http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf
・・・を最後まで読んだ。後半部分については、「概念」とはいったい何なのか、まずはそれを明らかにしなければならないのでは、という印象を受けた。
1.「概念」とは
「概念と現実との間の裂け目」(佐藤氏、82ページ)
「非合理的裂け目」というアポリア(佐藤氏、83ページ)
実在と概念の間の必然的裂け目(佐藤氏、82ページ)
・・・ここで「概念」とはいったい何なのか具体的に考えてみようと思う。
(1)概念=「仮説」であるとすれば
概念=”ユートピア”としての「理念型」であるならば、(ヴェーバー自身の見解とは異なり)それは実質的に「仮説」「仮説モデル」のことになる。
身近な例で説明するとすれば、「私が以前のように人の意見を聞かず自分の意見ばかり主張していたら今ごろどうなっていただろうか」とか、「彼が以前のように人の意見に流されてばかりいたとすれば、今ごろどうなっていただろうか」とか・・・ 「われわれの文化の、その特性において意義のある特定の特徴を、実在から抽出して、統一的 な理想像にまとめ上げ」(ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』富永祐治・立野保男訳、 折原浩補訳、岩波書店、115ページ)るとは、要するにそういうことなのである。
「手工業」の「理念」について、ヴェーバーは、
さまざまな時代と国の工業経営者の間に散在している一定の諸特徴を、それぞれ一面的に、その帰結にまで高めて、それ自体として矛盾のないひとつの理想像に結合し、それら諸特徴を、この理想像のなかに表明されている思想表現に関係づけるのである。(ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』、114ページ)・・・と述べている。身近な事例で示せば・・・人に悪口をしばしば言う人たちがいる、その「悪口を言う」という側面を一面的に高めて・・・「人に常に悪口ばかり言えばどういう帰結を伴うか」・・・そういう想像・仮説の世界を構築する、という話になって来るであろう。
このように、「概念」=「理念型」として考えるならば、概念と現実との間の裂け目がある、というのも当然であろう。そしてその「仮説」の妥当性を確かめる術などどこにもない。それは現実とは違う”想像”の世界でしかないからである。「矛盾のない理想像」かどうか、それを確かめる術もない。
あるいは「ユートピア」という考えを外して、単なる「仮説モデル」としてみれば、それは現実と合致していれば「正しい」と判断され、現実と乖離していれば「間違い」だと判断される。ただそれだけのことで、そこに「裂け目」問題などどこにも生じてはいない。
(2)概念=用語(とその意味としての具体的事象・経験)であるとすれば
拙著、
“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf
・・・でも指摘しているのだが、「概念そのもの」というものなど実のところどこにも見つけることはできない。ただあるのは「言葉(用語)」そしてそれに対応する何がしかの具体的事象・経験、その組み合わせだけなのである。ヒュームが(抽象観念の説明において)述べているように、名辞に対応して現れるものは常に具体的・個別的観念(実際には印象の場合もあるのだが)でしかない。そこにイデアやら本質やらという代物などどこにも現れてはこない。
「概念」という言葉を吟味なしに用いることは、具体的事実を不明瞭にし現実と乖離した議論へ導く可能性があるのだ。概念が現実を「模写」するなどと考えるのは(これはヴェーバーの見解ではないが)、「概念」というものを実体化して一つの存在物と考えてしまうからなのである。そして「概念」と「現実」が対応するのでもない。あくまで現実として現れる具体的・個別的事象と言葉とが繋がりあうのかどうか、あるいはこれまでにその言葉で呼ばれてきた事象と、新たに現れてきた事象との間に同一性・類似性というものがあるのかどうか、そういう問題に収斂されていくはずである。そこに「裂け目」問題などどこにも生じてはいない。
これも上記拙著で説明したが、問題は「概念と現実との非合理的裂け目」ではなく、言葉と経験とのつながりの究極的な説明できなささ、なのである。
そこに見えるものを「青色」と呼ぶ。あるいは「青色」は何かと聞かれて頭の中で思い浮かべる、あるいは青いものを指し示す。そして、その具体的事象・経験と「青色」という言葉とのつながりは、それ以上論理的に説明できない領域なのである。(そのあたりは上記拙著24~25ページで詳細に説明しているのでここでは説明を省く)
つまりそれは「裂け目」ではなく「論理的説明の不可能性」のことなのである。
2.「実在性」を取り除けばそこに残るのは「言葉」だけ
ヴェーバーもヘーゲルもカントも、あるいは多くの哲学者たちも、「概念」というものを実体化してしまっているのだ。繰り返すが「概念そのもの」というものをいくら探しても見つかることはない。あるのは言葉とそれに対応する具体的事象・経験でしかない。
しかしながら,この種の概念的認識,― われわれの分析的推論的認識作用(das analytishdiskursiveErkennen)―は,抽象によって現実からその十全なる実在性をはぎ取ることにより,そのような認識から絶えずわれわれを遠ざけているのであるが(佐藤氏、83ページ)・・・「実在性をはぎ取る」とはいったいどういうことなのであろうか? 「実在性」を取り除けば、そこに残るのは「言葉」あるいは「言葉どうしの関係」でしかない。「法則」であれ何であれ、その「法則」が何を示しているのか聞かれれば、具体的・現実的事象を指し示すしかない。つまり、
「概念内容が形而上学的実在として,現実の背後に存在し,またこの現実が数学的諸命題が次々に展開すると類似の方法で,必然的にその概念内容から生じてくる,ということであろう(RK, s.15, p.34-35) 。(佐藤氏、83ページ)・・・ということではないのだ。概念内容が背後に存在するのではなく、現実(というか具体的経験)が言葉(あるいは言葉どうしの関係)の背後に(というか対応するものとして)存在する、ということなのである。それが見いだせないものは、ただのナンセンスでしかない。
ヘーゲル自身の著作をさらに検証してみる必要はあるのかもしれないが・・・ただ「現実は概念への上昇に当たって」(佐藤氏、83ページ)という事象・現象は具体的事実としてどこにも生じてはいない。事実としては経験・事象が言葉とつながるだけなのである。
<関連する記事>
言葉のトリックと恣意的な因果関係構築
http://miya.aki.gs/mblog/bn2018_07.html#20180702
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