2019年11月26日火曜日

法則は現実なのか非現実なのか

佐藤春吉「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/2、2013年、1~21ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-2_02-01.pdf

・・・を読んでいるのだが、やはり佐藤氏の「法則」理解が定まっていない印象を受ける。

無限に多様な現実から恒常的関係を抽出する「法則科学」(佐藤氏、6ページ)
概念における普遍性と非現実的なものを追及するのか,それとも,特殊的なものならびに個別的なもののうちに現実を追及するのか(佐藤氏、7ページ:リッカートからの引用)
・・・「法則」とは現実なのか非現実なのか? 現実から恒常的関係を抽出したからといって、それはやはり現実である。現実的出来事の繰り返しに他ならない。このあたり佐藤氏はあまり気に留められていないようである。

また、「現実」とは特殊的と述べられているが、

リッカートは、「現実」とは経験における直接的な直感内容のことであり,それは無限の見通しがたい多様性の相でとらえられる(佐藤氏、7ページ:リッカートからの引用)
・・・現実は、「特殊的」なのか、「多様性」なのか、このあたりの(リッカートの)ブレに関しても佐藤氏は全く無頓着である。


とにもかくにも、一回性の出来事の記述は、単なる”出来事の経緯の記述”あるいは因果推論・仮説構築以上のものではない。そもそもが、一回性の出来事で客観的に妥当な因果関係が導き出せるのであれば、法則など必要ないではないか。
因果性は,あらゆる認識対象に根源的なカント的な意味での先験的「カテゴリー」であり(佐藤氏、10ページ)
・・・と一方的に宣言したところで、「個性的一回的な質的特性を記述する科学」(佐藤氏、6ページ)に科学的客観性が自動的に付与されるわけではない。
(一応念をおしておくが、因果仮説レベルの理論と高い再現性を有する法則的理解の区別は、その情報の重要性とは別問題である。それが因果推論レベルであれ法則レベルであれ、その情報を必要とする人にとって、必要なものはやはり必要なものなのである。)

佐藤氏の見解にはいろいろ問題点を見いだせるので、とりあえず最後まで読んで具体的に指摘していきたい。

2019年11月20日水曜日

一般的経験論と純粋経験論との違い

経験論(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E9%A8%93%E8%AB%96

・・・より、
経験論(けいけんろん)、あるいは、経験主義(けいけんしゅぎ、英: empiricism)とは、人間の全ての知識は我々の経験に由来する、とする哲学上または心理学上の立場である(例:ジョン・ロックの「タブラ・ラサ」=人間は生まれたときは白紙である)。(引用ここまで)
・・・というのは一般的理解であると思うのだが、経験論を突き詰めていけば、
経験論が根本的であるためには、その理論的構成において、直接に経験されないいかなる要素も認めてはならず、また、直接に経験されるいかなる要素も排除してはならない。(W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』岩波文庫、49ページ)
・・・このことを徹底していけば、

知識が経験に由来するのかどうかではなく、知識そのものが経験であるということ、知識や思考というものが、実際に具体的経験としていかに現れているのか、そこを説明せねばならない

・・・ということになって来るのである。知識の由来とは、因果的問題である。そんなことを問う前に、因果関係とは何かを明らかにする必要があるはずである。(「タブラ・ラサ」の問題は、経験論の重要問題ではない、という話を、ヒューム『人性論』の印象⇒観念のコピー理論と絡ませながら、後日説明しておきたいと思う)

******

先日NHK教育で西田の『善の研究』の解説をしていた。『善の研究』は様々な思想や哲学者の理論の断片がきちんとまとまらないままつめこまれているため、どこを強調するかによって、けっこうどうとでも言えてしまう部分がある。その番組の解説者の説明も西田哲学の説明として間違いであると言えるわけでもない。

