2019年4月24日水曜日

因果推論するのに必然性あるいは恒常的相伴は必要ない

澤田和範著「ヒュームの因果論における必然性の観念について」『哲学論叢』38、2011年、 61~72ページ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173207/1/ronso_38_061.pdf

・・・を読み始めた。

そもそもの話なのだが、因果推論するのに「必然性」を伴う必要があるのだろうか?
必然性がないと因果推論できないのだろうか?

私たちは、日ごろから必然性などおかまいなしに因果推論している。因果推論が「正しく」なければ因果推論できないのか? そんなことはない。皆さん根拠があろうとなかろうと勝手に因果推論している。(ただそこで間違ってならないのだが、因果推論したことが事実である、ということは、因果律がア・プリオリであるということではない。)

その因果推論が「正しい」のか「間違いなのか」・・・それは新たに現れる事実により確認されるのである(”新たな”事実とは、これまで知らなかった過去の経験である可能性もある)が・・・そこで初めて「恒常的相伴」が問題となって来るのだ。

そしてヒュームがここで「印象」を持ち出しているのは、因果関係の「正しさ」は事実によってもたらされるのであって、「想像」によってもたらされるのではない、ということなのである。そこでヒュームが想像と記憶との違いは何か、と問う意義があるのだ。

ただ・・・ヒューム自身、因果推論した「理由」と因果推論の「正しさ」(=客観性=恒常的相伴)の検証の問題とを混同しているため、論理に混乱を来してしまったのである。
 我々は一方の対象の印象が心に現れると、もう一方の対象の観念を思い浮かべる。これが因果推論である。この推論はアプリオリに対象を考察しただけでは不可能であり、経験がそれを可能にすることがわかる。すなわち、二対象が「恒常的随伴」の関係にあるのを 経験して初めて、因果推論は起こる(T 1.3.6.3)。経験を考慮に入れることによって、我々は 恒常的随伴という新たな関係を発見できたのである。ところが、この関係の発見によっても事態は好転しない。恒常的随伴は「どんな新しい観念もけっして発見できず、ただ精神の対象を多数化することができるだけで、拡大することができない」(ibid.)からである。必然性の観念は依然として見つからない。(澤田氏、62ページ)
・・・因果推論は、”二対象が「恒常的随伴」の関係にあるのを経験して初めて”起こるのではない(澤田氏はまずここを指摘すべきであったのだが)。因果推論とは、ただ未知の事象を因果的に推測した具体的経験であるに外ならず、その未知の事象が実際に経験として現れることでその推論が「正しい」と確かめられるまではその「正しさ」「必然性」は確保されることがないのである。

推論に必然性をいくら探しても見つからないのは当然なのだ。
さらに言えば、因果推論の「原因」「理由」を探しても、結局それも「因果推論」にならざるをえない。(つまり”無限後退”であるが、澤田氏の言われる”無限後退”がこのことに関連しているのかどうかは、後日、論文の後半部分を読んで判断したい。)
我々は外的対象において、必然的結合を知覚することはできない。我々は外的対象間の必然性を信じるために、精神の被決定に訴えることになる。しかし、「この精神の被決定の 印象とは対象 Aの印象の現前が対象 Bの観念の現前の原因であるという、したがって、対 象 A の印象が対象 B の観念と必然的に結合しているという印象に他なら[ない]」(木曾, 1995, 531頁)。そうだとすれば、厄介なことに、この対象 Aの印象と対象 Bの観念との必 然的結合に関しても、事態は外的対象間の必然的結合の場合と変わらない。「我々の内的知覚の間の結合原理は、外的知覚の間の結合原理と同様に、知的に理解できず、経験によ って知る他には知りようがない」(T 1.3.14.29)とヒューム自身が認めているからである。(澤田氏、64ページ)
・・・澤田氏の指摘はもっともであろう。複雑観念に関して、ヒュームは「きずな」「穏やかな力」「引力」という用語を持ち出している。しかしこれは明らかにヒューム自身のブレである。
今度は、その知覚間の必然的結合を「その知覚の知覚」間の、別の新たな精神の被決定で説明してしまおう。これがヒュームの戦略だというわけである。
 しかし、このような議論では、問題を先送りにしただけで、観念の起源を説明し切れないことは明らかであろう。(澤田氏、64ページ)
・・・必然性の「観念」などどこにあるのか、という問題もあるのだが。あるいは経験論においては、恒常的相伴がまさに必然性そのものなのである。科学的客観性も恒常的相伴(再現性)に他ならない。
ヒュームが、一方で、「精神の被決定を感じる」と主張しながら、他方で、外的対象間にも内的知覚間にも必然的結合を知覚できないと主張していることに鑑みれば、無限後退説はヒュームの因果論の避けがたい破綻を捉えているように見える。しかし、これはあまりに破壊的な解釈である。この解釈から、ヒュームを救い出すことはできないだろうか。(澤田氏、65ページ) 
・・・果たして澤田氏はこのあとどのような論理に持っていかれるのか? 明日以降の楽しみ(??)にしておこうと思う。


<関連するレポート・ブログ記事>

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

ヒュームは因果推論における「経験」の位置づけを見誤っている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post.html

ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_6.html

2019年4月20日土曜日

科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法

小口峰樹著「知覚は矛盾を許容するか?」『Citation Contemporary and Applied Philosophy (2014)』5、1016~1032ページ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/200776/1/cap_5_2.pdf

