2020年11月23日月曜日

プラグマティズム⇒根本的経験論(の説明)ではなく、根本的経験論⇒プラグマティズム(の分析)である

先の記事で、『プラグマティズム』において、ジェイムズは「根本的経験論」とプラグマティズムとは論理的な関連がない、と書いていると説明したが、ジェイムズの考え方には変化もあって、積極的に関連づけようともしていたらしい。

に掲載されている、

ジェイムズ経験論の諸問題(三橋浩氏著)http://www5b.biglobe.ne.jp/~hatigoro/REVIEWS%20on%20WJ-spje00index.html

・・・を、また少し読んでみたのだが、ジェイムズは根本的経験論をいかに把握し説明しうるか、ということに関してまさにプラグマティズムの手法を用いている、と説明されていた。

しかし規範的機能やら関心やら作用性というもの自体が、反アプリオリズムから逸脱しているようにも思えるのだが・・・そこに現れている観念(そもそも観念とは何なのか)が関係するものが過去の経験であろうが未来の経験であろうが、因果関係であることに変わりはない。因果関係をアプリオリに捉えてしまっている側面もある。

要するに(私が何度も主張してきたことであるが)、「言葉」というものが現れたこと、そこにあるものと「リンゴ」という言葉がつながりあったこと、それ自体が「経験」である、この事実を”額面通り”に受け取ることにジェイムズは失敗しているのだ。

言葉(言葉を書いたこと、読んだこと、しゃべったこと)という経験を(根本的経験論の原理に反して)不当に無視しているから、名前もない”連続した”経験、”混沌とした”経験から、いかに「観念」がもたらされるのか、という「因果的」説明をする必要が出てきてしまう。

根本的経験論をプラグマティックに説明するのではなく、根本的経験論は経験論として、あくまで経験の事実をただただ記述するだけで良いのである。それは「言葉」という経験の事実を額面通りに認め、具体的経験を因果的に解釈するのではなく、ただただ事実を説明する。

そこに犬と猫が並んで座っている、その光景自体が「隣接」という関係である。(理由など関係なしに)それを「犬」と呼んだ事実、(これも理由など関係なしに)それを「猫」と呼んだ事実、そしてその光景を見て「隣り合って座っている」と言語表現した事実、それらは「理由」以前に現れている具体的経験なのである。

そこに見えているものを「犬」と呼んだ事実は、その知覚経験と言葉との繋がりの根拠やら原理やら論理やら理由やらを説明できようができまいが、既に起きてしまった出来事なのである。

「どうしてそれを犬と呼べるのか」「どうして猫と呼んだのか」という問いは、それを犬・猫と呼んだ具体的事実が先にあった上で、事後的に(他の経験とつなぎ合わせながら)問うていくものなのである。因果が先にあり具体的経験があるのではない。具体的経験があって、因果は事後的に推測されるものでしかないのである。

因果的解釈があって具体的事実があるのではない。具体的事実がまずあって、因果的解釈はあくまで事後的な分析なのである。

そして「隣接」とは何か、「動く」とは何か、「変化する」とは何か、それらは具体的に隣接しているもの、動いているもの、変化しているものを見せて、「これが隣接しているということなのだ」「これが動くということなのだ」「これが変化というものなのだ」と言葉で説明するしかないのである。これ(言葉と経験とのつながり)はそれ以上論理で説明できない終着点、つまり純粋経験に他ならないのだ。

関係が具体的経験として現れる(そしてそれを額面通りに捉える)ということは、まさにこういうことなのである。そこにプラグマティックな方法論が入り込む余地などどこにもない。

プラグマティズムは具体的経験に裏付けられていない”仮説”を前提としてしまっている。そしてそれは検証不可能、どうとでも言えてしまう側面があることは否めない。


<関連するレポート>
ヒューム『人性論』分析:「関係」について

ヒューム『人性論』分析:経験論における「経験」の位置づけについて

2020年11月7日土曜日

根本的経験論でプラグマティズムの問題点を明確にすることができると思う

「純粋経験の世界」まだ検証中です。いろいろつっこみたい所はあるのだけど、ジェイムズの説明内容をまだきちんとイメージできていない部分もあるので、じっくり取り組んでいきます。

