2018年12月23日日曜日

カントの恣意的な「経験観」(および「認識」について)

服部健司・岡田雅勝著「カントにおける経験的自己認識」『旭川医科大学紀要』11巻、1990年: 39~58ページ

・・・をたまたま見つけて読んでいるのだが、印象としては、カントには主客を前提とした特定のイメージがまずあって、ただそれを正当化するために辻褄合わせをしている、そんな感じなのだ。

証明したいものを最初に前提してしまっている、循環論法が見受けられるのもそのためかもしれない。

超越論的自己、経験的自己の分類も意味ないと思うし、そもそも自発的・受動的という区分も根拠を持たない。勝手に類推しているだけで、何によっても支持されていないのである。カント(およびカント研究者たち)が勝手に自発的・受動的と区分しているだけで、その根拠がどこにもないのである。

内的感官・外的感官の区分も相対的・事後的区分でしかない(このあたりはジェイムズが詳細に論じている)。

・・・先に述べた「主客を前提とした特定のイメージ」ということに関して、カントの恣意的な「経験観」も挙げられる。
 カントに従えば、直観の多様において綜合的統一を生ぜしめたときに、<われわれは対象を認識した>という」(A105)のであり、「元来この統一は、ア・プリオリにう必然的なものと見なされなければならない」(A109)。というのも、もし悟性の自発性に基づく綜合的統一を欠くならば、瞬間に明滅する「単なる表象の、盲目的な戯れ(Spiel)が充たし、「諸知覚の狂想曲(eine Rhapsodie von Wahrnehmungen)」(A156)が奏でられようとも、それは経験にはいたりえないからである、そこでカントは、このア・プリオリな必然的統一を可能にする根拠に遡源するのである。「すべての必然性の根柢にはつねに超越論的条件が存している。つまり、われわれのあらゆる直観の多様の綜合のうちに意識統一の超越論的基礎が見出されねばならず、もしこの超越論的基礎を欠くならば、われわれの直観にとって何がしかの対象を思惟することは不可能であろう」(A106)。この超越論的基礎、「われわれの認識一般の可能性の第一根拠」(A98)、悟性による表象の「結合の内的基礎」(A116)をカントは「超越論的統覚(die transzendentale Apperzeption)(A106f.)と名づける。(服部氏・岡田氏、41ページ)
・・・「悟性の自発性に基づく綜合的統一を欠くならば、瞬間に明滅する「単なる表象の、盲目的な戯れ(Spiel)が充たし」てしまう、という根拠はいったいどこにあるだろうか?

ただ壁を眺めているとき、そこに”瞬間に明滅する「単なる表象の、盲目的な戯れ(Spiel)”が見られるだろうか? 経験は、ただ経験として現れている。そこにそれを可能にする”超越論的基礎”・”ア・プリオリな必然的統一を可能にする根拠”というものを、どのようにして見出すのであろうか?

そのようなもの(「超越論的統覚」)がなければ、表象は「瞬間に明滅」するのであろうか? そのような根拠はどこにあるのだろうか?

「瞬間に明滅する」という見方、それ自体が時間をエポケーできていないことから生じるものであると考えられる(だからこそ時間をア・プリオリとしてしまったのだが)。

そこに見えているものは、常に「瞬間に明滅する」ものでもない。すぐに消えてしまうものもあれば、消えてしまわないものもある。ただそれだけなのだ。ましてや、(実際には架空概念でしかない)「超越論的統覚」というものがなければ、表象が「瞬間に明滅する」と、いかにして証明されたのであろうか?

・・・このあたりの根拠のなさを、服部氏・岡田氏がまったく指摘しないのが不思議でならないのだ。


デリダ関連の論文を読んでいて、とくに感じたのだが、多くの哲学者たちは、「差異」については根拠を求めないまま受入れいてるのに、「同一性」には根拠を求めようとする(そして根拠がないと言ったりする)のである。この恣意的な差別化は何なのであろうか? 同一性に根拠を求めるのであれば、差異にだって根拠を求める必要があるのではないか?

「変化」「差異」をありのまま受け入れるのであれば、「同一性」「不変」もありのままに受入れなければおかしいのではないか?

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(以下、1月18日追加)

上記の引用文の中に、
カントに従えば、直観の多様において綜合的統一を生ぜしめたときに、<われわれは対象を認識した>という
・・・とある。しかし、日常的には、ただそのものを見て「リンゴだ」を思ったり、何か匂ってきて「臭い」と思ったりしているのである。もちろん、そのものの様々な側面やら要素を分析して「これは〇〇という金属だ」とか判断することもある。しかし、その場合においても、それぞれの側面・要素を観察して「これは黒色だ」「これは灰色だ」とか判断することもできる。

つまり特定の経験と言語表現とが既に結びついているのである。綜合的統一というのは、そういった様々な情報、様々な感覚的経験と言語表現との繋がりを因果的に結びつけた結果として導き出されてくるものなのである。

このように、いちいち”直観の多様”を”綜合的統一”する以前に、感覚的経験と言語表現とが既に繋がりあっているのである。

直観の多様を綜合的統一するから「臭い」とか「黒い」とか”認識”できるわけではない。経験においては、既に感覚的経験と言語表現とが繋がりあってしまっているのである。

当然、そのとき”瞬間に明滅する「単なる表象の、盲目的な戯れ(Spiel)”やら「諸知覚の狂想曲(eine Rhapsodie von Wahrnehmungen)」やらが現れているわけでもない。