・・・に関して、私が言いたいことは次のとおりである。
(3章構成にしようと思っていたのですが、これで完結しました。)

****************************

1.そもそも「概念」とは何なのか


この問題については、

Ⅰ.知覚・信念とは?
https://keikenron.blogspot.com/2018/11/blog-post_4.html

・・・で説明した。


2.矛盾とは言葉と経験との関係においてはじめて現れるもの


「ある対象は運動し、かつ同時に、運動していない」(小口氏、1024ページ他)というのは単なる言い方の問題であって、実際に経験としては動いているのである。その上で過去の経験によってもたらされた”経験則”として錯視というものがあるということを知っている、それが錯覚であるということを知っている、それだけのことである。

そもそもが知覚が矛盾を含むということはありえない。矛盾とは「四角い三角」のように経験(想像も経験)として現れることのないもの、言語表現が知覚経験(あるいは心像やらも)と結びつけられることのないものなのである。「滝の錯視がもつ矛盾した内容」(小口氏、1021ページ)という議論の前提そのものがおかしいのである。
「ある方向への運動が起こっている」という情報と「位置変化が生じていない」という情報がある物体のもとへ統合されたとしても、それぞれの情報は互いの内容について含意を有しておらず、それゆえ知覚経験の内容としては矛盾していないということになる。それらの情報が矛盾するのは、当該の知覚内容が知覚判断として信念体系に組み込まれ、「運動は必ず位置の変化をともなう」という背景的な信念と組み合わされたときである。 (小口氏、1028ページ)
・・・という小口氏自身の説明が、上記の私の説明を裏付けているともいえる。「知覚判断」とは要するに知覚の言語表現である。言語表現されたとき、はじめて「矛盾」というものが現れる。知覚経験にそもそも「矛盾」というものはない。そして「背景的な信念」とは要するに「経験則」のことである。新たな経験により経験則が覆されるか覆されないか、ただそれだけのことである。

そもそもが「ある対象は運動し、かつ同時に、運動していない」という言語表現を、知覚経験として取り扱うこと自体おかしいのだ。

西田とジョンストンによる運動残効を用いた実験研究(小口氏、1023ページ)は、「運動残効において生じる見かけの運動にともなって、その運動速度から計算されるよりは微弱なものであるが、同時に見かけ上の傾きの変化が誘導される」として「運動残効において、順応方向とは逆の運動だけではなく、対象の位置(この場合は帯模様の傾き)の変化も誘導される」という経験が記録されただけであって、経験以上のものが見出されたわけではない。

「滝の錯視においても同様に、岩は完全に同じ位置に見え続けるのではなく、多少なりとも位置の変化をともなうように見える」(小口氏、1023~1024ページ)というものを実験によってわざわざ実証する必要もない。実際に動いて見えるものは動いて見えるのであって、ただその経験を追認しただけのことなのだ。別に「運動残効の速度から推定される位置の変化と見かけ上の位置の変化とのあいだにはなお食い違いが存在」(小口氏、1024ページ)することは、「運動残効における運動内容と位置内容のあいだには依然として矛盾した関係が含まれている」(小口氏、1024ページ)ことではないのである。


3.科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法経験により脳細胞の働きを根拠づけることはできるが、脳細胞の働きから経験を根拠づけることはできない)

多くの生物の感覚処理システムでは、細胞間に階層的な処理構造を導入することで、こうした観察者の視点に相当する仕組みが導入されている。(小口氏、1025ページ)
・・・そもそもがこういった階層構造は、私たちの具体的経験との対応関係により示されるものである。例えば特定の脳細胞の反応と「45度の線分」という視覚経験との対応関係により、その細胞が「傾き選択制細胞」と特定されている。
マッセンは、信念や判断に至る以前の初期知覚過程において、 すでに入力情報に対して概念的な分類が行われていると考える。感覚システムは刺激駆動型のシステムであるが、単に外界からの入力情報を受動的に処理しているのでなく、ある情報と別の情報とを同じカテゴリーのものとして扱うという分類活動を行っている。(小口氏、1024~1025ページ)
・・・これについても、まずは「同じだ」と判断された事象が経験としてまず現れており、それと脳細胞の働きが関連づけられ、その一致が認められたのである。

見誤ってはならないことだが、同じ脳細胞が反応するから「同じ」なのではない。「同じ」と同定できた事実がまずあって、その経験の事実と脳細胞の反応(これも実験による観測データとしての経験)との対応関係(因果関係)として理論化されるのである。「同じ」という判断が先んじることなしに、脳細胞の働きの規則性というものが同定されることはありえないのである。

「知覚経験が脳内の分類処理の過程を経て可能になる」(小口氏、1027ページ)という見解は、まず知覚というものが具体的経験として現れており、その経験と脳細胞の反応との因果関連が導かれた上で、脳細胞の働き⇒知覚、という因果関係が構築されているのである。

何が正しくて何が間違っているのか、それは脳細胞の反応により示されるのではない。まずは経験に基づく事実把握が先んじているのであって、その事実把握に基づいて脳細胞の働きが同定されている。

