佐藤春吉著「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1―」『立命館産業社会論集』立命館大学産業社会学会編・刊、2012年、1~18ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2012/48-3_02-01.pdf
・・・をざっと読んでみた。その2も含めてもう少しじっくり読んでみるつもりだが、とりあえず現時点においていくつか指摘しておきたい。全般的に言えることは、「実在」「法則」とは何か、「価値」「意義」とは何か、そこを突き詰めることなしには、議論そのものが空虚なものになってしまうであろう。
(1)科学は実在世界とは違うものなのか? 「法則」は実在世界から乖離したものなのか?
私は、ヴェーバーの見解は「直接に与えられている実在」と「抽象」との取り違えがなされていると述べた。「実在世界の汲みつくしえない豊かさ」(佐藤氏、2~3ページ)とはいったい何なのであろうか? 科学実験の際の、個別的具体的実験過程は、具体的経験、経験としての実在(それが必ずしも”物体”である必要はなかろう)ではないのか?
私たちの具体的経験は常に個別的・具体的なものである。それが「汲みつくしえない豊かさ」を持つものなのか、「混沌」なのか、そんなことその具体的経験は何も語ってなどいない。「汲みつくしえない豊かさ」「混沌」というものは具体的経験そのものではない。そこから想像的に考えられた”概念”なのである。つまり「汲みつくしえない豊かさ」「混沌」は「実在」そのものであるとは言えないのだ。むしろ、具体的経験から導かれた想定概念、仮説概念なのである。
”抽象”というのは「世界」「社会的なもの」「混沌」の方であり、具体的・個別的、一面的事象の方がむしろ「直接に与えられた実在」なのである。
そして、繰り返すが科学は実在とは違うのであろうか? 「法則」とは現実と乖離したものなのだろうか? 現実を常に適切に説明できているからこそ「法則」たりえるのではないか?
まず(「法則」「個性的因果連関」とを別論理として取り扱う)ヴェーバーの因果論そのものを批判的に検証する必要があるのだ。
(2)「価値」「意義」とは何か?
佐藤氏はリッケルトの価値論について論じているが、果たして価値が「文化客体自身に付着している」とは具体的にいかなる状態のことを指しているのか? 付着している「価値」とはいったい何なのか? そこの分析が全く欠落してしまっている。
もちろんヴェーバーの見解のように、価値が客体に付着しているという見解に批判的な場合においても同様である。
「価値」とは何かの議論が欠落したまま、「理論的価値関係」(佐藤氏、7ページ)と呼んだところで、それがいったい具体的に何のことを指しているのか、不明瞭なのである。
佐藤氏は、「価値」というもの、それ自体を疑うことなしにただただ前提してしまっているのではないか。
そもそも、研究を行う場合、その対象を定める必要がある。選別するのはあくまで具体的対象であり、価値や意義ではない。具体的対象を選定すれば、それに影響を及ぼす具体的要因を探す必要があるから、当然そこでまた選択(あくまで仮説構築ではあるが)する必要がある。ただそれだけのことである。
その対象に影響を及ぼしうると考えられるものに「意義」があり、影響を及ぼさないであろうと考えられるものは「意義」がない、そういった具体的事実関係なのであって、そこに価値というものが入り込む余地などどこにもないのである。
その対象を選んだ研究者の気持ちというものを想像することはできる。しかし、それは研究手法とは全く別の問題である。
・・・これら基本的用語(「価値」やら「概念」やら、あるいは「法則」「因果連関」)の具体的検証なしに、リッケルトやヴェーバー、あるいはその他の学者たちの見解を比較検討したところで、「実在」を取り違えた宙に浮いた”存在論的”議論にならざるをえないであろう。
<関連レポート>
『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf
2019年10月19日土曜日
2019年10月14日月曜日
『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析 ~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
レポート書きました(PDFファイルにまとめたので過去の記事は削除しました)。やっとです。実質10年くらいかかりました・・・
『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf
・・・『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)第II部(55ページ以降)、因果関係・法則に関するヴェーバーの見解、そして理念型に基づいたヴェーバーの方法論の問題点を指摘するものです。
論点は次の四つです。
(1)「意味」「意義」とは何か:意味・意義(あるいは関心)が先にあって、事実認識がなされるのはなく、事実認識が先にあり、そこから意味・意義が解釈されているのである。ヴェーバーの認識はこの点においてひっくりかえっている。
(2)ヴェーバーは法則と因果関係(因果連関)とを全く別物として扱っている:法則は現実の具体的事象と合致するからこそ法則たりえるのであって、“抽象的”な法則というものはありえない。法則とは、あくまで再現性の非常に高い因果関係のこと、恒常的な随伴・相伴によって検証されないものは因果推論でしかない。
(3)ヴェーバーは、事象を一面的に抽出すればおのずと因果関連が所与としてもたらされているかのように錯覚している。すべての事柄が無数の因果によってつながっているという認識が、それぞれの因果関係の科学的検証以前に前提されてしまっている。