今日、岩波文庫の『プラグマティズム』を買いました。

ジェイムズは「根本的経験論」とプラグマティズムとは論理的な関連がない、と書いているのだけど、私はそうは思いません。

ジェイムズ自身が提示した根本的経験論の手法によって、プラグマティズムとは何なのか、プラグマティズムという考え方に問題点はないのか、きっちり説明できると思っています。

(根本的経験論の構築において、ジェイムズが提示した手法からジェイムズ自身が逸脱してしまっていることも指摘せねばなりませんが)

ジェイムズ分析にあたって、そのあたりもレポートにまとめていきたいです。

2020年9月13日日曜日

厳密にいえば、純粋経験論というよりは根本的経験論の方が正確ではあるのだが・・・

今、ジェイムズ著『純粋経験の哲学』(伊藤邦武編訳、岩波書店)の、「純粋経験の世界」を原文と照らし合わせながら読んでいるのだけれど、 

「実在」という言葉は大仰な感じがするけど、なんだ結局「リアルreal」ってことじゃないか・・・ 
(ヒューム『人性論』の”蓋然性”も、日本語では何を言っているのか分かりにくいがprobabilityと分かれば、あぁそういうことか、と理解しやすい)

 本ブログタイトルにもなっている「純粋経験論」、実際には「根本的経験論」radical empiricismの方がより正確かな、と前々から思ってはいたのだけれど、どうしようか・・・ 

「純粋経験」というのは誤解を生みやすい言葉だし、ジェイムズにおいては、すべての経験を包括はしていない、特定の状況における特定の経験であるようにも説明されている。 

そして一部では純粋経験なんてあるのか、とかいう議論もされていたり、 
純粋経験とは実際には経験されていないもの(物自体のような)というような理解をされてしまっていたり、 
そういう誤解を招かないためには、やはり「根本的経験論」の方が間違いがない気はする。 

でも純粋経験という言葉の方がメジャーだし・・・
radicalという言葉に極端なものを表すようなイメージがある気がする。根本的経験論は、確かに経験論を徹底するものではあるが、急進的とか過激とかいうものでもない。 実際に経験したものをただ説明するだけの話、なんのことはないのだが。 

 ・・・とりあえず、「純粋経験の世界」じっくり読んでます。

2020年8月16日日曜日

ヒュームからジェイムズへ

ここまで、ヒューム『人性論』の第一篇「知性について」を分析してきたのだが、最後のレポート(など)で指摘したように、経験から何(原理や原因)によって関係や知識や信念やらがもたらされるのか、と問うのではなく、関係やら知識がいかに経験として現れているのかを明らかにする必要がある。

原理や原因は経験として現れては来ないが、結果として現れる知識や関係というものは具体的経験として実際に現れているものなのである。関係をとりもつ架空の「力」「作用」のようなものを想定して因果的に説明するまでもなく、具体的経験として「関係」というものが実際に現れている、それを説明すれば良いだけなのである。

・・・で、その話の続きとしては、W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』(岩波文庫)第二章「純粋経験の世界」がまさにぴったりという感じだ。

いろいろ引用したい部分はたくさんあるのだが・・・

過度に精妙な精神は、こうした諸事実について考察し、それがいかに可能になるかを問うことによって、結局、直接の知覚的経験に代えて概念から成る多くの静的な事物をつくり上げてしまうことになる。(ジェイムズ、56~57ページ)

経験論は事物を永久に分離したままにし、合理論は絶対者や実体、その他何であれ彼らが採用しうる架空の統一の作用者によって、この空隙を埋めようとする。(ジェイムズ、57ページ)

連接と分離は、すべての出来事においてともに生じている現象であり、われわれが経験を額面どおりに受け取るならば、ひとしく実在的なものとして説明されなければならない。(ジェイムズ、57ページ)

・・・同一性であれ変化であれ、連続性であれ断絶であれ、様々な”関係”というものは、具体的経験として現れているのであれば、それを選り好みすることなく、平等に具体的経験として説明する必要があるのだ。

この問題に関しては、ジェイムズはヒュームより一歩先を進んでいることになる。

ただ、ジェイムズ自身、「抽象的な話をすることと混同しない」(ジェイムズ、55ページ)で”具体的”経験を説明できているのか・・・と言えば怪しい部分も多い。概念図・イメージ図と具体的経験とを混同してはいないだろうか?

