2019年12月21日土曜日

「作用」の問題/「理論負荷性」の問題

佐藤春吉「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(中)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/4、2014年、15~34ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-4_02-02.pdf

・・・を読んでいる最中である。やはり「法則」と「因果連関」の理解がおかしいと思う。「作用」を”査定”する、といっても、それはヴェーバーの一方的な決めつけ以上のものにはならないはずである。なぜなら「作用そのもの」をいくら探しても見つかることがないからだ。

結局事象Aが生じれば事象Bが生じる、という経験の繰り返し以上のものにはならない。因果連関をいくら細かく突き詰めていっても、この事実は変わらない。ヒュームの言う「近接」「継起」においてより厳密に突き詰めることはできる。しかしそれでもそこに「作用」というものの存在を見つけることはできないのである。

それを「法則」と呼ぼうが「因果」と呼ぼうが、結局は事実関係なのであって、経験から乖離した「法則」「因果」というものなどありえないのだ。経験により支持されていないものはあくまで「仮説」「想像」であるにすぎない。

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理論負荷性という考え方の問題点を指摘したいのだが、分析するのに(現時点で)丁度良い資料はないか・・・と探してみたら、伊勢田哲治「新科学哲学の主要人物の生い立ちと哲学」というものがあった。

科学哲学か・・・何か議論がずれている印象がある。そのずれが何なのか、伊勢田氏の説明をもとに明らかにしてみたい。

理論負荷性や通訳不可能性を訴える人たちに聞きたいのだが、観察の背景に理論があるとか、中世力学における「インペトゥス」とニュートン力学における「運動量」という概念(というより用語)が同じものではない、別の意味をもつ別の言葉だと、言えるのはどうしてだろうか? 何を根拠にそう言えるのであろうか?

・・・要するに、それらも一種の「経験則」なのである。それぞれの人たちの言葉と経験・事象との繋がり、そしてそれらを因果的につなぎ合わせることで、そういった経験則が導かれている。要するに経験の積み重ねなのである。

それらの経験測は、個別の経験がまず出発点にあって初めて築かれうるものなのだ。理論があって経験があるのではなく、(言葉と事象・経験とが繋がる)経験がまずあって、背景にある理論があるのでは・・・と理屈づけられているのである。

理論負荷性を主張する人たちは、次の事柄を混同してしまっている。

①そこに見えているものを「リンゴだ」と思った事実(言葉と経験とが繋がった事実)
②「リンゴ」という言葉の由来
③「リンゴ」という言葉をどのようにして知ったか

・・・②③がいかようなものであれ、あるいはそれらを知っていようがいまいが、①の事実には全く影響がない。関係ないことである。理論負荷性があろうがなかろうが、そのものを「リンゴだ」と呼んだ事実は、疑いようのないものなのである(言葉と経験のつながりが変化することがあるという経験則もまずはその事実から出発している)。その事実が出発点になって初めて「理論負荷性」や「通訳不可能性」の議論が可能となっている。

そして、その判断が”客観的に”「正しい」のかどうかの検証は、また別のプロセスである。

科学哲学において、言葉にまつわる個別的経験と、判断の客観性の問題とが混同されてしまっているのである。






2019年12月11日水曜日

結局はヴェーバーが「因果」というものをどのように把握しているのか、という問題か(「価値」についてはもちろんだが)

佐藤春吉「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/2、2013年、1~21ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-2_02-01.pdf

・・・を最後まで読んだ。

ヴェーバーの場合,『客観性』ですでに,「文化科学的認識は,……自然事象の認識と全く同じ意味で,純然たる因果認識である」と述べられていることから分かるように(OE.,s.189, 96頁),因果連関は因果連関である限り,自然科学も歴史科学も同じだと考えている。この点でリッカートとヴェーバーは,実はその因果性論の探求方向において大きく異なっているのである。(佐藤氏、14ページ)
ヴェーバーは社会科学認識の客観性の根拠を,論理整合性でもなく価値関係の普遍性や客観性でもなく事実認識の客観性すなわち実在世界の因果認識の客観性に求めている。(佐藤氏、17ページ)
・・・このように自然科学と社会科学との共通性を強調しておきながら、自然科学とは異なる因果認識を求めようとしているのは、どういうことなのだろうか、という話なのだ。

