ボサノバとロックを融合させるのは難しそうだけど、どこかでやってる人がいるのでは・・・と検索してみたら、私の予想をはるかに上回る、ボサノバメタルのバンドがブラジルにありました!
Chega de Saudade (Ao Vivo)
Huaska - Foi-se
これはおもしろい!
純粋経験論とは、具体的経験の事実そのものから哲学を構築する試みのことです。哲学史の流れの中に位置づけるとすれば、ヒューム・ジェイムズ・(最初期の)西田幾多郎の系列、そして彼らの「経験論」を究極まで徹底させようとするものです。 ホームページはこちら⇒ http://miya.aki.gs/mblog/
2019年6月29日土曜日
2019年6月26日水曜日
形態学も因果関係に基づいている
片付けしていたら、久しぶりに『唯脳論』(養老孟司著、筑摩書房)が目にとまってしまった。それにしても、つっこみどころ満載である・・・
大森荘蔵氏は「無脳論」というもので反論を試みたようだ。少々残念である。その論文を読んだわけではないが、タイトルからして論点がずれてしまっている。
とにもかくにも、科学的知見から哲学を説明しようとするのは循環論法なのである。科学理論がどのようにして見つけられているのか、その観察・実験プロセスを全く無視した上で、科学理論があたかも所与のものであるかのように扱ってしまっているのである。
養老氏も研究の現場にいただろうに、そのあたりの経験についてまったく無頓着なのである。
やはり因果関係なのだ。
因果関係として理論化されてしまえば、単なる言葉と言葉の関係に見えるから、その理論には時間という要素が外されてしまっているように思える。しかしその理論を具体的事例として検証すれば、やはりそこに時間性というものが現れてくる。
<関連記事>
科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_20.html
大森荘蔵氏は「無脳論」というもので反論を試みたようだ。少々残念である。その論文を読んだわけではないが、タイトルからして論点がずれてしまっている。
とにもかくにも、科学的知見から哲学を説明しようとするのは循環論法なのである。科学理論がどのようにして見つけられているのか、その観察・実験プロセスを全く無視した上で、科学理論があたかも所与のものであるかのように扱ってしまっているのである。
養老氏も研究の現場にいただろうに、そのあたりの経験についてまったく無頓着なのである。
自然科学は因果関係を追及すると、多くの人が、しばしば誤解しているからである。原因と結果も、もちろんある種の対応関係だが、これは先行する出来事と後に生じる出来事との間の、時間を含んだのっぴきならない対応関係である。形態学は、こうした時間的な過程であっても、つねに「時間を除いた」対応関係としてのみ捉える。なぜなら、形には、時間性はないからである。これに関する詳しい議論は、むしろ前著『形を読む』(培風館)を参照されたい。したがって唯脳論は、「心の原因としての脳」を扱うのではない。心の示す機能に「対応するもの」としての脳、あるいは脳という構造に対応するものとしての「心という機能」を扱う。これは対応関係であるから、論理的にも因果的にも、前後はない。その意味では、ここで言う唯脳論とは、基本的には形態学である。(養老氏、38ページ)・・・これもひどい話である。具体的経験として現れる現象と脳との働きとが、具体的にどう連動しているかを、一回一回、具体的に繰り返し実験して確かめているのである。脳のある部分に電極が発生している、あるいは活性化?しているとき、その人には特定の感覚が現れている、脳の特定の部分を取り除かれると人の特定の機能が失われる、そういった具体的経験の積み重ねから形態学としての科学理論がもたらされているのである。
やはり因果関係なのだ。
因果関係として理論化されてしまえば、単なる言葉と言葉の関係に見えるから、その理論には時間という要素が外されてしまっているように思える。しかしその理論を具体的事例として検証すれば、やはりそこに時間性というものが現れてくる。
<関連記事>
科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_20.html
2019年6月24日月曜日
なくしてしまった・・・
大森荘蔵関連の論文はまだ2本しか読んでいないのだが・・・今のところの印象としては、彼の一元論は経験論として示される”事実”としての主客未分とは言えないような気がしている。どうしても論理が先に来てしまう、仮に彼が経験主義の立場であると言われているとしても、それは経験論とは違うのではないか・・・そういう気がしてしまうのである。
そのうち彼の本を読んで検証してみたい。
****************
ヴェーバーの『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』を久しぶりに読もうと思ったら・・・なくしていることに気づいてしまった。どうしよう・・・しばらく探してみてからどうするか考えよう。
大澤真幸氏の『社会学史』を近くの書店で見つけてついつい買ってしまったのだが・・・序章を読んで、モヤモヤしてしまった。根拠の薄弱な断定が多い・・・どうしても、本当にそうなのか? そうでない事例も挙げられるのではないか・・・という疑念が拭えないのである。
最後まで読み切る自信がないが・・・気が向いたときに少しづつ読み進めてみる。
「意味的理解」「機能的理解」について、もっと慎重になる必要があるのではなかろうか。「意味」とは何か、「動機」「意志」「意図」とは何か、さらには因果関係とは何か・・・
そのうち彼の本を読んで検証してみたい。
****************
ヴェーバーの『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』を久しぶりに読もうと思ったら・・・なくしていることに気づいてしまった。どうしよう・・・しばらく探してみてからどうするか考えよう。
大澤真幸氏の『社会学史』を近くの書店で見つけてついつい買ってしまったのだが・・・序章を読んで、モヤモヤしてしまった。根拠の薄弱な断定が多い・・・どうしても、本当にそうなのか? そうでない事例も挙げられるのではないか・・・という疑念が拭えないのである。
最後まで読み切る自信がないが・・・気が向いたときに少しづつ読み進めてみる。
「意味的理解」「機能的理解」について、もっと慎重になる必要があるのではなかろうか。「意味」とは何か、「動機」「意志」「意図」とは何か、さらには因果関係とは何か・・・
2019年6月22日土曜日
「アプリオリに対象を考察」という言語表現は矛盾している /推論とは?
