大森荘蔵氏の『時は流れず』が気にはなっているが、その前にヒュームとジェイムズをなんとかまとめておきたい・・・
先日、以下の論文を見つけて、ざっと読んでみた。
近藤正樹著「イメージの復権を求めて--大森哲学批判」『芸術』 (22)、1999年、75~82ページ
http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou22/kiyou22_07.pdf
・・・は、ヒュームが示した問題の一つ、「想像と記憶の違いは何か」という事にも関連しているようだ。
大森氏の説明は一見荒唐無稽であり、論文著者である近藤氏の批判ももっともなものであるようにも思える。しかし、(いくつかの根本的な誤りはあるにせよ)実際の具体的経験に関して、大森氏が重要な指摘をしていることも確かなのである。そこは見逃さないようにしたい。
想起するとき、それが実体験であろうと夢であろうと、既にそのオリジナル(と思わしき)「経験」がどこにもない、見つけることができない事実、そこにあるのはただ思い起こされた(現れた)具体的感覚(見えるもの・聞こえるもの・感じるもの)、あるいは言葉でしかない事実。
経験一元論として、大森氏の見解のどこに問題があったのか・・・上記近藤氏の論文を読む限りにおいて、次のようなことが考えられる。
(1)経験”ありのまま”について説明しようとはするものの、そこに「条件」を持ち込んでしまった。条件に合っていようがいまいが、具体的に経験したのであればそれは具体的経験である。経験があって、条件(規則)が導かれる。経験の前に「条件」があってはならないのである。
(2)「実物ーコピー」という見解は「二元論」なのではなく、因果関係の問題。(具体的経験がまずあり⇒「人がものを見て意識にイメージが現れる」というのはそこから導かれる因果的説明であって、それが逆になってしまうと二元論)
(3)「言語的命題」と「知覚的想像」との組み合わせが「過去」なのであり、言語的命題のみで過去が成立するわけではない(言語だけで説明しようとするから「トートロジー」(近藤氏、77ページ)と指摘されてしまう。イメージを「過去」の出来事として説明できること、あるいは言葉で記された記録から具体的イメージへ辿ることができること(※ このあたりヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、49~50ページでも不完全な形で触れられている)、つまり言語と知覚(知覚とまとめてしまって良いのかわからないが)双方が関係していると言える。
(4)「過去内整合性」とは因果関係による経験則との合致のことであって、「整合説」も結局は「対応説」に還元されてしまう。
・・・ある人の写真と、写真に写った人の実物とをその場で見比べれば、それが正確に「写し」であることが明確に分かるであろう。私たちは、(凸)レンズで物が大きく見えることを具体的経験として知っている。ロラン・バルトらの議論(近藤氏79~80ページ)も、普通に考えれば非常に的外れである。
私たちは、「外部―水晶体―ガラス体―網膜―視神経―大脳」という一連の仕組みを文字としても、「言語的了解(思考的了解)を助ける図解」(近藤氏、98ページ:大森氏「言語的制作としての過去と夢」からの引用)としても経験しているし、それらメカニズムすべてではなくても、目をつぶれば物が見えなくなることくらいは経験で知っているし、今それを試すこともできる。他者が物を見ている状況をおそらく毎日見ているし、その人と私が同じ人間で同じような体の構造をしていることも知っている。
これら過去の経験から導き出された因果関係を経験則として知っているからこそ、自らの行為をその因果連鎖に委ねながら生活することが出来ている。
もちろん因果関係は可疑的である。本で読んだ知識が間違っているかもしれない。あるいはこれから起こる出来事が、これまでの経験則を変更させてしまう可能性を否定することはできない。しかし、この可疑性を経験則そのものの否定ととらえてはならない、経験則は経験則として既にある(そして常に思い起こすことが出来るし、場合によっては試すこともできる)。そして通常はこれらの経験則に応じて私たちは行動している、そのことも事実なのである。
*************************
それと、近藤氏は「絵画」の問題を提示されているが(近藤氏、80ページ)、これは「過去」の問題、「コピー」の問題とは、全く別の事柄ではなかろうか?
「イメージ」の問題と言われればそうなのであるが・・・近藤氏の「イメージ」観にも問題がある。
フッサール・金田氏の言われる「像客体」(近藤氏、80ページ)というものは、「現前的に現出し、しかも仮象(Schein)である」(近藤氏、80ページ)そうなのだが・・・これこそおかしな話である。「現前的に現出」(しかも仮象)とは単なる”言葉の遊び”でしかない。
経験されているものはされている、経験として現れていないものは経験されていないのである。それだけだ。絵を見て、私たちは”何か”を感じることがある。言葉で言い尽くせないが”何か”を感じるのである。それは違和感のようなものであれ、打ち震えるような感じであれ、高揚感のような感じであれ、具体的感覚には違いないのである。それら情動的感覚、あるいは体感的感覚、さらにはその絵を見て思い浮かぶ情景、イメージ、具体的出来事、何でも良い。感じたものは感じたものであって、それが言語化されようがされまいが、具体的経験には変わりない。
具体的に感じなかったのであれば、それは感じなかったのである。「言語化」できるかできないかは、またその後の話なのである。
********************
<関連レポート>
哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
2019年6月9日日曜日
2019年6月2日日曜日
そもそも私的言語批判に正当性があるのか?