要するに、ヴェーバーの「因果関係」および「法則」認識に誤りがある、ということなのだ。

そして、
 ここであらためて論ずる必要のない特定の意味で「主観的」であるのは,決して与えられた解明の「対象」における歴史的「諸原因」の確証ではない。「主観的」なのは,歴史的「対象」の,すなわち「個体」そのものの区割である。何故なら対象を区劃する場合,それを決定するのは価値諸関係であり,価値諸関係による「把握」は歴史的な変化に服するからである。(佐藤氏、17ページ)
・・・とあるものの、選ばれた対象と「価値」なるものとの間に具体的関連を見出すことができるのか、さらに言えば、そこに「価値」というものをいかに見出すことができるのか、ということなのである。また「目的」と「価値」とを混同してはならない。「目的」とは想定された具体的事象・現象のことである。”価値関係”という具体的事象はない、やはり”事実関係”なのである。

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ヴェーバーが「因果」というものをどのように認識していたかについては、佐藤氏の「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(中)」論文でより詳細に説明がなされている。このあたりは『客観性』論文に記されていない部分でもあるので非常に興味深い。

また、(上)論文において、「現実性は因果性と同義」(佐藤氏、9ページ)とあるが、これについては(中)論文でより詳しく扱われているので後日検証したい。ただ、ヴェーバーが、

①実在物かそうでないかは因果的に分類されるということ
②因果性そのものが実在性の”基準”であるという見解

①と②との違いを混同していないか、ということは気になるので、そのあたりじっくり確かめてみようと思う。

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佐藤氏の一連の論文を読んだ上で社会科学における「質的研究」の位置づけは何なのか、という問題について論じるレポートとしてまとめられたらと思う。

2019年11月26日火曜日

法則は現実なのか非現実なのか

佐藤春吉「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/2、2013年、1~21ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-2_02-01.pdf

・・・を読んでいるのだが、やはり佐藤氏の「法則」理解が定まっていない印象を受ける。

無限に多様な現実から恒常的関係を抽出する「法則科学」(佐藤氏、6ページ)
概念における普遍性と非現実的なものを追及するのか,それとも,特殊的なものならびに個別的なもののうちに現実を追及するのか(佐藤氏、7ページ:リッカートからの引用)
・・・「法則」とは現実なのか非現実なのか? 現実から恒常的関係を抽出したからといって、それはやはり現実である。現実的出来事の繰り返しに他ならない。このあたり佐藤氏はあまり気に留められていないようである。

また、「現実」とは特殊的と述べられているが、

リッカートは、「現実」とは経験における直接的な直感内容のことであり,それは無限の見通しがたい多様性の相でとらえられる(佐藤氏、7ページ:リッカートからの引用)
・・・現実は、「特殊的」なのか、「多様性」なのか、このあたりの(リッカートの)ブレに関しても佐藤氏は全く無頓着である。


とにもかくにも、一回性の出来事の記述は、単なる”出来事の経緯の記述”あるいは因果推論・仮説構築以上のものではない。そもそもが、一回性の出来事で客観的に妥当な因果関係が導き出せるのであれば、法則など必要ないではないか。
因果性は,あらゆる認識対象に根源的なカント的な意味での先験的「カテゴリー」であり(佐藤氏、10ページ)
・・・と一方的に宣言したところで、「個性的一回的な質的特性を記述する科学」(佐藤氏、6ページ)に科学的客観性が自動的に付与されるわけではない。
(一応念をおしておくが、因果仮説レベルの理論と高い再現性を有する法則的理解の区別は、その情報の重要性とは別問題である。それが因果推論レベルであれ法則レベルであれ、その情報を必要とする人にとって、必要なものはやはり必要なものなのである。)

佐藤氏の見解にはいろいろ問題点を見いだせるので、とりあえず最後まで読んで具体的に指摘していきたい。

2019年11月20日水曜日

一般的経験論と純粋経験論との違い

経験論(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E9%A8%93%E8%AB%96

・・・より、
経験論(けいけんろん)、あるいは、経験主義(けいけんしゅぎ、英: empiricism)とは、人間の全ての知識は我々の経験に由来する、とする哲学上または心理学上の立場である(例:ジョン・ロックの「タブラ・ラサ」=人間は生まれたときは白紙である)。(引用ここまで)
・・・というのは一般的理解であると思うのだが、経験論を突き詰めていけば、
経験論が根本的であるためには、その理論的構成において、直接に経験されないいかなる要素も認めてはならず、また、直接に経験されるいかなる要素も排除してはならない。(W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』岩波文庫、49ページ)
・・・このことを徹底していけば、

