2022年7月1日金曜日

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。


実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf


本稿は、拙著、

条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法の真理値設定の問題点

http://miya.aki.gs/miya/miya_report32.pdf 

の続編として、条件文の真理値についてさらに詳細に論じるものである。

 実質含意のパラドクス・厳密含意のパラドクス、あるいはそれに伴う(池田氏の言われるような)“違和感”は、条件文における論理学的真理値設定、とくに前件が偽ならば後件が真でも偽でも全体として真となってしまう設定それ自体に誤りがあることからもたらされている部分があるのではないだろうか。

 本稿では1~3章でいくつかの具体的事例を挙げた上で、条件文の真理値は(とくに前件が偽の場合)異なった値をとりうること、そして論理学的真理値設定に普遍性を見出すことはできないことを示し、4章以降(3章でも命題を引用している)では池田真治著「哲学演習「論理学入門」補論」(2016年)を参考にしながら、実質含意、厳密含意、伴立について分析し、条件文の真理値についてより詳細に考察してみたい。

 そして「哲学演習「論理学入門」補論」を無償で公開してくださっている池田氏に謝意を示したい。


<目次>

1.ダメットの言う「条件付き賭と真理関数的条件法を当てにする賭」は真偽関係ではない (2ページ)

2.包含関係における真理値(3ページ)

3.因果的「ならば」の場合(4ページ)

4.論理学的真理値設定は具体的事実によって支持されていない(5ページ)

5.関連性・伴立に関する誤解(7ページ)

6.結局、具体的事例をもって個別に考えるしかないのでは(10ページ)

<引用・参考文献>(11ページ)


2022年6月25日土曜日

実質含意のパラドクス・厳密含意のパラドクスの問題は、条件文の(恣意的な)論理学的真理値設定に起因しているのではなかろうか

 先日、

条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法の真理値設定の問題点

http://miya.aki.gs/miya/miya_report32.pdf

を公開したが、その続編のようなものとして、次の二つの論点についてまとめているところである。


(1)実質含意のパラドクス・厳密含意のパラドクスの問題は、条件文の(恣意的な)論理学的真理値設定に起因しているのではなかろうか

これに関しては、

池田真治著
哲学演習「論理学入門」補論(2016年)

を参考にしている。

わざわざ「第二次世界大戦が 1941 年に終戦したならば、富山は日本の首都になっている」のようなとっぴょうしもない命題(?)を引き合いに出すまでもなく、「Xが犬ならばXは動物である」のような違和感なく受け入れられそうな普通の命題に関しても、前件が偽の場合、池田氏の言われるような厳密含意のパラドクスと同様の問題が生じてしまうのである。

「Xが犬ならばXは動物である」についてよく考えてみてほしい。前件が偽のときに、命題全体が真であると言えるであろうか? 「馬が犬ならば、馬は動物である」「石が犬ならば、石は動物である」が真であると言えるだろうか? 


(2)前原氏の、演繹論理から条件法、さらには連言・選言の真理値を”証明”する手法は循環論法に陥っているのではないか

前原昭二著『記号論理入門』(日本評論社、新装版、2005年)の手法がどう見ても無理やりな”こじつけ”にしか思えないので、そこを明確に説明しておきたい。

真理値を”証明”するための論理式(一応論理学ではトートロジーと呼ばれているもの)が(論理学的演繹によって)証明される際に、前提とされる命題の真理値が暗に示されてしまっている。しかし前原氏はそこを無視して、その前提と相容れない真理値を代入し、条件法の真理値を”証明”しようとしてしまっているのだ。








2022年6月11日土曜日

条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法の真理値設定の問題点

 条件文「AならばB」は命題ではない? 

~ 論理学における条件法の真理値設定の問題点

http://miya.aki.gs/miya/miya_report32.pdf


『数学にとって証明とはなにか』(瀬山士郎著、講談社)を読んで、もともとあった条件文への違和感がさらに強まってしまったので、本稿でその問題点をまとめてみました。

論理学の専門家の方々からのご意見もいただければ幸いです。


<目次>

1.条件文は命題ではない? (1ページ)

2.対偶にしてみると条件文の真理値への違和感が際立つ(4ページ)

3.矛盾から任意の命題が無条件に導出されるのか? (5ページ)

4.A→(B→A)とはいったい何なのか? (7ページ)

5.条件法における論理学的真理値設定の普遍性を正当化する根拠は見当たらない:ダメットの条件法真理値に関する見解について (8ページ)

6.ナンセンス文は真とは言えない (11ページ)

7.論理は現実との関連を失えばその真偽の根拠を失う (13ページ)

8.トートロジーは現実から見いだされるもの (14ページ)

<引用・参考文献> (16ページ)