萬屋博喜「ヒュームにおける意味と抽象」『哲学』第63号、日本哲学会、知泉書館、2012年4月、297~311ページ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2012/63/2012_297/_pdf/-char/ja
・・・の最初の三分の一を読んだところであるが、この論文の是非を判断するために、まず二つの事について触れておかねばならない。
(1)私的言語批判そのものが正当なものなのか
(2)そもそも経験論とは何なのか
私的言語批判の問題点は、
「客観性」「公共性」というものでさえ、主観的判断、究極的には”経験と言葉との繋がり”へと還元されてしまう
http://miya.aki.gs/mblog/bn2017_09.html#20170905
・・・において、私が既に指摘している。私的言語批判は、
・自分自身がその言葉について理解したと思ったその根拠
・他の人がその言葉について理解したと判断する根拠
・・・この違いを無視してしまっているのだ。自らにおいては言葉と特定のイメージやら感覚とが繋がり合っている。一方、他者がいかなるイメージを描いているかなど、私は知る由もない。しかし、その人がその言葉を用いるやり方、その言葉から連想する言葉、あるいはその言葉にまつわるその人の行為、それらを見た上で、その人が本当に理解しているのかどうかある程度判断することはできる。
・・・ではその判断基準の根拠はそもそも何なのだろうか? 結局のところ、自らがその言葉と具体的経験(イメージやら感覚やら)とを関連づけることができているからこそ、さらにはその言葉・経験に付随する様々な出来事が(イメージであれ感覚であれ)具体的経験として自分自身において理解できているからこそ、他者の言語使用やら言語にまつわる行為の正当性が判断可能となるのである。
さらに言えば、他者の行為を理解する、とはいかなることであろうか? これも結局は、その人を観察した時の「(ヒューム的)印象」、そして「怒っている」「喜んでいる」という「言葉」との関連づけなのであって、結局は名辞と観念・印象との関係へ還元されてしまうのである。
「意味の使用説」と呼ばれるものも、究極的には「言葉の意味=言葉に対応する経験」説へ還元されてしまうのだ。結局は経験へ行き着くのである。
萬屋氏は以下のように説明されているが・・・
私とあなたが相互理解できたと思うとき、私の思い浮かべる「猫」の像とあなたの思い浮かべる「猫」の像とが完全一致せねばならないだろうか? そんな必要はないし、そもそも確かめようがない。しかし、私・あなたともに、「猫」という”名辞”とそれに対応する何がしかの観念(心像)あるいは印象というものが”セット”としてそれぞれに現れている(あるいは現れうる)、それ故に、お互いに「理解できた」と思えるのではなかろうか。
お互いに思う「猫」があり、その猫の性質やら、猫にまつわる物語やら過去の経験やら、それらを言語でお互いにやりとりし合いながら、それぞれの「猫」のイメージのズレに気づいたり修正したりすることも可能なのである。
つまり意味の観念説は「異なる話者同士の会話における相互理解という事態を不可解なもの」になどしないのだ。
萬屋氏をはじめとして、竹中氏、豊川市、澤田氏らの研究は、経験論的手法を全く無視した上で、ヒュームの言葉が分析哲学的文脈の中で”整合性”を持ちうるかどうかという検証に終始してしまっている印象を受ける。
経験論として最も重要である、以下の”経験論的手法”そのものがほとんど無視されてしまっているのである。
各々確かめてみれば良い。抽象名詞であろうと、固有名詞であろうと、一般名詞であろうと、それは何か、と問われれば、具体的事物・事象を示したり、思い浮かべたりするしかないのである。
部分・全体、あるいは上・下、という”名辞”においてでさえ、それらは何なのか、具体的に示そうとすれば、特定の物や図形を持ってきたり描いたりした上で、その物における何が部分・全体なのか、何が上・下なのか示すしかないのである。(※ そのあたりは、拙著、「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証(http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf)で詳細に説明しています)
この”事実”を無視した上で、いくら論理を駆使したところで、それは何の根拠にもなりえないのだ。
・・・萬屋氏のこの論文については、300ページ以降においても、指摘しておかねばならない問題点がある。しっかり検証しておきたい。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2012/63/2012_297/_pdf/-char/ja
・・・の最初の三分の一を読んだところであるが、この論文の是非を判断するために、まず二つの事について触れておかねばならない。
(1)私的言語批判そのものが正当なものなのか
(2)そもそも経験論とは何なのか
1.私的言語批判そのものの「正当性」
私的言語批判の問題点は、
「客観性」「公共性」というものでさえ、主観的判断、究極的には”経験と言葉との繋がり”へと還元されてしまう
http://miya.aki.gs/mblog/bn2017_09.html#20170905
・・・において、私が既に指摘している。私的言語批判は、
・自分自身がその言葉について理解したと思ったその根拠
・他の人がその言葉について理解したと判断する根拠
・・・この違いを無視してしまっているのだ。自らにおいては言葉と特定のイメージやら感覚とが繋がり合っている。一方、他者がいかなるイメージを描いているかなど、私は知る由もない。しかし、その人がその言葉を用いるやり方、その言葉から連想する言葉、あるいはその言葉にまつわるその人の行為、それらを見た上で、その人が本当に理解しているのかどうかある程度判断することはできる。
・・・ではその判断基準の根拠はそもそも何なのだろうか? 結局のところ、自らがその言葉と具体的経験(イメージやら感覚やら)とを関連づけることができているからこそ、さらにはその言葉・経験に付随する様々な出来事が(イメージであれ感覚であれ)具体的経験として自分自身において理解できているからこそ、他者の言語使用やら言語にまつわる行為の正当性が判断可能となるのである。
さらに言えば、他者の行為を理解する、とはいかなることであろうか? これも結局は、その人を観察した時の「(ヒューム的)印象」、そして「怒っている」「喜んでいる」という「言葉」との関連づけなのであって、結局は名辞と観念・印象との関係へ還元されてしまうのである。
「意味の使用説」と呼ばれるものも、究極的には「言葉の意味=言葉に対応する経験」説へ還元されてしまうのだ。結局は経験へ行き着くのである。
萬屋氏は以下のように説明されているが・・・
意味の観念説に対しては、以下の常套的な批判が向けられることになる。すなわち、もし意味の観念説が正しいのであれば、異なる話者同士の会話における相互理解という事象が不可解なものとなってしまう、という批判である。その批判の骨子は、次のようになる。例えば、二人の話者が猫の生態について会話しているときに、両者が「猫」という言葉で相互の意味するところを理解しているのであれば 、両者は「猫」という言葉で同じことを意味していなければならない。では、なぜ両者は「猫」という言葉で同じことを意味できるのか。ここで、各々の話者の心的イメージとしての観念に頼っても無駄である。なぜなら、話者の心的イメージは、他人が直接確かめられないものだからである。このようにして、伝統的な解釈によるヒュームの見解は、異なる話者同士の会話における相互理解という事態を不可解なものとしてしまうことになる。(萬屋氏、299ページ)
