https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E9%A8%93%E8%AB%96
・・・より、
経験論(けいけんろん)、あるいは、経験主義(けいけんしゅぎ、英: empiricism)とは、人間の全ての知識は我々の経験に由来する、とする哲学上または心理学上の立場である(例:ジョン・ロックの「タブラ・ラサ」=人間は生まれたときは白紙である)。(引用ここまで)・・・というのは一般的理解であると思うのだが、経験論を突き詰めていけば、
経験論が根本的であるためには、その理論的構成において、直接に経験されないいかなる要素も認めてはならず、また、直接に経験されるいかなる要素も排除してはならない。(W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』岩波文庫、49ページ)・・・このことを徹底していけば、
知識が経験に由来するのかどうかではなく、知識そのものが経験であるということ、知識や思考というものが、実際に具体的経験としていかに現れているのか、そこを説明せねばならない
・・・ということになって来るのである。知識の由来とは、因果的問題である。そんなことを問う前に、因果関係とは何かを明らかにする必要があるはずである。(「タブラ・ラサ」の問題は、経験論の重要問題ではない、という話を、ヒューム『人性論』の印象⇒観念のコピー理論と絡ませながら、後日説明しておきたいと思う)
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先日NHK教育で西田の『善の研究』の解説をしていた。『善の研究』は様々な思想や哲学者の理論の断片がきちんとまとまらないままつめこまれているため、どこを強調するかによって、けっこうどうとでも言えてしまう部分がある。その番組の解説者の説明も西田哲学の説明として間違いであると言えるわけでもない。
ただ、『善の研究』がそれまでの哲学からさらに一歩進んだものであると言えるとすれば、それは「思惟も意志も純粋経験である」としたところだと思う。ならば”判断”も当然思考(あるいは意志)であるはずだから、判断した事実も純粋経験である、ということになるはずである。私は純粋経験の回しか見ていないから、ひょっとして他の回で何かの説明があったのかもしれないが・・・(その回においては)”(言語による)判断を加えたら既に純粋経験ではなくなっている”という、非常にありふれた(しかも実際には具体的経験の説明としては不正確な)解説で終わっていたのが非常に残念であった。(言語についての説明に対しても、私なりに批判を加えたいのであるが、それは別の機会にしたい。ただ、西田が手に持っていたリンゴの絵柄を変化させる映像は具体的経験を歪める、ミスリーディングなやり方、一種のトリックではないだろうか、そこは指摘しておきたい。)
判断したら純粋経験ではない、という考え方と、思考・思惟・判断も純粋経験である、という考え方との板挟みでもがく(?)、それをいかに説明しようかと試行錯誤している、そのため文章の論理そのものが怪しくなってしまっている、その営み(?)が『善の研究』の(人類の哲学研究の歴史における)オリジナリティーであると思うのだ。
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