(4)与えられた実在と抽象との取り違え:私たちに直接に与えられているのは、個別的・具体的(ヴェーバーの言葉でいえば「一面的な」)経験・事象・現象であり、「社会的なもの」「農業」「生活」というのはそれらから導かれた“抽象”概念なのである。ヴェーバーはそれら“抽象”概念の方を「直接に与えられた実在」としてしまい、具体的に表れている個別的事象の方を“抽象”と取り違えてしまっているのである。「理念型」が現実と異なるものであるという見解は、この取り違えからもたらされていると言える。そもそもが「理念型」を支える論理の妥当性は、現実と照合することによってしか確かめることができないのである。
*********
<目次> ※()内はページ
はじめに (2)
Ⅰ.意味・意義・目的論 (6)
1.「意味」とは何か (6)
2.目的論(あるいは意味・意義の問題)は結局、事実関係・因果関係に還元される (8)
Ⅱ.ヴェーバーの「法則」「因果関係」に対する誤解 (11)
1.ヴェーバーは「関心」の問題と「正しさ」の問題とを混同している (11)
2.「法則」も「具体的な因果連関」も因果関係であることは同じ (14)
3.因果関係は個別的関係であるから、分析が一面的にならざるをえないのは当然 (15)
4.「本質的」かどうかと「法則」であるかどうかは全く別の問題 (17)
5.「法則」とは違う“個性的な因果連関”というものの妥当性の根拠は何なのか? (20)
6.文化は価値理念か? (23)
7.事実関係と価値理念との間の因果関連を確かめる術など、どこにもない (24)
8.心理学やら脳科学やらの理論が社会現象のどの側面をどの程度説明できるのかどうかは、あくまで具体的事例分析の積み重ねの「結果」がその妥当を示すだけ (25)
Ⅲ.理念型における認識の転倒 (27)
1.“思考によって構成される”ものが“矛盾のない宇宙”であるといかに確かめることができるのか (27)
2.理念型における論理の妥当性はいかにして確かめられうるのか(1) (28)
3.理念型における論理の妥当性はいかにして確かめられうるのか(2) (30)
4.「直接に与えられた実在」とは何なのか ~「直接に与えられている」ものと、抽象されたものとの取り違えが、まさにヴェーバーの「理念型」 (32)
5.社会科学は「試行錯誤的因果関係構築プロセス」「試行錯誤的な帰納・演繹プロセス」を避けられない (36)
『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf
・・・『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)第II部(55ページ以降)、因果関係・法則に関するヴェーバーの見解、そして理念型に基づいたヴェーバーの方法論の問題点を指摘するものです。
論点は次の四つです。
(1)「意味」「意義」とは何か:意味・意義(あるいは関心)が先にあって、事実認識がなされるのはなく、事実認識が先にあり、そこから意味・意義が解釈されているのである。ヴェーバーの認識はこの点においてひっくりかえっている。
(2)ヴェーバーは法則と因果関係(因果連関)とを全く別物として扱っている:法則は現実の具体的事象と合致するからこそ法則たりえるのであって、“抽象的”な法則というものはありえない。法則とは、あくまで再現性の非常に高い因果関係のこと、恒常的な随伴・相伴によって検証されないものは因果推論でしかない。
(3)ヴェーバーは、事象を一面的に抽出すればおのずと因果関連が所与としてもたらされているかのように錯覚している。すべての事柄が無数の因果によってつながっているという認識が、それぞれの因果関係の科学的検証以前に前提されてしまっている。
(4)与えられた実在と抽象との取り違え:私たちに直接に与えられているのは、個別的・具体的(ヴェーバーの言葉でいえば「一面的な」)経験・事象・現象であり、「社会的なもの」「農業」「生活」というのはそれらから導かれた“抽象”概念なのである。ヴェーバーはそれら“抽象”概念の方を「直接に与えられた実在」としてしまい、具体的に表れている個別的事象の方を“抽象”と取り違えてしまっているのである。「理念型」が現実と異なるものであるという見解は、この取り違えからもたらされていると言える。そもそもが「理念型」を支える論理の妥当性は、現実と照合することによってしか確かめることができないのである。
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<目次> ※()内はページ
はじめに (2)
Ⅰ.意味・意義・目的論 (6)
1.「意味」とは何か (6)
2.目的論(あるいは意味・意義の問題)は結局、事実関係・因果関係に還元される (8)
Ⅱ.ヴェーバーの「法則」「因果関係」に対する誤解 (11)
1.ヴェーバーは「関心」の問題と「正しさ」の問題とを混同している (11)
2.「法則」も「具体的な因果連関」も因果関係であることは同じ (14)
3.因果関係は個別的関係であるから、分析が一面的にならざるをえないのは当然 (15)
4.「本質的」かどうかと「法則」であるかどうかは全く別の問題 (17)
5.「法則」とは違う“個性的な因果連関”というものの妥当性の根拠は何なのか? (20)
6.文化は価値理念か? (23)
7.事実関係と価値理念との間の因果関連を確かめる術など、どこにもない (24)
8.心理学やら脳科学やらの理論が社会現象のどの側面をどの程度説明できるのかどうかは、あくまで具体的事例分析の積み重ねの「結果」がその妥当を示すだけ (25)
Ⅲ.理念型における認識の転倒 (27)
1.“思考によって構成される”ものが“矛盾のない宇宙”であるといかに確かめることができるのか (27)
2.理念型における論理の妥当性はいかにして確かめられうるのか(1) (28)
3.理念型における論理の妥当性はいかにして確かめられうるのか(2) (30)
4.「直接に与えられた実在」とは何なのか ~「直接に与えられている」ものと、抽象されたものとの取り違えが、まさにヴェーバーの「理念型」 (32)
5.社会科学は「試行錯誤的因果関係構築プロセス」「試行錯誤的な帰納・演繹プロセス」を避けられない (36)
2019年10月3日木曜日
科学に関しては問題はない
御坊哲さんのブログ
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan
の、
〇〇力とはなにか?
