・・・をたまたま見つけて読んでいるのだが、印象としては、カントには主客を前提とした特定のイメージがまずあって、ただそれを正当化するために辻褄合わせをしている、そんな感じなのだ。
証明したいものを最初に前提してしまっている、循環論法が見受けられるのもそのためかもしれない。
超越論的自己、経験的自己の分類も意味ないと思うし、そもそも自発的・受動的という区分も根拠を持たない。勝手に類推しているだけで、何によっても支持されていないのである。カント(およびカント研究者たち)が勝手に自発的・受動的と区分しているだけで、その根拠がどこにもないのである。
内的感官・外的感官の区分も相対的・事後的区分でしかない(このあたりはジェイムズが詳細に論じている)。
・・・先に述べた「主客を前提とした特定のイメージ」ということに関して、カントの恣意的な「経験観」も挙げられる。
カントに従えば、直観の多様において綜合的統一を生ぜしめたときに、<われわれは対象を認識した>という」(A105)のであり、「元来この統一は、ア・プリオリにう必然的なものと見なされなければならない」(A109)。というのも、もし悟性の自発性に基づく綜合的統一を欠くならば、瞬間に明滅する「単なる表象の、盲目的な戯れ(Spiel)が充たし、「諸知覚の狂想曲(eine Rhapsodie von Wahrnehmungen)」(A156)が奏でられようとも、それは経験にはいたりえないからである、そこでカントは、このア・プリオリな必然的統一を可能にする根拠に遡源するのである。「すべての必然性の根柢にはつねに超越論的条件が存している。つまり、われわれのあらゆる直観の多様の綜合のうちに意識統一の超越論的基礎が見出されねばならず、もしこの超越論的基礎を欠くならば、われわれの直観にとって何がしかの対象を思惟することは不可能であろう」(A106)。この超越論的基礎、「われわれの認識一般の可能性の第一根拠」(A98)、悟性による表象の「結合の内的基礎」(A116)をカントは「超越論的統覚(die transzendentale Apperzeption)(A106f.)と名づける。(服部氏・岡田氏、41ページ)・・・「悟性の自発性に基づく綜合的統一を欠くならば、瞬間に明滅する「単なる表象の、盲目的な戯れ(Spiel)が充たし」てしまう、という根拠はいったいどこにあるだろうか?
ただ壁を眺めているとき、そこに”瞬間に明滅する「単なる表象の、盲目的な戯れ(Spiel)”が見られるだろうか? 経験は、ただ経験として現れている。そこにそれを可能にする”超越論的基礎”・”ア・プリオリな必然的統一を可能にする根拠”というものを、どのようにして見出すのであろうか?
そのようなもの(「超越論的統覚」)がなければ、表象は「瞬間に明滅」するのであろうか? そのような根拠はどこにあるのだろうか?
「瞬間に明滅する」という見方、それ自体が時間をエポケーできていないことから生じるものであると考えられる(だからこそ時間をア・プリオリとしてしまったのだが)。
そこに見えているものは、常に「瞬間に明滅する」ものでもない。すぐに消えてしまうものもあれば、消えてしまわないものもある。ただそれだけなのだ。ましてや、(実際には架空概念でしかない)「超越論的統覚」というものがなければ、表象が「瞬間に明滅する」と、いかにして証明されたのであろうか?
・・・このあたりの根拠のなさを、服部氏・岡田氏がまったく指摘しないのが不思議でならないのだ。
デリダ関連の論文を読んでいて、とくに感じたのだが、多くの哲学者たちは、「差異」については根拠を求めないまま受入れいてるのに、「同一性」には根拠を求めようとする(そして根拠がないと言ったりする)のである。この恣意的な差別化は何なのであろうか? 同一性に根拠を求めるのであれば、差異にだって根拠を求める必要があるのではないか?
「変化」「差異」をありのまま受け入れるのであれば、「同一性」「不変」もありのままに受入れなければおかしいのではないか?
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(以下、1月18日追加)
上記の引用文の中に、
カントに従えば、直観の多様において綜合的統一を生ぜしめたときに、<われわれは対象を認識した>という・・・とある。しかし、日常的には、ただそのものを見て「リンゴだ」を思ったり、何か匂ってきて「臭い」と思ったりしているのである。もちろん、そのものの様々な側面やら要素を分析して「これは〇〇という金属だ」とか判断することもある。しかし、その場合においても、それぞれの側面・要素を観察して「これは黒色だ」「これは灰色だ」とか判断することもできる。
つまり特定の経験と言語表現とが既に結びついているのである。綜合的統一というのは、そういった様々な情報、様々な感覚的経験と言語表現との繋がりを因果的に結びつけた結果として導き出されてくるものなのである。
このように、いちいち”直観の多様”を”綜合的統一”する以前に、感覚的経験と言語表現とが既に繋がりあっているのである。
直観の多様を綜合的統一するから「臭い」とか「黒い」とか”認識”できるわけではない。経験においては、既に感覚的経験と言語表現とが繋がりあってしまっているのである。
当然、そのとき”瞬間に明滅する「単なる表象の、盲目的な戯れ(Spiel)”やら「諸知覚の狂想曲(eine Rhapsodie von Wahrnehmungen)」やらが現れているわけでもない。
経験として現れているものは、既に経験として現れているのである。もちろん、感覚の瞬間的変化のようなものを想像してみたり、刻々と変化する事象を観察することだってできる(同様に変化しない事象を観察することもできる)。しかしそれは実際に経験していることであり「経験にはいたりえない」という表現は適切ではないのである。