2020年2月24日月曜日

「統一的或る者」批判 ~西田幾多郎著『善の研究』第二編 実在の分析

新しいレポート書きました。
『善の研究』第二編まとめました。
初心者向けではないので・・・そこはすみません。
最後の章では時間論や自己同一性の問題も取り扱っています。


「統一的或る者」批判 ~西田幾多郎著『善の研究』第二編 実在の分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report26.pdf

・・・『善の研究』第二編 実在の分析です。純粋経験論の立場から言えば、「力」があって事象・現象の推移があるのではなく、現象・事象の推移がまずあって、そこから「力」というものが仮想されているということなのです。「力」を実体化しそれを経験の根拠づけに用いてはならない、「力其物」(さらには「作用其物」「意志其物」)というものは純粋経験として現れることがないからです。しかし西田は「統一的或る者」「統一力」という仮想概念により純粋経験を説明しようとしています。

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<目次>
1.知識と情意とは“統一すべき”なのか?
2.「心其物」「意識其物」は純粋経験ではない
3.思惟が“独立自全の活動”であるということ=「思惟の根柢にも常に統一的或
る者がある」ということにはならない
4.問題は因果律をアプリオリと捉えること
5.「無限」が純粋経験として現れているだろうか?
6.「情意」とは何か?
7.「同一の形式」は虚構、そもそも「意志其物」が純粋経験ではない
8.「統一的或る者」は西田自身が言う「力とか物とかいうのは説明のために設
けられた仮定」そのもの
9.経験の推移や関係づけを説明するのに「一の意識」を前提とする必要はない
10.「超越する不変的或る者」を前提しなくても思惟のプロセスとしての純粋
経験はただひたすら現れてくる


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純粋経験の体系性 (佐野之人著)
日本哲学会、第78回大会(2019年首都大学東京)一般研究発表

・・・を読んでみたが、仮にこういった研究者と出会って話をしてみても果たして会話が成立するだろうか・・・? 文章とそれに対応する経験との関係から導き出される論理、それを無視した上で宗教的感覚を求めるというのであれば。。。そこにもう議論の余地はなさそうだ。
 純粋経験論とは、読者がそれぞれの経験を確かめながら検証していくものである。それは自らの宗教的関心の深さに関わりなく、現れてくる経験なのである。
我々が『善の研究』を読むとき、我々はすでに、そうしてつねに純粋経験のうちにあるのであるが、そのことはさしあたり分からない。(佐野氏:著者)
・・・ということはありえない。その読んでいる事実、見えている文字、そこで浮かんでくるなにがしかの感覚やら心像やら言葉やら、そういったことすべてが純粋経験なのである。ただそれだけのことだ。それがありのままの事実でない、というのであれば、いったい何がありのままなのであろう? それが反省であろうとなかろうと、経験として現れたものは現れたものなのである。そしてそれを言語表現した、それさえもありのままの事実である。(西田は言語表現も純粋経験であることを見逃している
 佐野氏の言われる「体系性」とは(西田の言う「体系」もそうであるが)、結局のところ、純粋経験ではなく、構成された仮想概念なのだと思う。具体的経験の事実ではなく、恣意的に構成された概念モデルを分析して導かれているのではないかと思われる。(哲学者がよく陥る落とし穴である。根本的経験論のジェイムズでさえそうであった。)
 純粋経験論は、各々が言語表現と自らの経験との関連づけを確かめながら、著作(たとえば『善の研究』)の正しさを検証していく。読まれながら個人個人により検証されることで初めてその客観性というものが見出されるのである。(哲学はそうしていくしかない)






2020年2月16日日曜日

所与性と他者性との混同(つづき)

『人間知性研究』(ヒューム著、斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局)に掲載されている、一ノ瀬氏の解説、「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」(226ページ~)の分析・・・

(※ヒュームからの引用は、『人間本性論』ヒューム著、木曾好能訳、法政大学出版局)