言語を介した「感情の交流」における相互理解の可能性を強調している。そのため、もしヒューム自身が意味の観念説を採用しているとすれば、以上の批判はヒュームにとって深刻なものとなろう。(萬屋氏、299ページ)・・・その前に、萬屋氏はその”常套的な批判”が経験に則して「正当」なものなのか、そこから検証すべきであったのだ。
私とあなたが相互理解できたと思うとき、私の思い浮かべる「猫」の像とあなたの思い浮かべる「猫」の像とが完全一致せねばならないだろうか? そんな必要はないし、そもそも確かめようがない。しかし、私・あなたともに、「猫」という”名辞”とそれに対応する何がしかの観念(心像)あるいは印象というものが”セット”としてそれぞれに現れている(あるいは現れうる)、それ故に、お互いに「理解できた」と思えるのではなかろうか。
お互いに思う「猫」があり、その猫の性質やら、猫にまつわる物語やら過去の経験やら、それらを言語でお互いにやりとりし合いながら、それぞれの「猫」のイメージのズレに気づいたり修正したりすることも可能なのである。
つまり意味の観念説は「異なる話者同士の会話における相互理解という事態を不可解なもの」になどしないのだ。
2.そもそも経験論とは何なのか
萬屋氏をはじめとして、竹中氏、豊川市、澤田氏らの研究は、経験論的手法を全く無視した上で、ヒュームの言葉が分析哲学的文脈の中で”整合性”を持ちうるかどうかという検証に終始してしまっている印象を受ける。
経験論として最も重要である、以下の”経験論的手法”そのものがほとんど無視されてしまっているのである。
この人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は、経験と観察とにおかれなければならない。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、9ページ)・・・いかに論理を駆使したところで、具体的経験として明確に現れている事実があれば、それを否定しようがないのである。
どんな一般的名辞を用いるときでも、われわれは個物の観念を形作るのだということ、その際、これらの個物を残らず取り上げるのはほとんど、というよりけっしてできないということ、そして、取り残された個物は、その場の事情が必要とするときにはいつでも、それを呼び起こす習性によって代理を勤められるだけであるということ、これらは確かなことである。かくして、これが抽象観念、および一般的名辞の本性であり、そして、前に述べた逆説と思われること、すなわち、ある観念がその本性は個別的なのに、表現作用は一般的であるということも、このようにして説明されるのである。(ヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社:29~30ページ)・・・それが一般名詞であろうと抽象名詞であろうと固有名詞であろうと、その”名辞”に対応するものは、常に個別的観念(あるいは個別的印象)である、それは私的言語批判というものがあったとしても、厳然とした事実なのである。そして観念=心像である。
各々確かめてみれば良い。抽象名詞であろうと、固有名詞であろうと、一般名詞であろうと、それは何か、と問われれば、具体的事物・事象を示したり、思い浮かべたりするしかないのである。
部分・全体、あるいは上・下、という”名辞”においてでさえ、それらは何なのか、具体的に示そうとすれば、特定の物や図形を持ってきたり描いたりした上で、その物における何が部分・全体なのか、何が上・下なのか示すしかないのである。(※ そのあたりは、拙著、「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証(http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf)で詳細に説明しています)
この”事実”を無視した上で、いくら論理を駆使したところで、それは何の根拠にもなりえないのだ。
・・・萬屋氏のこの論文については、300ページ以降においても、指摘しておかねばならない問題点がある。しっかり検証しておきたい。
2019年5月31日金曜日
精神集中していても、していなくても、思考・判断していても、「私」について考えていても、やはり主客未分である/精神集中と時間感覚
(※ 2016年5月26日の記事に少し書き足したものです)
以下、西田『善の研究』の冒頭部分である。
要するに「判断」が加わったとしても、そこに「私」というものなどどこにも現れていない、一般的に「思惟」「思考」と呼ばれている経験においても、実際に何が経験として現れているのか・・・”具体的”に説明すれば良いのである。結局、そこには見えているもの・聞こえているもの・感じているもの、あるいは浮かんでいるイメージ、そして「言葉」、そういった具体的事象でしかない。そこには「私」「自己」というものなどどこにも現れてなどいないのである。
さらに言えば、「私」について考えているときでさえ、そこに”自我”というものなど現れてはいない。これも具体的に試してみれば良い。現れてくるのは、写真などに映された像、鏡に映された像、感じている感覚(情動的感覚なども)、(記憶として浮かんできた)情景やらその他の五感、そしてそれらを説明する言語、そういった具体的経験でしかない。それらはやはり「(観念的)自己」ではない。
鏡や写真に写っている像と、自ら感じている触感などの感覚、その他さまざまな経験とを因果的につなぎ合わせた上で、それを「私」と呼んでいるのである。
「私は考える」と思ったとしても、そこには「私は考える」という「言葉」と、具体的なイメージやら感覚しか現れていない。そこに観念的自己・自我などどこにも見つけることができないのである。
つまり、純粋経験から離れることなどできない、常に主客未分である。ウィトゲンシュタインが形而上学的自己などないと述べているが、まさにそのとおりなのである。
************************************
そして、多くの西田哲学研究者たちが勘違いしている事なのであるが・・・
精神集中していないということは、
注意があちこちに移ってしまうことである。
勉強しているのに、ついついテレビを見てしまったり、ラジオを聞いてしまったり、そういうことである。
このとき勘違いしてはならないのだが、
あくまで注意は勉強、テレビ、ラジオ、というふうに向かっているということなのだ。
そこに純粋経験の事実そのままとしての「自己意識」というものなどない。
つまり精神集中していなくても、純粋経験の事実としては主客未分であるのだ。
これは精神集中していても同じことである。
精神集中しているということは、例えば他のことに気持ちを奪われることなく、勉強している、ということである。
客観世界における理解においては、ただただ一つの対象に向かい続けている状態なのであって、「主客合一」という現象とは無関係なのである。