知識が経験に由来するのかどうかではなく、知識そのものが経験であるということ、知識や思考というものが、実際に具体的経験としていかに現れているのか、そこを説明せねばならない

・・・ということになって来るのである。知識の由来とは、因果的問題である。そんなことを問う前に、因果関係とは何かを明らかにする必要があるはずである。(「タブラ・ラサ」の問題は、経験論の重要問題ではない、という話を、ヒューム『人性論』の印象⇒観念のコピー理論と絡ませながら、後日説明しておきたいと思う)

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先日NHK教育で西田の『善の研究』の解説をしていた。『善の研究』は様々な思想や哲学者の理論の断片がきちんとまとまらないままつめこまれているため、どこを強調するかによって、けっこうどうとでも言えてしまう部分がある。その番組の解説者の説明も西田哲学の説明として間違いであると言えるわけでもない。

ただ、『善の研究』がそれまでの哲学からさらに一歩進んだものであると言えるとすれば、それは「思惟も意志も純粋経験である」としたところだと思う。ならば”判断”も当然思考(あるいは意志)であるはずだから、判断した事実も純粋経験である、ということになるはずである。私は純粋経験の回しか見ていないから、ひょっとして他の回で何かの説明があったのかもしれないが・・・(その回においては)”(言語による)判断を加えたら既に純粋経験ではなくなっている”という、非常にありふれた(しかも実際には具体的経験の説明としては不正確な)解説で終わっていたのが非常に残念であった。(言語についての説明に対しても、私なりに批判を加えたいのであるが、それは別の機会にしたい。ただ、西田が手に持っていたリンゴの絵柄を変化させる映像は具体的経験を歪める、ミスリーディングなやり方、一種のトリックではないだろうか、そこは指摘しておきたい。)

判断したら純粋経験ではない、という考え方と、思考・思惟・判断も純粋経験である、という考え方との板挟みでもがく(?)、それをいかに説明しようかと試行錯誤している、そのため文章の論理そのものが怪しくなってしまっている、その営み(?)が『善の研究』の(人類の哲学研究の歴史における)オリジナリティーであると思うのだ。


<関連記事>
「概念と現実の非合理的裂け目」とは実質的にいったい何のことなのか(「概念」とは何なのか)
https://keikenron.blogspot.com/2019/11/blog-post_9.html

2019年11月13日水曜日

因果関係把握は自然科学も社会科学も原理的に同じであるはず(その2)

昔読んだ、日高普著『社会科学入門』(有斐閣新書)で、社会科学では自然科学のように実験ができないから、かわりに思惟的抽象をするのだ、みたいに書いてあったのだが・・・

先日紹介した、佐藤春吉氏の論文では、

ヴェーバーにあっては,自然科学も歴史科学も因果認識は同一の検証に服する。(佐藤春吉著「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1―」『立命館産業社会論集』立命館大学産業社会学会編・刊、2012年、1ページ)
・・・と説明されている。

自然科学も社会科学も因果認識は同一の検証に服する。因果関係というものは学問分野によりその原理が変化するのではない。対象にかかわりなく因果関係は因果関係なのである。

そして社会科学では、自然科学における理論の客観性(つまり因果関係の再現性)を確保するためのプロセスの一つ、実験が基本的に出来ないわけである(実際にしてしまった事もあったようだが)。

そうであるならば、自然科学のような客観性を確保するのは無理だ、と考えるべきではないのだろうか? それなのに、ないものをでっちあげようとするから、その論理に無理が出てくるわけである。(そして、客観性の程度と、その情報の重要性とは別の問題である、ということも私が強調してきたことである)

自然科学において「思惟的抽象」をしたとき、いったいどのように受け取られるであろうか? それは一般的に言う「仮説」というものではなかろうか? そうであるならば、それは社会科学においても同じことである。

結局のところ、社会科学においては「仮説モデル」に頼らざるをえないことが多くなってくる。あるいは再現性が特定の地域・時代に限定される場合もあろうし、客観性の程度は事例により様々である。