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ヒュームが、「教育」における繰り返しや刷り込みによって一定の信念を得ることを因果推論とほぼ同一視している点からも強く確証される。ヒュームはいう、「教育というのは人為的原因であって自然的原因ではない……けれども、それは実際は、習慣と繰り返しという、原因から結果に向かうわれわれの推論の場合とほとんど同じ基礎の上に構築されているのである」(T117)。教育によって得られた知識が、他者によって与えられたという、他律的な側面をもつことは否定しようがない。(一ノ瀬氏、250ページ)
・・・ヒュームは教育による繰り返しが、日常的な因果把握と同じような効果をもちうることを説明したのであって、それは因果把握に他者性が必須であるということではない。他者性とは、あくまで因果関係の客観性において問題になることなのである。
 (先の記事で説明したように)文章で書く上では、自己・他者というものを前提としている。「私の」経験というふうに説明せざるをえない。文章で記すということは、他者の見解を確かめ信念の客観性を確かめるプロセスでもあるからだ。しかし、具体的経験としては、それはあくまでただの経験、それが「私」のものかどうかは、あくまで後付けの説明でしかないのである。

ヒューム因果論の深底部には、因果性が成立する場は他者へと絶え間なく反転していく、というモチーフが脈々と息づいている。しかし、この議論の構造から明らかなように、こうした考え方は強力に自己否定的である。少なくとも、自己否定という暗闇にきわどく接しているといえる。したがって、ヒュームの因果論は、自己破滅の危機を胚胎した、危うい綱渡りめいた、暗示的なものにならざるをえない。本質的にそうならざるをえないのである。(一ノ瀬氏ページ)
・・・これは既に述べたように、他者性と所与性とを取り違えている上での見解であると言える。
 印象・観念という経験(「経験」とは何かということに関してヒュームにも誤解があるのだが、それについてはこちら)、そして因果性を認めていくプロセス・・・それらを説明するのに「自分自身」をあらかじめ措定しておく必要がない、あくまで経験が推移していくプロセスとして記せばよい、そういうことなのである。(ただし「心の決定」はヒューム自身のブレであるが)
 経験はただ現れてくるもの、それが自己から出たものなのか他者から出たものなのか、ということなど、事後的な解釈でしかない。個別の経験はそんなことなど何ら示してはいないのである。
 経験論とは、一ノ瀬氏の言われるような”自己破滅”というものなどとは縁のないものなのだ。
〔ほかの人はどうであれ〕私に関する限り、私が「自己」(myself)と呼ぶのにもっとも深く分け入るとき、私が見つけるものは、常に、熱や冷、明や暗、愛や憎、苦や快など、あれやこれやの個々の知覚である。私は、いかなるときにも、知覚なしに自己を捉えることが、けっしてできず、また、知覚以外のものを観察することも、けっしてできない。(ヒューム、286ページ)
・・・これは”自己破滅”なのではなく、”事実”なのだ。ヒュームだけでなく、私においてもそうである。

(後に続く・・・)


2020年2月11日火曜日

所与性と他者性との混同

『人間知性研究』(ヒューム著、斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局)に掲載されている、一ノ瀬氏の解説、「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」(226ページ~)を少しづつ読み進めている。

「他者の視点」(一ノ瀬氏、248ページ)とあるが・・・一ノ瀬氏は経験の所与性と他者性とを混同している部分がある。

経験はただ現れるもの、それを表現として”強要されたもの”(一ノ瀬氏、249ページ)と説明することもありうる。その所与性を他者性と取り違えているようなのだ。

もちろん、経験論の哲学を文章として綴るとき、他者の視点を考慮しているかといえば、(私の場合は)もちろんそうである。これまでの私の経験から、自らの日常的知覚経験が他者とそうずれてはいまいと思いながら書いているのである。

しかし、哲学としてそれを言語として綴る場合、それはあくまで私自身の経験として述べているだけであって、その哲学の”客観性”とは、究極的には他者の同意(の言葉)というものがあって確認されるのである。そしてその客観性も、結局は自らの経験として現れるものである。