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan/entry-12527577937.html
・・・の記事に関して、もう一つ付け加えておこうと思う。
結局、科学的分析といえども、「力そのもの」「力という実在」として分析しているわけではないのだ。つまり科学的分析においては(それが間違いではない限り)私たちの経験と齟齬を生じるようなことはない。
時間についても、結局は地球や太陽の動き(位置関係の変化?)や水晶振動子や電波(電磁波)の周期という具体的事物の“動き”に行きつくのである。
「重さ」についても、バネばかりの伸びやら特定の金属の歪みやら、そういった何かの動きにより測定されている。
「力」や「時間」を実在のように説明したところで、科学的分析においては究極的には具体的物の動きへ行きついてしまうのである。
・・・むしろ問題なのは、人文系(とまとめて良いのだろうか?)の人たちに、「力」あるいは「作用」、さらには「時間」「意味」「意思」「欲望」、そういったものを実体化する傾向があることではなかろうか。(「物」としてではなくても、現象や出来事として実体化させることもあるのではなかろうか)
「欲望」「意思」と「行為」との因果関係は成立するか、とか、「(唯一の)生きる意味は何だ」とか(この問いは「意味」をイデア的に考えてしまう錯誤の一つである)、具体的経験として現れない概念を、あたかも実体として存在しているかのように分析しようとしてしまうのである。(私たちは「関心」あるいは「欲望」に応じてものを見ているという見解もこういった錯誤の一つである)
科学と哲学とは相反するものではないし互いに矛盾するものでもない。哲学は科学の手法がいかなるものなのかを説明するものであり(もちろん非科学的な思考について説明するものでもある)、科学と異質な世界を表現(これも漠然とした表現ではあるが)するものではないのだ。
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan
の、
〇〇力とはなにか?
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan/entry-12527577937.html
・・・の記事に関して、もう一つ付け加えておこうと思う。
科学と哲学にはやはり違いがあると言わざるを得ないような気がする。力は科学的には実在であるが、哲学的には推論による構成物でしかない。科学者は「万有引力があるからリンゴが落ちる。」と言うが、哲学者は「リンゴが落ちるから、科学者が『万有引力がある。』と言うのだ。」と言うのである。(御坊哲氏のブログより引用)・・・という見解はまさにそうなのであるが、さらに具体的に考えてみれば、「力」とは言うものの、一定の時間にどれくらいの重さのものを動かすことができるのか、という具体的な物の動き(あるいは動かせるであろうという予測)として表さざるをえないのである。
結局、科学的分析といえども、「力そのもの」「力という実在」として分析しているわけではないのだ。つまり科学的分析においては(それが間違いではない限り)私たちの経験と齟齬を生じるようなことはない。
時間についても、結局は地球や太陽の動き(位置関係の変化?)や水晶振動子や電波(電磁波)の周期という具体的事物の“動き”に行きつくのである。
「重さ」についても、バネばかりの伸びやら特定の金属の歪みやら、そういった何かの動きにより測定されている。
「力」や「時間」を実在のように説明したところで、科学的分析においては究極的には具体的物の動きへ行きついてしまうのである。
・・・むしろ問題なのは、人文系(とまとめて良いのだろうか?)の人たちに、「力」あるいは「作用」、さらには「時間」「意味」「意思」「欲望」、そういったものを実体化する傾向があることではなかろうか。(「物」としてではなくても、現象や出来事として実体化させることもあるのではなかろうか)
「欲望」「意思」と「行為」との因果関係は成立するか、とか、「(唯一の)生きる意味は何だ」とか(この問いは「意味」をイデア的に考えてしまう錯誤の一つである)、具体的経験として現れない概念を、あたかも実体として存在しているかのように分析しようとしてしまうのである。(私たちは「関心」あるいは「欲望」に応じてものを見ているという見解もこういった錯誤の一つである)
科学と哲学とは相反するものではないし互いに矛盾するものでもない。哲学は科学の手法がいかなるものなのかを説明するものであり(もちろん非科学的な思考について説明するものでもある)、科学と異質な世界を表現(これも漠然とした表現ではあるが)するものではないのだ。
2019年9月22日日曜日
「イージープロブレム」に関する研究に「主観的意識体験」が既に含まれている
御坊哲さんのブログ
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan
で「意識のハードプロブレム」について見解を求められた(のかな?)のだが、チャーマーズにはあまり関心なかったし、だいぶ前にたまたまテレビに出てたのを見たのだが、”「意識」が「意識」を見て・・・”という無限進行みたいな話をしていたので、「あぁ、これはダメだ」と思ったのを覚えている。
意識の階層構造みたいなものは、あくまで仮説モデル・想定モデルであって、事実としてそんなものが現れているわけではない。多くの哲学者が想定モデルばかり見ていて事実として実際に現れている具体的経験を無視している現実・・・(システム理論関連の人たちもこういった傾向がある)
・・・そのあたりのことについては、以下のレポートでも説明している。
自己言及はパラドクスではない ~ ニクラス・ルーマン著・土方透/大沢善信訳『自己言及性について』(ちくま学芸文庫)、「訳者あとがき」(土方透著)の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report18.pdf