ただ、他のことについて考えている余地がないから、もちろん「私自身」について考えることもない。それ故に主客合一という言葉がなんだか説得力を持っているような気がしているだけなのだ。
以下の西田の説明、
純粋経験から「離れる」ことはできない
~西田幾多郎著『善の研究』第一編第一章「純粋経験」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report13.pdf
・・・で指摘したように、西田は、純粋経験における「一事実」の定義をしただけだったにもかかわらず、その 「一事実」から「他の事実」への「変化」を、「純粋経験を離れる」と誤認してしまったのである。これがおそらく『善の研究』における(西田自身の)最大の誤解、この誤解がその後の論理の混乱を招いているのだ。
あるものをじっと見ていたが、ふと時計を見たとする。それは経験の事実の「変化」であって、純粋経験から「離れた」わけではない。あくまで時計を見ているだけである。
テレビの番組を何気なく見ていたが、あるときハッと気が付いて、「あそこに映ってるのは近所に住む〇〇さんだ!」と叫んでしまったとする。これも単に叫んでしまったという経験の事実(あるいは何らかの情動的感覚やらも伴っているかもしれない)が現れた、それだけのことに過ぎないのである。
************************************
精神集中は主客合一の問題というより、むしろ時間感覚の問題であるように思われる。上記の西田の説明からも分かるように、集中しているとき、あるいはただ魅入られるようにそのものを眺めてしまったとき、それは純粋経験の「一事実」なのであって、それらは客観的時間概念(過去・現在・未来、あるいは時・分・秒、瞬間といったもの)などにより事後的に分割・分析する以前の「一事実」なのである。さらには、”心理学者のいうような厳密なる意味の単一感覚”に応じて事後的に分析・分割される以前の「一事実」なのである。
事後的に、記憶を頼りにその経験を分析して「ドの音からレの音に変化していた」とか「赤色から青色に変化していた」と変化を認め、そこに経験の変化があったのだ、と説明することはできる(要するに厳密なる意味の単一感覚)。しかしそれはあくまで「事後的」分析である。
しかし「変化している」「推移している」と具体的に分析しないでただ集中しているような場合、やはりそれは「純粋経験の一事実」なのである。このあたりの違いはあくまで”主観的”なものであり、明確な指標により区分できるものではない。ただそう思ったのだったらそういうことなのだ。
私が、
ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
来栖哲明著「西田幾多郎『善の研究』における純粋経験について」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report10.pdf
・・・において、既に述べてきたことであるが、純粋経験においては「時間」という経験の事実などどこにもない。ただ経験の「変化」を「認めた」、その「変化」を「時間」と呼んでいるだけ、ということである。
視覚だけではない、あらゆる感覚、情動など、様々な経験の変化を「時間」と呼んでいるのである。そして特定の物体の変化に周期性を見出し、時間という概念を当てはめているのだ。
集中している時は時間感覚がない。具体的に言えば、純粋経験の「一事実」から他の「一事実」への”変化”がない。しかし集中が途切れて別のものに気持ちが移るようになったとき、気が付けば朝だったはずが日が暮れているとか、周囲の物の変化(客観的時間とみなされる)との兼ね合いで、「時間が経つのが速く感じる」とか「遅く感じる」とかいう”主観的”時間感覚がもたらされるのではないだろうか。
これらのことを考え合わせると、
大人になってから時間が経つのが速いと感じるようになるのは、
大人になってからの方が集中力がついているからではないだろうか。
よく(?)、子どもの方が物事に夢中になれる、ように言われるが、実際には子どもは大人に比べ、注意散漫で一つのことに集中して取り組むことができない。
大人の方がより物事に「夢中に」なっている、ということが言えるのかもしれない。
竹田氏は、『エロスの世界像』(竹田青嗣著、講談社学術文庫)で次のように述べられている。
<「私」について考えていても主客未分>
以下、西田『善の研究』の冒頭部分である。
経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。(西田幾多郎著『善の研究』岩波文庫、17ページ)・・・この表現では、「判断」が加わってしまったら既に純粋経験ではないように思われてしまう。しかし西田は『善の研究』第一編において、知覚のみでなく、思惟・意志・知的直観も純粋経験であることを示そうとしているのである。多くの研究者たちがこの”矛盾”を整合的に説明しようと試みてきたが、矛盾は矛盾、ここは西田の誤りと見なすのが正解なのである。
要するに「判断」が加わったとしても、そこに「私」というものなどどこにも現れていない、一般的に「思惟」「思考」と呼ばれている経験においても、実際に何が経験として現れているのか・・・”具体的”に説明すれば良いのである。結局、そこには見えているもの・聞こえているもの・感じているもの、あるいは浮かんでいるイメージ、そして「言葉」、そういった具体的事象でしかない。そこには「私」「自己」というものなどどこにも現れてなどいないのである。
さらに言えば、「私」について考えているときでさえ、そこに”自我”というものなど現れてはいない。これも具体的に試してみれば良い。現れてくるのは、写真などに映された像、鏡に映された像、感じている感覚(情動的感覚なども)、(記憶として浮かんできた)情景やらその他の五感、そしてそれらを説明する言語、そういった具体的経験でしかない。それらはやはり「(観念的)自己」ではない。
鏡や写真に写っている像と、自ら感じている触感などの感覚、その他さまざまな経験とを因果的につなぎ合わせた上で、それを「私」と呼んでいるのである。
「私は考える」と思ったとしても、そこには「私は考える」という「言葉」と、具体的なイメージやら感覚しか現れていない。そこに観念的自己・自我などどこにも見つけることができないのである。
つまり、純粋経験から離れることなどできない、常に主客未分である。ウィトゲンシュタインが形而上学的自己などないと述べているが、まさにそのとおりなのである。
************************************
<精神集中していても、していなくても主客未分>
そして、多くの西田哲学研究者たちが勘違いしている事なのであるが・・・
精神集中していないということは、
注意があちこちに移ってしまうことである。
勉強しているのに、ついついテレビを見てしまったり、ラジオを聞いてしまったり、そういうことである。
このとき勘違いしてはならないのだが、
あくまで注意は勉強、テレビ、ラジオ、というふうに向かっているということなのだ。
そこに純粋経験の事実そのままとしての「自己意識」というものなどない。
つまり精神集中していなくても、純粋経験の事実としては主客未分であるのだ。
これは精神集中していても同じことである。
精神集中しているということは、例えば他のことに気持ちを奪われることなく、勉強している、ということである。