私としては、結局は他者も同意せざるをえないであろうと確信した上で文章を綴っている。ヒュームも同様であろうと思う。

そういう意味で、文章を書くときは常にそれを読む他者というものが想定されているのである。

そういう客観性における他者の視点の問題と、自らの具体的経験がいやおうなしに(理屈などおかまいなしに)ただ現れるという”所与性”とを混同してはならないのである。

所与性を因果的に理解しようとしてしまう・・・ということは、要するに因果関係をエポケーできていない、ということなのである。

西田は因果律をエポケーできていない

木村美子著
西田幾多郎の場所論とカントの「物自体」--西田の『反省的判断の対象界』を手がかりにして
立命館文學 (618), 254-241, 2010-10
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/618/618PDF/kimura.pdf

・・・分析の続き(一応これで終わりです)。

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西田の理論には、先に~ありきがありすぎて、その根拠が見当たらない(直接的経験、純粋経験として現れていない)ものが多すぎるのである。

芸術・道徳・宗教⇒歴史的世界⇒自然界、というふうに順番に目的付けがされている(木村氏、247ページ)という根拠もどこにもない。西田自身の個人的嗜好を一般化されても・・・という感じである。

また普遍(一般)・特殊、主語・述語に関する議論(253ページ)においても、「一般者」というものが、直接的経験として現れているのかと言えば・・・そんなものどこにもない。このあたり西田はヒュームの因果論を中途半端に引用するだけで、ヒュームの抽象観念論を厳密に検証せずすっとばしてしまっている。

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また、西田は因果律をエポケーできていない。

『直接に与へられるもの』の冒頭は以下のようなものである。
(早稲田大学の二―ルス・グュルベルク・ホームページ内、
http://www.f.waseda.jp/guelberg/publikat/unmgegj2.htm
からの引用)

直接に与へられたものとは如何なるものを云ふのであるか。我々は此問題を論ずるに当つて、先づその意味を明にせねばならぬ。既に与へられると云へば、何物かに対して与へられるといふことでなければならぬ。こゝに与へられるといふのは、我に対して与へられると云ふ意味である。
・・・”所与”とはただただ現れているもの、それは「誰に」とか「どこに」とかそういったものを前提はしていない。西田は「それを受け取る者があるから経験を受け取ることができる」という因果的理解から離れられないでいるのである。

西田は『善の研究』において「統一的或る者」というものを”直覚すべき者”(西田幾多郎『善の研究』岩波文庫 、61ページ)として前提してしまっているが、果たしてその根拠などどこにあるのだろうか?

西田は「統一的或る者」として次のように説明している。

しかるに一つの物が働くというのは必ず他の物に対して働くのである、而してこれには必ずこの二つの物を結合して互いに相働くを得しめる第三者がなくてはならぬ、例えば甲の物体の運動が乙に伝わるというには、この量物体の間に力というものがなければならぬ、また性質ということも一の性質が成立するには必ず他に対して成立するのである。例えば色が赤のみであったならば赤という色は現われ様がない、赤が現われるには赤ならざる色がなければならぬ、而して一の性質が他の性質と比較し区別せらるるには、両性質はその根柢において同一でなければならぬ、全く類を異にしその間に何らの共通なる点をもたぬ者は比較し区別することができぬ。かくの如く凡て物は対立に由って成立するというならば、その根柢には必ず統一的或る者が潜んで居るのである。(西田『善の研究』岩波文庫、91~92ページ)
・・・一方、西田はヒュームを参照しながら次のように説明しているのである。

普通には因果律は直に現象の背後における固定せる物其物の存在を要求する様に考えて居るが、そは誤である。因果律の正当なる意義はヒュームのいった様に、或る現象の起るには必ずこれに先だつ一定の現象があるというまでであって、現象以上の物の要求するのではない。一現象より他の現象を生ずるというのは、一現象が現象の中に含まれて居ったのもでもなく、またどこか外に潜んで居ったのが引き出されるのでもない。(『善の研究』75ページ)
・・・つまり「統一的或る者」とは西田自身が言う「力とか物とかいうのは説明のために設けられた仮定」(『善の研究』76ページ)そのものなのである。

あるものを見て「赤色だ」と思ったその事実が直接的に経験として現れているだけで、「黒色」があるから「赤色」があるとかそういった”因果関係”は果たして検証されうるのであろうか? 「赤色だ」と思う事実の前に、その”原因”として「黒色だ」とか「青色だ」と思った経験が恒常的相伴しているだろうか?