ただ、『善の研究』がそれまでの哲学からさらに一歩進んだものであると言えるとすれば、それは「思惟も意志も純粋経験である」としたところだと思う。ならば”判断”も当然思考(あるいは意志)であるはずだから、判断した事実も純粋経験である、ということになるはずである。私は純粋経験の回しか見ていないから、ひょっとして他の回で何かの説明があったのかもしれないが・・・(その回においては)”(言語による)判断を加えたら既に純粋経験ではなくなっている”という、非常にありふれた(しかも実際には具体的経験の説明としては不正確な)解説で終わっていたのが非常に残念であった。(言語についての説明に対しても、私なりに批判を加えたいのであるが、それは別の機会にしたい。ただ、西田が手に持っていたリンゴの絵柄を変化させる映像は具体的経験を歪める、ミスリーディングなやり方、一種のトリックではないだろうか、そこは指摘しておきたい。)

判断したら純粋経験ではない、という考え方と、思考・思惟・判断も純粋経験である、という考え方との板挟みでもがく(?)、それをいかに説明しようかと試行錯誤している、そのため文章の論理そのものが怪しくなってしまっている、その営み(?)が『善の研究』の(人類の哲学研究の歴史における)オリジナリティーであると思うのだ。


<関連記事>
「概念と現実の非合理的裂け目」とは実質的にいったい何のことなのか(「概念」とは何なのか)
https://keikenron.blogspot.com/2019/11/blog-post_9.html

2019年11月13日水曜日

因果関係把握は自然科学も社会科学も原理的に同じであるはず(その2)

昔読んだ、日高普著『社会科学入門』(有斐閣新書)で、社会科学では自然科学のように実験ができないから、かわりに思惟的抽象をするのだ、みたいに書いてあったのだが・・・

先日紹介した、佐藤春吉氏の論文では、

ヴェーバーにあっては,自然科学も歴史科学も因果認識は同一の検証に服する。(佐藤春吉著「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1―」『立命館産業社会論集』立命館大学産業社会学会編・刊、2012年、1ページ)
・・・と説明されている。

自然科学も社会科学も因果認識は同一の検証に服する。因果関係というものは学問分野によりその原理が変化するのではない。対象にかかわりなく因果関係は因果関係なのである。

そして社会科学では、自然科学における理論の客観性(つまり因果関係の再現性)を確保するためのプロセスの一つ、実験が基本的に出来ないわけである(実際にしてしまった事もあったようだが)。

そうであるならば、自然科学のような客観性を確保するのは無理だ、と考えるべきではないのだろうか? それなのに、ないものをでっちあげようとするから、その論理に無理が出てくるわけである。(そして、客観性の程度と、その情報の重要性とは別の問題である、ということも私が強調してきたことである)

自然科学において「思惟的抽象」をしたとき、いったいどのように受け取られるであろうか? それは一般的に言う「仮説」というものではなかろうか? そうであるならば、それは社会科学においても同じことである。

結局のところ、社会科学においては「仮説モデル」に頼らざるをえないことが多くなってくる。あるいは再現性が特定の地域・時代に限定される場合もあろうし、客観性の程度は事例により様々である。

そして、ヴェーバーの言う価値の問題、存在と当為の混同の問題は、別に社会科学に特有なものではない。現代でも、とくに生物学(の一部)で混同が甚だしい。

研究対象の選択も、自然科学であろうと社会科学であろうと、研究者自身が行うものである。そして、その対象を選んだ事実はあるものの、それが「価値」というものといかに関連づけられうるのか、さらに言えば「価値」とは何なのか、そこの具体的検証がヴェーバーにおいて全くなされていないのである。無いものは無いものだから、実際検証しようがないのであるが・・・

このように、因果関係構築の原理において、さらにはヴェーバーの言う価値問題においても、自然科学、社会科学、なんら変わることはないのである。

日高普著『社会科学入門』では、”ユートピア”である理念型を「極限概念」(日高氏、21ページ)と説明しているが、これを具体的に考えれば、こういうこと(※(1)のところ)になってしまうのである。理念型とは机上の空論にすぎない。空想と現実との比較しか出来ない代物で、具体的社会分析の道具になどなりようがないのである。

その上で、社会科学における因果構築プロセスの特色があるとすれば・・・

私が先日説明した「試行錯誤的因果関係構築プロセス」「試行錯誤的な帰納・演繹プロセス」、かっこよく言えば「動的仮説モデル」とでも言えようか・・・そういうものになるのではなかろうか。