経験として現れているものは、既に経験として現れているのである。もちろん、感覚の瞬間的変化のようなものを想像してみたり、刻々と変化する事象を観察することだってできる(同様に変化しない事象を観察することもできる)。しかしそれは実際に経験していることであり「経験にはいたりえない」という表現は適切ではないのである。

2018年12月21日金曜日

レポートに『純粋理性批判』緒言分析も付録として加えました

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である ~『純粋理性批判』序文分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf

・・・の付録として、緒言の分析も加えました。

<付録:『純粋理性批判』緒言分析>(26 ページ)
1.抽象観念におけるヒュームの見解
2.実質的に算術が経験により根拠づけられていることを示してしまっているの に「概念」「直観」「表象」という言葉を用いてそれを覆い隠そうとしている
3.「分析的判断」も「経験判断」である
4.因果関係に「X」はいらない
5.「純粋数学」「純粋自然科学」というものはどこにもない

・・・どう読んでも、カントの説明は算術が経験によって根拠づけられている「経験に頼って」判断されているということを明らかにしてしまっています。それについて指摘された書籍や論文はあるのでしょうか・・・?

また、経験=偶然、という決めつけも気になります。

2018年12月16日日曜日

「なぜと問う」のが哲学ではなく「なぜを問う」のが哲学:因果関係がア・プリオリではない、とはどういうことなのか

『純粋理性批判』(カント著・篠田英雄訳、岩波書店)の先験的感性論の分析をしています。つっこみどころ満載で、どうまとめるか思案しているところです。

その前に、因果関係がア・プリオリではない、とはどういうことなのか、

寺尾隆二著「カントとヒューム―カントの『ヒューム超克』をめぐって―」『道標』第28集、1991年

・・・を分析しつつ説明したいと思います。

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そこで問題となるのは第二の問いである。第二の問いを要約すれば「われわれは、ある特定の出来事が因果的に連関しているとなぜ考えるのか、そして、われわれが出来事の一方から他方へと推論を行なう推論の本性はいかなるものか」である。ヒュームは因果性の問題を信念の問題としてとらえている。それゆえヒュームの議論は、特定の因果連関をわれわれが信じるにいたるのはなぜかを、心理的主観の問題として追求していくことになる。(寺尾氏、3ページ)
・・・因果律をア・プリオリとしない、ということは、上記の設問それ自体に問題がある、ということでもある。

「なぜ考えるのか」と問う以前に、”既にそう考えてしまっている”という事実が先にあるではないか。「因果律」という”論理”がア・プリオリにあるとか考える以前に、具体的経験として、経験と経験とを結び付けてしまっている事実がそこにある、ということなのである。

それを「なぜか」と問うということは・・・これまでの経験と経験とを結び付けて説明しようとするプロセスなのである。

さっきまで晴れていたのに、暗い雲がやってきて空を埋め尽くした、「そろそろ雨が降りそうだ」と思ったら、実際に雨が降ってきた

・・・そういった具体的経験がまずある。そのように推論した事実、そしてその推論が当たった(そして時にはずれる)事実が先にある。因果律とか因果関係というものは、それらの経験を名付けたものでしかない。

そして、因果律の「正しさ」が認められていくプロセスはいかなるものか・・・というふうに「なぜ」というものはあくまで経験が生じた上で、”事後的”に分析されていくものなのである。つまり因果律、そして「なぜという問い」それ自体が(カントの分類に従えば)アポステリオリなものなのである。

「なぜと問う」のが哲学なのではない。「なぜを問う」のが哲学なのだ。「なぜ」と問うてその答えを探すプロセスとはいったいどういうものなのか、具体的経験のプロセスとして明らかにするものなのである。

そして、個別の因果関係を認めた事実がまずあり、その関係が「正しい」とされるプロセス、それ自体もこれまでの経験を思い起こし、それらとの関係付けをすることでその答えが導かれているのである。帰納⇒演繹のプロセス、それ自体も具体的経験として説明される、ということである。つまり、「因果関係」「帰納」「演繹」という用語がそれぞれ、具体的経験のプロセスにつけられた”名前”なのである。

経験と経験とを繋げたプロセスを「因果関係」と呼んでいる、しかし「因果関係そのもの」に対応する個別的経験はない、因果関係を成立させる「力」「作用」といった”何か”を見つけることもできない。