澤田和範著「ヒュームの因果論における必然性の観念について」『哲学論叢』38、2011年、 61~72ページ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173207/1/ronso_38_061.pdf
・・・を、再び読んでいるのであるが・・・
要するに、「アプリオリに対象を考察」という言語表現そのものが「矛盾」なのだ。
※ ちなみに上記T1.3.6.3において上記澤田氏の説明に該当する部分は以下のとおりである。
ヒューム研究者が(さらにはヒューム自身も)因果推論について論じるとき、そもそも「推論」とは何か、厳密な検証が抜け落ちている。
①ある現象が現れているが、その現象が引き起こしうる結果、あるいはその現象の原因が見つからない、想像もつかない状態
②ある現象の結果あるいは原因を(観念=心像)として想像はするがそれが見つからない場合(あるいは言語表現のみの場合もありうる)
③結果・原因ともに具体的経験として現れているが、ただそれらが原因・結果であると見なしただけ
④結果・原因ともに恒常的相伴(随伴)が認められる場合
・・・とくに④はもはや推論とは呼ばないであろう。「対象がともに感覚機能に現れていて、同時に関係もそこに示されている」事例であるように思えるのだが・・・③については場合によって推論とみなされたりそうでなかったり、その境界はあいまいなような気がする。(また、ヒュームは私たちが日常的に試行錯誤しながら因果推論を積み重ね、更新していくケースなどについて考察すべきであったとも思う。)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173207/1/ronso_38_061.pdf
・・・を、再び読んでいるのであるが・・・
1.「アプリオリに対象を考察」という表現自体が「矛盾」
我々は一方の対象の印象が心に現れると、もう一方の対象の観念を思い浮かべる。これが因果推論である。この推論はアプリオリに対象を考察しただけでは不可能であり、経験がそれを可能にすることがわかる。すなわち、二対象が「恒常的随伴」の関係にあるのを経験して初めて、因果推論は起こる(T 1.3.6.3)。(澤田氏、62ページ)・・・これおかしくないだろうか? 「対象を考察」したのである。つまり何等かの心像=観念(あるいは少なくともその観念を指し示す名前・言葉)が出て来ることが推論なのである。つまり対象を考察すること自体が「経験」なのではないか?
要するに、「アプリオリに対象を考察」という言語表現そのものが「矛盾」なのだ。
※ ちなみに上記T1.3.6.3において上記澤田氏の説明に該当する部分は以下のとおりである。
近接と継起だけでは、二つの対象が因果関係にあると断定するのに十分ではない。いくつかの実例において二つの対象の関係が維持されることを認知して始めて、因果関係を断定できるのである。(井上基志訳『人間本詳論』青空文庫<UR>https://www.aozora.gr.jp/cards/002033/files/59405_66194.html)
Contiguity and succession are not sufficient to make us pronounce any two objects to be cause and effect, unless we perceive, that these two relations are preserv’d in several instances. (Online Library of Liberty<URL>https://oll.libertyfund.org/titles/hume-a-treatise-of-human-nature)・・・ここでは「推論」とは述べられていない(pronounceである)。あくまで恒常的相伴(随伴)と必然性との関連性が検討されているのである。(ただ、『人(間本)性論』の別の箇所においては、上記澤田氏のような解釈をもたらすような説明がなされていることも事実ではあるが)
2.「推論」とは?
ヒューム研究者が(さらにはヒューム自身も)因果推論について論じるとき、そもそも「推論」とは何か、厳密な検証が抜け落ちている。
いったい、推論とは、いかなる種類のものでも、比較すること、つまり、二つ、もしくはそれ以上の対象が互いに外に対して持つ恒常的、もしくは恒常的でない関係を見いだすことにほかならない。ところで。この比較には三つの場合がありうる。比較される対象がともに感覚機能に現れている場合、どちらも現れていない場合、一方だけが現れている場合、がこれである。
このうち、対象がともに感覚機能に現れていて、同時に関係もそこに示されているときには、これを推論と呼ぶよりはむしろ知覚と呼ぶ。この場合には、思考は少しも働かず、もっと正しく言うと、いかなる能動的な作用もなく、ただ感覚器官を通じて印象を受動的に受け容れるだけである。したがって、この考え方によると、同一、および時間や場所の関係についてどんな観察をしようと、これを推論として受け取ってはならないのである。というのは、これらの観察のどれにおいても、対象の実在を見いだすために、あるいは対象間の関係を見いだすために、感覚機能に直接現われるものを心が超え出てゆくことはあり得ないからである。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、42ページ)
一つの対象の存在あるいは活動から、なにか別の存在あるいは活動がそれに続いて起こったのだ、もしくはそれより先にあったのだと確信させる、そういう結合を生み出すのは、因果性(だけなのである。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、42ページ)・・・「対象がともに感覚機能に現れていて、同時に関係もそこに示されている」のを推論とは呼ばない、というのはもっともな説明ではある。しかし因果関係に関して、ヒュームの見解にはブレがあるようにも思える。必然性があると判断された因果関係と、必然性が見つからないがとにかく因果推論した場合との違いが見逃されているようにも思えるのだ。推論についてより厳密に考えて見ると、次のような状況が考えられる。
①ある現象が現れているが、その現象が引き起こしうる結果、あるいはその現象の原因が見つからない、想像もつかない状態
②ある現象の結果あるいは原因を(観念=心像)として想像はするがそれが見つからない場合(あるいは言語表現のみの場合もありうる)
③結果・原因ともに具体的経験として現れているが、ただそれらが原因・結果であると見なしただけ
④結果・原因ともに恒常的相伴(随伴)が認められる場合
・・・とくに④はもはや推論とは呼ばないであろう。「対象がともに感覚機能に現れていて、同時に関係もそこに示されている」事例であるように思えるのだが・・・③については場合によって推論とみなされたりそうでなかったり、その境界はあいまいなような気がする。(また、ヒュームは私たちが日常的に試行錯誤しながら因果推論を積み重ね、更新していくケースなどについて考察すべきであったとも思う。)
二対象が「恒常的随伴」の関係にあるのを経験して初めて、因果推論は起こる(T 1.3.6.3)。(澤田氏、62ページ)・・・とあるが、恒常的随伴の関係にあるのであれば、既に「推論」とは言えないのではなかろうか。
2019年6月16日日曜日
言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない ~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析
萬屋氏の論文の分析をレポートにまとめました。私的言語批判や意味の使用説の問題点について指摘しています。
※ 引用される場合は、出典を明記してくださるようお願いいたします。
************
言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析
※ 引用される場合は、出典を明記してくださるようお願いいたします。
言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析
本稿は、萬屋博喜氏著「ヒュームにおける意味と抽象」『哲学』第63号、日本哲学会、知泉書館、2012年4月、297~311ページ
・・・におけるヒューム理解の問題点を明らかにすると同時に、萬屋氏が依拠する「私的言語批判」それ自体が誤解であることを指摘するものである。
萬屋氏のヒューム理解は、経験論の根本ともいうべきその方法論、
この人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は、経験と観察とにおかれなければならない。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、9ページ)
・・・を全く無視した上で、ヒュームの見解が私的言語批判を免れていることを証明するためにヒュームの説明を恣意的に引用・解釈しようとしている。そうではなく、上記経験論の手法に基づき、ヒュームの文章を検証した上で、私的言語批判そのものが無効であることを示す必要があったのだ。
<目次>
Ⅰ.そもそも私的言語批判に正当性があるのか?(2ページ)
1.私的言語批判そのものの「正当性」
2.そもそも経験論とは何なのか
Ⅱ.言葉の意味は、常に名辞と個別的観念・印象の関係として現れる(5ページ)
1.「すべての」鳥とはいったい何なのか?
