで「・・・は日本語である」とか「・・・は犬である」という”言葉”である。

「・・・は犬である」と述語的に使われるとき、それは具体的な「犬」を指し示す命題であると思う。しかし「犬である」という”言葉”だけを抜き取り、「犬である」を主語のように扱うとき、それは犬そのものを指しているのではなく、「犬である」という”言葉”それ自体を指し示しているのである。

つまり言葉が同じでも言葉の意味が全く違っているのだ。


(2)事実認識→論理、という順番の取り違え

床屋のパラドクス(野矢氏、134ページ)について・・・もしこれが日常生活における出来事だとすれば、床屋自身はひげを自分で剃っても良いし剃らなくても良い。別にどちらでも良い。

床屋自身が持ち出した論理が現実を包括しきれていない、ということである。

不在市長の市長(野矢氏、135ページ)も、「不在市長の市長」で別に何の問題もなかろう。それ以前に、不在市長が住む市を作ってしまうと、彼ら”不在市長”はそこの市民としても二重に登録されてしまっているのではないか? 現実的に考えればラッセルのパラドクス以前の問題が生じてしまっている。

優先させるのはあくまで現実世界(別に空想の世界でも良いのだが)であって、論理はそれに従うもの、論理と現実とが齟齬を来しているのであれば、修正すべきは「論理」の方なのである。


述語論理の前提として議論領域がある。例えば議論領域が「人間」だとすれば、その述語論理が成立する前提として、私たちの「人間」に関する様々な一般的知識が前提となっている。現実世界における「人間」の一般的理解がまず先にあり、それを前提としてその述語論理の正しさが保証されているのである。

繰り返すが、論理は「形式」により正しさを担保されるのではない(あたかもそう見えることがあるが)。あくまで具体的事象・経験(それが事実であろうと想像であろうと)により(究極的には)その正しさが担保されているのである。

事実認識(あるいは想像された具体的事象)がまず先にあり、論理はそこから導かれる、あるいはその正しさを確かめられる。この順番を取り違えてしまったのがパラドクスなのである。


※ 想像といっても、具体的事象として想像する(描いたりすることも含む)ということであって、言葉だけ思い浮かべて理解した気になることとは違う。ここは注意。



<参考文献>

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf


「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証

http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf



2022年2月3日木曜日

フレーゲの「文脈原理」は根本的に間違っていると思う

(野矢茂樹著『論理学』東京大学出版会、第2章に関して・・・)


フレーゲの意味に関する認識には根本的な過ちがあると思っている。

 つねに銘記さるべきは、完全な文の全体である。そこにおいてのみ、語は本来意味をもつ。(野矢氏、90ページ。フレーゲ『算術の基礎』からの引用。)

分析哲学系の哲学者たちは、語の意味が、その言葉に対応する具体的経験、具体的イメージ、具体的感覚であることを拒否しているように思える。

私たちは「イワシ」とは何かと聞かれれば、イワシそのものを思い浮かべるし、食料品店にいるのであれば、そこに売っているイワシを指し示すだろう。

語の意味とは、それに対応する具体的事象、そこに見えているもの、聴こえているもの、感じているものなのである。

文の全体がどうであろうと、語は意味を持つ。それゆえに「丸い三角」が矛盾であると言えるのである。その文が「完全」であるとか「不完全」あるいは「でたらめ」と思うのは、それぞれの言葉の意味を知っているから(あるいはまったく知らない聞いたこともない訳の分からない字の羅列であると分かるから)なのである。

あるいは文章が具体的事象をきちんと説明できているのか、説明しようとする事象をその文章が正確に示せているのか、そういった具体的事象(経験)と言葉(文章)との対応関係というものが(究極的には)問われているのである。それが文章の「正しい」「間違い」なのだ。

その当たり前の事実を無視し、語と語との関係から語や文章の意味を説明しようとしたところで、論理が堂々巡りするだけなのである。

数学を論理学に基礎づけるという試みそれ自体が、どだい無理な話なのだ。

数学・算数も究極的には言葉(数字)と具体的経験との(論理的に説明できない)関係が出発点となっているのである。

論理がアプリオリなのではなく、具体的経験から論理が導き出されるのである。


とりあえずは『論理学』を(他の文献とを行ったり来たりしながら)じっくり勉強して、他のものに取り掛かろうとおもう。


<参考文献>

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf

(付録として「緒言」の分析も付け加えています)


2022年1月27日木曜日

野矢氏『論理学』を読む助けになる、おススメの文献

野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)を、少しづつ読んでます。あわてず行ったり来たりしながら取り組んでいます。

正直、この本だけ読んでも理解できないのではないでしょうか・・・?