小口氏は一連の実験、および実験による因果関連の把握の過程、つまり科学的実験・研究過程が、いかに成立しているのか、細胞と同定される過程とはいかなるものか(実験者が何をもって「傾き選択制細胞」を同定しているのか)、因果関係とは何か、そういったものの検証をすっ飛ばして、科学実験の結果を哲学の根拠としてしまっているのだ。

科学理論は哲学の根拠にはなりえない。科学的手法の根拠を示すのが哲学の役割なのである。科学理論から経験を説明するのは、科学理論構築の過程を無視しているからこそできるのであって、理論構築過程(実験や観察)を含めれば、それが”循環論法”に陥っていることが明らかとなるのである。


4.具体的経験として現れているものを脳の働きにより後付けで説明したにすぎない


突然目の前に何か飛んできたらいやおうなしに目に入るし、白いお米の中に色の赤いうめぼしが入っていれば勝手に目に飛び込んでくる。名前を知らなくても目に入って来るものは入って来るのである。

上記マッセンの研究を採り上げるまでもなく、具体的経験として目の前のものを見分けているのであって、その具体的経験を脳の働きとして後付けで根拠づけたにすぎないのである。


5.問題はその”所与”として与えられた個物が何であるか、その感覚的経験と言語との繋がりが「正しい」のかどうか


具体的に飛び込んできたその視覚的経験自体が”所与”なのであって、その視覚的経験を「リンゴ」と呼んだとき、それが「正しい」のかどうか「間違い」であるのかどうか、そこが問題なのである。

脳の情報処理能力を説明したところで、そこの問題は全く解決されていないのだ。たとえば脳が処理して区別した視覚的情報と脳内の言語野とが繋がったという観察が実験によってなされたとしても、それもやはり(そこに見えたものを「リンゴだ」と思ったという)具体的経験の後付け的説明であるにすぎず、その把握(それが本当にリンゴなのか)が「正しい」のか「間違い」なのか、その問題はやはり解決されていないのである。

つまり小口氏の分析の方向性は”所与の神話”の議論とずれたものとなってしまっているのだと言えよう。



2019年4月19日金曜日

観念論や現象学と経験論との決定的違い

Philosophy Guides
ヒューム『人性論』を解読する
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-hume-enquiry-human-understanding/

・・・は、かなり竹田現象学に引き寄せて解釈されている印象だ。


1.観念論・現象学と経験論との違い


経験論は、方法的態度については観念論にかなり近い。(平原氏:ブログ記事の著者)
・・・経験論と観念論とは根本的に違う。

私たちの意識が到達できない領域を前提することなく、ただ私たちの意識に与えられているものだけを探究することで、認識の構造を取り出そうとする。これは根本的な形而上学批判だ。(平原氏)
・・・しかし実際には観念論・現象学ともに「経験を可能にするアプリオリな諸条件」(谷徹氏「現象学と経験の不可能性の条件」『フッサール研究』創刊号、2003年、63~84ページより)を探ろうとするものである。つまり観念論は、経験として現れていないものを前提と(して経験を説明しようと)する方法論である。経験論はそういった前提を一切排除しようとする方法論である。(後で説明するが)経験は”諸条件”などおかまいなしに既に現れているものであって、その諸条件など後付けの辻褄合わせでしかないのである。

観念論や現象学:我あり(エゴ・スム)、あるいは思うところの我あり(スム・コギタンス)ということが疑いの余地なく語られうること(『デカルト的省察』フッサール著・浜渦辰二訳、岩波書店、50ページ)

経験論:経験として現れるのは知覚であり我ではない

・・・要するに、観念論・現象学は「我」(現象学では作用という言葉でごまかしたり「原自我」を”論理的”に導こうとしたりしている)が残る、としているが、経験論ではあくまで経験(ヒュームにおいては知覚)が残る、としている。そこが最も重要な違いだと思う。(ただヒュームやジェイムズでさえ、その見解が徹底されているとは言い難い部分はあるのだが)

我、あるいは思うところの我、など経験としてどこにも現れていない。認識するためには主体がなければならないという因果推論をエポケーできるかできないか、そこが一番のキモではなかろうか。

※ もっとも、ヒュームにおいても「精神」や「心」というものが前提とされた議論がなされているのであって、上記の説明はあくまで”私なりの解釈”ではないかという指摘があるかもしれないが。


2.因果関係に関する誤解


因果関係がアプリオリではないということは、いったいどういうことなのか、理解できている哲学者(の著作)にまだ出会ったことがない。(ぜひ私の文章を読んでほしいのだが・・・)ヒューム自身にもブレがある。

だが、ここで「しょせん真の原因などありはしない」と言うだけでは十分ではない。その言い方では、「知覚に原因があるはずだ」と思ってしまうこと自体の理由を説明できないからだ。(平原氏)
「真の原因」は存在しない。にもかかわらず原因があると考えてしまうのはなぜだろうか?(平原氏)
・・・このあたりはヒューム自身もブレているので、平原氏がこう説明するのももっともであろう。

ただ、平原氏の説明も不正確というか誤解を生む。「真の原因」が存在しない、と言っているのではない。そもそもヒュームは因果関係を否定してはいない。因果関係をもたらす「力」「作用」そういったものがない、と言っているのである。事象と事象(印象や観念)どうしを結びつける「力」「作用」「働き」そういったものがどこにもない、と言っているのである。

知覚の向こう側に因果関係を求めようとすれば、それは失敗に終わらざるをえない。(平原氏)
・・・これは違う。

観念論や現象学は、経験がいかに成立しているかを説明してしまっている(つまり因果関係が経験の前提とされてしまっている)。そうではない。経験は既に成立してしまっているのである。因果関係とは、それらの経験を結びつけることで事後的に見出されるものなのである。つまり知覚がなぜ生じたのかと問うことは可能であるし(実際そうしているし)、それを因果関係で説明することも可能なのである。恒常的相伴により客観性を付与できるかどうかはまた別の話であるが。

要するに、

因果関係⇒経験、ではなく、
経験⇒因果関係、ということなのである。


3.本質・認識・構造・・・?