2022年5月22日日曜日

論理学は哲学の起点ではなく、論理の根拠を追求するのが哲学

 M.ダメット『真理という謎』(藤田晋吾訳、勁草書房、1986年)掲載の「フレーゲの哲学(1967)」(44ページ~)より・・・

フレーゲにとっては論理学が哲学の起点であった。もしわれわれが論理学を正しくとらえないならば、他の何ものをも正しくとらえられないのである。他方、認識論はと言えば、それは哲学の他のどの分野にも先立ちはしない。われわれは、まず始めに認識論的研究を企てるなどということをしなくても、数学の哲学、科学哲学、形而上学、あるいはその他われわれの関心をひくいかなることでも、やってゆけるのである。(ダメット、47~48ページ)

・・・しかし論理というものがいかにして「正しい」と言われるのか、その根拠の問題が残る。私たちの日常生活においては、論理学的論理が適用できる状況とできない状況とが実際にある。

 そしてフレーゲ自身、(それが実際に正しかったかどうかは別にして)論理学というものを成立させるための様々な用語や考え方というものを細々と整理し説明しようとしているのである。論理学というものが成立するための条件というものを模索していたのだと言えよう。

 わざわざ意味とか意義とか指示とか対象とか述語とか概念とか、いろいろな用語の定義をし、論理を成立させるための前提条件を整えようとしているのである。これが「認識論的研究」でなくてなんであろうか?

 さらに結果として、以下のことが不可能であるということも明らかとなった。

もし証明が完全に形式化されたならば、証明の正しさを判定するために直観に訴えるということは不要になるであろう(ダメット、49ページ)

・・・フレーゲの考え方は循環論法に陥るだけである。論理を起点にすればおのずからそうなってしまうのである。


2022年5月20日金曜日

言葉に対応する具体物・具体的知覚経験なしに論理など導きようがない

 M.ダメット『真理という謎』(藤田晋吾訳、勁草書房、1986年)掲載の「フレーゲの哲学(1967)」(44ページ~)を読んでいるだが、全く共感・賛同できない・・・


「語の意味を孤立させて問い求める」という誤謬”(ダメット、58ページ)というが、どこが誤謬なのだろうか? “文を構成している語を理解することによって事実上その文の理解に達する”(ダメット、58ページ)のだから、それぞれの語の意味を孤立させて問い求めることも普通にできるはずであるし、そこに何の問題もなかろう。

当の語を含む種類の文に目を向けることなしにその語の意味に神経を集中しようとすることは、語が何か具体的な対象を指示するというまれな場合を除けば、その語の意味としてある心像を選びとらせることになろう、と。(ダメット、58ページ)

・・・と言うが、そもそも意味のある語には「具体的対象」というものがある。具体的対象が「意味」なのである。それは当然私たちの知覚経験として現れる。これは疑いようもない事実である。そしてそれが目の前になければ、当然心像として呼び起こされるだけである。心像もやはり”具体的”な知覚経験であることに変わりはない。そこに何の問題があるのだろうか? 

そもそも具体的な対象を指示することが「まれ」という説明にも同意しかねる。具体的対象のない言葉にいったい何の意味があるのだろうか? 

具体的対象とは、別に実在物でなくても良い(もちろん実在物でも良い)。触感や匂いや特定の精神状態でも良い、いずれにせよ私たちの知覚経験として具体的に現れるものなのである。心像も当然具体的対象に含まれうる(フレーゲはそうは考えていないようだが)。

そもそも心像も現れないような語に意味などあるのだろうか? むしろそれは「矛盾」と呼ばれるものなのではなかろうか。例えば「丸い四角」とか「平面で交わる平行線」とか「4本の線分からなる三角形」とか言う場合である。要するに「具体的対象」の現れない語のことである。

(※ もちろん未だ知らないものについても心像は現れないだろう。また、正百角形といったものは漠然としたイメージしか現れず、正確な心像を描くことは不可能であるが、それを実際に描くことは可能だ、それは実際に作りだすことができると確信されているようなものもある。具体的実在物になりうるという確信がある場合である。具体的実在物ということは、何らかの形で私たちが実際に目撃することが可能であるということでもある。)

そして、文の中から共通する論理というものを見出そうとするのであれば、命題文に含まれるそれぞれの語が明確な定義、あるいはあいまいさのない語の意味の厳密さというものが求められる。

それに代えてわれわれがなすべきことは、その語が現れるもっとも一般的なかたちの文の真理条件を規定することである。そのような規定は完全文に関係することだから、われわれが問題になっている語の明示的定義を経て進まねばならないとする理由はない。(ダメット、58ページ)

・・・このあたりの説明もよく分からないのである。たとえば、「晴れたならば散歩に行く」というA→Bといった命題(とりあえすそう呼んでおく)にしても、「晴れ」とは何か「散歩」とは何か、それぞれの語の意味を明確に定義しておかねば論理そのものを一般化できない。家を少し出れば散歩なのか、ある程度の時間歩かないと散歩にならないのか、小走りはどうなのか・・・

それは排中律においてもそうである。「彼は優しいか優しくないかのどちらかである」と言われても、優しいという言葉が非常にあいまいである。どちらとも言えないようなあいまいさがあれば排中律は成立しない。