構文論のところで突然公理系を提示されても、それがいったい何のことやらちんぷんかんぷんです。


ネットで見れるもののなかで、私のおススメとして以下の『論理学入門』を挙げておきます。


 https://abelard.flet.keio.ac.jp/person/takemura/class/2013/3-print-nk.pdf

(日本大学・竹村亮氏によるもの)

これを読むと、命題論理の公理系とはいったいどういうものなのか、仮定を「はずす」とはどういうことなのか具体的に理解できます。非常に助かりました。ありがとうございます!

https://abelard.flet.keio.ac.jp/person/takemura/class/2011/print-folnat.pdf

(同じく竹村亮氏によるもの。こちらは述語論理について。)


http://student.sguc.ac.jp/i/st/learning/logic/

(山陽学園大学・山陽学園短期大学 公式ページ内。いくつかのファイルに分かれています。)

・・・「真理の木」など、野矢氏『論理学』で示されていない方法論が他にあることが分かります。集合論や述語論理についてもわかりやすく説明されています。


*****

ここまで論理学関連の文献を読んでみてさらに確信しましたが、形式論理といえども、それがいったい何を意味するのかを理解しようとすれば、やはり具体的事例を挙げるしか他に方法がない、(一般的に言われている考えとは違いますが)やはり論理はアプリオリなんかではないのだと思います。

このあたりは(これまでも散々訴えてきましたが)これからもさらに具体的に論じていきたいと思っています。

野矢氏は『論理学』の中で、

この形式こそが推論の正誤にとって本質的であり、SやMやPには何を入れても(もちろん文法的に正しくなるような語に限定されますが)、その推論はまさにこの形式のゆえに正しくなる・・・(野矢氏、82~83ページ)

と説明されていますが、特定の形式が正誤を示せるためには、野矢氏自身が説明されているように「文法的に正しくなるような語」である必要があるのです。

では「文法的に正しくなる」ためには何が必要なのか・・・

要するに、形式による推論の正誤はアプリオリなものなのではなく、そこには特定の前提条件というものがある、そういうことなのです。論理学という学問内において形式が重要なものであることには変わりありませんが、それは究極的に形式により正誤が決まるということではなく(あたかもそう見えるようになっているが)、具体的状況として示せる・想像できる(ヒュームの言う印象・観念。現実世界であるとは限らない。)具体的事象によって確かめられ、その正誤が根拠づけられているということなのです。

数多くのパラドクスはこの点を見誤っているために生じているのだと思います。

2021年10月31日日曜日

論理学における意味論とは、結局のところ個別の具体的事例による真偽の確かめのこと

野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)を少しずつ読み進めている。だいぶ時間はかかりそうだが、最後まで読んで何か書きたいと思っている。

別に論理学そのものの間違い探しをしようとしているわけではない。そうではなく、論理学における論理の、現実世界との関係、あるいは私たちの具体的経験との関係について、野矢氏の見解にかなりブレが見られる、そこを指摘しようということだ。

そのブレはウィトゲンシュタインに共通する部分もあるし、フレーゲの「意味」理解の問題点に起因する部分もあろう。


結論から言えば、要するに「意味論」とは具体的事象・事実によって確かめられる真偽、ということに収斂する。

ヒュームは抽象観念・一般観念といえども、結局のところ「特定の名辞に結びつけられた個別的観念(particular ideas)」(ヒューム『人間本性論 第一巻 知性について』木曾好能訳、法政大学出版局、2019年、29ページ)にほかならない、

抽象観念は、その代表(表象)の働き(representation)においてどれほど一般的になろうとも、それ自体においては個別的なものなのである(同書、32ページ)

と述べている。これは論理学的論理の真偽検証に関しても、究極的には同じである。命題論理であろうと述語論理であろうと、意味論とはそういうものなのである。

野矢氏が『論理学』において、

ある論理式が妥当式ではないことを示すには、その論理式が偽になるような解釈を何か一つ与えればよい(野矢『論理学』、104ページ)