客観世界における理解においては、ただただ一つの対象に向かい続けている状態なのであって、「主客合一」という現象とは無関係なのである。
ただ、他のことについて考えている余地がないから、もちろん「私自身」について考えることもない。それ故に主客合一という言葉がなんだか説得力を持っているような気がしているだけなのだ。
以下の西田の説明、
たとえば一生懸命に断岸を攀ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の 如き、全く知覚の連続 perceptual train といってもよい( Stout, Manual of Psychology, p.252 )。また動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うて居るのであろう。これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡と を保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら 後者を惹起しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない。これを瞬間的知覚と比較するに、注意の推移、時間の長短こそあれ、その直接にして主客合一の点にお いては少しの差別もないのである。特にいわゆる瞬間知覚なる者も、その実は複雑なる経験の結合構成せられたる者であるとすれば、右二者の区別は性質の差ではなくして、単に程度の差であるといわねばならぬ。純粋経験は必ずしも単一なる感覚とはかぎらぬ。心理学者のいうような厳密なる意味の単一感覚とは、学問上分析の結果として仮想した者であって、事実上に直接なる具体的経験ではないのである。 (西田『善の研究』20~21 ページ)・・・を読むと、集中しているときが純粋経験で、集中が途切れたときに純粋経験から「離れて」しまうように思えてしまう。しかし、私が、
純粋経験から「離れる」ことはできない
~西田幾多郎著『善の研究』第一編第一章「純粋経験」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report13.pdf
・・・で指摘したように、西田は、純粋経験における「一事実」の定義をしただけだったにもかかわらず、その 「一事実」から「他の事実」への「変化」を、「純粋経験を離れる」と誤認してしまったのである。これがおそらく『善の研究』における(西田自身の)最大の誤解、この誤解がその後の論理の混乱を招いているのだ。
あるものをじっと見ていたが、ふと時計を見たとする。それは経験の事実の「変化」であって、純粋経験から「離れた」わけではない。あくまで時計を見ているだけである。
テレビの番組を何気なく見ていたが、あるときハッと気が付いて、「あそこに映ってるのは近所に住む〇〇さんだ!」と叫んでしまったとする。これも単に叫んでしまったという経験の事実(あるいは何らかの情動的感覚やらも伴っているかもしれない)が現れた、それだけのことに過ぎないのである。
************************************
<精神集中と時間感覚>
精神集中は主客合一の問題というより、むしろ時間感覚の問題であるように思われる。上記の西田の説明からも分かるように、集中しているとき、あるいはただ魅入られるようにそのものを眺めてしまったとき、それは純粋経験の「一事実」なのであって、それらは客観的時間概念(過去・現在・未来、あるいは時・分・秒、瞬間といったもの)などにより事後的に分割・分析する以前の「一事実」なのである。さらには、”心理学者のいうような厳密なる意味の単一感覚”に応じて事後的に分析・分割される以前の「一事実」なのである。
事後的に、記憶を頼りにその経験を分析して「ドの音からレの音に変化していた」とか「赤色から青色に変化していた」と変化を認め、そこに経験の変化があったのだ、と説明することはできる(要するに厳密なる意味の単一感覚)。しかしそれはあくまで「事後的」分析である。
しかし「変化している」「推移している」と具体的に分析しないでただ集中しているような場合、やはりそれは「純粋経験の一事実」なのである。このあたりの違いはあくまで”主観的”なものであり、明確な指標により区分できるものではない。ただそう思ったのだったらそういうことなのだ。
私が、
ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
来栖哲明著「西田幾多郎『善の研究』における純粋経験について」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report10.pdf
・・・において、既に述べてきたことであるが、純粋経験においては「時間」という経験の事実などどこにもない。ただ経験の「変化」を「認めた」、その「変化」を「時間」と呼んでいるだけ、ということである。
視覚だけではない、あらゆる感覚、情動など、様々な経験の変化を「時間」と呼んでいるのである。そして特定の物体の変化に周期性を見出し、時間という概念を当てはめているのだ。
集中している時は時間感覚がない。具体的に言えば、純粋経験の「一事実」から他の「一事実」への”変化”がない。しかし集中が途切れて別のものに気持ちが移るようになったとき、気が付けば朝だったはずが日が暮れているとか、周囲の物の変化(客観的時間とみなされる)との兼ね合いで、「時間が経つのが速く感じる」とか「遅く感じる」とかいう”主観的”時間感覚がもたらされるのではないだろうか。
これらのことを考え合わせると、
大人になってから時間が経つのが速いと感じるようになるのは、
大人になってからの方が集中力がついているからではないだろうか。
よく(?)、子どもの方が物事に夢中になれる、ように言われるが、実際には子どもは大人に比べ、注意散漫で一つのことに集中して取り組むことができない。
大人の方がより物事に「夢中に」なっている、ということが言えるのかもしれない。
竹田氏は、『エロスの世界像』(竹田青嗣著、講談社学術文庫)で次のように述べられている。
何らかの努力を維持しつつ耐えること、それが実存的な意味での時間性の源泉である。言い換えれば、「砂糖が水に溶ける」その自然科学的プロセスが時間の本質なのではない。砂糖水を飲もうとする「欲望=身体」が、それが溶けるのを待つこと、自分の欲望の「ありうる」に耐えること。ここに「時間性」の本質が存在するのである。(竹田氏、250ページ)・・・これまでの私の説明から、この竹田氏の見解は非常に的外れなものであることがわかっていただけるであろうか? そもそも「欲望」というものが具体的経験として実際に現れているだろうか?
2019年5月23日木曜日
見えているものはやはり見えている
山口西田読書会
私は今何を見ているのか
http://yamaguchi-nishida.org/sanoblog/906
・・・からの引用である。
そこに見えているものを「青」と言語表現した、視覚経験と「青」という言語が繋がった、その経験を「判断」と呼んでいるのであって、”言葉を見ていたの?”とはあまりにひどい論理の誘導である。「事実其儘」はどこに行ったのだろうか?
「判断」していても、見えているものはやはり見えているのである。「青だ」と判断したとたんに見えているものが消えてなくなるのだろうか?