つまり、

在るものは、なにかに相対してはじめて在ると言い得るのであって、単に対を絶したものは在るということもできない。(木村氏、245ページ)
・・・という見解も、全く根拠を持たないものなのである。直接的経験、所与の経験としては、ただ「そこに在る」と思った事実であって、そこに「無」というものが対であるとか、そんなことは後付けの理屈付け、思慮分別、仮説でしかないのである。

・・・本論文の分析は、とりあえずここまでにしたい。要するに「場所の論理」は純粋経験から逸脱したもの、ということなのだ。


何が所与の直接的経験であるのか(所与に自由もなにもあるわけがない)

木村美子著
西田幾多郎の場所論とカントの「物自体」--西田の『反省的判断の対象界』を手がかりにして
立命館文學 (618), 254-241, 2010-10
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/618/618PDF/kimura.pdf

・・・分析の続き。

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「カントが形而上学として排斥したのは、我々の経験界を構成する範疇を知的所与なくして超経験界に押し進めることであった」(3-496)。そこでカントにおいては経験界における「所与の範疇」(Kategorie der Gegebenheit)は知覚に限定され、思惟と知覚の両作用の統一によって自然界が成立するのであるが、しかし西田の考えによれば、所与の範疇は知覚のみに限られず、作用の意識としては意志の意識も知覚の意識と同様、直接の所与である。それは知覚より一層具体的な所与である。「同様に直接的、ここが重要である。そうしてここのところが、カントの立場をもっと大きく開き広めようとしたところである」と西谷は指摘する。(木村氏、249ページ)
・・・これが純粋経験というもの、経験というものは”所与”として、ただ現れるものなのである。しかし・・・

西田は次のように述べている。「意識とはどこ迄も直接でなければならぬ、何らかの意味において対象化せられたものは意識ではない。心理学的意識の如きは意識せられたものに過ぎない」(3-497)。「直接」とは、直接経験のことであり、自己がそこで成り立つ最も根源的なところである。(木村氏、249ページ)
・・・ここで見逃されていることがある。それは上記の”対象化”それこそが”思惟”である、ということなのである。思惟が直接的であるということは、対象化したという事実、それこそが直接的な”所与”である、ということなのだ。

科学的な実験、観察も具体的・直接的な経験であり、科学理論といえども、それが何かと問われれば、やはり具体的事象と事象の関係とでしか表現しようのないものなのである。

もっとも当時の”心理学”がどこまで”科学的”であったかどうか(あるいは科学的手法に基づいていたかどうか)は疑わしいものであるのだが・・・

直接的な経験としての「感覚」がある。一方、”背後”にあるという場合、それは既に直接的ではない。むしろそれこそが西田自身の言う「意識せられたもの」なのではなかろうか?

つまり西田の言う「実在的統一力の発言として自ら働く」(木村氏、249ページ)「意志の働き」とは直接的経験ではなく、西田自身の言う”思慮分別”の産物(要するに仮説的概念)ということなのだ。

意志というものは、西田自身が説明しているように、

意志といえば何か特別なる力がある様に思われて居るが、その実は一の心像より他の心像に移る推移の経験にすぎない、或る事を意志するというのは即ちこれに注意を向けることである。この事は最も明にいわゆる無意的行為の如き者において見ることができる、前にいった知覚の連続のような場合でも、注意の推移と意志の進行とが全く一致するのである。 (西田幾多郎『善の研究』岩波 文庫 、41~42 ページ)
・・・「意志」というものを示そうとしても、結局は「一の心像より他の心像に移る推移の経験」とか「或る事を意志するというのは即ちこれに注意を向けること」としか説明しようがないのである。「意志」という「特別なる力」(西田『善の研究』41ページより)というものを見出すこともできないのだ。(それなのに統一力とかいう直接的経験でないものを持ち出そうとするのは西田自身の誤りと言う他はない)

そもそも所与に自由もなにもない。また「意志そのもの」は直接的経験として現れない。あるかどうかわからないものに自由かどうかとか判断のしようもないのである。



2020年2月9日日曜日

純粋経験を物自体と同じと考えた時点で西田哲学は破綻している(そもそも逆の考え方だから)

