http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf
・・・分析の続きです。
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『客観性』論文では,この認識の客観性の意味や妥当性の検証問題についての検討が不十分で,その論理構造は不明確なままにとどまっており,主観主義的傾向が強く印象づけられる叙述となっている。しかし,その後ヴェーバーはこの問題の明確化に取り組んでおり,クニース批判論文」と「マイヤ ー批判論文」では,事実認識の検証問題が論じられ,明快な論理によって定式化されることになる。(佐藤氏、77ページ)・・・確かに『客観性』論文の記述は不十分で、しかもブレが見られる。しかし、実際無理なものを可能なように説明する試みなのだから、説明が混乱してしまうのも仕方ない。
佐藤氏の説明を読んでみると・・・
具体的な思想の開明的「推論」は,……ゴットルの仮定に反して,「自然科学」の仮説と論理的に同様な意味で,たえず「経験」による「検証」を採用することは,一般に自明のことなのである(RK, s.102, p.205)。 (佐藤氏、78ページ)・・・つまり結局のところ、因果関係の検証は自然科学においても社会科学においても同様である、ということなのだ。ただ少しずれている気がするのであるが・・・「推論」が”「推論」による「検証」を採用する”とはいったいどういうことなのか? 推論に経験が必要なのか? もちろん過去の経験がより正解に近い推論をもたらしうる、ということは経験的に推測はできる。しかし推論は推論、いかに勝手な想像でも、その推論が当たってしまえば(「現実」として現れれば)、それは「正しい」のであり、いかに過去の経験に即して推論したとしても、それが新たな現実により覆されれば、その推論は「間違い」なのである。
つまり客観的可能性の範疇と,それによって可能となる総合的因果帰属とを利用して,因果的な個々の構成分子を遊離し,一般化する事によって,行われる吟味に耐えた場合に始めて因果的遡源は妥当性を獲得するのである(KS, s.279, p.196)。(佐藤氏、78ページ)・・・因果推論に「客観性」はない。可能性は「推論」でしかない。推論の「因果的遡源」は、事象Aが生じれば事象Bが生じるという具体的経験、そしてその繰り返しでしかないのである。
あえて推論に客観性の尺度を当てはめるとすれば、それは過去におけるその因果関係の繰り返しの度合い・確率である(結局、ヒュームのprobabilityということになる)。過去の経験との同一性・類似性を伴うことなしに推論の客観性を論じることは到底できない。これも自然科学と全く同じである。
結局、因果関係は因果関係であり、それが物理的事象であれ社会現象であれ個人の行為であれ、対象が異なったからと言って因果関係というものの原理が変化するわけではない。ただ客観性の度合い(再現性、恒常的相伴・随伴の度合い)が異なるだけなのである。客観的妥当性の獲得が難しいのであれば仮説で代替するしか他に方法がない、それだけのことではないのか? そして、客観的妥当性の程度の問題と、その研究が重要な課題かどうかの問題は、全く別のことである。
佐藤氏は、
ヴェーバーにあっては,自然科学も歴史科学も因果認識は同一の検証に服する。(佐藤春吉著「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1―」『立命館産業社会論集』立命館大学産業社会学会編・刊、2012年、1ページ)・・・と説明されているのだが・・・ただ「因果関係」とは何か、そこの根本的問題に関して大きな誤解をされているように思えるのだ。
自然科学も社会科学も因果関係把握に関して”同一の検証に服する”わけである。であるならば「理念型」という自然科学とは異なる手法を用いる必然性は全くないはずである。
説明されるべき「歴史的個体」の選択と形成をそのものの側から想定するところの指導的価値の選択において,歴史家は「自由」なのである。だが,それ以上の過程においては,彼は因果的帰属の諸原理に端的に結びつけられている(RK, s.124, p.256)。(佐藤氏「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」、78ページ)
・・・というのであれば、自然科学においても研究対象の選定において同じことが言えるはずである。
さらに言えば、対象が選ばれた、その事実に対し、そこに「価値」というものが具体的にどのように影響しているのか、それこそ”具体的に”説明などできるのであろうか? その対象が選ばれた事実と「価値」との間に、客観的妥当性を獲得できるような因果関係を見出すことができるのであろうか?
またさらに言えば、「価値」というものは何なのであろうか? ただ対象を選択した事実がある、そこに「価値そのもの」をいかに見出すことが出来るのであろうか?
「目的」は「目的」である。想定された特定の事象、つまり事実関係でしかない。そこに「価値」というものをどこに見出すことが出来るのであろうか?
「価値」「価値」と皆さん言ってはいるのだが、「価値」というものがいかなるものなのか、”具体的に”検証されたことがあるのだろうか・・・?
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