このあたりきっちり説明しておいた方が良いだろう。

今は、これに併せてソシュールの一般言語学講義も読んでいるのだが・・・やはり言葉の「意味」に関する説明には非常に違和感を覚える。ソシュールの言語論はその出発点から問題を抱えているのではないかと思える。

そのうちきっちり批判的分析をしておきたいと思う。





2020年8月11日火曜日

ヒューム『人性論』分析:経験論における「経験」の位置づけについて

ヒューム『人性論』分析:経験論における「経験」の位置づけについてhttp://miya.aki.gs/miya/miya_report31.pdf

・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編です。ヒューム理論における「経験」の位置づけ、「経験⇒原理⇒観念」という分析フォーマットの問題点を指摘するものです。経験がいかに知識や関係(の観念)をもたらすのかではなく、知識や関係そのものがいかに経験として現れているのかを示すことが経験論なのであって、それらをもたらす「原理」「原因」を問うたところで、一元的な回答を得ることなどできないのです。

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 本稿は、ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)第一篇分析、主に「経験」というものの位置づけを取り扱うものである。

 『人性論』第一篇において「経験論」という用語が用いられているわけではない。そしてヒューム自身「経験」という言葉をそれほど厳密に定義しようとしているわけでもないように思える。しかし、その無自覚が分析のブレを生んでしまっているようにも思えるのだ。

 経験論と合理論の論争において、「知識は経験によってのみもたらされるのか」という問いは重要な位置を占めていると思う。「生得(、、)観念(、、)がなにかあるのか」(ヒューム、16ページ)、そういった問いも考慮した上で(そしてそれを否定するためもあって)ヒュームは理論を構築している。

 しかし、実のところこれは的外れな議論なのではないか。そもそも「知識」とは何なのか? 知識そのものが「経験」として現れているものなのではないのか?

経験として実際に、具体的に現れているものはすべて経験である。当たり前の話だ。数学の答えを探し、ついに答えにたどり着く過程、現在の状況を把握した上でこれから何が起こるのか推測する過程、そこに飛んでいる鳥を見て「あれは鴨かな?」と思う過程、それらすべてが「経験」なのである。

経験から知識がもたらされる、というのではなく、知識そのものが経験なのである。知識そのものが経験として現れている。

一方、そこに「原理」というものは具体的知覚として現れてはいない。「原理」というものは因果関係に基づくもの、ある現象・ある認識をもたらす仕組みというものを因果的に示そうとするものである。しかも一元的説明に陥ることでしばしば誤謬を生む。しかし、具体的経験として現れるのは知覚と知覚の継起(あるいはその繰り返し)でしかなく、「因果関係そのもの」の観念やら印象を探してもそこに見つかることはないのである。

 ところがヒュームの分析手法において、「経験⇒原理⇒特定の観念」という枠組みが常に付きまとっている。しかし、「原理」云々以前に、知識あるいは観念は私たちの経験として現れてしまっているのである(そして現れていないものは現れていないのである)。

 因果推論した事実、「空が曇ってきたからもうすぐ雨が降るだろう」と思った事実、これも経験であることに変わりはない。しかし「なぜ因果推論できたのか」という「原因」あるいは「原理」を探したところで、様々な説明が可能ではあるが、一元的因果的説明など出来ようもないのである(このあたりはレポート〔1〕や〔5〕でも論じている)。

 ヒュームは「原理」思考から脱することができなかった、そこがヒューム経験論の限界であったと思うのである。


目次 ※ ()内はページ

Ⅰ.「経験」とは何か (3)

1.『人性論』における経験の位置づけ

2.「経験」は「心」に現れるものではない

3.「きずな」「引力」があるから観念が結び合わされるのではなく。観念が結び合わさっている状況が具体的経験として現れている

Ⅱ.ヒュームは因果関係における「経験」の位置づけを見誤っている (6)

Ⅲ.ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論できた「原因」)とを取り違えている (8)