NHKで『善の研究』の説明をしていて、そこでは言葉でとらえてしまったら、それは純粋経験ではない、というような説明をされていた。

純粋経験においては、そういう見方をされる人たちも多いようだ。

これでは純粋経験と物自体とが混同されてしまう。物自体は感知できるかできないか、というような議論に陥ってしまう。(修行すれば感じれるとかそういう議論になりかねない)

また、それでは思惟・意志・知的直観も純粋経験である、という説明と齟齬を来してしまうのである。(それを無理やり統合しようとするから変な詭弁・屁理屈へ陥ってしまう)

経験に純粋経験であるものとそうでないものとの区分があるわけではないことは、以下の記事で説明した。経験とはすべて純粋経験なのである。西田自身、そうであると言ったりそれとは違う説明をしたり、まったくもってふらふらしているのである。
https://keikenron.blogspot.com/2020/02/blog-post.html

西田自身、正確に理解できていなかったように思われるのだ。そのため西田自身の説明が非常にあいまいで、未自覚、不徹底であったため、あたかも純粋経験が物自体であるように考えられてしまうのだ。

実際、以下の論文を見るかぎり、西田自身が純粋経験と物自体とを混同していた節がある。

木村美子著
西田幾多郎の場所論とカントの「物自体」--西田の『反省的判断の対象界』を手がかりにして
立命館文學 (618), 254-241, 2010-10
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/618/618PDF/kimura.pdf

・・・まだ少ししか読んでいないが、『善の研究』以降において、だんだんと従来の西洋哲学に取り込まれてしまい(ヒュームやジェイムズは除く)、本来カントとは相容れるはずのない純粋経験論とおかしな融合をしてしまったのではなかろうか。

惜しむらくは、京都学派の中に純粋経験を理解できるような人たちが皆無だったことだ。



経験論ということを理解していればモチーフ云々という論点が必要だとは思わないのだが・・・

『人間知性研究』(ヒューム著、斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局)に掲載されている、一ノ瀬氏の解説、「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」(226ページ~)分析の続き・・・

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しかるに、では、ヒュームはどのような観点から固有の因果論へと至ったのだろうか。ヒューム因果論を促した最初のモチーフは何だったのだろうか?(一ノ瀬氏、237ページ)
・・・私には、この問いが非常に不自然に感じられる。ヒュームは『人間本性論』の序章で次のように述べている。(以下、木曾好能訳、法政大学出版局より引用)

人間の学が他の諸学の唯一の堅固な基礎を成すように、人間の学そのものに与えうる唯一の堅固な基礎は、経験と観察(experience and observation)に置かれねばならない。(ヒューム、7~8ページ)
われわれに可能なもっとも一般的でもっとも完成された諸原理に対しては、それらが事実であることをわれわれが経験すること以外にそれらの原理の根拠を示し得ないということを、知るからなのである。この、或ることが事実であることの経験こそ、ただの普通人にとってはそのことの根拠にほかならず、また、どれほど特殊でどれほど異常な現象に対しても、あらかじめ調べる必要もなくすでに見出されている根拠なのである。(ヒューム、9ページ)
いかなる学いかなる技術も、経験を越えて進むことはできず、この権威(経験)に基礎をもたないような原理を確立することはできないのである。(ヒューム、9ページ)