分析する社会現象はどんどん変化していく。人間も変わっていく。もちろん変わらない部分もあるだろうが。

そういった変化に応じて、仮説モデルを変更・修正しながら、現状分析、将来予測を続けていく、まさに私たちが日々の生活で自然と行っている因果構築プロセスなのである。



<関連レポート>

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf




2019年11月12日火曜日

因果関係把握は自然科学も社会科学も原理的に同じであるはず

佐藤春吉著「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」『立命館産業社会論集』41/1、立命館大学産業社会学会編・刊、2005年、67~91ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf

・・・分析の続きです。

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『客観性』論文では,この認識の客観性の意味や妥当性の検証問題についての検討が不十分で,その論理構造は不明確なままにとどまっており,主観主義的傾向が強く印象づけられる叙述となっている。しかし,その後ヴェーバーはこの問題の明確化に取り組んでおり,クニース批判論文」と「マイヤ ー批判論文」では,事実認識の検証問題が論じられ,明快な論理によって定式化されることになる。(佐藤氏、77ページ)
・・・確かに『客観性』論文の記述は不十分で、しかもブレが見られる。しかし、実際無理なものを可能なように説明する試みなのだから、説明が混乱してしまうのも仕方ない。

佐藤氏の説明を読んでみると・・・

具体的な思想の開明的「推論」は,……ゴットルの仮定に反して,「自然科学」の仮説と論理的に同様な意味で,たえず「経験」による「検証」を採用することは,一般に自明のことなのである(RK, s.102, p.205)。 (佐藤氏、78ページ)
・・・つまり結局のところ、因果関係の検証は自然科学においても社会科学においても同様である、ということなのだ。ただ少しずれている気がするのであるが・・・「推論」が”「推論」による「検証」を採用する”とはいったいどういうことなのか? 推論に経験が必要なのか? もちろん過去の経験がより正解に近い推論をもたらしうる、ということは経験的に推測はできる。しかし推論は推論、いかに勝手な想像でも、その推論が当たってしまえば(「現実」として現れれば)、それは「正しい」のであり、いかに過去の経験に即して推論したとしても、それが新たな現実により覆されれば、その推論は「間違い」なのである。

つまり客観的可能性の範疇と,それによって可能となる総合的因果帰属とを利用して,因果的な個々の構成分子を遊離し,一般化する事によって,行われる吟味に耐えた場合に始めて因果的遡源は妥当性を獲得するのである(KS, s.279, p.196)。(佐藤氏、78ページ)
・・・因果推論に「客観性」はない。可能性は「推論」でしかない。推論の「因果的遡源」は、事象Aが生じれば事象Bが生じるという具体的経験、そしてその繰り返しでしかないのである。

あえて推論に客観性の尺度を当てはめるとすれば、それは過去におけるその因果関係の繰り返しの度合い・確率である(結局、ヒュームのprobabilityということになる)。過去の経験との同一性・類似性を伴うことなしに推論の客観性を論じることは到底できない。これも自然科学と全く同じである。

結局、因果関係は因果関係であり、それが物理的事象であれ社会現象であれ個人の行為であれ、対象が異なったからと言って因果関係というものの原理が変化するわけではない。ただ客観性の度合い(再現性、恒常的相伴・随伴の度合い)が異なるだけなのである。客観的妥当性の獲得が難しいのであれば仮説で代替するしか他に方法がない、それだけのことではないのか? そして、客観的妥当性の程度の問題と、その研究が重要な課題かどうかの問題は、全く別のことである。

佐藤氏は、
ヴェーバーにあっては,自然科学も歴史科学も因果認識は同一の検証に服する。(佐藤春吉著「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1―」『立命館産業社会論集』立命館大学産業社会学会編・刊、2012年、1ページ)
・・・と説明されているのだが・・・ただ「因果関係」とは何か、そこの根本的問題に関して大きな誤解をされているように思えるのだ。