と説明されている。つまりそういうことなのである。結局のところ、

(1)その論理式が偽になるような解釈(=具体的事例)を思いつかない、想像すらできない ⇒ 真理・妥当式

(2)その論理式が偽になるような解釈(=具体的事例)を思いつく、想像できる⇒偽・妥当式ではない

・・・ということになるのだ。真理の決定が「決定手続き」(野矢氏、105ページ)によるものかどうかは関係ない。命題論理の意味論においても、その論理の真偽がどのようにして決まるのか考察しようとすれば、結局(究極的には)具体的事例を挙げて確かめるしかない、そのことが野矢氏・道元・無門のやりとりの中でいやがおうにも示されてしまっている。


*****

そのほかに「意味を抜く」とか論理の形式化に関する野矢氏の誤解についても指摘したい。

また、トートロジーに関するウィトゲンシュタイン(野矢氏も)の誤解については、

「p、または、pではない」が常に真であるとは限らない

https://keikenron.blogspot.com/2021/07/blog-post.html

の記事で既に説明している。

2021年8月30日月曜日

言葉と像とは違う

野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』ちくま学芸文庫、41~42ページ付近の、言語の問題について・・・

部屋の模様替え(配置換え)をするとき、(今部屋にある)机や書棚Aをボール紙で切り抜いて代理物とし、それらを配置したりすることで、まだ現実化していない配置=現実ではない事態(可能的結合)を作り上げることはできる。それについては当然、問題はないのだが・・・

野矢氏はこういった「像」が言葉である、としているが、ちょっとこれはおかしくないか?

例えばボール紙の書棚Aと書棚Bとを隣り合わせに置いたとする。しかしそれはあくまでそれだけである。

それらを言語化したとき、「書棚Aは書棚Bより大きい」とか、「書棚Aは書棚Bの右側にある」「書棚Bは書棚Aの左側にある」というふうに、初めて表現できる。そしてそれらの言語表現がすべてその「像」の状況と合致していれば「正しい」言語表現であると言えよう。

つまりボール紙の書棚Aと書棚Bという「像」だけでは、言語について何ら説明できていないのである。

また野矢氏は、私たちが思い浮かべる心像について、(意図的なのか)触れることがない。なぜだろう?(後で説明があるのかな? 私的言語関係かな?)

言葉が世界に属すると言うのはもっともだけど・・・言葉と像、言葉と心像の繋がりも「事実」だ、ということを認めたくないのかな・・・?

『論理学』を読んだときにも、野矢氏の説明に違和感があった。根本的な何かがちがうのではないか? (そしてそれは分析哲学全般にも言えることだと思う)

もちろんウィトゲンシュタインの考え方にも根本的な誤りがあるのだと思う。

「論理形式のすべてを把握していることはその対象を捉えていることの必要条件である。」(58ページ)

・・・そういう考え方がパラドックスに繋がる。そもそも「捉える」とはいかなることなのか? 考えるとはどういうことなのか?

私たちはそのものを見て「リンゴだ」と端的に思う。理由など後付けである。いろいろ思いつくが(思いつかない場合もまれにありうる)、それで説明しきれているのか、あるいは本当にそれが理由なのか、常に疑念が残るものである。


野矢氏、ウィトゲンシュタインも、この究極的な答えが出ないものを前提に据えてしまったのだ。順番を取り違えているからパラドキシカルになる。

2021年8月10日火曜日

マクタガートが見逃したもの

 大森荘蔵著『時は流れず』(青土社)最後まで読んで、いまいろいろまとめている最中。

もちろん時間の問題もそうであるが、法則とは何か、唯脳論のどこに問題があるのか・・・などなど。

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ジョン・エリス・マクタガート著・永井均訳・注解と論評『時間の非実在性』(講談社学術文庫)の、本文部分(第一部)を読んだ。

前半部分のわけわからない論理には辟易したが・・・後半部分で、この著者もやっぱり普通の感覚を持っている人だったと安心した。。。

前半部分は論理で論理を説明しようとしたり、議論の前提に根拠が見当たらなかったり、なんでこうなるの(!)とつっこみを入れたくなったが、

後半部分で、結局のところ「過去ー現在ー未来」という時間概念の枠組みと私たちの経験とに齟齬があるんじゃないか、というシンプルな話になってだいぶ分かりやすくなった。

たしかに時間そのものの「実在」を探しても見つかることはないし、私たちの時間感覚というものは究極的には主観的なものでしかない。しかし(マクタガートの見解とは異なり)そこには何の矛盾もないのである。