2.他者の言語理解を、言語使用のやり方で判断すること=「意味の使用説」とはならない
Ⅲ.ヒュームは「意味の使用説」を支持しているわけではない(7ページ)
<付録:私的言語批判に関するその他のコメント>(12ページ)
2019年6月14日金曜日
ヒュームは「意味の使用説」を支持しているわけではない
萬屋博喜「ヒュームにおける意味と抽象」『哲学』第63号、日本哲学会、知泉書館、2012年4月、297~311ページ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2012/63/2012_297/_pdf/-char/ja
・・・を一応最後まで読んだ。私なりの結論として、ヒュームが「意味の使用説」を採用していたという萬屋氏の見解には全く同意できない。萬屋氏の恣意的な解釈であるように思える。
************************
※ 本記事で引用しているのは、萬屋氏の論文を除けば、以下の通りです。
ヒューム著『人間本性論(人性論)』井上基志訳、青空文庫
URL:https://www.aozora.gr.jp/cards/002033/files/59405_66194.html
David Hume, A Treatise of Human Nature (1896 ed.) [1739] (Editor:Lewis Amherst Selby-Bigge)
URL: http://oll.libertyfund.org/titles/hume-a-treatise-of-human-nature
ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社
************************
萬屋氏は以下のように説明されているが・・・
・・・哲学的関係は「経験によって知らされる」ものなのである。
上記の萬屋氏の文章において、観念の関係が学問的な主題における真偽にかかわっていると述べられているではないか。抽象名辞が正しく使用されているかどうかの判断も、結局は「観念の間の実際の関係」によって決まってくる、そういうことなのである。
私たちは訓練により、言葉(数字・記号含む)の関係のみで算数・数学の答えを導き出すことができる。しかし、それらの究極的な根拠も、言葉と印象・観念との関連づけに遡るのだ。訓練によって印象・観念に頼らず判断できることが、言葉の意味が印象・観念ではないということにはならないのである。
さらに、「日常的」な会話においても・・・
・・・萬屋氏の言われる「徳の基準」(萬屋氏、308ページ)についても、同様のことが言えるであろう。
学問的であれ日常的であれ、その判断の「真偽」や「適切さ」には、やはり観念・印象が関わっている、これはヒュームが今更言わなくても経験的事実なのである。
萬屋氏は、ヒュームの説明を無理やり「意味の使用説」として解釈するのではなく、私的言語批判そのものの誤りをヒュームの見解をもとに指摘すべきであったのだ。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2012/63/2012_297/_pdf/-char/ja
・・・を一応最後まで読んだ。私なりの結論として、ヒュームが「意味の使用説」を採用していたという萬屋氏の見解には全く同意できない。萬屋氏の恣意的な解釈であるように思える。
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※ 本記事で引用しているのは、萬屋氏の論文を除けば、以下の通りです。
ヒューム著『人間本性論(人性論)』井上基志訳、青空文庫
URL:https://www.aozora.gr.jp/cards/002033/files/59405_66194.html
David Hume, A Treatise of Human Nature (1896 ed.) [1739] (Editor:Lewis Amherst Selby-Bigge)
URL: http://oll.libertyfund.org/titles/hume-a-treatise-of-human-nature
ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社
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萬屋氏は以下のように説明されているが・・・
「原因」や「結果」という抽象名詞には、「原因と結果についてのわれわれの判断をそれによって規制すべき一般規則」、例えば「原因と結果の間には恒常的連接がなければならない)(T1.3.15.5)という使用パターンが存在しており、その人の因果判断における「原因」という抽象名詞の使い方は、このパターンにおける「原因」という抽象名詞の使い方は、このパターンに反するもので偽なるものとして判定される。(萬屋氏、308ページ)・・・しかし、これらの「一般規則(genera rules)」が経験からもたらされているというヒュームの主張は無視されている。
(T1.3.15.5)
この原理は経験から由来し、我々の哲学的推論の大部分の源泉である。というのは、ある明白な実験によって何かある現象の原因や結果を発見したとき、我々は直ちに観察の結果を、同様の種類の全ての現象にまで拡張し、因果関係の最初の観念が由来する恒常的な反復を待たないからなのである。(ヒューム著『人間本性論(人性論)』井上基志訳、青空文庫)
This principle we derive from experience, and is the source of most of our philosophical reasonings. For when by any clear experiment we have discover’d the causes or effects of any phanomenon, we immediately extend our observation to [174]every phanomenon of the same kind, without waiting for that constant repetition, from which the first idea of this relation is deriv’d. (上記翻訳部分の原文)
・・・哲学的関係は「経験によって知らされる」ものなのである。
ヒュームによれば、賢人は会話の主題が学問的か日常的かに応じて訂正の手続きを変える。前者の主題には、「観念の関係(relations of ideas)」(T1.3.1.1)に関する命題か「事実(matters of fact)」(T1.3.1.1)に関する命題が関わる。こうした主題では、その命題を表す判断において抽象名辞が正しく使用されているかどうかで、その「真偽(truth or falsehood)」(T3.1.1.9)が決定される。例えば、「宵の明星と明けの明星は同一である」という判断は、賢人によって「同一性」という抽象名辞が正しく使用されていると判断されれば、真であると見なされる。(萬屋氏、308ページ)・・・T1.3.1.1.部分において、「観念の関係」「事実」という言葉を見つけることは出来ないのだが・・・とりあえずその問題は置いておいて、「真偽(truth or falsehood)」(T3.1.1.9)に関して、ヒュームの説明を引用してみる。
(T3.1.1.9)
Reason is the discovery of truth or falshood. Truth or falshood consists in an agreement or disagreement either to the real relations of ideas, or to real existence and matter of fact. Whatever, therefore, is not susceptible of this agreement or disagreement, is incapable of being true or false, and can never be an object of our reason. Now ’tis evident our passions, volitions, and actions, are not susceptible of any such agreement or disagreement; being original facts and realities, compleat in themselves, and implying no reference to other passions, volitions, and actions. ’Tis impossible, therefore, they can be pronounced either true or false, and be either contrary or conformable to reason.