完全文の真理条件を規定するためには、文中の語がそれぞれきっちり定義されている必要があるといえる。


「概念と対象」という「二階の概念」と「一階の概念」(ダメット、58ページ)という考え方にも賛同できない。そもそも「概念」というものがどこにもない。「性質」といえどもそれは”具体的対象”あっての性質である。述語には述語に対応する”具体的対象”というものがある。赤いとか、柔らかいとか・・・何らかの具体的対象・具体的知覚経験を見出すことが出来て初めてその言葉に意味があると言えるのである。そしてそこにあるのはあくまで言葉と対象(具体的知覚)のみであって、そこに一階も二階もないのである。

 前原氏は、

 ある性質Fをもつ個々の具体的なものではなしに,その性質Fのみをもつ抽象的なものを一般的に考えた場合,それを<概念>とよぶのでありますが,われわれは,そのような,性質Fをもつものという<概念>と,性質Fそのものとを同一視するのであります.(前原昭二著『記号論理入門』日本評論社、2021年、8ページ)

<概念>というものは確かに抽象的なものではありますが,それにもかかわらず,われわれに何かある具体的な<もの>を連想させます.<性質>とは,そのような連想をたち切った,より高度の抽象性をもったものであります.(前畑著『記号論理入門』、8ページ)

・・・と説明されているが、本当にそうだろうか? 性質は“抽象的”なものなのだろうか? 先に述べたように性質であろうと、ある言葉で表されたものには何らかの具体的対象物が現れうる。ヒュームの言うように、抽象観念(「観念」という言葉に問題はあるものの)といえどもその言葉に現れるものは具体的知覚経験なのである。連想をたち切られるような言葉はむしろ「無意味」なもの(あるいは私たちがまだ知らないもの)、その言葉を用いて論理を導くことなど不可能なのではなかろうか。



2022年5月19日木曜日

今は条件法(条件文)の真理値に関する問題についてまとめているところです

条件文(条件法)の真理値の問題は、カピ哲の方に書いてます。

興味のある方はぜひ。

ダメットもこの関連で読み始めました。そのうちレポートに加える予定です。

カピ哲!|note 

https://note.com/keikenron/


(以下、メモ的にとりとめもなく・・・)

そのうち「真理」とはパーソナルなものである、ということについて説明しておきたいと思っています。「正しい」と思っていることが私にとってその時点における「真理」にほかなりません。私たちは実際それが「正しい」と思っているのですから。

そして、それが間違いであったと分かるような新事実を知ったり、他の人に説明してもらったりすれば、新たな事実を新たな「真理」として認めるようになる、

そしてその真理がより広く共有されているか、されていないのか、それはまた別の問題です。客観的真理と言えるのかどうか、そこはメディアを介して、あるいは他者とのコミュニケーションの中で確かめられていくものです。


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私は直観主義には共感しません。

古典論理の一部が認められないという話は、無限云々よりも、むしろ論理の局地性あるいは「公理系の局地性」(野矢茂樹著『論理学』東京大学出版会、207ページ)の問題だと思うからです。

ある公理系を定めたとしても,必ずそこからはみ出るものがある(野矢、207ページ)

・・・という事実は、別にゲーデルを引き合いに出さなくても理解可能だと思います。


論理というものは、私たちの一般的・日常的事実認識により根拠づけられるもの、そこから抽出されるものであって、視点を変えるとまた別の論理が抽出できてしまう。ある場面では適用できる論理が別の場面では適用できない。

古典論理とはあくまでその一つであるにすぎません。(だからこそ現代においていろいろな論理が試みられているのでしょうが)

そして私たちの事実認識、私たちが一般的に正しいと思っている事柄から離れてしまえば、論理というものはその正しさの根拠を失ってしまうのです(論理学者の多くはそうは思っていないようですが)。

これについても後日論じてみたいです。


<関連するレポート>

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証

http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

(Ⅳ章で論理の問題について説明しています)


“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf

(付録で緒言分析もしてます。論理の根拠の問題は主にこの付録でしています)


2022年5月18日水曜日

物の存在や認識の正しさの根拠は、究極的に知覚経験である

 M.ダメット『真理という謎』(藤田晋吾訳、勁草書房、1986年)を読んでいるのだが、ものの考え方というか考え方の順序というか、思考方法というか・・・なんかずれているというか違和感をどうしても抱いてしまう。

分析哲学における、言葉の意味を知覚経験に求めることへの嫌悪感というか、「心理主義」という言葉一つでもう許されないもの、と拒否されてしまうというか・・・

心理主義が悪いのは、実際に事実として表れている(知覚)経験ではなく、(様々な知覚経験をもとに)因果的に心的「作用」とか「働き」とかを想定して、それらを理論的根拠にしてしてしまうこと、あるいはそれらを心理学的な理論として構成し、そこからものの存在の根拠やら哲学の学問的根拠にしようとすることなのであって、知覚経験そのものを事実として扱うことには何の問題もない。