自然科学も社会科学も因果関係把握に関して”同一の検証に服する”わけである。であるならば「理念型」という自然科学とは異なる手法を用いる必然性は全くないはずである。

説明されるべき「歴史的個体」の選択と形成をそのものの側から想定するところの指導的価値の選択において,歴史家は「自由」なのである。だが,それ以上の過程においては,彼は因果的帰属の諸原理に端的に結びつけられている(RK, s.124, p.256)。(佐藤氏「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」、78ページ)

・・・というのであれば、自然科学においても研究対象の選定において同じことが言えるはずである。

さらに言えば、対象が選ばれた、その事実に対し、そこに「価値」というものが具体的にどのように影響しているのか、それこそ”具体的に”説明などできるのであろうか? その対象が選ばれた事実と「価値」との間に、客観的妥当性を獲得できるような因果関係を見出すことができるのであろうか?

またさらに言えば、「価値」というものは何なのであろうか? ただ対象を選択した事実がある、そこに「価値そのもの」をいかに見出すことが出来るのであろうか?

「目的」は「目的」である。想定された特定の事象、つまり事実関係でしかない。そこに「価値」というものをどこに見出すことが出来るのであろうか?

「価値」「価値」と皆さん言ってはいるのだが、「価値」というものがいかなるものなのか、”具体的に”検証されたことがあるのだろうか・・・?





2019年11月11日月曜日

試行錯誤的因果関係構築プロセスの行きつく先は・・・

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
 ~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf

・・・で、社会科学は「試行錯誤的因果関係構築プロセス」「試行錯誤的な帰納・演繹プロセス」を避けられない (36ページ~)と説明したのだが、結局のところ、現実の分析⇒仮説モデルの形成⇒さらなる現実の分析⇒仮説モデルの修正(あるいは否定・新たなモデルの形成)⇒さらなる現実の分析、というプロセスがずっと続いていくわけである。

このプロセスは多くの研究者たちにより担われている。ある人が考えた仮説モデルを他の人が現状分析をもとに修正(あるいは否定・更新)していく。もちろん私たちが住むこの世界もどんどん変化していく。

・・・で、AIが発達すれば、新たなデータを取り込みながら仮説モデルを自ら更新・修正していく、動的な仮説モデルというものが作られていくのだろう。実際もうそういうものが特定の分野では出来ているのかもしれない。大勢の研究者たちが知見を受け継ぎながら長い時間かけてしてきたプロセスをコンピュータが一台でしてしまう、そういう話になって来るかもしれない。

社会システム論で言う、自己再帰的なプロセスというものは、具体的分析においては結局そういうことになってしまうのではなかろうか(結局は「意味」ではなく具体的事実の連関)。具体的事象の分析にはパラドクスなどどこにもない(ルーマンのゴタクも分析が洗練されればそぎ落とされていくのだと思う)。ただ仮説モデルに基づき将来を予測し、その結果をもとに仮説モデルを修正する・・・そういったプロセスはAIがあろうとなかろうと、人間が生きている限り続くものなのである。

ただ、コンピュータが獲得できるデータがどこにまで及ぶのかという問題もあるし、そのシステムを最初に作るのは人間、それを監視するのもとりあえず人間である。ただ将来はどのようになるのか分からない。あまり面白いものではなさそうだが・・・

・・・とりあえず今日は想像上のお話でした。

2019年11月9日土曜日

「概念と現実の非合理的裂け目」とは実質的にいったい何のことなのか(「概念」とは何なのか)

佐藤春吉著「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」『立命館産業社会論集』41/1、立命館大学産業社会学会編・刊、2005年、67~91ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf

・・・を最後まで読んだ。後半部分については、「概念」とはいったい何なのか、まずはそれを明らかにしなければならないのでは、という印象を受けた。

1.「概念」とは


「概念と現実との間の裂け目」(佐藤氏、82ページ)
「非合理的裂け目」というアポリア(佐藤氏、83ページ)
実在と概念の間の必然的裂け目(佐藤氏、82ページ)