・・・話が逸れてしまったが、これまで「意識のハードプロブレム」に関して論じたこともなかったし、チャーマーズの書籍やら論文を読んだわけでもないので、今回はとりあえずウィキペディアを参考に考察してみたい。本当はチャーマーズの本かなにか読んだ方が良いのだろうけど、時間の無駄になってしまいそうなので・・・
ウィキペディア(意識のハードプロブレム)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%A0
・・・私は、次の二点(+1)について指摘してみたい。
(1)「イージープロブレム」で見逃されているもの
(2)「因果関係」とは何かという問題
おそらくチャーマーズが陥っている「意識の階層構造」的な想定モデルが、事実としての因果関係の問題を見誤らせているようにも思える。
実験者が見た脳、そして実験装置が示した波形やら何やらも、結局「主観的意識体験」(ウィキペディアの表現に従えば)であることに変わりはない。因果関係構築において、被検者が感じる感覚も、実験者が見るデータの値も、同列に扱われる事象なのであって、そこに階層構造的な要素はどこにもないのである。
*************************
「イージープロブレム」とは次のようなものだそうだ。
「物質としての脳」が「情報を処理している」ということは、結局、私たちの「主観的な意識体験」(特定の情報を処理した事実、例えばあるものを見て「リンゴだ」と判断・説明した事実)と呼ばれるものとの照合があって初めて理解できるものなのである(なぜこんな当たり前のことを多くの哲学者が理解できないのだろうか・・・)。
ウィキペディアに掲載されている「意識のやさしい問題」の図においては、
「刺激(入力)」⇒「脳」⇒「反応(出力)」
と説明されているが、それだけでは脳の電気的反応性しか説明できていない。それがどういった機能を有しているか、どういう働きをしているのかどうかは、その刺激や(電気的?)反応が起こっている状態と、その時、人間にいかなる感覚が生じているのか、その関連づけがあって、初めて「痛み」を感じる脳の部分、「不安」を感じる脳の部分、という同定が可能になるのである。
(※「主観的意識体験」とはあくまで対象と私とが別個にあり、私が対象を見て、それが私自身に「見えている」という世界観を前提としたものである。)
科学的分析、科学理論構築とは、結局のところ因果的関連づけ、事象Aが生じたら事象Bが生じる、という経験、そしてその繰り返し(再現性)の追求である。
あるいは、A⇒Bという単純な因果関係でないとしても、特定の事象Bが生じるためにいかなる条件が必要なのかを問うているわけである。それが仮に量子力学と関連があろうとなかろうと、結局ある事象と事象との関連づけであることに変わりはない(いかなる論理であろうと事象どうしの関連づけであることに変わりはない)。
そして、忘れてはならないことは因果関係はア・プリオリではない、ということだ。
結局、私たちの経験として何らかの感覚が現れてきた、そしてその感覚が生じた原因やら条件を問うとき、別の何らかの経験との関連づけを試みるのである。
被検者の脳のある部分が活性化した⇒被検者に特定の感覚が現れた
そういった関連づけをしながら「原因」「条件」を特定していくのである。「原因」とはそういうものなのである。因果関係をいくら精緻化・細分化しても、結局は事象と事象との関連づけ以上のものにはならないのである。
「物質としての脳がなぜ主観的な意識体験を持つのか」(ウィキペディアより)という問いも、結局は、
物質としての脳の働き⇒人間に現れる特定の感覚
・・・として関連づけしていくしかない。結局イージープロブレムに収斂してしまうのである。
そしてどこまでも事象Aが生じたら事象Bが生じた・・・そういった繰り返し以上のものにはならない。そこに因果関係を生じさせる”何か”というものをいくら探しても見つかることはない。どこまでも事象と事象との関連づけの連鎖以上のものにはならないのである。
そして、イージープロブレムに関する研究・実験において、実験者は被検者自身の感覚そのものを体験することはできない。あくまで被検者の自己申告、たとえば言語表現に頼らざるを得ない。
実験者は被検者の言葉や動き、行動を頼りに、その言葉と実験者自らの経験との関連づけから、その「主観的な意識体験」を理解していくしかないのである。(また、被検者に意識があるかどうかは、あくまで被検者の自己申告と実験者の観察による推論的理解で判断されるであろう)
そういった言葉と経験との関連づけが広く共有されているからこそ、上記のイージープロブレム的研究が成立するのである。しかし自らが思い浮かべる「青」と他の人の「青」とが同じかどうか確かめる術はない。しかし同じものを見て皆が「青」と答えることができるし、「青」という言葉とそれに対応する視覚的経験との関連づけが私にあり、その関連付けに基づいた様々な付随する事象やらとの関連づけが自らにあり、そういった経験則的知識と他者の言動に齟齬がない限りは、「青」という言葉と経験との関連づけが間違っていないと考えることができるのである。
科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_20.html
言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report22.pdf
形態学も因果関係に基づいている
https://keikenron.blogspot.com/2019/06/blog-post_26.html
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan
で「意識のハードプロブレム」について見解を求められた(のかな?)のだが、チャーマーズにはあまり関心なかったし、だいぶ前にたまたまテレビに出てたのを見たのだが、”「意識」が「意識」を見て・・・”という無限進行みたいな話をしていたので、「あぁ、これはダメだ」と思ったのを覚えている。