カントは「なぜ」を問うプロセスそれ自体も経験から説明されることを無視し、ただア・プリオリであると決めつけてしまっているのである。つまり、下記の「先験的次元の因果性」というもの自体が否定される、ということなのである。
 この個別的経験的認識について、カント『純粋理性批判』の「先験的論理学緒言」「論理学一般」での論述をみてみたい。カントは、一般論理学をア・プリオリな原理のみを論究し悟性の規準となる純粋論理学と、経験的原理を含む経験的条件のもとで悟性を使用する規則としての応用論理学とにわける。そして純粋論理学を本来の学、応用論理学を常識の浄化剤にすぎないとして確実に論証された真の学たりえないとする。つまり、「応用論理学は悟性およびその必然的使用を、具体的に、つまり主観の偶然的な諸条件のもとにあるそれらをあつかうが、この偶然的な諸条件は悟性の使用を妨害したり促進したりする」から、かかる応用論理学は、注意や注意を妨げるもの、注意の結果、誤謬の出どころ、疑惑や懸念あるいは確信などの状態を扱う学というわけである。
 すなわちこの論法でいけば、カントは経験をそもそも基礎づける先験的次元での因果性と経験的諸認識での具体的な因果法則との使用を区別しているわけである。つまりカントは経験をそもそも基礎づける先験的次元での因果性を問題とし、ヒユームが批判しようとした個別的具体的経験の次元での因果性の妥当性の問題は、最初から除外されていわけである。ヒュームにとっては、因果性一般が普遍的妥当性をもつかどうかといった、形而上学的原理としての因果性の概念については関心がないのである。そこで黒崎氏はヒュームとカントの因果性に対する問題のたてかたのずれを指摘するとともに「カントは経験的認識の場での偶然性を救うべく努力がつづけられた」とする。(寺尾氏、5ページ)
・・・「形而上学的原理としての因果性の概念」というものなどない。

カントが「経験」とは何か、恣意的に決めつけていた面も否定できない。
 それではカントのヒュームに対する評価はどうであろうか。カント自身の言葉を引いてみよう。「私は確かに経験なしでは、結果から原因を、あるいは原因から結果を、ア・プリオリにつまり経験に教えられることなくしては規定的には認識できない。が、しかし、何ものかが恒常的法則によって引きつづいておこるためには、あるものが先行していたのでなければならない。ということはア・プリオリに認識できるのである。したがってヒュームは、法則によるわれわれの規定が偶然的であるということから、あやまって法則それ自体が偶然的であると推論したわけである。」とし、「ヒユームは、つねづね極めて明敏な人であるにも拘らず、やはり懐疑論的誤謬を犯したのである。」「そこで彼もまた懐疑論が必ず受けねばならぬ打撃を被らざるを得なかった、それは---彼自身の所論がまた疑われる、ということである。」が、その評価である。
 ここで述べられている中で「法則によるわれわれの規定が偶然的であるということから、あやまって法則それ自体が偶然的であると推論したわけである。」に注意してみよう。この場合、カントの云う「法則によるわれわれの規定が偶然的である」とは、因果性の法則が経験を成立させるア・プリオリな条件であっても、個々の経験的認識の具体的な因果関係までを規定しうるものではないとみているととれる。(寺尾氏、5ページ)
・・・「原因から結果を、ア・プリオリにつまり経験に教えられることなくしては規定的には認識できない」・・・「ア・プリオリにつまり経験に教えらえる」とはいったい何を言っているのであろうか? これは「経験」という用語に関する理解のブレであるとしか思えない。

何ものかが恒常的法則によって引きつづいておこるためには、あるものが先行していたのでなければならない」というのは、たとえば「暗い雲で空が覆われた」ときに「もうすぐ雨が降りそうだ」と推論した事実がまず先にあり、それらの具体的事実から導かれた論理なのである。

懐疑論といえども、経験の事実そのものを疑うことはできない。推論したことは事実である。ア・プリオリというものがあろうとなかろうと、推論してしまっているのである。

経験が「偶然」とか「必然」とか言う前に、推論してしまった事実が先にあるのだ。 「法則」というものを導き出してしまったことも「経験」である。しかしそれが「偶然」であるという判断にも全く根拠がない。カントが「偶然」と決めつけたところで、推論してしまった事実は疑えないのである。

2018年12月10日月曜日

色は経験で形はア・プリオリ?

『純粋理性批判』(カント著・篠田英雄訳、岩波書店)緒言、そして先験的感性論を読んでいるのだが・・・正直論理がおかしいのではないか? 皆さんおかしいな?とは思わないのだろうか?

1.色は経験で形はア・プリオリ?


硬さや色などは感覚に属するものとしているのに、形態はア・プリオリだ、という根拠はいったいどこにあるのだろうか? わけがわからない。物の形だけア・プリオリ、「純粋直観」(カント、87ページ)というのは、カントの「空間はア・プリオリであるはずだ」という自らの見解を正当化するためのこじつけ以外の何物でもないのだ。

「経験的直観」(カント、87ページ)・「純粋直観」という区分に意味はない。結局のところ、言葉を思いついたか、心像・イメージを思い浮かべたか、何か「ひらめいた」と思って文字や絵を書いたり(描いたり)、音楽を演奏してみたりしてそれを具体的に示したり、そういう具体的経験以外の何物でもないのだ。

それらの具体的経験を「概念」「表象」「直観」という言葉で覆い隠してしまっているのである。


2.実質的に、算術が経験により根拠づけられていることを示してしまっているのに「表象」「直観」という言葉を用いてそれを覆い隠そうとしている


カントは、5という数と5本の指、あるいは5個の点、というふうに実在物と数字とを対応させていることを認めているのに、それを経験との対応関係として認めようとしないのだ。「5本の指の表象」(カント、70ページ)という言葉でごまかしているが、結局それは心像、あるいは視覚的経験以外の何物でもない。
算術的命題は、常に綜合的命題である。このことは何かもっと大きな数を使ってみればいっそうはっきりする、これら二桁の概念をいくらひねくり廻したところで、直観を援用しない限り、これらの概念を分析するだけでは、その和がいくらになるかは、どうしても知ることができないであろう。(カント、71ページ)
・・・結局、直観つまり経験の根拠づけがなければ、言葉をいくら”ひねくり廻したところで”その根拠など分かりようがない、ということなのだ。算術的命題も、具体的事物との対応関係により根拠づけられているのである。