印象は大きさや形などのありありと与えられる知覚であり、観念は意味や本質として与えられる知覚である(平原氏)
・・・ヒュームは観念を「本質」とは説明していない。「本質」という言葉は誤解を招く表現である。

私個人の意見としては、「構造」「本質」「欲望」「本能」「理性」という言葉を哲学・社会科学・人文学から排除すれば、より正確な事実分析ができると思っているのだが。

そして認識とはいったい何なのか・・・「構造」を正当化するために、いったい何を示しているのか明確でないまま様々な用語を作り出すのも観念論や現象学の特徴である。



2019年4月13日土曜日

科学的真理がいつ「絶対的」なものになったのか?/「一般因果性」「特殊因果性」という区別などあるのか?

(従来の)合理論と経験論との議論に決着がつかないのは、それぞれが「経験」というものを恣意的に限定しており、「心」や「精神」と対象物との分離を前提とした上で、(おおざっぱに言えば)心が先か感覚や経験が先かみたいな議論になってしまっているからだ。

どちらが先かという前に、そのどちらをも既にあるものとしてしまっているのである。循環論法もいいところだ。(そもそも「心」や「精神」あるいは「理性」というものなどどこにあるのだろう?)

ドゥルーズの議論もその問題点には触れず、ただヒュームの提案した概念を別用に加工しただけのように思える。

河口丈志「ドゥルーズによるヒューム ― 因果性と経験の二重の意味―」『哲学の探求』第 44号、 哲学若手研究者フォーラム、2017年、179~192ページ 
http://www.wakate-forum.org/data/tankyu/44/44_10_kawaguchi.pdf

・・・をざっと読んでみたが、まさに私が書いた

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

および、以下のブログ記事

ヒュームは因果推論における「経験」の位置づけを見誤っている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post.html

ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_6.html

・・・が、河口氏が取り扱われている問題の回答になっていると思う。

「観念結合」というのが実際の経験としていかに現れているか、そこを厳密に検証する必要があるのではなかろうか。観念が想像によって自由に結合できると思ったら大間違いである。「規則」というものは経験からもたらされるものなのである。

あと、初歩的な誤りもある。
ヒュームは,感覚的所与を印象(feeling)と呼び,その精神における反射を観念(notion)と呼んだ.観念を精神において自由に結合するのは想像力(imagination)と呼ばれている.(河口氏、183ページ)
・・・この初歩的な間違いはおそらく発表時に指摘されたと思うのだが・・・こうして原稿になった時点で訂正されていないのはどういうことであろうか?
なお,スイッチをいれるとパソコンがつくというような,日常生活で確認される原因と結果の関係が,必ずしも絶対的な結びつきを必要としないように,ここで言われている因果性も必ずしも絶対的な確実性を根拠にする必要はない.この理論では科学的な真理を保証できない,というのはまた別の議論である.ゆえに,ここでは一般因果性ではなく,特殊因果性が話題になっていると理解してほしい.科学の真理性を保証するような絶対的はなくとも,恒常性と必然性のみで因果的関係は十分に成り立つのである. (河口氏、186ページ)
・・・いつ科学的真理が「絶対的」なものになったのだろうか? 科学的実験というものは、スイッチを入れるとパソコンが付く、というような経験の繰り返し、ヒュームの言う「恒常的相伴」、あるいは「再現性」によって仮説の「正しさ」が付与されるのである。ただ実際には100%の結果を出すことの方が難しい。それ故に(様々な経験則を集約した)統計学が必要とされているのである。

ヒュームの言う因果関係とは現代科学と(かなり)合致する見方なのである。科学的真理が「絶対的」であるならば、科学的知識が新しい発見によってどんどん更新されている事実をどう説明するのか?

そもそも「恒常性と必然性のみで因果的関係は十分に成り立つ」とはどういう意味であろうか? 恒常性とは経験論においては必然性の別名なのである。恒常性以上の必然性はない。

拙著でも説明しているが、「恒常的相伴」が因果推論した”原因”と確定しているわけではない(間違いであると言えるわけでもないが)。恒常的相伴がない事象でも私たちは勝手に因果的に把握してしまっている。人によって様々な因果推論がある。例えば「字がきれいな人は心もきれい」とかそういった実際に恒常的相伴があるかどうかもわからない(しかも「心がきれい」とはいかなることか定義さえも明らかではない)ことを信じたりしている(?)。間違った因果推論もたくさんあるだろう。

因果推論した「原因」など分からない。しかし因果推論した事実は経験としてある。経験としては個別の事例において因果推論したという事実があるだけ、それ以上でも以下でもない。そしてその因果推論が新たな経験(それは過去の経験の場合もある)により正しいと確かめられたり間違っていると分かったりするのだ。ただそれだけ、そのことは他の事柄に関しても因果律が適用可能かどうかについては何も語っていない。