理性は真または偽を見いだすことである。ところで、真偽は観念の間の実際の関係との一致または不一致にか、それとも実際の存在や事実との一致または不一致にか、そのいずれかにある。したがって、このような一致または不一致を容れる余地のないものはすべて真あるいは偽であり得ず、けっして理性の対象とはなり得ない。ところで、明らかに、情念、意志作用、行為には、そのような一致とか不一致を容れる余地はない。これらは、それ自身で完結する原初的な事実、現実であり、ほかの情念、意志作用、行為とのかかわりをなんら含んでいないからである。したがって、これらが真とか偽とか宣告されたり、理性に反したり理性と合致したりすることはあり得ないのである。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、187ページ)・・・つまり、「真偽(truth or falsehood)」は、「観念の間の実際の関係との一致または不一致にか、それとも実際の存在や事実との一致または不一致にか」によって決まるのである。ヒュームは「観念」が真偽に必要ないとは述べていない。これは明らかである。
上記の萬屋氏の文章において、観念の関係が学問的な主題における真偽にかかわっていると述べられているではないか。抽象名辞が正しく使用されているかどうかの判断も、結局は「観念の間の実際の関係」によって決まってくる、そういうことなのである。
われわれは「シーザー」は元老院で三月十五日に殺されたと信じている。それは、歴史家たちの証言がまさしくこの時、この場所でその事件が起こったと決める点ですべて一致しており、それをもとにしてこの事実が立証されているからである。ところで、この場合、ある符号、文字が記憶か感覚機能かどちらかに現れており、そしてさらに、この符号がある観念を表す記号として使われてきたことを思い出す。・・・(中略)・・・特に言うまでもないと思うが、かつてすでに得られた結論あるいは原則をもとにして、これらが最初に生じたときの印象にあらためて頼らなくてもわれわれは推論できるのであるが、それはしかし、ここに述べた説に対する正当な反論にはならない。なぜなら、かりにこうした印象が記憶からすっかり消え去ったと仮定しても、印象が生み出した確信はなおそのまま残りうるのである。したがって、原因と結果に関する推理がすべてもとをたどればある印象から引き出されることはやはり真実であるからである。それは、ちょうど、論証の確信はつねに観念の比較から起こるが、たとえ比較が忘れ去られたあとで確信が存続しうるにしても、そのことに代わりはないのと同じことである。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、49~50ページ)・・・私たちは「印象」に頼らなくても推論できる。しかし、結局(印象により引き出された)観念を比較することで論証するのだ、とヒュームは述べているのである。私たちは文献を読む。そこには文字しか書かれていない。しかしその文字から「観念」が引き出されるのである。
私たちは訓練により、言葉(数字・記号含む)の関係のみで算数・数学の答えを導き出すことができる。しかし、それらの究極的な根拠も、言葉と印象・観念との関連づけに遡るのだ。訓練によって印象・観念に頼らず判断できることが、言葉の意味が印象・観念ではないということにはならないのである。
さらに、「日常的」な会話においても・・・
(T1.3.13.14)
誰かが公然と侮辱するにせよ陰険に軽蔑をほのめかすにせよ、いずれの場合も直接的に(テレパシーのように)その人の感情や意見を知覚するのではなく、ただ(言葉などの)記号によって、即ち、記号の効果によってのみ、知覚できるようになるのである。それならば、これらの二つの場合の間の唯一の違いは記号に存し、公然とした感情の発露においては、一般的で万人共通な記号を使用し、秘かな仄めかしにおいては、より珍しく一般的でないような記号を使用する。この事情の効果は、即ち、目下の現存する印象から未だ現存していない観念へと動いている想像力は、関連性が一般的で万人共通な方が、より珍しく一般的でない方よりも、いとも簡単に推移を為し、その結果として、より大きい勢いで対象(の観念)を心の中に作り出すのである。それゆえに、感情の率直な告白が仮面を脱ぎ捨てることと呼ばれ、意見の秘かな暗示がベールで覆い隠すことと言われる、と観察できる。一般的な関連性によって産み出される観念と、一般的でない関連性から生じる観念との相違は、印象と観念の間の違いにも例えられよう。想像におけるこの違いは、感情に適している効果があり、しかも、この効果は別の要因によっても増大される。怒りや軽蔑の秘かな仄めかしは、相手に対してまだ配慮が有り、直接に罵倒することを避ける、ということを示している。このことは、隠された皮肉の不愉快さを減じる。しかし依然としてこのことは、同じ原理(観念の強度)に依存している。何故なら、もし観念が、単に暗示されただけのときに、明示されたときより弱くないのならば(強度の差が無いならば)、それは決して、他の明示方式の記号よりもこの暗示方式の記号の方が、相手に対してより多くの配慮を続けるとは思われないのである。(ヒューム著『人間本性論(人性論)』井上基志訳、青空文庫)
Whether a person openly abuses me, or slyly intimates his contempt, in neither case do I immediately perceive his sentiment or opinion; and ’tis only by signs, that is, by its effects, I become sensible of it. The only difference, then, betwixt these two cases consists in this, that in the open discovery of his sentiments he makes use of signs, which are general and universal; and in the secret intimation employs such as are more singular and uncommon. The effect of this circumstance is, that the imagination, in running from the present impression to the absent idea, makes the transition with greater facility, and consequently conceives the object with greater force, where the connexion is common and universal, than where it is more rare and particular. Accordingly we may observe, that the open declaration of our sentiments is call’d the taking off the mask, as the secret intimation of our opinions is said to be the veiling of them. The difference betwixt an idea produc’d by a general connexion, and that arising from a particular one is here compar’d to the difference betwixt an impression and an idea. This difference in the imagination has a suitable effect on the passions; and this effect is augmented by another circumstance. A secret intimation of anger or contempt shews that we still have some consideration for the person, and avoid the directly abusing him. This makes a conceal’d satire less disagreeable; but still this depends on the same principle. For if an idea were not more feeble, when only intimated, it wou’d never be esteem’d a mark of greater respect to proceed in this method than in the other.・・・相手の感情や意見を受け取るのは、確かに記号やその効果によってである(’tis only by signs, that is, by its effects)。この場合のsignとは、言語表現などの記号だけでなく、手ぶり・身ぶりなども含むのであろうか・・・? ただ、いずれにせよ、それらの光景自体が「現存する印象(present impression)」なのである。しかし、そこから観念が生じるということを、上記の文章でヒュームは明言している。そして、相手の配慮の有無に対する判断も、やはり観念の強度に依存しているのだと、述べているのである。
・・・萬屋氏の言われる「徳の基準」(萬屋氏、308ページ)についても、同様のことが言えるであろう。
学問的であれ日常的であれ、その判断の「真偽」や「適切さ」には、やはり観念・印象が関わっている、これはヒュームが今更言わなくても経験的事実なのである。
ヒュームにとって、観念は人間と動物が共に行うことのできる推論において使用される心的イメージであり、幼児や動物の思考を説明するのに不可欠な役割を担っている。(cf. T1.3.16.8)しかしだからといって、われわれは言葉の意味を観念に求める必要はない。なぜなら、言葉を用いて適切に推論できているかどうかを判断するためには、他者の前で実際に証明を書いたり口頭で説明したりして確かめてもらう他ない、とヒュームは考えていると思われるからである。(萬屋氏、309ページ)・・・これまでの私の説明で、この萬屋氏の見解がヒュームの実際の文章と乖離していることが分かっていただけるであろうか?