また、「綜合的判断」のみでなく「分析的判断」(カント、66ページ)も、「経験判断」(カント、67ページ)であることに変わりない。
述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれて居るものとして主語Aに属するか、さもなければ述語Bは主語Aと結びついてはいるが、しかしまったくAという概念のそとにあるか、これら両つの仕方のいずれかである。(カント、65~66ページ)
・・・「主語A」とは何であろうか? 単なる”言葉”である。言葉は言葉、何も隠すことなどできない。カントは「概念」という言葉を使うことで経験との繋がりをなかったことにしようとしているのだ。結局のところ、

経験(現象としての物)=A(言葉)=B(これも言葉)

・・・つまりAもBも同じ経験(現象としての物)を指している言葉、それ故に「AはBである」という言語表現が可能になるのだ。


3.因果関係に「X」はいらない


もし経験の進行を規定する一切の規則がどれもこれも経験的なもの、従ってまた偶然的なものだとしたら、経験は自分の確実性を何処に求めようとするのだろうか。そうだとしたら誰だってかかる偶然的規則を、第一原則として認めることはできない筈である、しかし我々は、差しあたりここでは我々の認識能力の純粋使用が事実として存在すること、ならびにこの認識能力の特徴を述べるだけにとどめよう、(カント、61ページ)
・・・経験が「偶然」となぜ決めつけているのであろうか? 経験はただの経験、それが「偶然」か「必然」かなど何も語ってなどいない。ただ現れてきた経験(感覚でも良い、言葉でも良い)を、「現れるべくして現れた」と思うのか、「たまたま現れた」と思うのか、それは(特定の条件を前提としない限りは)どうとでも言えることなのである。

要するに、経験が「偶然」なのではない。まず経験が現われており、それを事後的に特定の観点から「偶然」「必然」と分類しているのである。
原因という概念は、生起するものという概念のまったくそとにあり、生起するものとは異なる何か或るものを示している、従って原因の概念は、生起するものの表象のなかには決して含まれていないわけである。すると私はいったいどうして、一般に生起するものの概念にこれとはまったく異なる何か或るものをその述語として付け加えるのか、また原因の概念は生起するものの概念のなかに含まれていないのに前者を後者に、それも必然的に属するものとして認識し得るのか。もし悟性がAという主義概念と結びついてはいるがしかし実はこれとまったく異なる述語Bを、この主語概念のそとにあると考える場合に、自分の支えとするところの未知のものXはなんであるか。それは経験ではあり得ない。上記の命題を成立せしめる原則は、経験が与え得る以上の普遍性をもって、そればかりか更に必然性という言葉をもって、従ってまったくア・プリオリな純粋概念だけによって、原因の表象を生起するものの表象に付け加えるのである。要するに我々のア・プリオリな思弁的認識の究極の意図は、もっぱらかかる綜合的原則即ち拡張の原則に基づいているのである。(カント、68ページ)
・・・「原因の概念は生起するものの概念のなかに含まれていない」のである。具体的に言えば、因果律をもたらす何がしかの物を経験として見出すことはできない、ということである。

それで良いのだ。カントの考え方がひっくりかえっているだけなのだ。因果関係・因果律という用語など関係なしに、カントの言う「X」などまったくおかまいなしに、私たちは経験と経験とを関連づけてしまった事実が先にあるということなのだ。

経験と経験とを結びつけた、あるいはある経験をした時、別の特定の経験が現れるのではと想像してしまった、という具体的経験が、(そのメカニズムやらXやらア・プリオリな純粋概念などおかまいなしに)ただ現れて来ている、それを因果関係だと呼んでいるのだ。その因果関係の確かさがいかにしてもたらされるのか、という考察も、あくまで事後的分析によってなされるものなのである。

繰り返すが、経験と経験を繋げた事実、ある経験が起こると次にまた特定の経験が生じるのではないかと推論した事実、具体的には、

暑くなると汗をかくとか、食べ物を食べなかったら痩せてしまうとか、高いところから落ちると痛いとか、

そういった経験の繋がりが、経験としてまずある、その仕組みやらメカニズムなど分からない、「理性」やら「(ヒュームの言う)習慣」という想定概念などおかまいなしに、ただ経験としてそうしている事実がまずある、ここは疑いようのない事実なのである。

その事実のみがある。そして、その経験を「因果関係」と名付けているのである。

因果律という”論理”がまず最初(ア・プリオリ)にあるから私たちが因果関係を構築できるのではない。

経験と経験を関連づけた事実がまずあって、それを因果関係と呼んでいるのだ。つまり「論理」は経験がまずあって、そこから導かれているのである。ここを取り違えてはならない。

そういう経験がたびたびある、そして一人の人だけでなく、多くの人がそういしている、その事実を「普遍性」と呼んでいるのである。その因果関係に「必然性」「普遍性」というものがいかにして与えられているのか、それはあくまで”後付け”の説明なのである。