因果推論した事実が(個別の)具体的経験としてある=因果律がア・プリオリな概念、という見方は、具体的経験から導くことのできない論理の飛躍なのである。
我々のすべての日常的な行動は,因果性を前提にしていることがわかるだろう.(河口氏、187ページ)
・・・本当にそう言えるのか? 私たちは、ただ行動したり感じたりしている。それらの経験を事後的に因果性として把握するだけであって、”すべての行動”が因果性を前提にしていると結論づけることはできないのである。個別の事象について因果的に把握した事実はあっても、それが”すべて”であると結論づけることはできないのである。

・・・他にもいろいろツッコミたいところがあるので、そのうち別記事でまとめておきたい。



2019年4月6日土曜日

ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている

1.因果推論を因果推論によって根拠づけようとしている

一つの対象の存在から他の対象の存在を推理できるのは、ただ「経験」によってだけである。この経験の本性というのは次のようなものである。まず、ある一つの種類の対象が存在した実例に、かつてしばしば出会ったことを思い出す。また、対象の他の種類に属する個物がいつもそれらに伴い、しかも、それらに対して近接と継起の一定のあり方を保って存在したことを思い出す。こうして、たとえば炎と呼ばれる種類の対象を見たこと、また熱さと呼ばれる種類の感覚を感じたことを思い出す。それにまた、過去のすべての実例で両者の間に恒常的な相伴があったのを思い起こす。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、53~54ページ)
・・・具体的に検証してみよう。因果推論に関しては、二つのケースがありうる。

① 答えが浮かんでいる場合(観念あるいは印象として現れている場合)
② 答えが浮かんでいない場合

・・・まず①についてであるが、熱いと感じるとき、そこに炎があれば、炎のために熱いと感じている、と容易に因果推論できるであろう。一方、②については新たな経済政策を実行しようとしているがその結果が容易に判断できない場合、などである。そういう場合、似たような要素を持つ様々な事例のデータを集めた上で、因果推論するであろう。

これらの因果推論について、経験論としてはどのように受け止めれば良いのであろうか?

①の場合、炎と熱との因果関係を認めるのに、いちいち過去の経験の恒常性など思い浮かべるであろうか? マッチで火をつけたとき、炎が柄の方にだんだん進んできて思わず「熱い」とマッチを放り投げてしまったとする。炎と熱さとの間の因果関連を認めるのに、いちいち過去の事実を思い起こすであろうか?

具体的に検証してみてほしい。「過去のすべての実例で両者の間に恒常的な相伴があったのを思い起こす」とはいったいどういうことなのであろうか? いちいち、炎を熱いと思った具体的事例を一つ一つ思い出すのであろうか? そんな具体的記憶いちいち思い起こせるであろうか?

具体的経験としては、「恒常性」などおかまいなしに、とにもかくにも「因果推論」したのである。あるいは「因果関係を認めた」のである。このとき”過去のすべての実例”というものが経験として現れているわけではない。

つまり、炎を熱いと思った経験と、その時点において経験として現れてはいない”過去のすべての事例”との間の因果関係がいかに成立するのか、という問題が生じてしまうのである。

記憶もしくは感覚機能に現れる印象から原因あるいは結果と呼ばれる対象の観念への移行が過去の経験、すなわち両者の恒常的な相伴の想起をもとにすることが明らかになった(ヒューム、54ページ)
原因と結果の観念は、しかじかの特定の対象が過去のすべての実例で、きまって互いに伴っていたことを知らせる経験に起因する。(ヒューム、56ページ)
・・・とヒュームは結論づけているが、これでは「過去の経験の恒常的相伴⇒因果推論」、という「原因」「結果」の関係になっている。つまりこの関係もやはり「蓋然性」でしかないのだ。

炎と熱さとの関係は、私たちにとってはあまりに当然な経験則であるから、「過去の経験の恒常的相伴」が因果推論をもたらしたという結論は、一見もっともらしく感じられるのであるが、マッチの火を「熱い」と思ったとき、過去の事例をいちいち思い浮かべてはいないという事実、その具体的事実をまず「額面通り」に受け取る必要がある。その上で過去の経験(の記憶)との関連づけについて分析していく、これが経験論としての分析の順序ではなかろうか。

「恒常性」が因果推論が引き起こされた「原因」ではないと言っているわけではない。しかしそれはあくまで「蓋然性」レベルの因果推論なのである。

 特に言うまでもないが、かつてすでに得られた結論あるいは原則をもとにして、これらが最初に生じたときの印象に頼らなくてもわれわれは推論できるのであるが、それはしかし、ここに述べた説に対する正当な反論にはならない。なぜなら、かりにこうした印象が記憶からすっかり消え去ったと仮定しても、印象が生み出した確信はそのまま残りうるのであって、したがって、原因と結果に関する推理がすべてをもとにたどればある印象から引き出されることはやはり真実であるからである。(ヒューム、50ページ)
・・・「ここに述べた説」とは(大雑把に言えば)「記憶か感覚機能かどちらかのよりどころがなければ、推論の全体が明らかにこしらえもの、基礎のないものとなるであろう」(ヒューム、50ページ)という見解のことである。