意識の階層構造みたいなものは、あくまで仮説モデル・想定モデルであって、事実としてそんなものが現れているわけではない。多くの哲学者が想定モデルばかり見ていて事実として実際に現れている具体的経験を無視している現実・・・(システム理論関連の人たちもこういった傾向がある)
・・・そのあたりのことについては、以下のレポートでも説明している。
自己言及はパラドクスではない ~ ニクラス・ルーマン著・土方透/大沢善信訳『自己言及性について』(ちくま学芸文庫)、「訳者あとがき」(土方透著)の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report18.pdf
・・・話が逸れてしまったが、これまで「意識のハードプロブレム」に関して論じたこともなかったし、チャーマーズの書籍やら論文を読んだわけでもないので、今回はとりあえずウィキペディアを参考に考察してみたい。本当はチャーマーズの本かなにか読んだ方が良いのだろうけど、時間の無駄になってしまいそうなので・・・
ウィキペディア(意識のハードプロブレム)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%A0
・・・私は、次の二点(+1)について指摘してみたい。
(1)「イージープロブレム」で見逃されているもの
(2)「因果関係」とは何かという問題
おそらくチャーマーズが陥っている「意識の階層構造」的な想定モデルが、事実としての因果関係の問題を見誤らせているようにも思える。
実験者が見た脳、そして実験装置が示した波形やら何やらも、結局「主観的意識体験」(ウィキペディアの表現に従えば)であることに変わりはない。因果関係構築において、被検者が感じる感覚も、実験者が見るデータの値も、同列に扱われる事象なのであって、そこに階層構造的な要素はどこにもないのである。
*************************
(1)「イージープロブレム」が既に「主観的意識体験」を含んでいる
「イージープロブレム」とは次のようなものだそうだ。
物質としての脳はどのように情報を処理しているのか、という形の一連の問題を指す(イージー・プロブレムにおいては、上向き矢印で表現されている部分は扱われない)。医学、脳科学、生物学の分野で現在なされている研究というのは基本的にイージー・プロブレムについてである。(ウィキペディアより)・・・「上向き矢印」の問題とは、「ハードプロブレム」、「主観的な意識体験(クオリア)とは何なのか、それは脳の物理的・化学的・電気的反応とどのような関係にあるのか、またどのようにして発生するのかという問題」(ウィキペディアより)なのであるが、ここでイージープロブレムにおける研究において既に「主観的な意識体験」が含まれていることが見逃されてしまっている。
「物質としての脳」が「情報を処理している」ということは、結局、私たちの「主観的な意識体験」(特定の情報を処理した事実、例えばあるものを見て「リンゴだ」と判断・説明した事実)と呼ばれるものとの照合があって初めて理解できるものなのである(なぜこんな当たり前のことを多くの哲学者が理解できないのだろうか・・・)。
ウィキペディアに掲載されている「意識のやさしい問題」の図においては、
「刺激(入力)」⇒「脳」⇒「反応(出力)」
と説明されているが、それだけでは脳の電気的反応性しか説明できていない。それがどういった機能を有しているか、どういう働きをしているのかどうかは、その刺激や(電気的?)反応が起こっている状態と、その時、人間にいかなる感覚が生じているのか、その関連づけがあって、初めて「痛み」を感じる脳の部分、「不安」を感じる脳の部分、という同定が可能になるのである。
(※「主観的意識体験」とはあくまで対象と私とが別個にあり、私が対象を見て、それが私自身に「見えている」という世界観を前提としたものである。)
(2)「因果関係」とは何かという問題
科学的分析、科学理論構築とは、結局のところ因果的関連づけ、事象Aが生じたら事象Bが生じる、という経験、そしてその繰り返し(再現性)の追求である。
あるいは、A⇒Bという単純な因果関係でないとしても、特定の事象Bが生じるためにいかなる条件が必要なのかを問うているわけである。それが仮に量子力学と関連があろうとなかろうと、結局ある事象と事象との関連づけであることに変わりはない(いかなる論理であろうと事象どうしの関連づけであることに変わりはない)。
そして、忘れてはならないことは因果関係はア・プリオリではない、ということだ。
結局、私たちの経験として何らかの感覚が現れてきた、そしてその感覚が生じた原因やら条件を問うとき、別の何らかの経験との関連づけを試みるのである。
被検者の脳のある部分が活性化した⇒被検者に特定の感覚が現れた
そういった関連づけをしながら「原因」「条件」を特定していくのである。「原因」とはそういうものなのである。因果関係をいくら精緻化・細分化しても、結局は事象と事象との関連づけ以上のものにはならないのである。
「物質としての脳がなぜ主観的な意識体験を持つのか」(ウィキペディアより)という問いも、結局は、
物質としての脳の働き⇒人間に現れる特定の感覚
・・・として関連づけしていくしかない。結局イージープロブレムに収斂してしまうのである。
そしてどこまでも事象Aが生じたら事象Bが生じた・・・そういった繰り返し以上のものにはならない。そこに因果関係を生じさせる”何か”というものをいくら探しても見つかることはない。どこまでも事象と事象との関連づけの連鎖以上のものにはならないのである。
(3)扱われていない問題
そして、イージープロブレムに関する研究・実験において、実験者は被検者自身の感覚そのものを体験することはできない。あくまで被検者の自己申告、たとえば言語表現に頼らざるを得ない。
実験者は被検者の言葉や動き、行動を頼りに、その言葉と実験者自らの経験との関連づけから、その「主観的な意識体験」を理解していくしかないのである。(また、被検者に意識があるかどうかは、あくまで被検者の自己申告と実験者の観察による推論的理解で判断されるであろう)