私は今何を見ているのか
http://yamaguchi-nishida.org/sanoblog/906
・・・からの引用である。
例えば今目の前に青いマーカーがありますよね。でも「青を見ている」と言ってしまうと、もう青は見ていません。だって判断してますから。見てはいない。でも判断できるんだから、何も見ていなかったわけじゃない。何を見ていたのかな?「青を見ている」の「青」は言葉だから、言葉を見ていたの?(佐野氏)・・・これはいくらなんでもひどい詭弁ではないだろうか? 誰も反論しないのが不思議でならない。
そこに見えているものを「青」と言語表現した、視覚経験と「青」という言語が繋がった、その経験を「判断」と呼んでいるのであって、”言葉を見ていたの?”とはあまりにひどい論理の誘導である。「事実其儘」はどこに行ったのだろうか?
「判断」していても、見えているものはやはり見えているのである。「青だ」と判断したとたんに見えているものが消えてなくなるのだろうか?
2019年5月14日火曜日
理念型としての「純粋経験」!
里見軍之著「純粋経験について」『待兼山論叢』第33号哲学篇(1999) 、1~13ページ
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/9361/mrp_033-001.pdf
・・・というのをたまたま見つけたのだが、(まだ読み始めたばかりであるが)
ただ、様々な哲学者による経験、純粋経験の位置づけを知るにはそれなりに参考にはなりそうだ。
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/9361/mrp_033-001.pdf
・・・というのをたまたま見つけたのだが、(まだ読み始めたばかりであるが)
理念型としての「純粋経験」(里見氏、1ページ)・・・という表現には正直たまげた。ここでヴェーバーか! 経験論における純粋経験とは全くかけ離れた考え方である。純粋経験が理念・・・
ただ、様々な哲学者による経験、純粋経験の位置づけを知るにはそれなりに参考にはなりそうだ。
****************
一般的に、哲学者は経験論的思考が非常に苦手な人たちのように見受けられる。というか経験論的・具体的思考の否定、抽象的思考=哲学、のように勘違いしている節がある。経験論者でさえちょっと油断すると、すぐに抽象的思考へ向かってしまいがち、抽象概念のいじくりまわしに陥ってしまうのである。
ジェイムズでさえ、経験を額面どおり受け取ると言いながら、結局は抽象的思考へ進んでしまったし・・・「理念型」と捉えられても仕方ない面があるのも事実である。
****************
そういえば、ヒュームの因果関係の分析もできたし、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』後半部分の分析の準備も整いつつあるかもしれない。
2019年5月12日日曜日
印象⇒観念の関係とは、ある観念(心像)が浮かんできたとき、それが特定の経験の記憶として同定できるかどうか、ということに集約される
(今日はあわてて書いたので、文章が少し変かもしれません)
ヒューム『人性論』の分析をどのように進めていくか、いろいろ考えているのだけど、様々な問題が、それぞれ関連し合っているので、どこからどう攻めたものか、なかなか難しいところがある。
『人性論』は難解な言葉が使われていないから、一見読みやすそうに思えるかもしれないが、ヒューム自身の見解のブレもあって、実際のところはけっこう読み進めるのが難しいのである。そして掘り下げると様々な哲学的問題がかかわっていることに気づくはずだ。(ヒューム研究に携わる人は別にして)巷の読者はけっこう雑に読んでしまっている印象がある。
************
ヒューム『人性論』の第一巻における重要な問題点は、とりあえず思いつくところを挙げてみると、
①印象⇒観念、の関係(複写理論・コピー理論)
②時間と空間
③抽象観念とは
④関係とは(因果関係含む)
⑤記憶と想像の違い
⑥信念とは
⑦ 情念と印象・観念とのかかわりあい・・・⑥と関連して
⑧存在とは
・・・といったところだろうか。拙著(ヒューム『人性論』分析:「関係」について)では②③④について書いたものである。
ここのところ考えているのは、複写理論・コピー理論を掘り下げていけば、⑤⑥⑦の問題も関連して扱えるかな・・・ということである。
複写理論・コピー理論については、
澤田和範著「ヒュームの因果論における必然性の観念について」『哲学論叢』38、2011年、 61~72ページ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173207/1/ronso_38_061.pdf
豊川祥隆著「ヒュームの関係理論再考―関係の印象は可能か―」『イギリス哲学研究』 39(0)、日本イギリス哲学会、2016年、67~82ページ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sbp/39/0/39_2016_0067/_article/-char/ja
・・・でも触れられているが、よくよく掘り下げて考えてみると、澤田氏・豊川氏とは全く別の論点が浮かび上がって来るのである。これについては後日じっくり論じてみたい。
複写理論について、念頭に置いておかねばならないのは、
(1)複写理論・コピー理論も結局は「因果関係」である。因果関係であるから恒常的相伴以上の必然性を見いだすことはできない。また複写理論を因果関係の根拠づけに用いることはできない。因果関係で因果関係の根拠づけをすることになるからである(循環論法)。
(2)単純観念が浮かんできたとき、そのオリジナルとなる印象は既にどこにも見つけることはできない。以下の西田幾多郎の指摘がまさにそういうことである。
そこで、記憶と想像との違い、という問題が関連してくる。そしてその答えは、ヒューム自身がシーザーの事例で示しているように、特定の時間と関連づけてその観念を説明できるかどうか、つまり実際に起った事実として認められるかどうか、という問題になって来るのである。(時間のみでなく、空間的位置づけも問題になって来る)
(ということは、想像した事実があれば、それも「事実」なのであって、ある事象が生じれば特定の想像を呼び起こすという因果関係も成立しうる)
・・・今日は時間切れなので、このあたりで。
***********
<「類似原理」は確かめようがない>
豊川氏は次のように説明されている。
ヒューム『人性論』の分析をどのように進めていくか、いろいろ考えているのだけど、様々な問題が、それぞれ関連し合っているので、どこからどう攻めたものか、なかなか難しいところがある。
『人性論』は難解な言葉が使われていないから、一見読みやすそうに思えるかもしれないが、ヒューム自身の見解のブレもあって、実際のところはけっこう読み進めるのが難しいのである。そして掘り下げると様々な哲学的問題がかかわっていることに気づくはずだ。(ヒューム研究に携わる人は別にして)巷の読者はけっこう雑に読んでしまっている印象がある。
************
ヒューム『人性論』の第一巻における重要な問題点は、とりあえず思いつくところを挙げてみると、
①印象⇒観念、の関係(複写理論・コピー理論)
②時間と空間
③抽象観念とは
④関係とは(因果関係含む)
⑤記憶と想像の違い
⑥信念とは
⑦ 情念と印象・観念とのかかわりあい・・・⑥と関連して