・・・ここで「概念」とはいったい何なのか具体的に考えてみようと思う。

(1)概念=「仮説」であるとすれば

概念=”ユートピア”としての「理念型」であるならば、(ヴェーバー自身の見解とは異なり)それは実質的に「仮説」「仮説モデル」のことになる。

身近な例で説明するとすれば、「私が以前のように人の意見を聞かず自分の意見ばかり主張していたら今ごろどうなっていただろうか」とか、「彼が以前のように人の意見に流されてばかりいたとすれば、今ごろどうなっていただろうか」とか・・・ 「われわれの文化の、その特性において意義のある特定の特徴を、実在から抽出して、統一的 な理想像にまとめ上げ」(ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』富永祐治・立野保男訳、 折原浩補訳、岩波書店、115ページ)るとは、要するにそういうことなのである。

「手工業」の「理念」について、ヴェーバーは、
さまざまな時代と国の工業経営者の間に散在している一定の諸特徴を、それぞれ一面的に、その帰結にまで高めて、それ自体として矛盾のないひとつの理想像に結合し、それら諸特徴を、この理想像のなかに表明されている思想表現に関係づけるのである。(ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』、114ページ)
・・・と述べている。身近な事例で示せば・・・人に悪口をしばしば言う人たちがいる、その「悪口を言う」という側面を一面的に高めて・・・「人に常に悪口ばかり言えばどういう帰結を伴うか」・・・そういう想像・仮説の世界を構築する、という話になって来るであろう。

このように、「概念」=「理念型」として考えるならば、概念と現実との間の裂け目がある、というのも当然であろう。そしてその「仮説」の妥当性を確かめる術などどこにもない。それは現実とは違う”想像”の世界でしかないからである。「矛盾のない理想像」かどうか、それを確かめる術もない。

あるいは「ユートピア」という考えを外して、単なる「仮説モデル」としてみれば、それは現実と合致していれば「正しい」と判断され、現実と乖離していれば「間違い」だと判断される。ただそれだけのことで、そこに「裂け目」問題などどこにも生じてはいない。


(2)概念=用語(とその意味としての具体的事象・経験)であるとすれば

拙著、

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf

・・・でも指摘しているのだが、「概念そのもの」というものなど実のところどこにも見つけることはできない。ただあるのは「言葉(用語)」そしてそれに対応する何がしかの具体的事象・経験、その組み合わせだけなのである。ヒュームが(抽象観念の説明において)述べているように、名辞に対応して現れるものは常に具体的・個別的観念(実際には印象の場合もあるのだが)でしかない。そこにイデアやら本質やらという代物などどこにも現れてはこない。

「概念」という言葉を吟味なしに用いることは、具体的事実を不明瞭にし現実と乖離した議論へ導く可能性があるのだ。概念が現実を「模写」するなどと考えるのは(これはヴェーバーの見解ではないが)、「概念」というものを実体化して一つの存在物と考えてしまうからなのである。そして「概念」と「現実」が対応するのでもない。あくまで現実として現れる具体的・個別的事象と言葉とが繋がりあうのかどうか、あるいはこれまでにその言葉で呼ばれてきた事象と、新たに現れてきた事象との間に同一性・類似性というものがあるのかどうか、そういう問題に収斂されていくはずである。そこに「裂け目」問題などどこにも生じてはいない。

これも上記拙著で説明したが、問題は「概念と現実との非合理的裂け目」ではなく、言葉と経験とのつながりの究極的な説明できなささ、なのである。

そこに見えるものを「青色」と呼ぶ。あるいは「青色」は何かと聞かれて頭の中で思い浮かべる、あるいは青いものを指し示す。そして、その具体的事象・経験と「青色」という言葉とのつながりは、それ以上論理的に説明できない領域なのである。(そのあたりは上記拙著24~25ページで詳細に説明しているのでここでは説明を省く)

つまりそれは「裂け目」ではなく「論理的説明の不可能性」のことなのである。


2.「実在性」を取り除けばそこに残るのは「言葉」だけ


ヴェーバーもヘーゲルもカントも、あるいは多くの哲学者たちも、「概念」というものを実体化してしまっているのだ。繰り返すが「概念そのもの」というものをいくら探しても見つかることはない。あるのは言葉とそれに対応する具体的事象・経験でしかない。