繰り返すが、問題は心理学的な理論から哲学やら真理やらを根拠づけようとすることなのであって、事実として現れている具体的知覚経験、そしてその知覚経験と言葉が関連づけられている事実を否定などしようがないのである。

そもそも、私たちが認識の正しさを確かめる根拠として知覚経験を用いることは疑いようもない事実、実際に日常的に私たちはそうして「正しさ」を確認している。この”当たり前”すぎる事実を分析哲学者は拒否しようというのだから、一般的な真理感覚と乖離してしまうのは当然なのである。

「それは本当か?」と聞かれれば、「じゃあ実際に見せてあげるよ」と言う場面はよくあるだろうし、真偽を確かめるためにそのものを実際に見に行く、というのは私たちの一般的感覚とまさに一致している。

実物を見せられたら反論しようもないのである。

私たちは哲学者たちが考えるのとは全く別のやり方で真偽(あるいは物の存在)を判断しているのである(まさにヒュームが『人間本性論』で指摘しているように)。


科学理論から哲学を説明しようとする試みも、実のところ(ここで示したような)心理主義と同じような過ちをおかしている。それについては以下のブログ記事で説明している。

科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法


フレーゲは意味、意義やら、指示やら様々な用語を用いることで事態を混乱させているだけのように思える。

言葉の意味が知覚経験であることをひたすら拒否するから、関係性で意味を説明しようとする。そうすれば必然的に循環論法となる。堂々巡りである。

「語の意味を孤立させて問い求める」(ダメット、58ページ)

ことにいったい何の問題があるのだろうか? どこに誤謬があるのだろうか? 不思議である。


※ 錯覚する可能性から、知覚経験が真理の根拠となることを否定しようとする論調もあるのですが、それは誤りだということを以下のレポートで示しているので、興味のある方はぜひ読んでみてください。

経験とは?経験論とは?

http://miya.aki.gs/miya/miya_report19.pdf



2022年4月10日日曜日

論理学に対する疑念

 野矢茂樹著『論理学』のゲーデルに関する内容は、あまり納得できるようなものではなかったが、それは私の理解が足りないからかもしれないので、今はいったん保留して、論理学の初歩をもう一度おさらいする意味で、前原昭二著『記号論理入門[新装版]』(日本評論社)を時間のあいたときに、少しづつ読み進めているところである。

『論理学』を読んで、その手法にどうにも納得できなかった論理の「無矛盾性」や「完全性」について『記号論理入門』で再確認したい。


論理学に関して検討したい論点はだいたい次のようなものである。


1.論理とは

論理とは「ことばとことばの関係」(野矢茂樹著『入門!論理学』中公新書:7、17、31、74ページ)と野矢氏は述べられているが、それならば「ことばとことばの関係」がある時は正しいと思われ、ある時は間違っていると思われる、その根拠はどこにあるのか? 野矢氏はそこの部分の考察が欠けているように思われるのである。「脈略」(『入門!論理学』7ページ)があるとかないとか、あるいは「意味上のつながり」(『入門!論理学』9ページ)があるとかないとか思われる、その根拠は何なのであろうか?

野矢氏自身が明確な答えを出していないようであるが、野矢氏自身の言葉”「実質的」証明”(『論理学』205ページ)と関連している部分もあるかもしれない。


2.演繹とは

構文論における「形式的証明」は本当に「意味内容を捨象した」(『論理学』205ページ)ものであると言えるのであろうか?

形式による演繹的証明の真偽における位置づけというものが、論理学では誤解されているような気がしている。演繹とはあくまで「推論」である(もちろんその推論の正しさに対する信頼感というものはその推論内容により異なってくるが)。私たちの生活実感からもたらされた常識的論理から抽出された公理系、そこから演繹するということは、その公理系を支持するための一般的世界観が不変であるという前提を維持することなのである。

演繹的証明は絶対的真理を示すものではない。あくまで一定の環境下における推論のやり方を示したものにすぎないのである。


3.直観主義の誤解

ということは、直観主義の論点そのものがずれている、ということにもつながる。公理系からの演繹とはあくまで仮説構築であって、絶対的真理を示すものではない。絶対的真理と仮説構築とを混同しているのが直観主義であるとも言える。

排中律に関しても「概念のあいまいさ」(『論理学』164ページ)があれば成立しないのである。これは「論点」(『論理学』164ページ)の問題ではない。無限の問題を考慮する以前に排中律は常に成立する真理ではないことは明らかなのだ(『入門!論理学』の方では概念のあいまいさの問題がもっと明確に扱われているような印象を受けたが)。

つまり排中律は、概念の境界が明確である(より正確には言葉と対象との関係にあいまいさがなく、明確に線引きできる状態である)という条件を満たした上で成立する論理なのである。

また、私たちにとって未知の世界はあくまで未知の世界なのであり、そこで私たちの知る一般常識(公理系など)がその未知の世界でも通用するものなのか、(究極的には)それさえ明確ではない。直観主義的に考えるのであれば、そこまで(つまり排中律以外の論理に対しても)懐疑する必要があるのではなかろうか。