そして、ここでマクタガートが見逃しているものがある。

それは、同じ場所にいる人たち、地域に住む人々、世界の人々が同じものを見ているという場合だ。

それは太陽であり、月であり、時計である。同じ部屋にいる人たちが同じ時計を見ている。同じ時計の針の動きを見ることで、時間感覚を共有することができている。

同じ地域の人たちが同じ太陽を見ることで、日時の感覚を共有することができる。

そして時計がより精密になればなるほど時刻をより細かく刻むこともできる。

・・・いずれにせよ、「時間そのもの」を探しても見つかることはない。時間が流れるから知覚経験が変化するのではなく、知覚経験が変化する、その事実に対し時間という概念を当てはめているのである。

A系列やらB系列やらC系列やらおかまいなしに、私たちはいやおうなしに「変化」「動き」を知覚経験している。出来事であろうが関係であろうが要素・性質であろうが、私たちは実際に変化・動き(場合によっては不変も)経験しているのである。それが可能かどうか検討する前に、既に経験してしまっているのである。



<参考文献>

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義

http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf

(「変化」「動く」とは何か、ということについても説明しています)

2021年8月1日日曜日

原理的に一律に説明しようとするから堂々巡りになる/大森氏と私の知覚経験が異なっている可能性

 今日はちょっととりとめもなく・・・

大森荘蔵著『時は流れず』(青土社)、他者問題に関しては時間論よりは見るべきものがあるように思える。

普通人には何ら問題でもないことが、もともとは自身普通人である哲学者を苦しめる理由は何であろうか。(大森氏『時は流れず』、144ページ)

・・・という視点は素晴らしいと思う(これが時間論では成功していなかった)。そこから哲学という学問が持つ問題点を炙り出すことができるのだと私も考える。哲学的思考そのものに欠陥があるのでは?・・・と考えてみることも重要ではなかろうか。

普通人は全く無心に他者を見て「腹痛らしい」とか「悲しいらしい」と思うだけである。そう思うのは、おそらくフッサールが<対化>と固苦しく言った自他の類似性が動悸になっていただろう。しかし、特別な動機や理由がなくてもかまわない。何の理由もなくただ気まぐれにそう思ったのであってもかまわない。何の理由もなくただ気まぐれにそう思ったのであってもかまわない。普通人にとっては何の根拠もない思いで十分なのである。それは試行錯誤の試し打ちなのだから。(大森氏、149ページ)

・・・確かに大森氏が述べられているように、私たちが他者の気持ちを類推するとき、常にいちいち根拠を意識しながらそうするわけではない。類推するのに理由が必要であるとも限らないのである。

 しかし、常に理由がないと言えるわけでもない。大森氏の説明では不十分なのである。問題は理由があるとかないとかなのではなく、「理由」とは何か、ということなのだ。

 要するに、基本的に理由とは後付けで考えられるものだということなのだ。「理由」「原因」というものはすべての事象においてアプリオリに与えられるものではない。まずは具体的事象の経験ありき、そこに理由があるのかないのか、あるとすれば理由は何なのか、それは過去の様々な経験と今の経験とをつなぎ合わせて事後的に模索していく作業なのである。私たちが他者の気持ちや感覚について判断した、その根拠や理由というものも、過去の様々な経験との繋がりを探しながら追及していくものである。

 そもそも、私たちは常にいちいち理由を考えながら行動しているわけではない。さらに厳密に言えば、すべての事象に理由があるという保証もないのである。私たちは恒常的相伴が見られるような因果関係を見出すこともあるし、見出せないこともある。あるいは根拠なしに勝手に因果関係があると思い込んでいることもある。

 そして哲学的思考における問題点の一つとして、原理的に一律に説明できなければ欠陥理論あるいは誤謬と認めてしまうことが挙げられる(すべての哲学者がそうとは限らないが)。具体的には、

類推説→すべてを説明できないから間違っている→では行動主義→行動主義もすべてを説明できないから間違っている

・・・このような思考パターンで堂々巡りしてしまうのである。そういう面では大森氏の、

 そこで普通人の一人として私自身の他者経験命題で了解している意味を反省してみると、次の二つの特徴を確認できる。(A)他者経験は私自身の対応する経験にきわめて類似するものとしている。(B)その命題を使用して言表したときの真偽判定は、主としてその他者の言語的応答を含めての行動によってなされる。

 直ちにみてとれるように、第一の(A)は類推説、(B)は行動主義そのものである。そこで他者経験命題の意味の制作では、類推説と行動主義の二つをともに組み込むことが必要となる。(大森氏、151ページ)