しかしながら,この種の概念的認識,― われわれの分析的推論的認識作用(das analytishdiskursiveErkennen)―は,抽象によって現実からその十全なる実在性をはぎ取ることにより,そのような認識から絶えずわれわれを遠ざけているのであるが(佐藤氏、83ページ)
・・・「実在性をはぎ取る」とはいったいどういうことなのであろうか? 「実在性」を取り除けば、そこに残るのは「言葉」あるいは「言葉どうしの関係」でしかない。「法則」であれ何であれ、その「法則」が何を示しているのか聞かれれば、具体的・現実的事象を指し示すしかない。つまり、
「概念内容が形而上学的実在として,現実の背後に存在し,またこの現実が数学的諸命題が次々に展開すると類似の方法で,必然的にその概念内容から生じてくる,ということであろう(RK, s.15, p.34-35) 。(佐藤氏、83ページ)
・・・ということではないのだ。概念内容が背後に存在するのではなく、現実(というか具体的経験)が言葉(あるいは言葉どうしの関係)の背後に(というか対応するものとして)存在する、ということなのである。それが見いだせないものは、ただのナンセンスでしかない。

ヘーゲル自身の著作をさらに検証してみる必要はあるのかもしれないが・・・ただ「現実は概念への上昇に当たって」(佐藤氏、83ページ)という事象・現象は具体的事実としてどこにも生じてはいない。事実としては経験・事象が言葉とつながるだけなのである。



<関連する記事>
言葉のトリックと恣意的な因果関係構築
http://miya.aki.gs/mblog/bn2018_07.html#20180702

2019年11月5日火曜日

「法則」について何か勘違いしていないだろうか?

佐藤春吉著「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」『立命館産業社会論集』41/1、立命館大学産業社会学会編・刊、2005年、67~91ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf

・・・を読んでいる最中なのであるが、

歴史学派全般がそうであるように,彼が因果性と法則性とを区別できておらず,因果連関はすべて法則連関をなすものと考えていることが指摘されている(RK, s8, p.23,)。したがって,歴史学派は,法則科学とは別の個性的因果連関の把握を徹底させることができない。(佐藤氏、81ページ)
・・・このあたりもヴェーバー、そして佐藤氏の因果関係に関する誤解が見て取れる。

そもそも個性的因果連関で客観的妥当性が獲得できるのであれば、わざわざ法則を見つけ出す必要がどこにあるだろうか?

個性的因果連関は、ただの因果推論である。それに再現性(恒常的相伴・随伴)が伴うことで、初めて「法則」と呼べるのである。

法則も因果関係であることに変わりはない。それは新たな事実の発見により覆される可能性も有している。法則と因果推論との違いはあくまで相対的なものであり、絶対的な境界が存在しているわけではないのだ。

現実の無限に豊かな諸事実や諸側面を文化意義に即して分析的に取り出し,それら相互の具体的な諸関係と因果連関を確定していくといった,ヴェーバー的個性科学の方法(佐藤氏、81ページ)
・・・では、その因果連関の妥当性はいかにしてもたらされうるのか、という話である。佐藤氏が指摘されているように、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』ではその問題に充分な解答は与えられていない。私が見てもヴェーバーの見解にはブレがみられる。

まぁ、当たり前の話だ。そもそも無理なことをできるかのように説明しようとするからわかりにくい説明になってしまうのだ。因果推論は因果推論、再現性のない因果把握に客観的妥当性など認める術もない。

ただ、佐藤氏が後の論文でこのことについて説明されるとのことなので(そしてヴェーバーもその後の著作でこの問題について言及しているとのことなので)、まずは佐藤氏の後の論文を読んでみようと思う。

歴史の発展法則という観念が自由を毀損する危険性を持つという倫理的実践的問題点(佐藤氏、81ページ)
・・・これも(私が)既に述べたことであるが、「歴史の発展法則」という考え方が事実として正しいのかどうかという問題、そして本当に「正しい」かどうか厳密に検証することなしに(反証事例があるにもかかわらず)それを「法則」と決めつけてしまう問題、科学としてはまずはそこを問わねばならない。

とにもかくにも、佐藤氏もヴェーバーも「法則」について何か勘違いをしていないだろうか?

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...