2019年11月13日水曜日

因果関係把握は自然科学も社会科学も原理的に同じであるはず(その2)

昔読んだ、日高普著『社会科学入門』(有斐閣新書)で、社会科学では自然科学のように実験ができないから、かわりに思惟的抽象をするのだ、みたいに書いてあったのだが・・・

先日紹介した、佐藤春吉氏の論文では、

ヴェーバーにあっては,自然科学も歴史科学も因果認識は同一の検証に服する。(佐藤春吉著「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1―」『立命館産業社会論集』立命館大学産業社会学会編・刊、2012年、1ページ)
・・・と説明されている。

自然科学も社会科学も因果認識は同一の検証に服する。因果関係というものは学問分野によりその原理が変化するのではない。対象にかかわりなく因果関係は因果関係なのである。

そして社会科学では、自然科学における理論の客観性(つまり因果関係の再現性)を確保するためのプロセスの一つ、実験が基本的に出来ないわけである(実際にしてしまった事もあったようだが)。

そうであるならば、自然科学のような客観性を確保するのは無理だ、と考えるべきではないのだろうか? それなのに、ないものをでっちあげようとするから、その論理に無理が出てくるわけである。(そして、客観性の程度と、その情報の重要性とは別の問題である、ということも私が強調してきたことである)

自然科学において「思惟的抽象」をしたとき、いったいどのように受け取られるであろうか? それは一般的に言う「仮説」というものではなかろうか? そうであるならば、それは社会科学においても同じことである。

結局のところ、社会科学においては「仮説モデル」に頼らざるをえないことが多くなってくる。あるいは再現性が特定の地域・時代に限定される場合もあろうし、客観性の程度は事例により様々である。

そして、ヴェーバーの言う価値の問題、存在と当為の混同の問題は、別に社会科学に特有なものではない。現代でも、とくに生物学(の一部)で混同が甚だしい。

研究対象の選択も、自然科学であろうと社会科学であろうと、研究者自身が行うものである。そして、その対象を選んだ事実はあるものの、それが「価値」というものといかに関連づけられうるのか、さらに言えば「価値」とは何なのか、そこの具体的検証がヴェーバーにおいて全くなされていないのである。無いものは無いものだから、実際検証しようがないのであるが・・・

このように、因果関係構築の原理において、さらにはヴェーバーの言う価値問題においても、自然科学、社会科学、なんら変わることはないのである。

日高普著『社会科学入門』では、”ユートピア”である理念型を「極限概念」(日高氏、21ページ)と説明しているが、これを具体的に考えれば、こういうこと(※(1)のところ)になってしまうのである。理念型とは机上の空論にすぎない。空想と現実との比較しか出来ない代物で、具体的社会分析の道具になどなりようがないのである。

その上で、社会科学における因果構築プロセスの特色があるとすれば・・・

私が先日説明した「試行錯誤的因果関係構築プロセス」「試行錯誤的な帰納・演繹プロセス」、かっこよく言えば「動的仮説モデル」とでも言えようか・・・そういうものになるのではなかろうか。

分析する社会現象はどんどん変化していく。人間も変わっていく。もちろん変わらない部分もあるだろうが。

そういった変化に応じて、仮説モデルを変更・修正しながら、現状分析、将来予測を続けていく、まさに私たちが日々の生活で自然と行っている因果構築プロセスなのである。



<関連レポート>

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf




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