そういった言葉と経験との関連づけが広く共有されているからこそ、上記のイージープロブレム的研究が成立するのである。しかし自らが思い浮かべる「青」と他の人の「青」とが同じかどうか確かめる術はない。しかし同じものを見て皆が「青」と答えることができるし、「青」という言葉とそれに対応する視覚的経験との関連づけが私にあり、その関連付けに基づいた様々な付随する事象やらとの関連づけが自らにあり、そういった経験則的知識と他者の言動に齟齬がない限りは、「青」という言葉と経験との関連づけが間違っていないと考えることができるのである。
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科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法
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言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
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形態学も因果関係に基づいている
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2019年8月18日日曜日
現況
今、ヒューム『人性論』じっくり読みなおしているところです。
信念に関しても、やはり「言葉」を無視しているために話がややこしくなっていますね。
そして「印象」というものを「事実」と置き換えてみると、より分かりやすくなるかと。
因果関係は「想像」ではなく、あくまで「事実関係」であるということ。
信念に関しても、やはり「言葉」を無視しているために話がややこしくなっていますね。
そして「印象」というものを「事実」と置き換えてみると、より分かりやすくなるかと。
因果関係は「想像」ではなく、あくまで「事実関係」であるということ。
2019年8月3日土曜日
「偶有性」に関する詭弁
社会学が「何かありそうもないという不確実性の感覚」に基づいて成立しているのだとすれば、社会学は倒錯した論理に基づいた学問ということになると思う
https://keikenron.blogspot.com/2019/08/blog-post.html
・・・の続き。大澤真幸著『社会学史』(講談社現代新書)の序章について、さらに二点指摘しておく。
秩序とはいったい何なのか?「秩序」という抽象的な用語で具体的対象がぼやかされてはいないだろうか? 因果関係は具体的な出来事・事象の間に成立するものである。それがいったい何を指しているのか、その「秩序」というものが具体的事象としていかに現れているのか、そこを明確にした上でなければ、いくら因果推論をしたところで宙に浮いた議論となってしまう。
・・・私たちが何かをみて「あれ?」と感じたり、不思議に思ったりする。あるいは不安感を抱いていろいろ調べたりすることもあるだろう。物事を探求する契機となる(と因果的に考えられる)好奇心やら違和感やら不安感やら(の情動的感覚)、それらがなぜ生じたのか? ・・・結局それらも因果推論であることに変わりはない。
そういった物事を疑問に思う「原因」というものを特定しようとして、それを明確に指摘などできるのであろうか? もちろん因果推論は可能ではあるが。
その「原因」が「それがあることが不確実だったように見える。そういう感覚」であるという確証はいったいどこにあるのだろうか?
「他でもありえた」というのはあくまで”後付け”の理屈にすぎない。「他でもありえた」から疑問に思ったと断言できるのか? その後付けの理屈が物事を疑問に思う「原因」であると証明された事実はどこにもないのである。
大澤氏の見解においてルーマンの言う「区別」というものが常に前提になっているように思われるのであるが、これは後付けで反対概念(と思われるもの)を持ち出し、その間に検証する術もない因果関係を恣意的に断定するものなのである。
このことについて、拙著
哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
・・・でも説明している。
https://keikenron.blogspot.com/2019/08/blog-post.html
・・・の続き。大澤真幸著『社会学史』(講談社現代新書)の序章について、さらに二点指摘しておく。
1.社会秩序とは何かが明確ではない
秩序とはいったい何なのか?「秩序」という抽象的な用語で具体的対象がぼやかされてはいないだろうか? 因果関係は具体的な出来事・事象の間に成立するものである。それがいったい何を指しているのか、その「秩序」というものが具体的事象としていかに現れているのか、そこを明確にした上でなければ、いくら因果推論をしたところで宙に浮いた議論となってしまう。
2.「偶有性」に関する詭弁
「〇〇はいかにして可能か」という問題が出てくるときには、「現にそれがあるのに、それが奇跡的に見える」ということが重要です。それが説明を要さない自明のものに見えてしまったら、探求の対象にはなりません。現にある(あるいはすでにあってしまった)社会秩序なのに、それがあることが不確実だったように見える。そういう感覚を社会学では、重要な用語として「偶有性(contingency)」と言います。(大澤氏、21ページ)
・・・私たちが何かをみて「あれ?」と感じたり、不思議に思ったりする。あるいは不安感を抱いていろいろ調べたりすることもあるだろう。物事を探求する契機となる(と因果的に考えられる)好奇心やら違和感やら不安感やら(の情動的感覚)、それらがなぜ生じたのか? ・・・結局それらも因果推論であることに変わりはない。
そういった物事を疑問に思う「原因」というものを特定しようとして、それを明確に指摘などできるのであろうか? もちろん因果推論は可能ではあるが。
その「原因」が「それがあることが不確実だったように見える。そういう感覚」であるという確証はいったいどこにあるのだろうか?