・・・ヒュームは経験に基礎を置く、という手法を採用すると決めているのである。つまりヒュームの因果論とは、一般的に私たちが因果関係があると認めるとき、そこにどのような経験が実際に具体的に現れているのか、ということから説明される、ということなのである。
 もちろん(デザイン論証のような)仮説的イメージがあった可能性は否定できない。しかしそれは、私たちの具体的経験によって根拠づけられるのかどうか確かめられるべきものであって、デザイン論証というものがヒューム因果論の基礎のように扱われてはならないのである。
 先の一ノ瀬氏の問いに戻るが、「どのような観点から固有の因果論へと至ったのだろうか」と問うこと自体がおかしな話なのだ。ヒュームは自らの経験を観察した上で因果論を構築したのである。あえて「観点」というのであれば、それは経験論的観点である。繰り返すが、それはデザイン論証のようなものにより根拠づけられるのではなく、具体的経験により根拠づけられるものなのである。
 そしてそのヒューム因果論が“ヒューム固有”のものなのか、それは一ノ瀬氏ご自身、そして当然私もであるが、一人ひとりが自らの経験を観察した上で確かめるものなのである。そうすれば、ある程度のズレはあるにせよ、ある程度共通したものが見いだせるのではなかろうか。
 一ノ瀬氏は、経験論という手法そのものを無視した上でヒュームを理解しようとされているように思えてならないのだ。そしてその姿勢は他の現代のヒューム研究者たちにも共通しているように思えるのだが・・・

2020年2月7日金曜日

心像と心像との関係が論理?

『人間知性研究』(ヒューム著、斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局)に掲載されている、一ノ瀬氏の解説、「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」(226ページ~)をとりあえず最後まで読んでみようと思う。

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

・・・で既に指摘しているのであるが、ヒュームも(抽象観念のところ以外では)言葉の位置づけを全く無視して話をしてしまっている。そのために論理が混乱してしまっているのだが、言葉をきちんと具体的な経験としてその位置づけを認めてやりさえすれば、複雑観念の問題にしても、非常にすっきりした形で事実をきちんと説明できてしまうのだ。

以下の一ノ瀬氏の説明も、言葉の位置づけを無視しているために、よくよく分析してみればおかしな話になってしまっているのだ。

因果の基本性は、いま引いたヒュームの言にあるように、あくまで「事実の問題」つまりは経験的知識に関してであって、それと区別された「観念の関係」(Relationship of Ideas)つまりは論理的知識にまでは及ばないのではないか、という疑問が提出されるかもしれない、しかしそれは違う。というのも、ヒュームは、『人間本性論』第一巻第四部第一節「理性に関する懐疑論について」において、観念の関係の典型例である算術の計算などに照らしながら、観念の関係も真には事実の問題でしかないと論じているからである。(一ノ瀬氏、236ページ)
・・・ヒューム自身に混同が見られるので一ノ瀬氏が誤解されるのも仕方ない部分もあるのだが・・・そもそも「観念」とはいったい何であろうか?

「思考や推論の際の勢いのないこれらの心像」(土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』12ページ)あるいは「思考や推論に現れる、それら印象の生気のない像」(木曾氏訳『人間本性論』13ページ)のことである。英語で言えばfaint images、しかし実際のところfaintであろうがなかろうがimageはimage、(「心」を前提としているような誤解を生んでしまう可能性はあるのだが)心像(あるいは像)のことなのである。

そこで問いたいのだが、心像と心像との関係が論理なのであろうか?

話がおかしくなるのは、言葉が無視されているからである。因果関係において、事象(印象・観念)との関係が構築される前に、まずは印象・観念と言葉(名辞)との関係が構築されている必要がある。まずはそれら印象・観念が何らかの言葉で呼ばれている、その事実を前提とした上で、観念と観念の関係について説明する必要があるのだ。

その前提のもとで話を進めると・・・観念と観念との関係は別に事実関係である必要はない。おとぎ話でも良いのだ。想像における(事実としてはありえない)因果関係でも全く良いのである。

そして、ここで一ノ瀬氏が言われる「事実」とはいったい何なのであろうか? このあたり一ノ瀬氏は何か誤解している部分があるのかもしれない(もう少し検証してみる)。

因果関係の事実関係としての必然性は、究極的には印象に辿れるという信念に基づいている(そして恒常的相伴が必然性、ということになる)。ヒュームは観念は印象の写しであると言っているが、それはあくまで”単純観念”に限定されているはずである(しかも常に写しであると断言できるのか?)。