問題は、「かつてすでに得られた結論あるいは原則をもとにして、これらが最初に生じたときの印象に頼らなくてもわれわれは推論できるのである」というところである。ヒュームも因果推論がいちいち「印象」に頼らなくてもできることを認めている。これは具体的経験を振り返ってみてもそうであると確かめられることであろう。

一方、「かつてすでに得られた結論あるいは原則をもとにして」という見解はどうであろうか? これは、先ほど私が述べたように「過去の経験の恒常的相伴⇒因果推論」の枠組みを前提とした説明である。因果推論をした事実が具体的経験としてまずある。しかし「すでに得られた結論あるいは原則をもとにして」いるのかどうか、そこは事後的な因果関連づけでしかない。

・・・お分かりであろうか? 因果推論の根拠を因果関係で説明しようとしているのである。繰り返すがヒュームは因果関係の”原因”を問うてしまっているのだ。



2.因果推論の「正しさ」の検証


上記②の場合はどうであろうか。これについては因果推論の答えが見えないのであるから、過去のデータを集めそれらを元に因果推論するのである。つまり過去の経験における関係性(恒常的相伴が見られるかもしれないし見られないかもしれない)を見つけ、それらをつなぎ合わせようとしている。

これについても同様に、因果推論しようとした事実が恒常性によってもたらされたわけではなく、より「正しい」(と思われる)因果推論を目指すために恒常性を持つ関係を探しているのである。

しかし、それら過去のデータに基づいた因果推論が本当に「正しい」のかどうかは、その経済政策を実行して実際に社会がどうなるか見極めるまで分からない。

過去のデータによる推論にもかかわらず、将来予測が大きく外れてしまうことも多い。その場合、新しく得られたデータとこれまでのデータ・経験則との関連づけを改めて見直し、新たな因果関係を構築していくだけである(因果的に辻褄合わせがなされる)。

自らの経験の繰り返し、さらには他者の経験(の報告)により、ある因果関係は否定され別の因果関係に取って代わられる。あるいは常に同じような結果となり否定されることのなかった因果関係もある。経験則はこのようにして更新・蓄積されていくのである。

①の事例においても、ある場面においてマッチの炎と熱さとの関連を見いだしたとしても、それが他の人にとって同じなのか、あるいは別のシチュエーションでも同じなのか、様々な事例において同じような関係が見いだせるのか、という問題が生じる。その時はじめて「恒常性」が関与して来るのである。

思い出しうる”過去のすべての経験”において同じような関係が見いだせていたか、あるいはこれから生じうる経験においても同じような関係を見いだしうるのか、因果関係の「客観的正しさ」がまさにヒュームの言う「恒常性」(あるいは「再現性」)なのである。

つまり、ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている、あるいは混同してしまっているのだと言える。



3.経験論として因果関係・因果推論を説明するとは


既に述べたが、「恒常性」が因果関係に対する確信を高め、他の事例においても因果関係が適用できるのではないか、と思わせるのだ、という説明が「間違い」であると言っているのではない。そういう可能性もある。しかしこれも因果推論によるストーリー構築なのであって、因果関係とは何か、という問題の説明になっていないのである。

因果推論というならば、人間の脳に因果的思考をする回路が組み込まれていて、いやおうなしにそうなってしまうのだ、という言い方だって可能なのだ。

そうではない。経験論として因果関係を説明するということは、因果推論の「原因」を問うことではなく、因果推論というものが具体的経験としてどのように現れているのか、それをやはり具体的に説明することなのである。

 したがって、心が一つの対象の観念もしくは印象から、他の対象の観念もしくは信念へと移るときに、心は理性によって規定されるのではなく、想像においてこれらの対象の観念を連合し、結び合わせるようなある原理によって規定されるのである。
 われわれにはこうした相伴の理由を見きわめることはできない。ただ事がらそのものを観察して恒常的な相伴のために、対象が想像において結び合わされるようになるのをいつも見いだすというだけである。(ヒューム、57ページ)
・・・「相伴の理由を見きわめることはできない」というのはもっともである。一方で「原理」というものが実際にあるのだろうか? 因果推論した事実はある。しかしそれが「原理」によってもたらされたものなのか、その「原理」というものが具体的経験として現れていないものなのである。

「恒常的な相伴」が因果推論をもたらす「原理」なのではない。「恒常的な相伴」はあくまで因果関係の「客観的正しさ」を担保するものなのである。恒常的相伴がなくても因果推論は成立する。そもそも推論そのものに究極的な根拠など必要ないし、それが「正しい」ものである必要もないのだから。経験論としては、推論した事実のみを認めればよいのだ。


2019年4月3日水曜日

経験論について分析しているのに経験論的手法が無視されている

奥田太郎著「ヒューム道徳哲学における時間について : ヒューム的な「時」を求めて」『アカデミア』人文・自然科学編(16),南山大学, 2018年, 81~92ページ
(タイトルをクリックすると論文のPDFファイルがダウンロードされます)

・・・を読み始めたのだが、

分析の前に、まず触れておかねばならないが、「時間の観念」という表現は、観念=心像とすれば、事実と相容れないものである。時間は心像として現れることはない。あるのは印象・観念の継起だけである。