・・・という考え方は上記の極端な哲学的思考からは解放されているのではなかろうか(繰り返すが、すべての哲学者が極端な思考に陥っているとも言えないのだが)。

そして、これらの判断材料として大森氏は過去の経験法則としての様々な関連する命題が用いられていると説明されているのだが・・・もちろんそう確信できる場面が多いことは事実である。

 しかし、それでも不十分である。先に大森氏自身が説明されているように、根拠・理由など分からない(あるのかもしれないし無いのかもしれない)、気まぐれに(という表現が正しいのかどうかわからないが)、直感的に、あるいはカンが働いて、「あ、この人は今嘘をついているのでは」とか「今この人は笑っているけど本当は苦しいのでは」と思ってしまうことがあるかもしれないのである。

 理由は後付けでいろいろと考えることはできる。しかし本当かどうか確かめる術もないのである。過去の経験が作用しているような、そうとも言えないような、これまでに経験したことのない状況・・・こういったケースも含め、私が今他人の気持ちについて類推したプロセスを、類推説か、行動主義か、あるいはそれらの折衷か・・・と常に確定できるとは限らないのだ。


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「試行錯誤の試し打ち」(大森氏、149ページ)という表現は私たちの日常生活におけるさまざまなプロセスを上手く説明していると思う。

 その試行錯誤の試し打ちを(一時的にでも)「正しい」と思える根拠、根拠があればそれは何なのか(もちろん根拠なしの思い込みの場合もあるが)・・・過去の経験法則の問題に関連して、「理論概念」(大森氏、161ページ他)の問題、そして、大森氏の言われる「自我」「他我」とはいったい何なのか・・・それらについても後日綿密に分析していきたい。


実生活のなかで歴史的に制作されてきた他者経験命題の根本的特徴は、対応する自己経験命題の意味が知覚的であるのと対蹠的に、思考的(知性的)であることである。(大森氏、155ページ)

・・・しかし自己経験命題とは、過去の経験法則のことではなかったか? 過去は知覚的ではない、という大森氏自身の持論と齟齬をきたしている。

 もっとも、

過去想起は、知覚経験とは全然種類を異にして命題的であり言語的である(大森氏、33ページ)

・・・という見解そのものに問題があるのだが。

昨日の歯の痛みを想起するとき少しでも歯の痛みが再現されるだろうか。幸いに少しいまは痛くない。先ほどのご馳走を想起することでその美味をいま一度味わえるだろうか。残念ながらそんなうまい話はない。ただ何の味もない唾が出るだけだろう。(大森氏、82ページ)

・・・という文章は、他我問題について考える一つの材料にはなりうるかもしれない。この説明を信じれば、私と大森氏との感覚機能が全く違ったものである可能性を否定できないからである。

 私は歯痛の時のジンジンする感覚を思い出すことはできるし、味について思い出すこともできる。香りについてもそうであるし、音楽ならさらに容易に浮かべることができる。

 私たちは言葉と自らの具体的経験を対応させ理解させている。だからこそ他者の言葉を自らの経験として理解することができる。しかし、それら説明が自らの経験と異なっていると思えば、私と大森氏との感覚が異なっているという判断も可能なのである。

 さらに、大森氏が見逃しているケースもある。私たちは、ある食べ物を食べたとき、「あっ、この味は初めてのものではない」「どこかで食べたことがある」と思ったり、食べたときの状況やら料理やらを思い出すことがあるかもしれない。ある虫が近づいてきて、不意にその虫に刺されたことを思い出すことがあるかもしれない。とっさに、いやおうなしに思いうかんでしまう情景やら感覚、それらが社会的に制度的に形作られた過去というものに影響されていると言い切ることはできるであろうか?

社会的に定められた真理条件に従って公認される想起の命題の全集合からなる「過去」という概念の意味は、また社会的に制作されてきているのだ(大森氏、63ページ)

・・・とは言い切れない側面もあるのではなかろうか。もちろん世界で用いられている時間概念は制度的と言える面がある。ただ時間・過去というものの根拠づけに関しても、上記他我問題と同様、一律に説明できるものではないのだ。いずれにせよ、根拠など考えず過去というものについて想起している、それが日常生活であろう。


※『時は流れず』の最後の方で、「その漬け物や味噌汁のおいしさがまだ舌の上に残っていようと」(213ページ)とありました。大森氏も味を思い出すことがあるようです。しかし、説明が一貫していませんね・・・


<参考文献>

『これが現象学だ』検証

http://miya.aki.gs/miya/genshogaku3.pdf

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