しかしそれでも、私たちはこれまでの日常的世界観から導き出した論理を用いて推論するしかないのである(あるいは運を天に任せたあてずっぽうという手もあるが)。ということは直観主義は実質的に何も明らかにしていないということになろうか。

そして、ラッセルのパラドクスは無限の問題とは関係がない。


4.ラッセルのパラドクスにおける言葉のトリック

論理を形式的に扱おうとしても、言葉の意味から離れることはできない。一見形式だけを扱えるような気がしても、それが言葉や文章の意味をナンセンスにするようなものであれば、論理として破綻してしまうのである。

述語を述語づける時点で、それを日本語にしたとき既に意味をなしていないか、あるいは述語そのものの意味合いがすり替えられていたりしているのである。

また犬は集合であれ単独であれ犬であることに変わりはなく、集合そのものを犬と別物扱いする時点で、既に意味のすりかえがなされてしまっている。


・・・とにもかくにも、私は「メタ論理」というものに対し懐疑的である。


2022年2月26日土曜日

パラドクス以前の問題/いったい何を「証明」するのか

 野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)つづき・・・

187ページの、

「この文は偽である」

・・・そもそもこの文の真偽をどうやって判定しろというのであろうか? 「この文」とはどの文であろうか? 「この文は偽である」という文章そのものを指しているとしても、いったいこの文章の中のどこに真偽を判定すべき箇所があるのだろうか?

真偽を判定するためには、文の「形式」ではなく、その文が「何を指し示しているのか」、真偽を判定すべき「対象」というものが必要なのである。文章とそれが指し示す対象との関連づけがあって初めて真偽というものが判定可能なのである。

真偽が「形式」で決まるという論理学における「誤解」が問題なのであり、自己言及のパラドクス、ラッセルのパラドクス云々以前の問題なのである。

この誤解の上に立つ砂上の楼閣が論理学なのだろうか・・・?

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215ページからの「付録 命題論理の公理系LPの定理の証明」についてであるが、「証明」という表現に違和感を抱かざるをえない。

おそらく多くの人が感じているのではないかと推測するのだが、自身で自身を証明する、あるいは公理系のある規則で別の規則を説明しているだけなのである。

そもそもA⊃Aは論理で「証明」するようなものではない。それを「結合」規則や「背理法」規則を用いて説明するとはいったいどういうことなのか・・・

・・・つまり、ここで「証明」されているのは規則そのものの「正しさ」ではなく、「規則間の無矛盾性」なのである。他の規則を挿入しても矛盾なく別の規則にたどり着くことができる、そういうことである。

規則・公理そのものの「正しさ」はまったく「証明」されてなどいないのだ。規則間の無矛盾性と規則そのものの「正しさ」の証明とを混同しないことが重要ではなかろうか

先日引用した野矢氏の言葉についてだが、

けっきょくわれわれには、自分自身が使っている論理の無矛盾性を証明することなど、できないんですよ。その証明に再び当の論理を用いますから。(野矢氏、154ページ)

・・・野矢氏は「無矛盾性」というものが論理そのものに対してのものなのか、論理(規則・公理・定理)間におけるものなのか、あまり明確に認識されていないようにも感じられるのだが、どうだろうか?

論理そのものの「無矛盾性」は上記の野矢氏の言葉のとおり「論理」で証明などできない。一方『論理学』の本においてある程度証明されているのは、むしろトートロジーとしての”定理間”の無矛盾性ではないかと思うのだが。

2022年2月23日水曜日

議論がおかしな方向へ向かう契機 /「概念を分析」とはいったい何を分析するのか?

西田研究している方たちにはぜひ読んでほしいのだが、拙著

純粋経験から「離れる」ことはできない
~西田幾多郎著『善の研究』第一編第一章「純粋経験」分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report13.pdf

で以下のように指摘している。

西田は、純粋経験における「一事実」の定義をしただけだったにもかかわらず、その「一事実」から「他の事実」への「変化」を、「純粋経験を離れる」と誤認してしまった(宮国、5ページ)
・・・ここは非常に重要なポイントだと思う。今のところ、ここに気付いている研究者の著作に出会ったことがない。この取り違えが純粋経験に関する説明の混乱、論理の矛盾を引き起こしてしまっているのだ。純粋経験から離れられないのであれば、ずっと純粋経験である。ただそれだけのこと、そこに矛盾もないし、屁理屈を使って辻褄を合わせる必要もない。

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一方、野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)を読んでいて思ったのだが、論理学の方向性に狂いが生じている一因として、ラッセルのパラドクスの位置づけの誤認があるのではなかろうか。

ラッセルのパラドクスは二階述語論理の問題ではなく、言葉のトリックの問題でしかない。言葉の意味とはその言葉に対応する具体的事象・経験であるという、日常生活において当たり前すぎる事実を認めていない多くの哲学者たちの考え方に原因があるのだ。