萬屋氏は、ヒュームの説明を無理やり「意味の使用説」として解釈するのではなく、私的言語批判そのものの誤りをヒュームの見解をもとに指摘すべきであったのだ。
2019年6月10日月曜日
「すべて」とは何なのか? (言葉の意味は常に名辞と個別的観念・印象の関係として現れる)
萬屋博喜「ヒュームにおける意味と抽象」『哲学』第63号、日本哲学会、知泉書館、2012年4月、297~311ページ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2012/63/2012_297/_pdf/-char/ja
・・・をだいぶ読み進んだが・・・ヒュームの説明を部分的に取り出して、分析哲学の文脈と整合的であることを示したところで、(繰り返すが)以下の経験論の手法そのものを無視してしまっては何にもならないのである。
具体的経験として現れているものが「すべて」であって、抽象概念が「可能的に現れる」ものまで網羅する必要があるのだろうか?
名辞に対応して個別的観念が現れる。観念(さらには印象)に応じて名辞が現れる。「言葉の意味」とは、常に言葉と経験(個別的観念・印象)の関係として現れるのである。
「すべて」の鳥と言ったところで、「可能的に現れる」と思われた次の鳥も、やはり具体的・個別的な印象・観念として現れるのみである。
つまり、どこまでも具体的・個別的な”名辞と観念・印象との個別的関係”としてしか、現れることがない。抽象概念と呼ばれるものであっても、具体的経験としては、そうとしか現れない、これが事実なのだ。
私たちが「三角形」について説明するときも、やはり個別的・具体的な三角形を描いて見せるしかない。それがその時点における「代理」あるいは「代表」とはなっている。
しかしその個別的三角形が、他の三角形を「包摂」しているのかというと、そういうわけでもない。次に現れるのは、また別の大きさや線の長さを持った個別的三角形なのである。
意味の使用説の問題点については、前記事でも触れたが、
「客観性」「公共性」というものでさえ、主観的判断、究極的には”経験と言葉との繋がり”へと還元されてしまう
http://miya.aki.gs/mblog/bn2017_09.html#20170905
・・・で指摘している。
ヒュームが、”「ソクラテスは人間である」という判断や述定において「人間」という抽象名辞を使用できることが、「人間」という抽象名辞の意味を理解することだという考え”(萬屋氏、303ページ)に基づいていたのかどうか、後日、本文を読んで確かめてみようと思う(少なくとも「「抽象観念について」の節ではそのようなことは述べていないと思うのだが・・・)。
いずれにせよ、他者が言葉を理解しているのか判断するためには、(その言葉が指し示すもの、そのものがお互いの目の前に存在していない限りは)その人がその言葉をいかに用いるか、その言葉に関連していかなる行為・あるいは反応をするか、によって判断するしかない。
しかしそれは「意味の使用説」の根拠にはならない。他者の言葉の使用に関して「正しい」かどうか分かるためには、自分自身がその言葉の意味、つまりその言葉が何を指し示しているのか、具体的観念あるいは印象として示すことができなければならないからである。
いずれにせよ、萬屋氏のヒューム理解は分析哲学へ引き寄せすぎている印象だ。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2012/63/2012_297/_pdf/-char/ja
・・・をだいぶ読み進んだが・・・ヒュームの説明を部分的に取り出して、分析哲学の文脈と整合的であることを示したところで、(繰り返すが)以下の経験論の手法そのものを無視してしまっては何にもならないのである。
この人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は、経験と観察とにおかれなければならない。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、9ページ)・・・前記事に続き、また二点指摘しておきたい。(まだまだ他にもあるのだが、『人(間本)性論』の本文を吟味しながら検証していきたい。)
1.そもそも「すべての」鳥とはいったい何なのか?
具体的経験として現れているものが「すべて」であって、抽象概念が「可能的に現れる」ものまで網羅する必要があるのだろうか?
名辞に対応して個別的観念が現れる。観念(さらには印象)に応じて名辞が現れる。「言葉の意味」とは、常に言葉と経験(個別的観念・印象)の関係として現れるのである。
「すべて」の鳥と言ったところで、「可能的に現れる」と思われた次の鳥も、やはり具体的・個別的な印象・観念として現れるのみである。
つまり、どこまでも具体的・個別的な”名辞と観念・印象との個別的関係”としてしか、現れることがない。抽象概念と呼ばれるものであっても、具体的経験としては、そうとしか現れない、これが事実なのだ。
私たちが「三角形」について説明するときも、やはり個別的・具体的な三角形を描いて見せるしかない。それがその時点における「代理」あるいは「代表」とはなっている。
しかしその個別的三角形が、他の三角形を「包摂」しているのかというと、そういうわけでもない。次に現れるのは、また別の大きさや線の長さを持った個別的三角形なのである。
しかし実を言うと私は、一般観念を説明する共通の方法によって、一般観念の不可能性について証明した先の記述に主要な信頼を置く。我々はこの論点について、新しい体系を確かに捜さなければならないが、私が提案したもの以外には無いことは明白である。もし観念が本性上、個別的でかつ同時に有限の数ならば、ただ習慣によってのみ、観念はその代表において一般的になることができ、また、代表の下でその他の無限の観念を含むことができるのである。(ヒューム著『人間本性論(人性論)』井上基志訳、青空文庫「第七節 抽象観念について」よりURL:https://www.aozora.gr.jp/cards/002033/files/59405_66194.html)・・・「有限」ならば「無限」の観念を含むという説明はよくわからないが・・・観念とはどこまでも「個別的」なものなのである。そして上記の説明は、萬屋氏の言う「すべて」の否定になっていないだろうか?