最後に付け加えておくが、因果律も空間も時間も、それをア・プリオリとしてしまうと自己矛盾に陥る。どうしても矛盾なしに説明できない部分が生じてしまうのである。





2018年12月3日月曜日

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である ~『純粋理性批判』序文分析

『純粋理性批判』(カント著、篠田英雄訳、岩波書店)序文の分析をまとめました。

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である ~『純粋理性批判』序文分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf

・・・ブログの文章を手直ししました。ところどころ私が勘違いしているところもあったので訂正しています。そのうち本文も分析するかもしれません。

(このトピックに関するブログ記事は削除しました。上記PDFファイルに修正されたものが掲載されています。)

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<目次>

Ⅰ.カント理論の前提は有効なのか?(3ページ)

  1. 「我々の認識を拡張」するために「何ごとかをア・プリオリに概念によって規定」する必要・必然性はあるのか?
  2. 数学・論理学はア・プリオリであるという根拠はどこにある?

Ⅱ.カントの言うア・プリオリも「対象」が見出されることで必然性が与えられる
(5ページ)

  1. 問題は言葉に対応する対象(意味)としての経験が見出せるかどうか
  2. カントの言うア・プリオリには既に「対象」が含まれてしまっているのではないか
  3. 「認識」「直観」「概念」「表象」とはいったい何なのか?

Ⅲ.カントの言う「対象」とは何か、「経験」とは何か(12ページ)
Ⅳ.「考えることはできる」とはいったいどういうことか?(カントは「対象を探すこと」と「対象が現れていること」とを混同している)(14ページ)
Ⅴ.存在は「現象としての物」から因果的に導かれる(18ページ)

  1. 「物自体」に必然性はない
  2. 存在は「現象としての物」から因果的に導かれる
  3. 「一切の経験的なもの」を「抜き去る」とは、想像・連想をやめることと同義(空間・時間について)

Ⅵ.「それ以上説明せられない」ものとは?(23ページ)

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 本稿は、カントの言うア・プリオリというものが実のところ経験によって「必然性」を与えられているものであること、つまりア・プリオリ自体が無効であることを説明するものである。本稿では『純粋理性批判』(篠田英雄訳、岩波書店)の序文のみの分析であるが、カントの考え方の方向性における根本的問題点を指摘することは可能であるように思われる。
 カント理論において(そして哲学という学問全般において)事実を見えにくくしている用語がある。それは「認識」「直観」「表象」「概念」である。本文で繰り返すことになるが、結局のところ事実としては、

(1)言語表現(言語表現したことも経験である)
(2)心像やら感覚やら、言語に対応する対象・意味としての経験

・・・でしかないのだ。「認識」「直観」「表象」「概念」という言葉が上記の(1)と(2)片方を指しているのか、両方のセットを指しているのか、そこをあいまいにして、あたかも「認識」「直観」「表象」「概念」というものが独立して存在しているかのように見せかけることで、経験の位置づけをぼやかしてしまっているのである。
またカントはただ「対象を考える」「考えることはできる」ということでア・プリオリな悟性概念の根拠としているが、果たして「考える」「考えることはできる」とはいったいどういうことなのか? カントの論理は全く具体性を欠いている。何のことを言っているのか不明瞭なまま理論が構築されてしまっているのである。

 さらにカント理論における「経験」とは何か、そこも非常にあいまいである。ただ浮かんできた心像・イメージ、あるいは様々な体感感覚やら情動やら、さらには言葉を喋ったり書いたり思い浮かべたり、それらも具体的経験の事実であることに変わりはない。「存在物」「実在物」として分類されない経験というものも実際にあるのだ。カントは「経験」を自らの理論的枠組みに合うように恣意的に操作・除外しているのである。


2018年11月17日土曜日

普通名詞、固有名詞であろうと、抽象名詞・抽象概念であろうと、結局は言葉と具体的経験(心像やら感覚やら)のセットでしかない

ヒュームは抽象概念について非常に的確な説明をしている。「習性」「習慣」という言葉を除いて・・・
 どんな一般的名辞を用いるときでも、われわれは個物の観念を形作るのだということ、その際、これらの個物を残らず取り上げるのはほとんど、というよりけっしてできないということ、そして、取り残された個物は、その場の事情が必要とするときにはいつでも、それを呼び起こす習性によって代理を勤められるだけであるということ、これらは確かなことである。かくして、これが抽象観念、および一般的名辞の本性であり、そして、前に述べた逆説と思われること、すなわち、ある観念がその本性は個別的なのに、表現作用は一般的であるということも、このようにして説明されるのである。(ヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社:29~30ページ)
・・・具体的経験として現れている事実は、名辞(要するに言葉)を読んだり聞いたりしたとき、それに対応する”個物”(感覚的経験やら心像やら)が現れてくる、ただそれだけであって、それが「習性によって」現れるという説明は蛇足、ヒュームの恣意的な解釈にすぎない。「習性」⇒「経験」という因果関係は、具体的経験として現れてなどいないからである。
言葉は個別的な観念をある習慣とともに呼び起こす。(ヒューム、29ページ)
・・・も同様である。「言葉」が「個別的な観念」(心像)を呼び起こす、具体的経験として現れるのはそこまでである。それが「習慣」によるものなのか、脳の働きによるものなのか、そういった因果的理解は、その具体的経験自体として現れてはいないのだ。