もちろん無限・有限の話でもない。議論の方向性がここで大きくずれてしまっているのだ。

言葉の意味がこっそり変更されていたり、対応する事象を無視して言葉のみを実体化し、あたかも別の”何か”が存在しているかのように扱う実体化の錯誤がパラドクスを引き起こしているのである。

よくよく考えてみてほしい。

「7+5」という概念を分析(野矢氏、158ページ)

とはいったい何を分析するのであろうか? 「7+5」という記号の形? もちろんそうではなかろう。「概念」という言葉がミスリーディングなのだ。「概念」というものがいったいどこに存在しているのであろうか? あるのは言葉・記号・数字とそれに対応する具体的事象・経験でしかない。「概念を分析」と言いながら、結局何を分析しているのか、おそらく野矢氏も明確に自覚していないのではないか。

カント自身が説明している。指を使って5やら7やらを確かめているのである(カント著『純粋理性批判』 篠田英雄訳、岩波書店、70ページ)。そこに見えている5本の指、7本の指を用いて5やら7やらを再確認しているのだ。これはどうにもならない事実である。往生際悪く「5本の指の表象」(カント、70ページ)という表現を用いているが、「表象」なんてものも実際どこにもなく、結局そこに見えている指そのものなのである。


他にもいろいろつっこみどころはある。

そもそもが「すべての」「ある」という漠然とした量を扱う述語論理からどのようにして2とか3とかいう数の論理を導こうというのであろうか? 逆ならばまだわかる。これも二階述語論理の問題とは言えないのではなかろうか。

野矢氏自身がメタ論理を否定するような発言(?)をされている。
けっきょくわれわれには、自分自身が使っている論理の無矛盾性を証明することなど、できないんですよ。その証明に再び当の論理を用いますから。(野矢氏、154ページ)
・・・それは「メタ論理」ではなく、単なる「確かめ算」にしかすぎない前回のブログ記事参照)。ここまで分かっているなら、なぜわざわざ「メタ」という言葉を持ち出すのだろうか? むしろメタ論理を否定すべきなのでは、と思うのだが。

前回の記事でも述べたようにトートロジーは論理で「証明」されるようなものではないのだ。


<参考文献>

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析
(5本・7本の指云々の話は付録部分で論じています。)




2022年2月21日月曜日

「メタ論理」は幻想なのでは・・・?

野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)、第3章「パラドクス・形式主義・メタ論理」のところをゆっくり読んでいます。

(私の誤解も含まれていたようなので、一部消しました:2022年3月21日)

メタ論理の証明というのは、われわれの推論実践としての述語論理の無矛盾性を前提にして進められる・・・(中略)・・・それを前提しておいて述語論理の公理系の無矛盾性を証明するというのは、なんだか八百長くさい感じがする(野矢氏、154~155ページ)

・・・という道元・無門の疑念に対し、

ともかく、あらゆる証明はわれわれの推論実践が無矛盾だということを前提にしています。だから、そこを非難したってしょうがありません。その前提のもとに、ある公理系に矛盾が含まれていないかどうかを調べるわけです。(野矢氏、155ページ)

・・・と回答されています。しかし「証明の証明」(野矢氏、146ページ)というよりも、トートロジーであるということの再確認でしかない、それは「メタ論理」ではなく、単なる確かめ算的なものでしかないように思えます。いや、それでいいのだよ、と言われるのかもしれませんが・・・

ラッセルのパラドクスは、言葉の意味の変更や概念の実体化が行われた結果です。メタ論理云々というよりも、言葉のトリックの問題だと思います。

意味論であろうと構文論であろうと、論理の正しさは究極的には形式によって定められるものではなく、具体的事象(と言葉との対応関係)により確かめられるものなのです。論理の上の階層にメタ論理があるのではないのだと思います。

論理学的に「正しい」とされる論理形式を用いたとしても、事実と異なったり矛盾したりしている前提を用いて、間違った推論結果が導かれた場合、その事例において推論形式が本当に「正しい」のかどうかなんで、判断のしようがないのです。

論理形式とは、私たちの日常生活における一般的事実認識から導かれたもの、そして私たちが経験したことのない事象においても、その論理形式(そして、それを支える事実関係)が不変であろう、と前提した上で成立しているのです。「意味抜き」(野矢氏、106ページ他、似たような表現あちこちにあり)とは、前提条件が不変であるという仮定なのであって、一見形式のみを扱う構文論であっても、その「正しさ」を確かめようとすれば、結局具体的事実に立ち戻るしか他に方法がないのです。

そして論理を支える現実世界の具体的事象が変化したり、その事象の見方を変えたりしたとき、論理を支える「大地」(野矢氏、155ページ)がひっくりかえる可能性もあるのです。


・・・とりあえず『論理学』、ゆっくり読み進めていきます。



<関連記事・文献>

論理と事実認識との関係を見誤るとパラドクスに陥る

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証



2022年2月13日日曜日

論理と事実認識との関係を見誤るとパラドクスに陥る

 野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)、命題論理と述語論理、何回も読み直して、今やっと第3章・・・