2.他者の言語理解を、言語使用のやり方で判断すること=「意味の使用説」とはならない
意味の使用説の問題点については、前記事でも触れたが、
「客観性」「公共性」というものでさえ、主観的判断、究極的には”経験と言葉との繋がり”へと還元されてしまう
http://miya.aki.gs/mblog/bn2017_09.html#20170905
・・・で指摘している。
ヒュームが、”「ソクラテスは人間である」という判断や述定において「人間」という抽象名辞を使用できることが、「人間」という抽象名辞の意味を理解することだという考え”(萬屋氏、303ページ)に基づいていたのかどうか、後日、本文を読んで確かめてみようと思う(少なくとも「「抽象観念について」の節ではそのようなことは述べていないと思うのだが・・・)。
いずれにせよ、他者が言葉を理解しているのか判断するためには、(その言葉が指し示すもの、そのものがお互いの目の前に存在していない限りは)その人がその言葉をいかに用いるか、その言葉に関連していかなる行為・あるいは反応をするか、によって判断するしかない。
しかしそれは「意味の使用説」の根拠にはならない。他者の言葉の使用に関して「正しい」かどうか分かるためには、自分自身がその言葉の意味、つまりその言葉が何を指し示しているのか、具体的観念あるいは印象として示すことができなければならないからである。
いずれにせよ、萬屋氏のヒューム理解は分析哲学へ引き寄せすぎている印象だ。
2019年6月9日日曜日
「実物ーコピー」という見解は「二元論」なのではなく、因果関係の問題
大森荘蔵氏の『時は流れず』が気にはなっているが、その前にヒュームとジェイムズをなんとかまとめておきたい・・・
先日、以下の論文を見つけて、ざっと読んでみた。
近藤正樹著「イメージの復権を求めて--大森哲学批判」『芸術』 (22)、1999年、75~82ページ
http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou22/kiyou22_07.pdf
・・・は、ヒュームが示した問題の一つ、「想像と記憶の違いは何か」という事にも関連しているようだ。
大森氏の説明は一見荒唐無稽であり、論文著者である近藤氏の批判ももっともなものであるようにも思える。しかし、(いくつかの根本的な誤りはあるにせよ)実際の具体的経験に関して、大森氏が重要な指摘をしていることも確かなのである。そこは見逃さないようにしたい。
想起するとき、それが実体験であろうと夢であろうと、既にそのオリジナル(と思わしき)「経験」がどこにもない、見つけることができない事実、そこにあるのはただ思い起こされた(現れた)具体的感覚(見えるもの・聞こえるもの・感じるもの)、あるいは言葉でしかない事実。
経験一元論として、大森氏の見解のどこに問題があったのか・・・上記近藤氏の論文を読む限りにおいて、次のようなことが考えられる。
(1)経験”ありのまま”について説明しようとはするものの、そこに「条件」を持ち込んでしまった。条件に合っていようがいまいが、具体的に経験したのであればそれは具体的経験である。経験があって、条件(規則)が導かれる。経験の前に「条件」があってはならないのである。
(2)「実物ーコピー」という見解は「二元論」なのではなく、因果関係の問題。(具体的経験がまずあり⇒「人がものを見て意識にイメージが現れる」というのはそこから導かれる因果的説明であって、それが逆になってしまうと二元論)
(3)「言語的命題」と「知覚的想像」との組み合わせが「過去」なのであり、言語的命題のみで過去が成立するわけではない(言語だけで説明しようとするから「トートロジー」(近藤氏、77ページ)と指摘されてしまう。イメージを「過去」の出来事として説明できること、あるいは言葉で記された記録から具体的イメージへ辿ることができること(※ このあたりヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、49~50ページでも不完全な形で触れられている)、つまり言語と知覚(知覚とまとめてしまって良いのかわからないが)双方が関係していると言える。
(4)「過去内整合性」とは因果関係による経験則との合致のことであって、「整合説」も結局は「対応説」に還元されてしまう。
・・・ある人の写真と、写真に写った人の実物とをその場で見比べれば、それが正確に「写し」であることが明確に分かるであろう。私たちは、(凸)レンズで物が大きく見えることを具体的経験として知っている。ロラン・バルトらの議論(近藤氏79~80ページ)も、普通に考えれば非常に的外れである。
私たちは、「外部―水晶体―ガラス体―網膜―視神経―大脳」という一連の仕組みを文字としても、「言語的了解(思考的了解)を助ける図解」(近藤氏、98ページ:大森氏「言語的制作としての過去と夢」からの引用)としても経験しているし、それらメカニズムすべてではなくても、目をつぶれば物が見えなくなることくらいは経験で知っているし、今それを試すこともできる。他者が物を見ている状況をおそらく毎日見ているし、その人と私が同じ人間で同じような体の構造をしていることも知っている。
これら過去の経験から導き出された因果関係を経験則として知っているからこそ、自らの行為をその因果連鎖に委ねながら生活することが出来ている。
もちろん因果関係は可疑的である。本で読んだ知識が間違っているかもしれない。あるいはこれから起こる出来事が、これまでの経験則を変更させてしまう可能性を否定することはできない。しかし、この可疑性を経験則そのものの否定ととらえてはならない、経験則は経験則として既にある(そして常に思い起こすことが出来るし、場合によっては試すこともできる)。そして通常はこれらの経験則に応じて私たちは行動している、そのことも事実なのである。
*************************
それと、近藤氏は「絵画」の問題を提示されているが(近藤氏、80ページ)、これは「過去」の問題、「コピー」の問題とは、全く別の事柄ではなかろうか?
「イメージ」の問題と言われればそうなのであるが・・・近藤氏の「イメージ」観にも問題がある。
フッサール・金田氏の言われる「像客体」(近藤氏、80ページ)というものは、「現前的に現出し、しかも仮象(Schein)である」(近藤氏、80ページ)そうなのだが・・・これこそおかしな話である。「現前的に現出」(しかも仮象)とは単なる”言葉の遊び”でしかない。
経験されているものはされている、経験として現れていないものは経験されていないのである。それだけだ。絵を見て、私たちは”何か”を感じることがある。言葉で言い尽くせないが”何か”を感じるのである。それは違和感のようなものであれ、打ち震えるような感じであれ、高揚感のような感じであれ、具体的感覚には違いないのである。それら情動的感覚、あるいは体感的感覚、さらにはその絵を見て思い浮かぶ情景、イメージ、具体的出来事、何でも良い。感じたものは感じたものであって、それが言語化されようがされまいが、具体的経験には変わりない。
具体的に感じなかったのであれば、それは感じなかったのである。「言語化」できるかできないかは、またその後の話なのである。
********************
<関連レポート>
哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
先日、以下の論文を見つけて、ざっと読んでみた。
近藤正樹著「イメージの復権を求めて--大森哲学批判」『芸術』 (22)、1999年、75~82ページ
http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou22/kiyou22_07.pdf
・・・は、ヒュームが示した問題の一つ、「想像と記憶の違いは何か」という事にも関連しているようだ。
大森氏の説明は一見荒唐無稽であり、論文著者である近藤氏の批判ももっともなものであるようにも思える。しかし、(いくつかの根本的な誤りはあるにせよ)実際の具体的経験に関して、大森氏が重要な指摘をしていることも確かなのである。そこは見逃さないようにしたい。
想起するとき、それが実体験であろうと夢であろうと、既にそのオリジナル(と思わしき)「経験」がどこにもない、見つけることができない事実、そこにあるのはただ思い起こされた(現れた)具体的感覚(見えるもの・聞こえるもの・感じるもの)、あるいは言葉でしかない事実。