 時間の観念は,他の印象と混在しつつそれから明瞭に区別できるような,特定の印象から生じるのではなく,もっぱら諸印象が精神に現れる際の現れ方から生じるのであり,その際時間は, それら諸印象の一つではないのである。(…)時間は,根源的な別個な印象としては現れない のであるから,或る仕方で配列された,すなわち互いに継起しつつある,異なる諸観念,また は諸印象,または諸対象,以外のものではあり得ないことが,明白である。 (T 1.2.3.10/邦訳 51 ― 52頁)(奥田氏、83ページ)
・・・まさにそういうことである。ただ、
時間の観念は,あらゆる種類の知覚の継起から生じる抽象観念である,と規定される(83ページ)
・・・という説明は不正確である。そもそもが「抽象観念」と言ったところで、具体的に現れるのは個別的心像でしかない。(しかも時間の心像はない)
抽象観念としての時間は,推論においては普遍的であるかのように同じ用いられ方をするが,その正体は,個別具体的な知覚の継起だということである。この抽象観念論での論理を適用すれば,個々の知覚の継起の観念が,それが習慣的随伴によって結びつけられた「時間」という一般名辞のもとに,想像力によって次々と呼び起こされる,というのが時間の観念である,という仕方で,より精確に捉えることができる。さらに別の言い方をすれば,時間の観念とは, 「分離された個別な観念ではなく,単に対象が存在する仕方もしくは秩序の観念」 (T 1.2.4.2/邦訳 55頁:強調は奥田)に他ならない。(奥田氏、84ページ)
 ・・・ここで間違ってはならないのだが、継起しているのはあくまで知覚である。車窓から見ている風景が移り変わる、人が動いている、音程が変わる・・・そういった個々の知覚である。たとえ「時間」という”名辞”から動く時計の針やら太陽の動きやら、そういった知覚変化を想像したとしても、それも「時間そのもの」の印象・観念(=心像)ではないことに注意する必要がある。

「時間」という「名辞」はあっても「観念」はない。この違いは重要である。
たとえば,さきほどのリンゴの印象と現在のリンゴの印象は,それぞれ 単独には,リンゴの観念を生み出せても時間の観念を生み出すことはない(奥田氏、83ページ)
・・・少し不正確な説明である。印象の継起が見られないということは、時間が流れていない、ということである(少なくとも個人的経験としては)。上記説明はそういうことを言っているのではあろうが・・・ただ、その印象が観念として継起して現れるようなことがあれば、そこに印象・観念の継起が現れているのである。
継起に伴って私たちは,「先ほどから少し時間が経った」 という仕方で時間の観念をもちうる,ということである。(T 1.2.3.8/邦訳51頁)(奥田氏、83ページ)
・・・ここまで、奥田氏はある程度ヒュームの時間に関する見解を正確に追ってはいる(「時間の観念」という誤解も、ヒューム自身の誤解であるし)。

しかし、それならば以下のような疑問がどうして湧いて来るのかよく分からないのである。
 こうして時間の観念の核心が明らかにされた。しかし,こうした時間の理解は,私たちが日頃享受している時間経験と整合的だろうか。たとえば,時点tの知覚Cと時点t+1の知覚Dの間に何の変化もない(たとえば,何も物がない,光が一切入らない暗闇が広がる小部屋に一人閉じ込めら れた場合の知覚を想像されたい)とすれば,CからDへの知覚の継起を私たちが経験することは ないため,ヒュームの時間論の論理では,私たちはCとDについて時間の観念をもてないという ことになる。しかし実際には,私たちは時点tから時点t+1の間の時間の観念をもちうるだろう。 この事態をヒュームはどのように説明するのだろうか。(奥田氏、84ページ)
 ・・・ヒュームは、”私たちが日ごろ享受している時間経験”について説明したのである。具体的時間経験そのものを説明したのに、いまさら「時間経験と整合的だろうか」という設問をするのは正直理解できないのである。

過去⇒(瞬間としての)現在⇒未来、という客観的時間枠組みと具体的時間経験との整合性というのならば理解できるのだが・・・
時間の観念は,観念と印象,また反省の印象と感覚の印象を含む,あらゆる種類の知覚の継起から生じる(奥田氏、82ページ:ヒュームからの引用)
・・・つまり暗い部屋に閉じ込められたとしても、浮かんできた情景やら音やら情動感覚その他の体感感覚(胸が苦しいとかお腹が痛いとかでも良い)、さらにはふとつぶやいた言葉やら口ずさんだメロディーやら、あらゆる経験(印象・観念)の継起なのである。

そして、仮にぼーっと暗闇を眺めてしまった、ある特定の事柄に心を奪われてしまった、もしそうならばやはり時間は流れていないのである。
CからDへの知覚の継起を私たちが経験することはないため,ヒュームの時間論の論理では,私たちはCとDについて時間の観念をもてないということになる。しかし実際には,私たちは時点tから時点t+1の間の時間の観念をもちうるだろう。(奥田氏、84ページ)
・・・知覚の継起を経験していないのであれば、個人的経験としては時間など流れていないのである。「時点tから時点t+1の間の時間の観念」とは、例えば10時5分から7分になるという時間の概念(良い言葉が思いつかないのでとりあえず「概念」としておく)」であって、「時間そのものの観念=心像)」では決してないのである。