ラッセルのパラドクスのところ読んでみて感じたのは、

(1)概念の実体化の錯誤

(2)事実認識→論理、という順番の取り違え

この二つがパラドクスを生じさせているのかな、と思った。そしてこの二つの誤謬をもたらす根本原因として、

<「言葉の意味とは、それに対応する具体的事象・経験である」ということを認めないという誤謬>

があるのだと思う。

無限・有限云々による説明はラッセルのパラドクスの問題と少々ずれているように思えるのだが・・・

勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』放送大学教育振興会(2017)、第4章「ヒュームの懐疑論と寛容論」からの文章であるが・・・

語の意味を知るとはいわゆる「メンタルイメージ」(語に対応する私秘的なイメージ」をもつことではない。たとえば、「政府」や「征服」などの一般名辞の意味を意味を知ってそれを適切に用いる行為者になることができるということは、その名辞の下に包摂され集められている諸観念を生き生きと想像出来るようになることではなく、むしろ、その名辞を他の名辞との関連上適切な仕方で用い、通時的な自分自身からも、会話の相手からも、承認されるようになるということである。(勢力氏、80~81ページ)

・・・現代の哲学者の間では、こういう考えの人の方が多いように思える(あくまで印象にしかすぎないが)。先日簡単に説明したフレーゲ的な見解に近いのかもしれない。

(私が)何度も繰り返し強調してきたことであるが、言葉の意味とは、それに対応する具体的事象、具体的経験(見えているもの、聴こえているもの、感じているもの)なのである(ヒュームの言う「印象」「観念」)。

それは論理も同じで、論理の「正しさ」を検証しようとすれば、究極的には具体的事例を持ち出して確かめるしか他に方法はないのである。(それについてはこれまでのブログ記事、あるいは下に示す参考文献で詳しく説明しているのでそちらをご覧ください。)


(1)概念の実体化の錯誤

集合のパラドクスにおいて、「犬の集合は犬か? 違うな」(野矢氏、133ページ)と説明されているが、それは「集合」という”概念”があたかも実体として存在しているかのように扱い、具体的事象から遊離した別個の論理を導き出すことで、現実と乖離(パラドクス)させているのである。

犬の「集合」とは、たくさんの犬が集まっている具体的状況、あるいはあちこちに散らばっているたくさんの犬を想定しているものであって、それは集合であろうと単独であろうと犬であることに変わりはない。集合であろうとなかろうと犬は犬なのである。

「集合」という「言葉」が犬でないのは当たり前である。しかし(犬に関する)集合論で具体的に問題となっているのは犬そのものであって、「言葉」ではないはずだ。

また、「自分自身に述語づけられないような述語」(野矢氏、131ページ)とは、述語論理における変数そのものでないことに注意が必要だ。述語とは、あくまで「・・・は日本語である」とか「・・・は犬である」という”言葉”である。

「・・・は犬である」と述語的に使われるとき、それは具体的な「犬」を指し示す命題であると思う。しかし「犬である」という”言葉”だけを抜き取り、「犬である」を主語のように扱うとき、それは犬そのものを指しているのではなく、「犬である」という”言葉”それ自体を指し示しているのである。

つまり言葉が同じでも言葉の意味が全く違っているのだ。


(2)事実認識→論理、という順番の取り違え

床屋のパラドクス(野矢氏、134ページ)について・・・もしこれが日常生活における出来事だとすれば、床屋自身はひげを自分で剃っても良いし剃らなくても良い。別にどちらでも良い。

床屋自身が持ち出した論理が現実を包括しきれていない、ということである。

不在市長の市長(野矢氏、135ページ)も、「不在市長の市長」で別に何の問題もなかろう。それ以前に、不在市長が住む市を作ってしまうと、彼ら”不在市長”はそこの市民としても二重に登録されてしまっているのではないか? 現実的に考えればラッセルのパラドクス以前の問題が生じてしまっている。

優先させるのはあくまで現実世界(別に空想の世界でも良いのだが)であって、論理はそれに従うもの、論理と現実とが齟齬を来しているのであれば、修正すべきは「論理」の方なのである。


述語論理の前提として議論領域がある。例えば議論領域が「人間」だとすれば、その述語論理が成立する前提として、私たちの「人間」に関する様々な一般的知識が前提となっている。現実世界における「人間」の一般的理解がまず先にあり、それを前提としてその述語論理の正しさが保証されているのである。

繰り返すが、論理は「形式」により正しさを担保されるのではない(あたかもそう見えることがあるが)。あくまで具体的事象・経験(それが事実であろうと想像であろうと)により(究極的には)その正しさが担保されているのである。

事実認識(あるいは想像された具体的事象)がまず先にあり、論理はそこから導かれる、あるいはその正しさを確かめられる。この順番を取り違えてしまったのがパラドクスなのである。