⑧存在とは
・・・といったところだろうか。拙著(ヒューム『人性論』分析:「関係」について)では②③④について書いたものである。
ここのところ考えているのは、複写理論・コピー理論を掘り下げていけば、⑤⑥⑦の問題も関連して扱えるかな・・・ということである。
複写理論・コピー理論については、
澤田和範著「ヒュームの因果論における必然性の観念について」『哲学論叢』38、2011年、 61~72ページ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173207/1/ronso_38_061.pdf
豊川祥隆著「ヒュームの関係理論再考―関係の印象は可能か―」『イギリス哲学研究』 39(0)、日本イギリス哲学会、2016年、67~82ページ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sbp/39/0/39_2016_0067/_article/-char/ja
・・・でも触れられているが、よくよく掘り下げて考えてみると、澤田氏・豊川氏とは全く別の論点が浮かび上がって来るのである。これについては後日じっくり論じてみたい。
複写理論について、念頭に置いておかねばならないのは、
(1)複写理論・コピー理論も結局は「因果関係」である。因果関係であるから恒常的相伴以上の必然性を見いだすことはできない。また複写理論を因果関係の根拠づけに用いることはできない。因果関係で因果関係の根拠づけをすることになるからである(循環論法)。
(2)単純観念が浮かんできたとき、そのオリジナルとなる印象は既にどこにも見つけることはできない。以下の西田幾多郎の指摘がまさにそういうことである。
記憶においても、過去の意識が直に起ってくるのでもなく、従って過去を直覚するのでもない。過去と感ずるのも現在の感情である。抽象的概念といっても決して超経験的の者ではなく、やはり一種の現在意識である。(西田幾多郎『善の研究』岩波文庫、17ページ)・・・つまり印象⇒観念の関係とは、ある観念(心像)が浮かんできたとき、それが特定の経験の記憶として同定できるかどうか、ということに集約されるのである。
そこで、記憶と想像との違い、という問題が関連してくる。そしてその答えは、ヒューム自身がシーザーの事例で示しているように、特定の時間と関連づけてその観念を説明できるかどうか、つまり実際に起った事実として認められるかどうか、という問題になって来るのである。(時間のみでなく、空間的位置づけも問題になって来る)
(ということは、想像した事実があれば、それも「事実」なのであって、ある事象が生じれば特定の想像を呼び起こすという因果関係も成立しうる)
・・・今日は時間切れなので、このあたりで。
***********
<「類似原理」は確かめようがない>
豊川氏は次のように説明されている。
コピー原理は、「初めてわれわれに現れるすべての単純観念は、それに対応し、それが正確に表象するところの単純印象に由来する」(T.1.1.1.7)と定式化される。この原理は、単純印象と単純観念の間に成立する二つの関係を示している。第一に、ある単純印象と単純観念は、内容的に類似する。例えば、青の単純印象と単純観念は、われわれに現れる鮮明さの点で異なるだけで、その内容は同一である。この関係性を、「類似原理」と呼ぶことにしたい。また第二に、ある単純観念が生じるためには、その内容を共有する単純印象が先に現れている必要がある。青を観念として思い浮かべるためには、あらかじめ青が印象として知覚されていなければならない。この関係性を、「先行原理」と呼びたい。そしてコピー原理は、「第一原理」(T.1.1.1.12)と言われているように、ヒューム哲学にとって極めて重要であり。他の体系の批判の際に盛んに用いられている。(豊川氏、69ページ)
・・・上記の「類似原理」は確かめようがない。あるいは「類似」を確かめるためには写真に撮ったり、音なら録音したり、そういった因果関係に依存した事実把握に依らざるをえない、ということである。さらに、実際にそれが自分がそのときに撮影したのかどうかも、記憶の観念(心像)に基づかざるをえない。しかもそのときの「印象」など既にどこにも残っていないのである。
さらに言えば、「黄色」の単純観念がもたらされるために、その「印象」をどこに辿れというのであろうか・・・? 個人的にそんなこと覚えてなどいない。黄色のものをあちこちに見出すことはできる。しかしそれがどの「印象」に由来するのかなど確かめようがないのである。結局、黄色のものを見たことのない人と黄色のものを見たことがある人とを比較した上で因果的に、印象と観念との関係を導きだすしかないのである。
2019年4月24日水曜日
因果推論するのに必然性あるいは恒常的相伴は必要ない
澤田和範著「ヒュームの因果論における必然性の観念について」『哲学論叢』38、2011年、 61~72ページ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173207/1/ronso_38_061.pdf
・・・を読み始めた。
そもそもの話なのだが、因果推論するのに「必然性」を伴う必要があるのだろうか?
必然性がないと因果推論できないのだろうか?
私たちは、日ごろから必然性などおかまいなしに因果推論している。因果推論が「正しく」なければ因果推論できないのか? そんなことはない。皆さん根拠があろうとなかろうと勝手に因果推論している。(ただそこで間違ってならないのだが、因果推論したことが事実である、ということは、因果律がア・プリオリであるということではない。)
その因果推論が「正しい」のか「間違いなのか」・・・それは新たに現れる事実により確認されるのである(”新たな”事実とは、これまで知らなかった過去の経験である可能性もある)が・・・そこで初めて「恒常的相伴」が問題となって来るのだ。
そしてヒュームがここで「印象」を持ち出しているのは、因果関係の「正しさ」は事実によってもたらされるのであって、「想像」によってもたらされるのではない、ということなのである。そこでヒュームが想像と記憶との違いは何か、と問う意義があるのだ。
ただ・・・ヒューム自身、因果推論した「理由」と因果推論の「正しさ」(=客観性=恒常的相伴)の検証の問題とを混同しているため、論理に混乱を来してしまったのである。
推論に必然性をいくら探しても見つからないのは当然なのだ。
さらに言えば、因果推論の「原因」「理由」を探しても、結局それも「因果推論」にならざるをえない。(つまり”無限後退”であるが、澤田氏の言われる”無限後退”がこのことに関連しているのかどうかは、後日、論文の後半部分を読んで判断したい。)
<関連するレポート・ブログ記事>
ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
ヒュームは因果推論における「経験」の位置づけを見誤っている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post.html
ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_6.html
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173207/1/ronso_38_061.pdf
・・・を読み始めた。
そもそもの話なのだが、因果推論するのに「必然性」を伴う必要があるのだろうか?