要するに、個人的経験としては、時間など流れていないのである。知覚経験の継起があったりなかったりしている、ただそれだけである。

奥田氏の言われる”私たちが日ごろ享受している時間経験”とは、時計で刻まれる時間、客観的時間のことなのである。ただそれだけのことだ。個人的時間経験と、他の世界で流れている(とされる)客観的時間とが合致する必要などどこにもないのである。

暗闇から外に出た時、客観的時間の流れ(たとえば時計の差す時間)と自分の感覚とがズレていたのならば、まさにそういうことなのである。時間の流れが遅く感じたり速く感じたりする、というのは、そういった個人的時間経験(経験しているのは時間ではないが・・・)と客観的時間経験とのズレなのである。

奥田氏は、ヒュームの説明を自らの経験として受け止め検証するのではなく、ヒュームの説明から論理を抽出し、それを客観的時間概念との”整合性”の問題として分析しようとしてしまっているのではなかろうか。

奥田氏もそうなのか・・・最近のヒューム研究において(あくまで私が論文を読んだ数名の研究者においてであるが)「経験論的手法」が無視されてしまっているのである。「経験論」の最も重要な部分が無視され、ヒュームの言葉から表面的な論理を抽出して整合性を求めようとする。そもそも「整合性」とはいったい何なのだろうか?

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ヒューム『人性論』の「記憶」や「自己同一性」に関する問題とからめつつ、奥田氏の論文も時間をかけて検証してみたい。

ここで重要なことは、過去⇒現在⇒未来と”流れる”客観的時間概念がどのように根拠づけられているのかという問題と、個人的時間経験の問題とを混同しないことである。

また、”人格の同一性に関する議論を可能にする「同一性の観念」”(奥田氏、85ページ)とあるが、人格の同一性というものは「同一性の観念」とは全く別物であることも後で指摘しておきたい。

2019年4月1日月曜日

ヒュームは因果推論における「経験」の位置づけを見誤っている

拙著、

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

 ・・・で既に指摘したことであるが、ヒュームは因果関係の「原因」を問うてしまっている。経験論における「経験」の位置づけをヒューム自身が見誤っているように思えるのである。
‭一つの対象の存在から他の対象の存在を推理できるのは、ただ「経験」によってだけである。この経験の本性というのは次のようなものである。まず、ある一つの種類の対象が存在した実例に、かつてしばしば出会ったことを思い出す。また、対象の他の種類に属する個物がいつもそれらに伴い、しかも、それらに対して近接と継起の一定のあり方を保って存在していたことを思い出す。・・・(中略)・・・それにまた、過去のすべての実例で両者の間に恒常的な相伴があったのを思い起こす。そのとき、もはやこれ以上こだわらずに、われわれは炎を原因、熱さを結果と呼び、一方の存在から他方の存在を推理するのである。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、53~54ページ)
・・・一見もっともな説明のようにも思えるのであるが、ここにヒュームの「経験」に関する誤解が入り込んでいるのである。それは、推理したことが「経験」であって、それはそのまま経験として受け取ること。ヒュームはその「経験」の「原因」を問うてしまっている。”なぜ”推論したのかを問うてしまっているのだ。

「なぜ」推論したのかその「原因」を「推論」したところで、問いの無限ループに陥ってしまうだけである。そもそも推論が「常に正しい」必要がどこにあるだろうか? 私たちは恒常性があろうとなかろうと推論し、その推論が正しかったり間違ったりする中で、自らの経験則を更新していくのである。

推論が「正しい」のか「客観性」を持つものなのか、それを確かめるとき、はじめて「恒常性」(=再現性)が求められているのである。

推論をしたとき、他の人に「本当に正しいのか?」と聞かれれば、過去にそうだったろうとか、今からそうなるから見ておけ、とか・・・あるいはある学者が「過去」に書いた本を見せて「ほら、こうなるという事例が既に示されている」とか、具体的事例として、実際に起きていることを示すのである(本は過去に書かれているけれども、読んだ人にとっては新たな経験であるともいえる)。

また、上記の拙著で触れたように、因果推論に究極的な根拠を与えようとしても無理、「これから雨が降るだろう」という推論は、実際に雨が降って初めてその「正しさ」が認められるのであって、いくら過去の事例を集め根拠づけしたところで、実際に雨が降らなかったら「間違い」であることは変わらないのだ。
経験が観念を生み出すのは知性によるのか、想像によるのか、すなわち、移行をなすよう規定するのは理性なのかゃ、それとの知覚のある連合、つまり自然的関係なのか、ということである。(ヒューム、54ページ)
・・・”観念が生み出された”こと(つまり心像が現れたこと)が「経験」なのである。ここでもヒュームは因果推論の「原因」を問うてしまっているのである。
かりに蓋然的な推論に少しも印象が混じっていなければ、その結論はまったく架空のものとなる(ヒューム、55ページ)
・・・これも「推論した事実」と「推論が正しいと確認されること」とを混同しているともいえる。推論の「結論」は印象、つまり具体的感覚経験により確認されることで「正しい」と認められるのである。推論が”架空”なのは当然である。

ヒューム自身が述べているように、「推論」とは未だ経験として現れていない事象について、予想することである。まだ「正しい」と確かめられていないことなのであるから。
対象がともに感覚機能に現れていて、同時に関係もそこに示されているときには、これを推論と呼ぶよりはむしろ知覚と呼ぶ。(ヒューム、42ページ)

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...