(つまり、ヒューム理論における「習慣」を批判しても、経験論そのものの批判にはなりえないということなのである。)

ただ、ヒュームの素晴らしいところは、「抽象観念」「抽象概念」と言えども、その言葉に対応して現れるのはあくまで「個別的」な経験(心像やら感覚やら)でしかない、というごく当たり前の事実を指摘したことである。その心像が、その言葉を代表するものであると思ったとしても、やはりそれは一つの具体的心像であるにすぎない。そして本当にそれを代表しているのか、それさえ保証されているものではない。ただただ、たまたま現れた具体的心像であるにすぎないのだ。
線の一般観念は、いかに抽象され、純化されたところで、心に現れるときには、量と質のきっかりした度合いをもっているのである。(ヒューム、27ページ)
・・・ただ、心像というものは非常にあいまいな場合もあるし明瞭な場合もある。一概に上記のように断言はできないが、ただ言えることは、あくまで個別的具体的心像である、ということなのだ。

つまり、普通名詞、固有名詞であろうと、抽象名詞・抽象概念であろうと、結局は言葉と具体的経験(心像やら感覚やら)のセットでしかない、その対象とするものがたくさんあるかどうか、そういった非常にあいまいな違いでしかない、とも言えるのだ。


<関連レポート>

抽象概念に関しては、拙著、

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

Ⅱ.“ 概念を実体的なイメージにしたがって操作すること ”は「実体化の錯誤」ではない
(4ページ~)

・・・でも説明しています。

2018年11月6日火曜日

ヒュームの時間論

私が知る限りでは、過去の哲学者で時間に関して最も正確に説明したのがヒュームではないかと思っている。
 空間の観念が目に見えるかあるいは触れられる対象の配列から受け取られると同様に、われわれが時間の観念を形作るのも観念や印象の継起によるのであって、時間がそれだけで現れたり、心に気づかれたりするのは不可能である。われわれが継起する知覚を持たないときにはどんな場合でも、たとえ対象に実際には継起があるとしたところで、われわれは時間についてなにもい知ることはできないのである。時間は、それだけで心に現れたり、動かず変化しない対象に伴って心に現れたりはできず、つねに、ある変化する対象の知覚しうる継起によって見出される、と結論してもよかろう。
 しかしながら、時間の観念が起因するのは、ほかの印象と混じり合い、しかもほかの印象からはっきり判別されるような、そういう一つの特殊な印象なのではない。そうではなくて、印象が心に現れる、その仕方からのみ生じるのであり、印象の数の一つをなしてはいないのである。横笛で鳴らされる五つの音は、われわれに時間の印象と観念を与える。しかし、時間は聴覚、またはどれかほかの感覚機能に現れる六番目の印象なのではない。また、心が反省によって自らのうちに見出す六番目の印象といったものでもない。心はただいろいろの音が現れる仕方に気づくだけである。(ヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社:35~36ページ)
・・・ヒューム理論における「観念」という用語の使い方にブレがあることはここでは置いておいて・・・要するに時間という心像やらイメージ、具体的感覚というものなどどこにも現れてはいない、ということなのである。

私たちが体験・経験しているのは、あくまで具体的経験(感覚やら心像やら)の継起なのであって、継起が見られないとき「時間の流れ」というものもそこにはないのである。

経験の継起とは、見えるもの、聞こえるものだけではない。ふと浮かんできた情動的感覚やら、体の感覚やら、言葉やら・・・浮かんできたすべての経験における継起なのである。

そして、ここで最も重要なことは、

・私たちは「時間」を経験しているのではない
・私たちは「今」「現在」を経験しているのではない

・・・ということなのである。

拙著、

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf

・・・は上記ヒュームの見解を局限まで突き詰めたものであると言える。別にヒューム理論を参考にしたつもりはないのだが、改めて上記文章を読んでみると、ヒュームと私の見解にかなり共通点があることが、改めて分かる。


<関連ページ>
入不二氏、泉谷氏らのマクタガート分析などについてです。「時間が実在しない」というところは良いのですが、その視点が徹底されていない、時間をエポケーしきれていない、ただ概念(言葉)をいじくりまわしているだけの印象を受けます。

「現実性」とは、実際の具体的経験のことにほかならない
http://miya.aki.gs/mblog/bn2018_03.html#20180328

「変化」は「潜在的」ではなく、具体的経験である/時間が流れているのではなく、経験が変化しているだけ
http://miya.aki.gs/mblog/bn2018_04.html#20180401


2018年11月4日日曜日

Ⅰ.知覚・信念とは?