「他でもありえた」というのはあくまで”後付け”の理屈にすぎない。「他でもありえた」から疑問に思ったと断言できるのか? その後付けの理屈が物事を疑問に思う「原因」であると証明された事実はどこにもないのである。
大澤氏の見解においてルーマンの言う「区別」というものが常に前提になっているように思われるのであるが、これは後付けで反対概念(と思われるもの)を持ち出し、その間に検証する術もない因果関係を恣意的に断定するものなのである。
このことについて、拙著
哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
・・・でも説明している。
「変化」と呼べるためには「変化しないもの」がどうしても必要となる、「不動の視点」が必要であるという見解である。一見もっともなことのようにも思える。
しかしこのような考え方は、因果関係そのものをエポケーできていないことから生じるものである。具体的経験の事実(つまり現実性のレベル)から言えば、転倒している考え方なのだ。
どういうことなのかというと・・・「動いている」と感じているのは、ただ見えたものに対し「動いた」と思った、ただそれだけのことなのである。なぜ「動いたと思ったのか」その「理由」を問う、ということは事後的に経験と経験との関係を構築し「理由」として理解するというプロセスなのである。現実性レベルの事実としては、ただあるものが見えて「動いた」と思った、ただそれだけなのだ。ふと「動いた」と思ったもののすぐ傍を見てみたら「動いていない」。そこに「違い」を見出したのである。では、そのすぐ傍にある「動いてない」ものがあるから「動いた」と思うことができたと言い切れるのだろうか? 因果関係は常に可疑的である。そうかもしれないしそうでないかもしれない。
「静止しているものがある」から「動いている」と分かる、という見解は、こういった一連の経験を関係づけた上で事後的に導かれる経験則・因果推論にすぎないのだ。そして、それはただ「動いている」と「動いていない」との“関係”を示しているだけであって、「動いている」「動いていない」とは何か、という問題の答えに全くなっていないのである。
では、「動いている」とは何か? 「動いていない」とは何か? 「動いている」と「動いていない」との違いは何か? ・・・そんなこと、”論理”では説明できないのだ。つまり、実際に動いているものを見せて「これが動いているものだ」として具体的に示すしか方法がないのである。流れているものを見せて「流れているものだ」と示すしかない。あるいは、笛でドの音の次にレの音を出して「音が変わった」と説明するしかないのである。
言葉と(言葉の意味としての)経験との繋がりは、究極的に論理で説明できない場所へ行き着く。青とは何か、と聞かれても、実際に青い色を指し示すしかない。あるいは自分で青い色を思い浮かべるしかない。青色を波長で説明できるかもしれない。しかしその分析には、実際に青色と人々が認める具体的事物があり、それを測定した上で波長との関係が見出せるのである。しかも波長とは何か、と聞かれればやはりそれも具体的な波形を描いたりして示すしかない。言葉の意味に対する説明を細分化・精密化したり厳密な定義を与えたりすることはできる。しかしそれらも究極的には論理で説明不可能な言葉と経験との繋がりへたどり着いてしまうのである。
しかし論理で説明できないからといって、経験と言葉が繋がった事実、目の前のものを見て「リンゴだ」と思った事実は疑いようのない「現実性」を持つものなのである。(そして、それが客観的に正しいというのは実在性のレベルの話である)
そもそも経験を論理で説明することが間違いなのだ。経験から論理が導かれるのであって、論理によって経験が説明されるのではない。(宮国、8~9ページ)
2019年8月2日金曜日
社会学が「何かありそうもないという不確実性の感覚」に基づいて成立しているのだとすれば、社会学は倒錯した論理に基づいた学問ということになると思う
今は、ヒューム『人性論』を少しづつ、何度も読み返しているところである。先日、澤田氏の論文を読み直して、自分なりに言いたいことはあるのだが、それを形にする前にヒュームの文章をさらにじっくり読み直しておこうと思う。
ヒューム研究と同時に、大澤真幸氏の『社会学史』(講談社現代新書)も少しづつ読んでいるところである。大澤氏の見解にはやはり同意できない。そして彼の見解は社会学という学問が持つ根本的問題点を明らかにしている面もあるのでは・・・とも感じるのである。
一応ことわっておくが、これはよく言われる「生きづらさ」とは違う。「生きづらさ」は現実に起こっている事柄に対する不適応の問題であり、現実に起こっていることそれ自体への疑いではないからだ。
それではどういうことなのかというと・・・現実の出来事がまず先にあって社会理論はその事実どうしの関係構築(因果関係)により導かれるはずであるのに、(一部の?)社会学においては現実の出来事を見る前に、その現実から乖離した理論・論理が先行してしまっている、ということなのではなかろうか。(ただこの見解を社会学研究全般に適用してしまって良いのかどうかについては保留しておく。しかし一部の社会学に当てはまることは確かであると思う。)
現実の出来事の方が実際に現れている事実であるのに、頭の中で論理を駆使して勝手につくり上げた仮説的理論(論理)体系の方が「本当」の世界であるかのような倒錯に基づいているのではなかろうか。
人間社会は本来はこうあるはずであった、とある人が考えたとしても、それが現実と齟齬を来していれば、疑われるのはその人の理屈の方である。また、論理に基づいた仮説構築はあくまで「仮説」であって、”物差し”や”基準”ではない。繰り返すが、その仮説が事実と齟齬を来していれば、その仮説を修正する必要があるのだ。
さらにシンプルに言えば、経験→論理(論理は経験の一部)であるはずが、論理→経験(経験の前に論理が先立っている)という倒錯が生じてしまっている、ということなのである。「規則のパラドクス」や「理論負荷性」もこういった錯誤の一種であると言える。規則やパースペクティブは、経験の積み重ね、因果的関連付けによって事後的に導き出されるものであって、経験の事実は、それらの理論・理屈に先立って現れてくるものなのである。規則やらパースペクティブは、リンゴにまつわる様々な経験を因果的につなぎ合わせて初めて明らかになるものであって、目の前のものをただ「リンゴだ」と思った事実、ただそれだけでは規則やパースペクティブに関して何も伝えてはいないのである。
また、「矛盾」とは、あくまで言語表現を指し示すものが経験として現れることがない、ということである(例えば、四辺が等しい三角形、丸い四角、平面上で交わる平行線・・・など)。ところが、一部の社会学者たちは、現実そのものがパラドキシカルなものであると誤解してしまっているのだ。現実問題に論理的パラドクスなどどこにもない。大澤氏に関連する論文や、システム理論に関連する文献を読んでいて、それらの錯誤を感じざるを得ないのである。
・・・社会科学であろうが自然科学であろうが「因果関係」とは何かの議論なしには始まらないはずである。ところがヒュームの議論はほとんど無視されたまま、恣意的な因果推論が検証もなく理論化されてしまっている。