経験一元論として、大森氏の見解のどこに問題があったのか・・・上記近藤氏の論文を読む限りにおいて、次のようなことが考えられる。
(1)経験”ありのまま”について説明しようとはするものの、そこに「条件」を持ち込んでしまった。条件に合っていようがいまいが、具体的に経験したのであればそれは具体的経験である。経験があって、条件(規則)が導かれる。経験の前に「条件」があってはならないのである。
(2)「実物ーコピー」という見解は「二元論」なのではなく、因果関係の問題。(具体的経験がまずあり⇒「人がものを見て意識にイメージが現れる」というのはそこから導かれる因果的説明であって、それが逆になってしまうと二元論)
(3)「言語的命題」と「知覚的想像」との組み合わせが「過去」なのであり、言語的命題のみで過去が成立するわけではない(言語だけで説明しようとするから「トートロジー」(近藤氏、77ページ)と指摘されてしまう。イメージを「過去」の出来事として説明できること、あるいは言葉で記された記録から具体的イメージへ辿ることができること(※ このあたりヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、49~50ページでも不完全な形で触れられている)、つまり言語と知覚(知覚とまとめてしまって良いのかわからないが)双方が関係していると言える。
(4)「過去内整合性」とは因果関係による経験則との合致のことであって、「整合説」も結局は「対応説」に還元されてしまう。
・・・ある人の写真と、写真に写った人の実物とをその場で見比べれば、それが正確に「写し」であることが明確に分かるであろう。私たちは、(凸)レンズで物が大きく見えることを具体的経験として知っている。ロラン・バルトらの議論(近藤氏79~80ページ)も、普通に考えれば非常に的外れである。
私たちは、「外部―水晶体―ガラス体―網膜―視神経―大脳」という一連の仕組みを文字としても、「言語的了解(思考的了解)を助ける図解」(近藤氏、98ページ:大森氏「言語的制作としての過去と夢」からの引用)としても経験しているし、それらメカニズムすべてではなくても、目をつぶれば物が見えなくなることくらいは経験で知っているし、今それを試すこともできる。他者が物を見ている状況をおそらく毎日見ているし、その人と私が同じ人間で同じような体の構造をしていることも知っている。
これら過去の経験から導き出された因果関係を経験則として知っているからこそ、自らの行為をその因果連鎖に委ねながら生活することが出来ている。
もちろん因果関係は可疑的である。本で読んだ知識が間違っているかもしれない。あるいはこれから起こる出来事が、これまでの経験則を変更させてしまう可能性を否定することはできない。しかし、この可疑性を経験則そのものの否定ととらえてはならない、経験則は経験則として既にある(そして常に思い起こすことが出来るし、場合によっては試すこともできる)。そして通常はこれらの経験則に応じて私たちは行動している、そのことも事実なのである。
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それと、近藤氏は「絵画」の問題を提示されているが(近藤氏、80ページ)、これは「過去」の問題、「コピー」の問題とは、全く別の事柄ではなかろうか?
「イメージ」の問題と言われればそうなのであるが・・・近藤氏の「イメージ」観にも問題がある。
フッサール・金田氏の言われる「像客体」(近藤氏、80ページ)というものは、「現前的に現出し、しかも仮象(Schein)である」(近藤氏、80ページ)そうなのだが・・・これこそおかしな話である。「現前的に現出」(しかも仮象)とは単なる”言葉の遊び”でしかない。
経験されているものはされている、経験として現れていないものは経験されていないのである。それだけだ。絵を見て、私たちは”何か”を感じることがある。言葉で言い尽くせないが”何か”を感じるのである。それは違和感のようなものであれ、打ち震えるような感じであれ、高揚感のような感じであれ、具体的感覚には違いないのである。それら情動的感覚、あるいは体感的感覚、さらにはその絵を見て思い浮かぶ情景、イメージ、具体的出来事、何でも良い。感じたものは感じたものであって、それが言語化されようがされまいが、具体的経験には変わりない。
具体的に感じなかったのであれば、それは感じなかったのである。「言語化」できるかできないかは、またその後の話なのである。
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<関連レポート>
哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
2019年6月2日日曜日
そもそも私的言語批判に正当性があるのか?
萬屋博喜「ヒュームにおける意味と抽象」『哲学』第63号、日本哲学会、知泉書館、2012年4月、297~311ページ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2012/63/2012_297/_pdf/-char/ja
・・・の最初の三分の一を読んだところであるが、この論文の是非を判断するために、まず二つの事について触れておかねばならない。
(1)私的言語批判そのものが正当なものなのか
(2)そもそも経験論とは何なのか
私的言語批判の問題点は、
「客観性」「公共性」というものでさえ、主観的判断、究極的には”経験と言葉との繋がり”へと還元されてしまう
http://miya.aki.gs/mblog/bn2017_09.html#20170905
・・・において、私が既に指摘している。私的言語批判は、
・自分自身がその言葉について理解したと思ったその根拠
・他の人がその言葉について理解したと判断する根拠
・・・この違いを無視してしまっているのだ。自らにおいては言葉と特定のイメージやら感覚とが繋がり合っている。一方、他者がいかなるイメージを描いているかなど、私は知る由もない。しかし、その人がその言葉を用いるやり方、その言葉から連想する言葉、あるいはその言葉にまつわるその人の行為、それらを見た上で、その人が本当に理解しているのかどうかある程度判断することはできる。
・・・ではその判断基準の根拠はそもそも何なのだろうか? 結局のところ、自らがその言葉と具体的経験(イメージやら感覚やら)とを関連づけることができているからこそ、さらにはその言葉・経験に付随する様々な出来事が(イメージであれ感覚であれ)具体的経験として自分自身において理解できているからこそ、他者の言語使用やら言語にまつわる行為の正当性が判断可能となるのである。
さらに言えば、他者の行為を理解する、とはいかなることであろうか? これも結局は、その人を観察した時の「(ヒューム的)印象」、そして「怒っている」「喜んでいる」という「言葉」との関連づけなのであって、結局は名辞と観念・印象との関係へ還元されてしまうのである。
「意味の使用説」と呼ばれるものも、究極的には「言葉の意味=言葉に対応する経験」説へ還元されてしまうのだ。結局は経験へ行き着くのである。
萬屋氏は以下のように説明されているが・・・
私とあなたが相互理解できたと思うとき、私の思い浮かべる「猫」の像とあなたの思い浮かべる「猫」の像とが完全一致せねばならないだろうか? そんな必要はないし、そもそも確かめようがない。しかし、私・あなたともに、「猫」という”名辞”とそれに対応する何がしかの観念(心像)あるいは印象というものが”セット”としてそれぞれに現れている(あるいは現れうる)、それ故に、お互いに「理解できた」と思えるのではなかろうか。
お互いに思う「猫」があり、その猫の性質やら、猫にまつわる物語やら過去の経験やら、それらを言語でお互いにやりとりし合いながら、それぞれの「猫」のイメージのズレに気づいたり修正したりすることも可能なのである。
つまり意味の観念説は「異なる話者同士の会話における相互理解という事態を不可解なもの」になどしないのだ。
萬屋氏をはじめとして、竹中氏、豊川市、澤田氏らの研究は、経験論的手法を全く無視した上で、ヒュームの言葉が分析哲学的文脈の中で”整合性”を持ちうるかどうかという検証に終始してしまっている印象を受ける。
経験論として最も重要である、以下の”経験論的手法”そのものがほとんど無視されてしまっているのである。