そのあたりについては、因果推論するのに必然性あるいは恒常的相伴は必要ないの記事で説明している。

2020年2月6日木曜日

やはり違和感・・・

今日、図書館で『人間本性論』(ヒューム著、木曾好能訳、法政大学出版局)を借りてきて、解説の「抽象観念」(451ページ~)のところを読んでいるのだけど・・・

分析に、余計な論理学的論理が入り込んだり、〇〇主義とかが入り込んだりして、論点がどんどんずらされている印象だ。

ヒュームを読むとき、論理学的論理を前提にしてはならない。自分の経験としてどうなっているのかを確かめる必要があるのだ。

私が常日頃感じていることであるが・・・哲学者は経験論がどうも苦手のような気がする。

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『人間知性研究』(ヒューム著、斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局)に掲載されている、一ノ瀬氏の解説、「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」(226ページ~)も読んでいるのだが、ヒュームを読むからには言語論的転回の影響をすべて取り去った上で、とにかく経験そのものを追っていく必要があると思う。

言語使用の事実についてのこうした認識を基盤としてどうしても確保したいならば、「基礎づけ」という作業さえもが再びよみがえるかもしれない。確かに、対象に関する認識ではなく、言語使用に関する認識へという議論場面のシフトはあるにせよ、そしてそのシフトに伴う重大な変容は間違いなくあるにせよ、全体としての問題の構造は以前とまったく同じままなのである。(一ノ瀬氏、232ページ)
・・・この見解も私的言語批判を引きずっているような印象だ。(ただ、私がここで指摘した論点に通じる部分もあるが)

一ノ瀬氏もそうであるが、現代におけるヒューム研究は「経験論」という手法を無視した上で、よくわからない論理による分析がなされているような気がしてならないのである。分析哲学やら論理学やらをいったん捨てた上で自らの経験から構築していくのが経験論である。なんだかヒュームを現代的な分析哲学のコンテクストの中に位置づけようとする目論見を感じるのだ。

自らの経験を哲学の材料にしてはならない、そういった暗黙の了解があるような気がするのである。そもそも「客観性」というものでさえ、各々の経験の積み重ねとして見いだされるものなのである。客観性を前提にしながら哲学を構築するのは不可能である(パラドクスに陥るだけ)。そうではなく、自らの経験をもとに、「客観性」があると思われる状況とはいかなるものなのか、そこを明らかにする必要があるのだ。客観性というものも結局は経験によりもたらされるものなのである。

すべては経験、知識も経験として現れるし(経験としてしか現れない)、思惟や意志と呼ばれるものも具体的経験として現れるものなのである(思惟そのもの、思念そのもの、意志そのものの経験はどこを探してもないのだが)。

もちろん私は、「心のなかの観念」とか心理的な基礎づけというようなかつての道具立てを再び用いるべきだ、といっているのではない。(一ノ瀬氏、232ページ)
・・・これも私たちの具体的経験を基礎づけに使うべきではない、という方向に向かってしまっては話にならない。

実際の科学の現場ではどうだろうか? 研究者自身の観察に基づいて理論が構築されているのである。実験も実験者自身の観察があって成り立っている。

哲学理論と、既に(科学として)具体的に遂行されている事実(ここで誤解なきように・・・あくまで科学理論構築のプロセスという事実のことであり科学理論の正しさのことを言っているのではない)、その間に齟齬が生じたとき、どちらが「正しい」のか・・・それは当然事実の方である。事実と齟齬を来している哲学理論は、やはり「間違って」いるものなのだ。

哲学はその「事実」をおかしな理屈で歪めようとして、結局パラドックスに陥っている。パラドキシカル云々言う前に、哲学者は「パラドクス・矛盾とは何か」をきちんと説明せねばならないのである。(そしてそのヒントはヒュームの著作の中にある)
(ここ数日、ちょっとづつ読んでいるルーマンの『自己言及性について』土方透/大澤善信訳、ちくま学芸文庫、を連想しながら・・・)

さらに言えば、「心」があってその中に「観念」が現れるのではない。まずは「観念」(心像)があって、そこから因果的に「心」というものが想定されているのである(しかし実際には「心そのもの」という具体的経験は終ぞ現れることはないのだが)。


2020年2月5日水曜日

違和感だらけだ・・・

ヒューム研究学会
第29回例会(2018/11/19 update)
https://sites.google.com/site/humeforumjapan/archives
合評会資料
澤田和範「萬屋博喜氏の『ヒューム—因果と自然』の批判的検討」
https://drive.google.com/file/d/1X2nXtExJvBV4---iJl6ZaYlGqOg3Y2Qz/view