さらに、ソシュールの言語学やデリダ哲学などが、社会科学をさらに混迷させてしまったのだと思う。
また、人文系の学問において、単なる因果仮説を「意味」の問題にすり替えることによって、科学的客観性の検証を免除されるように思われてはいないだろうか?「意味」は学問の基盤にはなりえない。「意味」を前提としてはならない。「意味」とは何か、まずは厳密に検証される必要があるのだ。(仮説構築が科学的研究にならないと言っているのではなく、仮説は仮説であるという自覚が重要だ、ということである。)
<関連記事・レポート>
「生きる意味」の問いにまつわる問題点
https://keikenron.blogspot.com/2019/07/blog-post_21.html
価値・理念について議論するとはどういうことなのか
~「なんのための」社会学か? の批判的検証を中心に
http://miya.aki.gs/miya/shakaigaku1.pdf
ヒューム研究と同時に、大澤真幸氏の『社会学史』(講談社現代新書)も少しづつ読んでいるところである。大澤氏の見解にはやはり同意できない。そして彼の見解は社会学という学問が持つ根本的問題点を明らかにしている面もあるのでは・・・とも感じるのである。
「現に起きていることが、現に起きているのに、どこかありそうもない」という感覚がないといけない。「なぜこんなことが起きてしまったのか」と。現に起きているわけだから、そのこと自体は否定しようもないのですが、その起きているものについて、何かありそうもないという不確実性の感覚をもたないと、社会学にはならないのです。(大澤氏、17ページ)・・・そもそもが社会学者たちが「何かありそうもないという不確実性の感覚」をどれくらい共有しているのか謎なのであるが、こういう考え方自体が社会学の倒錯した一面を表しているのではないかとも思えるのだ。
一応ことわっておくが、これはよく言われる「生きづらさ」とは違う。「生きづらさ」は現実に起こっている事柄に対する不適応の問題であり、現実に起こっていることそれ自体への疑いではないからだ。
それではどういうことなのかというと・・・現実の出来事がまず先にあって社会理論はその事実どうしの関係構築(因果関係)により導かれるはずであるのに、(一部の?)社会学においては現実の出来事を見る前に、その現実から乖離した理論・論理が先行してしまっている、ということなのではなかろうか。(ただこの見解を社会学研究全般に適用してしまって良いのかどうかについては保留しておく。しかし一部の社会学に当てはまることは確かであると思う。)
現実の出来事の方が実際に現れている事実であるのに、頭の中で論理を駆使して勝手につくり上げた仮説的理論(論理)体系の方が「本当」の世界であるかのような倒錯に基づいているのではなかろうか。
人間社会は本来はこうあるはずであった、とある人が考えたとしても、それが現実と齟齬を来していれば、疑われるのはその人の理屈の方である。また、論理に基づいた仮説構築はあくまで「仮説」であって、”物差し”や”基準”ではない。繰り返すが、その仮説が事実と齟齬を来していれば、その仮説を修正する必要があるのだ。
さらにシンプルに言えば、経験→論理(論理は経験の一部)であるはずが、論理→経験(経験の前に論理が先立っている)という倒錯が生じてしまっている、ということなのである。「規則のパラドクス」や「理論負荷性」もこういった錯誤の一種であると言える。規則やパースペクティブは、経験の積み重ね、因果的関連付けによって事後的に導き出されるものであって、経験の事実は、それらの理論・理屈に先立って現れてくるものなのである。規則やらパースペクティブは、リンゴにまつわる様々な経験を因果的につなぎ合わせて初めて明らかになるものであって、目の前のものをただ「リンゴだ」と思った事実、ただそれだけでは規則やパースペクティブに関して何も伝えてはいないのである。
また、「矛盾」とは、あくまで言語表現を指し示すものが経験として現れることがない、ということである(例えば、四辺が等しい三角形、丸い四角、平面上で交わる平行線・・・など)。ところが、一部の社会学者たちは、現実そのものがパラドキシカルなものであると誤解してしまっているのだ。現実問題に論理的パラドクスなどどこにもない。大澤氏に関連する論文や、システム理論に関連する文献を読んでいて、それらの錯誤を感じざるを得ないのである。
・・・社会科学であろうが自然科学であろうが「因果関係」とは何かの議論なしには始まらないはずである。ところがヒュームの議論はほとんど無視されたまま、恣意的な因果推論が検証もなく理論化されてしまっている。
さらに、ソシュールの言語学やデリダ哲学などが、社会科学をさらに混迷させてしまったのだと思う。
また、人文系の学問において、単なる因果仮説を「意味」の問題にすり替えることによって、科学的客観性の検証を免除されるように思われてはいないだろうか?「意味」は学問の基盤にはなりえない。「意味」を前提としてはならない。「意味」とは何か、まずは厳密に検証される必要があるのだ。(仮説構築が科学的研究にならないと言っているのではなく、仮説は仮説であるという自覚が重要だ、ということである。)
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「生きる意味」の問いにまつわる問題点
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価値・理念について議論するとはどういうことなのか
~「なんのための」社会学か? の批判的検証を中心に
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心像も言葉の意味たりうる
Mick's Page https://mickindex.sakura.ne.jp/index.html にある、 心理主義批判――言葉の意味は心的イメージではない https://mickindex.sakura.ne.jp/wittgenstein/witt_oth...

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小口峰樹著「知覚は矛盾を許容するか?」『Citation Contemporary and Applied Philosophy (2014)』5、1016~1032ページ https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstr...
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永井均氏の純粋経験の理解に対する批判的分析 ~『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』の分析を通じて https://drive.google.com/file/d/143qCokzmxXqcso6ZotzuTMHxHSSYNM2Z/view (miya_report51.pdf -...