※ 想像といっても、具体的事象として想像する(描いたりすることも含む)ということであって、言葉だけ思い浮かべて理解した気になることとは違う。ここは注意。



<参考文献>

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf


「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証

http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf



2022年2月3日木曜日

フレーゲの「文脈原理」は根本的に間違っていると思う

(野矢茂樹著『論理学』東京大学出版会、第2章に関して・・・)


フレーゲの意味に関する認識には根本的な過ちがあると思っている。

 つねに銘記さるべきは、完全な文の全体である。そこにおいてのみ、語は本来意味をもつ。(野矢氏、90ページ。フレーゲ『算術の基礎』からの引用。)

分析哲学系の哲学者たちは、語の意味が、その言葉に対応する具体的経験、具体的イメージ、具体的感覚であることを拒否しているように思える。

私たちは「イワシ」とは何かと聞かれれば、イワシそのものを思い浮かべるし、食料品店にいるのであれば、そこに売っているイワシを指し示すだろう。

語の意味とは、それに対応する具体的事象、そこに見えているもの、聴こえているもの、感じているものなのである。

文の全体がどうであろうと、語は意味を持つ。それゆえに「丸い三角」が矛盾であると言えるのである。その文が「完全」であるとか「不完全」あるいは「でたらめ」と思うのは、それぞれの言葉の意味を知っているから(あるいはまったく知らない聞いたこともない訳の分からない字の羅列であると分かるから)なのである。

あるいは文章が具体的事象をきちんと説明できているのか、説明しようとする事象をその文章が正確に示せているのか、そういった具体的事象(経験)と言葉(文章)との対応関係というものが(究極的には)問われているのである。それが文章の「正しい」「間違い」なのだ。

その当たり前の事実を無視し、語と語との関係から語や文章の意味を説明しようとしたところで、論理が堂々巡りするだけなのである。

数学を論理学に基礎づけるという試みそれ自体が、どだい無理な話なのだ。

数学・算数も究極的には言葉(数字)と具体的経験との(論理的に説明できない)関係が出発点となっているのである。

論理がアプリオリなのではなく、具体的経験から論理が導き出されるのである。


とりあえずは『論理学』を(他の文献とを行ったり来たりしながら)じっくり勉強して、他のものに取り掛かろうとおもう。


<参考文献>

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf

(付録として「緒言」の分析も付け加えています)


2022年1月27日木曜日

野矢氏『論理学』を読む助けになる、おススメの文献

野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)を、少しづつ読んでます。あわてず行ったり来たりしながら取り組んでいます。

正直、この本だけ読んでも理解できないのではないでしょうか・・・?

構文論のところで突然公理系を提示されても、それがいったい何のことやらちんぷんかんぷんです。


ネットで見れるもののなかで、私のおススメとして以下の『論理学入門』を挙げておきます。


 https://abelard.flet.keio.ac.jp/person/takemura/class/2013/3-print-nk.pdf

(日本大学・竹村亮氏によるもの)

これを読むと、命題論理の公理系とはいったいどういうものなのか、仮定を「はずす」とはどういうことなのか具体的に理解できます。非常に助かりました。ありがとうございます!

https://abelard.flet.keio.ac.jp/person/takemura/class/2011/print-folnat.pdf

(同じく竹村亮氏によるもの。こちらは述語論理について。)


http://student.sguc.ac.jp/i/st/learning/logic/

(山陽学園大学・山陽学園短期大学 公式ページ内。いくつかのファイルに分かれています。)

・・・「真理の木」など、野矢氏『論理学』で示されていない方法論が他にあることが分かります。集合論や述語論理についてもわかりやすく説明されています。


*****

ここまで論理学関連の文献を読んでみてさらに確信しましたが、形式論理といえども、それがいったい何を意味するのかを理解しようとすれば、やはり具体的事例を挙げるしか他に方法がない、(一般的に言われている考えとは違いますが)やはり論理はアプリオリなんかではないのだと思います。

このあたりは(これまでも散々訴えてきましたが)これからもさらに具体的に論じていきたいと思っています。

野矢氏は『論理学』の中で、

この形式こそが推論の正誤にとって本質的であり、SやMやPには何を入れても(もちろん文法的に正しくなるような語に限定されますが)、その推論はまさにこの形式のゆえに正しくなる・・・(野矢氏、82~83ページ)

と説明されていますが、特定の形式が正誤を示せるためには、野矢氏自身が説明されているように「文法的に正しくなるような語」である必要があるのです。

では「文法的に正しくなる」ためには何が必要なのか・・・

要するに、形式による推論の正誤はアプリオリなものなのではなく、そこには特定の前提条件というものがある、そういうことなのです。論理学という学問内において形式が重要なものであることには変わりありませんが、それは究極的に形式により正誤が決まるということではなく(あたかもそう見えるようになっているが)、具体的状況として示せる・想像できる(ヒュームの言う印象・観念。現実世界であるとは限らない。)具体的事象によって確かめられ、その正誤が根拠づけられているということなのです。

数多くのパラドクスはこの点を見誤っているために生じているのだと思います。

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...