http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf
・・・を読んでいる最中なのであるが、
歴史学派全般がそうであるように,彼が因果性と法則性とを区別できておらず,因果連関はすべて法則連関をなすものと考えていることが指摘されている(RK, s8, p.23,)。したがって,歴史学派は,法則科学とは別の個性的因果連関の把握を徹底させることができない。(佐藤氏、81ページ)・・・このあたりもヴェーバー、そして佐藤氏の因果関係に関する誤解が見て取れる。
そもそも個性的因果連関で客観的妥当性が獲得できるのであれば、わざわざ法則を見つけ出す必要がどこにあるだろうか?
個性的因果連関は、ただの因果推論である。それに再現性(恒常的相伴・随伴)が伴うことで、初めて「法則」と呼べるのである。
法則も因果関係であることに変わりはない。それは新たな事実の発見により覆される可能性も有している。法則と因果推論との違いはあくまで相対的なものであり、絶対的な境界が存在しているわけではないのだ。
現実の無限に豊かな諸事実や諸側面を文化意義に即して分析的に取り出し,それら相互の具体的な諸関係と因果連関を確定していくといった,ヴェーバー的個性科学の方法(佐藤氏、81ページ)・・・では、その因果連関の妥当性はいかにしてもたらされうるのか、という話である。佐藤氏が指摘されているように、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』ではその問題に充分な解答は与えられていない。私が見てもヴェーバーの見解にはブレがみられる。
まぁ、当たり前の話だ。そもそも無理なことをできるかのように説明しようとするからわかりにくい説明になってしまうのだ。因果推論は因果推論、再現性のない因果把握に客観的妥当性など認める術もない。
ただ、佐藤氏が後の論文でこのことについて説明されるとのことなので(そしてヴェーバーもその後の著作でこの問題について言及しているとのことなので)、まずは佐藤氏の後の論文を読んでみようと思う。
歴史の発展法則という観念が自由を毀損する危険性を持つという倫理的実践的問題点(佐藤氏、81ページ)・・・これも(私が)既に述べたことであるが、「歴史の発展法則」という考え方が事実として正しいのかどうかという問題、そして本当に「正しい」かどうか厳密に検証することなしに(反証事例があるにもかかわらず)それを「法則」と決めつけてしまう問題、科学としてはまずはそこを問わねばならない。
とにもかくにも、佐藤氏もヴェーバーも「法則」について何か勘違いをしていないだろうか?
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