各々確かめてみれば良い。抽象名詞であろうと、固有名詞であろうと、一般名詞であろうと、それは何か、と問われれば、具体的事物・事象を示したり、思い浮かべたりするしかないのである。
部分・全体、あるいは上・下、という”名辞”においてでさえ、それらは何なのか、具体的に示そうとすれば、特定の物や図形を持ってきたり描いたりした上で、その物における何が部分・全体なのか、何が上・下なのか示すしかないのである。(※ そのあたりは、拙著、「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証(http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf)で詳細に説明しています)
この”事実”を無視した上で、いくら論理を駆使したところで、それは何の根拠にもなりえないのだ。
・・・萬屋氏のこの論文については、300ページ以降においても、指摘しておかねばならない問題点がある。しっかり検証しておきたい。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2012/63/2012_297/_pdf/-char/ja
・・・の最初の三分の一を読んだところであるが、この論文の是非を判断するために、まず二つの事について触れておかねばならない。
(1)私的言語批判そのものが正当なものなのか
(2)そもそも経験論とは何なのか
1.私的言語批判そのものの「正当性」
私的言語批判の問題点は、
「客観性」「公共性」というものでさえ、主観的判断、究極的には”経験と言葉との繋がり”へと還元されてしまう
http://miya.aki.gs/mblog/bn2017_09.html#20170905
・・・において、私が既に指摘している。私的言語批判は、
・自分自身がその言葉について理解したと思ったその根拠
・他の人がその言葉について理解したと判断する根拠
・・・この違いを無視してしまっているのだ。自らにおいては言葉と特定のイメージやら感覚とが繋がり合っている。一方、他者がいかなるイメージを描いているかなど、私は知る由もない。しかし、その人がその言葉を用いるやり方、その言葉から連想する言葉、あるいはその言葉にまつわるその人の行為、それらを見た上で、その人が本当に理解しているのかどうかある程度判断することはできる。
・・・ではその判断基準の根拠はそもそも何なのだろうか? 結局のところ、自らがその言葉と具体的経験(イメージやら感覚やら)とを関連づけることができているからこそ、さらにはその言葉・経験に付随する様々な出来事が(イメージであれ感覚であれ)具体的経験として自分自身において理解できているからこそ、他者の言語使用やら言語にまつわる行為の正当性が判断可能となるのである。
さらに言えば、他者の行為を理解する、とはいかなることであろうか? これも結局は、その人を観察した時の「(ヒューム的)印象」、そして「怒っている」「喜んでいる」という「言葉」との関連づけなのであって、結局は名辞と観念・印象との関係へ還元されてしまうのである。
「意味の使用説」と呼ばれるものも、究極的には「言葉の意味=言葉に対応する経験」説へ還元されてしまうのだ。結局は経験へ行き着くのである。
萬屋氏は以下のように説明されているが・・・
意味の観念説に対しては、以下の常套的な批判が向けられることになる。すなわち、もし意味の観念説が正しいのであれば、異なる話者同士の会話における相互理解という事象が不可解なものとなってしまう、という批判である。その批判の骨子は、次のようになる。例えば、二人の話者が猫の生態について会話しているときに、両者が「猫」という言葉で相互の意味するところを理解しているのであれば 、両者は「猫」という言葉で同じことを意味していなければならない。では、なぜ両者は「猫」という言葉で同じことを意味できるのか。ここで、各々の話者の心的イメージとしての観念に頼っても無駄である。なぜなら、話者の心的イメージは、他人が直接確かめられないものだからである。このようにして、伝統的な解釈によるヒュームの見解は、異なる話者同士の会話における相互理解という事態を不可解なものとしてしまうことになる。(萬屋氏、299ページ)
言語を介した「感情の交流」における相互理解の可能性を強調している。そのため、もしヒューム自身が意味の観念説を採用しているとすれば、以上の批判はヒュームにとって深刻なものとなろう。(萬屋氏、299ページ)・・・その前に、萬屋氏はその”常套的な批判”が経験に則して「正当」なものなのか、そこから検証すべきであったのだ。
私とあなたが相互理解できたと思うとき、私の思い浮かべる「猫」の像とあなたの思い浮かべる「猫」の像とが完全一致せねばならないだろうか? そんな必要はないし、そもそも確かめようがない。しかし、私・あなたともに、「猫」という”名辞”とそれに対応する何がしかの観念(心像)あるいは印象というものが”セット”としてそれぞれに現れている(あるいは現れうる)、それ故に、お互いに「理解できた」と思えるのではなかろうか。
お互いに思う「猫」があり、その猫の性質やら、猫にまつわる物語やら過去の経験やら、それらを言語でお互いにやりとりし合いながら、それぞれの「猫」のイメージのズレに気づいたり修正したりすることも可能なのである。
つまり意味の観念説は「異なる話者同士の会話における相互理解という事態を不可解なもの」になどしないのだ。
2.そもそも経験論とは何なのか
萬屋氏をはじめとして、竹中氏、豊川市、澤田氏らの研究は、経験論的手法を全く無視した上で、ヒュームの言葉が分析哲学的文脈の中で”整合性”を持ちうるかどうかという検証に終始してしまっている印象を受ける。
経験論として最も重要である、以下の”経験論的手法”そのものがほとんど無視されてしまっているのである。
この人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は、経験と観察とにおかれなければならない。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、9ページ)・・・いかに論理を駆使したところで、具体的経験として明確に現れている事実があれば、それを否定しようがないのである。
どんな一般的名辞を用いるときでも、われわれは個物の観念を形作るのだということ、その際、これらの個物を残らず取り上げるのはほとんど、というよりけっしてできないということ、そして、取り残された個物は、その場の事情が必要とするときにはいつでも、それを呼び起こす習性によって代理を勤められるだけであるということ、これらは確かなことである。かくして、これが抽象観念、および一般的名辞の本性であり、そして、前に述べた逆説と思われること、すなわち、ある観念がその本性は個別的なのに、表現作用は一般的であるということも、このようにして説明されるのである。(ヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社:29~30ページ)・・・それが一般名詞であろうと抽象名詞であろうと固有名詞であろうと、その”名辞”に対応するものは、常に個別的観念(あるいは個別的印象)である、それは私的言語批判というものがあったとしても、厳然とした事実なのである。そして観念=心像である。
各々確かめてみれば良い。抽象名詞であろうと、固有名詞であろうと、一般名詞であろうと、それは何か、と問われれば、具体的事物・事象を示したり、思い浮かべたりするしかないのである。
部分・全体、あるいは上・下、という”名辞”においてでさえ、それらは何なのか、具体的に示そうとすれば、特定の物や図形を持ってきたり描いたりした上で、その物における何が部分・全体なのか、何が上・下なのか示すしかないのである。(※ そのあたりは、拙著、「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証(http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf)で詳細に説明しています)
この”事実”を無視した上で、いくら論理を駆使したところで、それは何の根拠にもなりえないのだ。
・・・萬屋氏のこの論文については、300ページ以降においても、指摘しておかねばならない問題点がある。しっかり検証しておきたい。
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