そして、ヴェーバーの言う価値の問題、存在と当為の混同の問題は、別に社会科学に特有なものではない。現代でも、とくに生物学(の一部)で混同が甚だしい。

研究対象の選択も、自然科学であろうと社会科学であろうと、研究者自身が行うものである。そして、その対象を選んだ事実はあるものの、それが「価値」というものといかに関連づけられうるのか、さらに言えば「価値」とは何なのか、そこの具体的検証がヴェーバーにおいて全くなされていないのである。無いものは無いものだから、実際検証しようがないのであるが・・・

このように、因果関係構築の原理において、さらにはヴェーバーの言う価値問題においても、自然科学、社会科学、なんら変わることはないのである。

日高普著『社会科学入門』では、”ユートピア”である理念型を「極限概念」(日高氏、21ページ)と説明しているが、これを具体的に考えれば、こういうこと(※(1)のところ)になってしまうのである。理念型とは机上の空論にすぎない。空想と現実との比較しか出来ない代物で、具体的社会分析の道具になどなりようがないのである。

その上で、社会科学における因果構築プロセスの特色があるとすれば・・・

私が先日説明した「試行錯誤的因果関係構築プロセス」「試行錯誤的な帰納・演繹プロセス」、かっこよく言えば「動的仮説モデル」とでも言えようか・・・そういうものになるのではなかろうか。

分析する社会現象はどんどん変化していく。人間も変わっていく。もちろん変わらない部分もあるだろうが。

そういった変化に応じて、仮説モデルを変更・修正しながら、現状分析、将来予測を続けていく、まさに私たちが日々の生活で自然と行っている因果構築プロセスなのである。



<関連レポート>

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf




2019年11月12日火曜日

因果関係把握は自然科学も社会科学も原理的に同じであるはず

佐藤春吉著「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」『立命館産業社会論集』41/1、立命館大学産業社会学会編・刊、2005年、67~91ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf

・・・分析の続きです。

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『客観性』論文では,この認識の客観性の意味や妥当性の検証問題についての検討が不十分で,その論理構造は不明確なままにとどまっており,主観主義的傾向が強く印象づけられる叙述となっている。しかし,その後ヴェーバーはこの問題の明確化に取り組んでおり,クニース批判論文」と「マイヤ ー批判論文」では,事実認識の検証問題が論じられ,明快な論理によって定式化されることになる。(佐藤氏、77ページ)
・・・確かに『客観性』論文の記述は不十分で、しかもブレが見られる。しかし、実際無理なものを可能なように説明する試みなのだから、説明が混乱してしまうのも仕方ない。

佐藤氏の説明を読んでみると・・・

具体的な思想の開明的「推論」は,……ゴットルの仮定に反して,「自然科学」の仮説と論理的に同様な意味で,たえず「経験」による「検証」を採用することは,一般に自明のことなのである(RK, s.102, p.205)。 (佐藤氏、78ページ)
・・・つまり結局のところ、因果関係の検証は自然科学においても社会科学においても同様である、ということなのだ。ただ少しずれている気がするのであるが・・・「推論」が”「推論」による「検証」を採用する”とはいったいどういうことなのか? 推論に経験が必要なのか? もちろん過去の経験がより正解に近い推論をもたらしうる、ということは経験的に推測はできる。しかし推論は推論、いかに勝手な想像でも、その推論が当たってしまえば(「現実」として現れれば)、それは「正しい」のであり、いかに過去の経験に即して推論したとしても、それが新たな現実により覆されれば、その推論は「間違い」なのである。

つまり客観的可能性の範疇と,それによって可能となる総合的因果帰属とを利用して,因果的な個々の構成分子を遊離し,一般化する事によって,行われる吟味に耐えた場合に始めて因果的遡源は妥当性を獲得するのである(KS, s.279, p.196)。(佐藤氏、78ページ)
・・・因果推論に「客観性」はない。可能性は「推論」でしかない。推論の「因果的遡源」は、事象Aが生じれば事象Bが生じるという具体的経験、そしてその繰り返しでしかないのである。

あえて推論に客観性の尺度を当てはめるとすれば、それは過去におけるその因果関係の繰り返しの度合い・確率である(結局、ヒュームのprobabilityということになる)。過去の経験との同一性・類似性を伴うことなしに推論の客観性を論じることは到底できない。これも自然科学と全く同じである。