・・・などに目をとおしていたのだが、

普通に考えてみて、因果推論の正当性は、その推論が実際に当たるかどうかで決まるのでは? と思うのだが・・・

空を具合を見て「これから雨が降るだろう」と考えて、それが正当かどうかは、雨が実際に降るかで決まる。事実で検証されない推論は究極的には正当化しようがないものである。

ただ、過去において同じような場合には同じような結果が生じるという、経験則を適用できそうな、似通った状況であれば、正しいだろう、と目星をつけることはできる。
しかし究極的には正当化されてはいない。それこそprobabilityの世界である。

そして、因果推論した「理由」というとき、
(1)なぜ因果推論できたのか
(2)因果推論を正しいと思う根拠
(3)因果推論が実際に正しかったと判断する根拠

これらを混同してはならない。ヒュームも混同しているように思える。(1)は答えようがない(どうとでも言える)。因果関係とは何かという問題を因果関係で説明するのは、それこそ無限後退、ナンセンスの極みである。(しかしヒューム自身このあたり混同が見られる)

恒常的相伴が問題となるのは、まさに(2)の場合なのである。そして既に述べたように、因果推論の正当性は、その推論が実証されて初めてもたらされるものである。(3)に恒常的相伴は関係ない。当たればよいのである。しかしその因果推論が普遍的に適用できるという保証は与えられない(信じるのは勝手だが)。

・・・もう少しじっくり読んで、そのうち分析してみたい。

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次に「意味」についてであるが、

『人性論』の抽象観念の一文を引用した上で、澤田氏は次のように述べられている。

もし名辞が個別観念に「意味」を与えると言うヒュームが、ここで語や文の、あるいは命題の意味について語っているのだと言うなら、その人は意味の理論を何か根本的に誤解しているのだと思われる。(澤田氏、7ページ)
・・・澤田氏の見解に反して、その文は、まさにヒュームが「意味」について述べた部分なのである。言葉の意味というものは言葉がなければ現れようもない。あたり前の話である。言葉の意味は言葉だけで説明できるものでも当然ない。言葉と経験(観念や印象)との繋がりによって初めて生まれるものである(ヒュームは観念についてしか言及していないが)
根本的な誤解をされているのは澤田氏であるように思われる。(萬屋氏の見解にも問題はあるが)

ヒュームが言っていることは、抽象概念とは言うものの、実際に「意味」として現れるものは個別的観念でしかない、ということなのである。これは論理ではない。自らの経験としてどうなっているのか確かめてみるものなのである。

実際(おおまかにいえば)ヒュームの言うとおりになっていると思う。

2020年2月2日日曜日

純粋経験とは

純粋経験というのは、
経験に純粋なものと純粋ではないもとがあるとか、そういった区分・分類のことではなくて(西田の『善の研究』での説明が混乱しているためそう受け取ってしまう人が多い)、
経験を”純粋なまま”(まさにpureなままに)受け取ってみよう、ということなのです。

経験を、(たとえば観察の理論負荷性とか、アスペクトがどうとかとか)いろんな理屈をいったんほったらかしておいて、「思考」とか「判断」とか「意志」とか、そういった様々な生活の局面において、実際に具体的に現れている経験は何なのかを捉えていくことなのです。

判断したら純粋経験ではないとか、言語化したら純粋経験ではないとか、そういう人がいたら、それは純粋経験について全く勘違いしているのです(こういう勘違いもよく見られます)。

そうではなく、判断したことが純粋経験、言語化したことが純粋経験なのです。そしてその時、例えば判断という生活の局面において、具体的経験としていったい何が現れてきているのか、それを説明することが純粋経験論なのだと言えます。

純粋経験は言語化できない、という人もいそうですが、それも勘違いです。何らかの感覚を経験して、それを言語化した、それが純粋経験です。経験のすべてを言語で言い尽くせないということと、経験を言語で説明した事実があるということを混同しているのだと言えます。



実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...