必然性がないと因果推論できないのだろうか?
私たちは、日ごろから必然性などおかまいなしに因果推論している。因果推論が「正しく」なければ因果推論できないのか? そんなことはない。皆さん根拠があろうとなかろうと勝手に因果推論している。(ただそこで間違ってならないのだが、因果推論したことが事実である、ということは、因果律がア・プリオリであるということではない。)
その因果推論が「正しい」のか「間違いなのか」・・・それは新たに現れる事実により確認されるのである(”新たな”事実とは、これまで知らなかった過去の経験である可能性もある)が・・・そこで初めて「恒常的相伴」が問題となって来るのだ。
そしてヒュームがここで「印象」を持ち出しているのは、因果関係の「正しさ」は事実によってもたらされるのであって、「想像」によってもたらされるのではない、ということなのである。そこでヒュームが想像と記憶との違いは何か、と問う意義があるのだ。
ただ・・・ヒューム自身、因果推論した「理由」と因果推論の「正しさ」(=客観性=恒常的相伴)の検証の問題とを混同しているため、論理に混乱を来してしまったのである。
我々は一方の対象の印象が心に現れると、もう一方の対象の観念を思い浮かべる。これが因果推論である。この推論はアプリオリに対象を考察しただけでは不可能であり、経験がそれを可能にすることがわかる。すなわち、二対象が「恒常的随伴」の関係にあるのを 経験して初めて、因果推論は起こる(T 1.3.6.3)。経験を考慮に入れることによって、我々は 恒常的随伴という新たな関係を発見できたのである。ところが、この関係の発見によっても事態は好転しない。恒常的随伴は「どんな新しい観念もけっして発見できず、ただ精神の対象を多数化することができるだけで、拡大することができない」(ibid.)からである。必然性の観念は依然として見つからない。(澤田氏、62ページ)・・・因果推論は、”二対象が「恒常的随伴」の関係にあるのを経験して初めて”起こるのではない(澤田氏はまずここを指摘すべきであったのだが)。因果推論とは、ただ未知の事象を因果的に推測した具体的経験であるに外ならず、その未知の事象が実際に経験として現れることでその推論が「正しい」と確かめられるまではその「正しさ」「必然性」は確保されることがないのである。
推論に必然性をいくら探しても見つからないのは当然なのだ。
さらに言えば、因果推論の「原因」「理由」を探しても、結局それも「因果推論」にならざるをえない。(つまり”無限後退”であるが、澤田氏の言われる”無限後退”がこのことに関連しているのかどうかは、後日、論文の後半部分を読んで判断したい。)
我々は外的対象において、必然的結合を知覚することはできない。我々は外的対象間の必然性を信じるために、精神の被決定に訴えることになる。しかし、「この精神の被決定の 印象とは対象 Aの印象の現前が対象 Bの観念の現前の原因であるという、したがって、対 象 A の印象が対象 B の観念と必然的に結合しているという印象に他なら[ない]」(木曾, 1995, 531頁)。そうだとすれば、厄介なことに、この対象 Aの印象と対象 Bの観念との必 然的結合に関しても、事態は外的対象間の必然的結合の場合と変わらない。「我々の内的知覚の間の結合原理は、外的知覚の間の結合原理と同様に、知的に理解できず、経験によ って知る他には知りようがない」(T 1.3.14.29)とヒューム自身が認めているからである。(澤田氏、64ページ)・・・澤田氏の指摘はもっともであろう。複雑観念に関して、ヒュームは「きずな」「穏やかな力」「引力」という用語を持ち出している。しかしこれは明らかにヒューム自身のブレである。
今度は、その知覚間の必然的結合を「その知覚の知覚」間の、別の新たな精神の被決定で説明してしまおう。これがヒュームの戦略だというわけである。・・・必然性の「観念」などどこにあるのか、という問題もあるのだが。あるいは経験論においては、恒常的相伴がまさに必然性そのものなのである。科学的客観性も恒常的相伴(再現性)に他ならない。
しかし、このような議論では、問題を先送りにしただけで、観念の起源を説明し切れないことは明らかであろう。(澤田氏、64ページ)
ヒュームが、一方で、「精神の被決定を感じる」と主張しながら、他方で、外的対象間にも内的知覚間にも必然的結合を知覚できないと主張していることに鑑みれば、無限後退説はヒュームの因果論の避けがたい破綻を捉えているように見える。しかし、これはあまりに破壊的な解釈である。この解釈から、ヒュームを救い出すことはできないだろうか。(澤田氏、65ページ)・・・果たして澤田氏はこのあとどのような論理に持っていかれるのか? 明日以降の楽しみ(??)にしておこうと思う。
<関連するレポート・ブログ記事>
ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
ヒュームは因果推論における「経験」の位置づけを見誤っている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post.html
ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_6.html
登録:
投稿 (Atom)
『純粋経験論』ペーパーバック・kindle版ともに販売中です!
西田幾多郎『善の研究』の混乱する理論から、純粋な経験論を救い出す試みです。西田や純粋経験に関する他の一般的な書籍とは内容が全く異なります。 純粋経験論: 西田幾多郎『善の研究』第一編第一章「純粋経験」分析より amzn.asia 990 円 (2026年04月22日 11:14時...
-
Mick's Page https://mickindex.sakura.ne.jp/index.html にある、 心理主義批判――言葉の意味は心的イメージではない https://mickindex.sakura.ne.jp/wittgenstein/witt_oth...
-
小口峰樹著「知覚は矛盾を許容するか ? 」『 Citation Contemporary and Applied Philosophy (2014) 』 5 、 1016 ~ 1032 ページ ・・・の分析です。3章構成になる予定です。 (※ 2019年4月20日:...
-
二変数の論理式における完全性の証明 https://drive.google.com/file/d/1iqi5SlhW12Ti39yh7VF2iIlNbn9XitX-/view?usp=drive_link 書きました!