結局、因果関係は因果関係であり、それが物理的事象であれ社会現象であれ個人の行為であれ、対象が異なったからと言って因果関係というものの原理が変化するわけではない。ただ客観性の度合い(再現性、恒常的相伴・随伴の度合い)が異なるだけなのである。客観的妥当性の獲得が難しいのであれば仮説で代替するしか他に方法がない、それだけのことではないのか? そして、客観的妥当性の程度の問題と、その研究が重要な課題かどうかの問題は、全く別のことである。

佐藤氏は、
ヴェーバーにあっては,自然科学も歴史科学も因果認識は同一の検証に服する。(佐藤春吉著「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1―」『立命館産業社会論集』立命館大学産業社会学会編・刊、2012年、1ページ)
・・・と説明されているのだが・・・ただ「因果関係」とは何か、そこの根本的問題に関して大きな誤解をされているように思えるのだ。

自然科学も社会科学も因果関係把握に関して”同一の検証に服する”わけである。であるならば「理念型」という自然科学とは異なる手法を用いる必然性は全くないはずである。

説明されるべき「歴史的個体」の選択と形成をそのものの側から想定するところの指導的価値の選択において,歴史家は「自由」なのである。だが,それ以上の過程においては,彼は因果的帰属の諸原理に端的に結びつけられている(RK, s.124, p.256)。(佐藤氏「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」、78ページ)

・・・というのであれば、自然科学においても研究対象の選定において同じことが言えるはずである。

さらに言えば、対象が選ばれた、その事実に対し、そこに「価値」というものが具体的にどのように影響しているのか、それこそ”具体的に”説明などできるのであろうか? その対象が選ばれた事実と「価値」との間に、客観的妥当性を獲得できるような因果関係を見出すことができるのであろうか?

またさらに言えば、「価値」というものは何なのであろうか? ただ対象を選択した事実がある、そこに「価値そのもの」をいかに見出すことが出来るのであろうか?

「目的」は「目的」である。想定された特定の事象、つまり事実関係でしかない。そこに「価値」というものをどこに見出すことが出来るのであろうか?

「価値」「価値」と皆さん言ってはいるのだが、「価値」というものがいかなるものなのか、”具体的に”検証されたことがあるのだろうか・・・?





2019年11月11日月曜日

試行錯誤的因果関係構築プロセスの行きつく先は・・・

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
 ~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf

・・・で、社会科学は「試行錯誤的因果関係構築プロセス」「試行錯誤的な帰納・演繹プロセス」を避けられない (36ページ~)と説明したのだが、結局のところ、現実の分析⇒仮説モデルの形成⇒さらなる現実の分析⇒仮説モデルの修正(あるいは否定・新たなモデルの形成)⇒さらなる現実の分析、というプロセスがずっと続いていくわけである。

このプロセスは多くの研究者たちにより担われている。ある人が考えた仮説モデルを他の人が現状分析をもとに修正(あるいは否定・更新)していく。もちろん私たちが住むこの世界もどんどん変化していく。

・・・で、AIが発達すれば、新たなデータを取り込みながら仮説モデルを自ら更新・修正していく、動的な仮説モデルというものが作られていくのだろう。実際もうそういうものが特定の分野では出来ているのかもしれない。大勢の研究者たちが知見を受け継ぎながら長い時間かけてしてきたプロセスをコンピュータが一台でしてしまう、そういう話になって来るかもしれない。

社会システム論で言う、自己再帰的なプロセスというものは、具体的分析においては結局そういうことになってしまうのではなかろうか(結局は「意味」ではなく具体的事実の連関)。具体的事象の分析にはパラドクスなどどこにもない(ルーマンのゴタクも分析が洗練されればそぎ落とされていくのだと思う)。ただ仮説モデルに基づき将来を予測し、その結果をもとに仮説モデルを修正する・・・そういったプロセスはAIがあろうとなかろうと、人間が生きている限り続くものなのである。

ただ、コンピュータが獲得できるデータがどこにまで及ぶのかという問題もあるし、そのシステムを最初に作るのは人間、それを監視するのもとりあえず人間である。ただ将来はどのようになるのか分からない。あまり面白いものではなさそうだが・・・

・・・とりあえず今日は想像上のお話でした。

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