小口峰樹著「知覚は矛盾を許容するか?」『Citation Contemporary and Applied Philosophy (2014)510161032ページ

・・・の分析です。3章構成になる予定です。

(※ 2019年4月20日:下記のブログ記事で完結させました。)
科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_20.html

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 「概念主義」「非概念主義」の議論は、「知覚」とは何か、何のことを指しているのか、そこがまったく不明瞭なまま置き去りにしてしまっているのだ。
 そしてその不明瞭さをもたらす一つの要因として、「概念」という用語の問題がある。それについては、拙著「経験とは?経験論とは?」(http://miya.aki.gs/miya/miya_report19.pdfで既に説明した。
 「概念」と示されているものは、具体的には言語表現とそれに対応するイメージ・心像・感覚とのセットのことなのである。「概念」という言葉でひとからげにすることで、具体的経験が実際にどのようになっているのか覆い隠されてしまっているのである。「概念」そのものを“実体化”させ、概念という“何者か”が存在しているかのように錯覚してはならない。「概念」と表現されているものの、実際の具体的経験として何を指しているのか、そこを見極める必要があるのだ。


2.「信念」とは何なのか?

 「信念」という言葉も問題をややこしくしている。具体的経験としては、単に見えているものを「リンゴだ」と思った、そういった

単なる言葉とイメージ・心像・感覚との繋がり

・・・でしかないものが、

知覚経験⇒信念・判断

・・・という因果関係にすり替えられてしまっているのだ。そして「信念」というものは何なのか・・・と問われても、それが何か明確に示すことができない、明らかなのはやはり言語表現と感覚やイメージとの繋がりでしかないのである。
たとえば、明けの明星が宵の明星と同一であることを知らない人物は、「火星は明けの明星であり、かつ、宵の明星ではない」という内容の信念をもつことができる。それゆえ、〈明けの明星〉と〈宵の明星〉はたとえ指示対象が同一であるとしても異なる概念である。通常、信念を構成する内容は概念的なものであり、この認知的意義の原理が適用可能であると考えられている。(小口氏、1019ページ)
・・・”「火星は明けの明星であり、かつ、宵の明星ではない」という内容の信念”とは結局のところ「火星は明けの明星であり、かつ、宵の明星ではない」という言語表現である。その言語表現が「正しい」「間違い」とされるのは、「火星」「明けの明星」「宵の明星」という言葉とそれが指し示す対象物との関係で示される。
 小口氏は、「信念を構成する内容は概念的なもの」(小口氏、1019ページ)とされているが、具体的に検証してみれば、結局のところ、言語表現とそれに対応する対象物(突き詰めれば知覚経験あるいは心像)との繋がりでしかないのである。繰り返すが、「概念」とは言語表現とその「意味」としての対象物(感覚やら心像やら)のセットのことなのである。
 
 「信念」を情動的側面から説明しうるかもしれない。「信念」とは感覚的経験の言語表現に対し“自信”・“確信”があるような状況であるようにも思われる。
 では「自信」「確信」とは何であろうか? 具体的にどのような感覚であるかと聞かれても、うまく答えられない気がする。単に不安感やら違和感のようなものがない状態かもしれないし、安心感のようなものなのかもしれない。あるいはもっと別な感覚なのかもしれない。あるいはシチュエーションにより全く別の感覚であるにもかかわらず「自信がある」「確信がある」と一括して判断されているのかもしれない。「自信」「確信」という言葉の意味一つとっても非常に不明瞭なのである。私たちにとってあまりに当たり前すぎて情動的感覚すら湧いてこない事柄もあろう。事実把握(感覚などの経験の言語表現)に対し情動的感覚が湧いて来るのはむしろそれを疑っている場合であるのかもしれない。
 ただよく考えて見てほしい。 拙著「経験とは?経験論とは?」で説明したが、結局のところ、言語表現も“絞り出された”もの、”所与“でしかないのである。見えているものを「リンゴだ」と思えても「バナナ」だとは思えない、あるいは「リンゴかもしれないがそうでもないかもしれない」「それが何だか分からない」というふうに、”答え“は所与の経験として、確かな言語表現、あるいはあやふやな言語表現、あるいは言語表現できない、という形で、いやおうなしに出てしまっているのである。それこそが信念・確信なのである。


3.「知覚経験」とは何なのか?

 ここまで述べた「概念」「信念」という用語の問題点が、「知覚」「知覚経験」というものの曖昧さをもたらしている。繰り返すが、具体的経験としては、

(1)何か感じた(見えた・聞こえた・・・など)
(2)その感覚を言語表現した(できない場合もある)

・・・という事実だけなのである。いったい「知覚」「知覚経験」とは(1)のことなのか、(1)と(2)双方を含むものなのか、(1)のみを考えれば「非概念的」であるし、(1)と(2)双方考えれば「概念的」である。この違いを明確にしなければそもそも議論自体が成立しないのではなかろうか? (そして議論するまでもないような気がするのであるが)
 非概念主義のクレインは「知覚経験は信念とは異なり」(小口氏、101ページ)としている一方、概念主義者は「知覚経験は信念や判断と同様に概念的に構造化された内容、すなわち概念的内容を有していると主張する(cf.McDowell 1994; Brewer 1999; 門脇 2005; 小口 2008;2011」(小口氏、101ページ)。しかし上記(1)と(2)双方を含め「知覚経験」とするのであれば、当然「知覚経験」=「信念」「判断」となるし、上記(1)のみを考えれば「知覚経験は信念とは異なる」となる。 
概念主義は主に知覚経験が知覚信念に対して果たす正当化役割をめぐる考察から動機づけを得ている。概念主義者によれば、知覚経験は知覚者に対してそれに対応する知覚信念を抱くための理由を与えるものでなければならない。しかしながら、もし知覚経験が備える内容が非概念的なものであるとすれば、知覚経験はそういった正当化役割を演じることができない。それゆえ、知覚経験は信念と同様に概念的に構造化された内容を備えていなければならない。(小口氏、101102ページ)
 ・・・「知覚経験」と「知覚信念」という用語が紛らわしいのだ。(上記(1)と(2)を知覚経験とするのであれば)同じことを指しているにもかかわらず、あたかも別のものであるように見せかけているのだ。

2018年11月2日金曜日

「原因」「理由」「論理」に明証性などない、それ自体が臆見(ドクサ)を伴う自然的態度

しまうまのメモ帳
竹田青嗣の現象学解釈を検証する (3)
http://tsunecue01.hatenablog.com/entry/2018/10/13/220440

・・・のコメントへの回答です。

>「常にそうである」ということが「必然」そのものであるというのは、どのようなことを意味しているのでしょうか。いうまでもないことですが、「常にそうである」ということと「必然」は、辞書的な意味は同じではありません。

・・・「常にそうである」ことが「必然」ということである、正直、こんなに「当たり前」すぎることに多くの哲学者が同意できていない事実に愕然とすることはあります。(例えば論理学の位置づけについて)常にそうならなければ当然「必然」と呼べるわけがありませんし・・・

そもそもが「辞書的な意味」とは何でしょうか? 言葉の意味は辞書が決めるのですか? 辞書に書かれている「意味」とはいったい何でしょうか? そういう根源的なことから問うこともなしに、哲学をしているのでしょうか・・・?

「恒常性」「恒常的相伴」とは現代科学で言われる「再現性」のことでもあります。同じようにすれば(ある事象が生じれば)常に同じ結果が得られる・・・ヒュームの見解はまさに現代科学における客観性そのものであると思います。

そして、因果関係という一種の「論理形式」の”必然性”を担保するものなどどこにも見つけることはできません(おそらくしまうまさんの言われる「ゆえん」とはその論理形式の必然性のことではないかと思われます)。それはヒュームも指摘しています。因果関係が想定される事象(経験)と事象(経験)との間に、何らかの「力」やら「作用」やら「はたらき」やら、そういったものを見つけ出そうにも見つかることなどないのです。因果関係は細分化はされますがいくら細分化しても、終ぞそういった「力」「はたらき」へ辿り着くことはないのです。それらはあくまで”想像的概念”であって、いくらそのようなものを主張しても、それを実証できる術などどこにもないのです。(多くの哲学者が何の根拠もなく「はたらき」やら「作用」やらの用語をやたら用いるのにうんざりしています)

事象と事象との「近接」「継起」「恒常的相伴」それこそが因果関係の「必然性」を導くものであって、それ以外のものなどどこにもないのです。そしてその「必然性」が絶対的なものかどうかを保証することもできません。

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おそらくですが・・・なんでもかんでも「論理的に」証明できなければ納得できない思考回路になっているのではないかと思うのです。学校で数学を習うことでスポイルされてしまうのかもしれません。

「経験」について、考え方(?)が全く逆向きなのだと思います。

少し説明したくらいでは分からないかもしれませんが、

経験を論理で説明することはできない、
経験から論理が導かれている

・・・ということです。現れてくる経験はただ現れてくるのみ、それが論理やら理由やら原因やらを伴って現れてくるのではないのです。

そこにあるものを「リンゴだ」と思ったり呼んだりしたこと、
ある感覚を感じて「痛い」と言ったこと
あるものを見て「赤い」と思ったこと

ある感覚と言語とが繋がった経験、そのものは疑いようのない明証性を持つものだと思います。一方、竹田氏やその他の哲学者たちは「赤く見えたこと」は疑いようのないことだ、というふうに、明証性における「言語」の位置づけをあやふやにしてしまっています。「赤く見えた」という言語表現そのものは明証性を有する経験であっても「赤く見えた」のかどうかは可疑的なのです。

そして、それらの経験はただそれだけとして現れている、その経験それ自体は理由やら原因やら論理やらそういったものを全く伴って現れているわけではないのです。そういったものの保証など関係なしにただ現れて来ている、ということです。

つまり「原因」「理由」「論理」には明証性などない、それら自体がまさに臆見(ドクサ)を伴った”自然的態度”である、ということなのです。

では原因・理由・論理、そういった経験どうしの関係はいかなる場合において認められているのか、どのような経験をもって「原因」「理由」「論理」と呼んでいるのか、そういう考え方なのです。

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しまうまのメモ帳
http://tsunecue01.hatenablog.com/

における

コメントの付け加えです。

>「「表象」という言葉を安易に用いることで、実際の具体的経験があやふや、あいまいにされていないか、と思うのです」とのことですが、おそらくカントの議論の進め方はこれとはまったく逆向きだったのではないか、つまり、われわれの認識が成立していることから逆算して、その可能性の条件を割り出しているのではないかと理解しています。

・・・その「認識が成立している」という表現が、具体的事実を覆い隠している、ということなのです。そこに「概念」やら「表象」という用語を用いることで、成立している具体的経験がいかなるものなのか、分からなくなっている、ということを指摘しているのです。

「認識が成立している」とはいったいどういうことを言うのでしょうか?

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...