1.因果推論を因果推論によって根拠づけようとしている

2.因果推論の「正しさ」の検証

3.経験論として因果関係・因果推論を説明するとは

Ⅳ.経験がいかに知識をもたらすかではなく、知識がいかに経験として現れているか、そこが問題 (12)



2020年7月20日月曜日

ヒューム『人性論』分析:「存在」について

ヒューム『人性論』分析:「存在」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report30.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「存在」に関するものです。存在に関しては、「存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じもの」というヒュームの言葉が既にその解答になっているように思えます。存在の有無(に対する信念)は究極的には知覚の有無にたどり着くのです。
 しかし、存在の信念の「原因」を問う過程でヒュームは思考の袋小路に入ってしまったように思えます。因果関係、そして同一性・恒常性に関するヒューム自身の誤解が、説明を混乱させているのです。

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 本稿は、ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)における「存在」に関する分析である。
 存在に関しては、「存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じもの」というヒュームの言葉が既にその解答になっているように思える。存在の有無(に対する信念)は究極的には知覚の有無にたどり着く。
 しかし、存在の信念の「原因」を問う過程でヒュームは思考の袋小路に入ってしまったように思える。結局のところヒューム自身が言うように、いろいろ哲学者が論証を試みたところで、私たちはその論拠ゆえに存在を確信していると言い切れるわけではないのだ。
本文中で詳細に説明するが、以下の三つの論点が特に重要であるように思える。
 
① 因果推論に知覚の恒常的相伴(習慣)は必ずしも必要ではない。因果推論に「基本原則」など必要ない。ヒュームは因果推論ができるようになる「原因」と、因果推論の客観的正しさの根拠づけとを混同してしまっている。この混同が、存在の信念についての説明を混乱させている。
② 因果関係や存在に対する信念の“原因”を一元的に説明することはできない。「知性」とか「理性」とか「習慣」とか「想像」とかいう概念で一元的に説明されるわけではない。
③ 同一性・恒常性は、差異・変化と同じく知覚経験として現れるものであって、どちらかだけを懐疑するのはおかしい。

・・・上記論点に関して、ヒューム因果論の問題点については、
ヒューム『人性論』分析:「関係」について 
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

③の問題については、
ヒューム『人性論』分析:「同一性」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report29.pdf

・・・で既に説明しているので、参考にしていただければ幸いである。
 なお、本稿における引用部分は、すべて上記『人性論』(中央公論社)からのものである。


<目次> ※()内はページ

Ⅰ.存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じもの(2ページ)
Ⅱ.「原因」を問うても究極・単一の答えは出てこない(6ページ)
(1)「物体があるのかないのか」ではなく「物体があると思っている」という事実の明証性
(2)原因を問うても様々な答えが可能である
(3)知覚は感覚機能ではない
(4)知覚経験の分類は想像によるものではない
(5)原因を知らなくても存在していると思っている
Ⅲ.「原理」ではなく個別的な因果的知識の集積(12ページ)
(1)「整合性」は過去の経験に基づく因果的知識
(2)因果推論に恒常的相伴は必ずしも必要ではない


2020年7月16日木曜日

経験がいかに知識をもたらすかではなく、知識がいかに経験として現れているか、そこが問題

今は、ヒューム『人生論』分析:「存在」について・・・を書いているところです。だいぶ進んだし、論点は明確なのですが、文章がまだおかしいので、修正を何度か加えて公開しようと思います。

以下の文章は、その次の、「経験論における経験の位置づけとは」(仮題)に加えるかもしれない(もちろん修正しますが)文章です。

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印象⇒観念、という因果関係の恒常的相伴は、絶対的真理であろうか?

・・・どのようにその真偽を確かめうるのか、具体的に考えてみてほしい。まず私たちが思い浮かべる何等かのイメージ(=観念)がある。ではそのイメージに対応する印象というものを経験した記憶というものを必ず辿れるであろうか?
 もちろん、見たことがあるものだ、というふうに辿れるものも多い。しかし、何せ小さいころの経験であろうから覚えていない、そういうものも多いのではないだろうか?
 たとえば、黄緑色をイメージすることはできるであろう。しかし私たちが生まれてから最初に黄緑色をイメージした記憶というものを、いちいち覚えているであろうか? そしてその前に黄緑色のものを見たという記憶を辿れるであろうか? 私たちが出来るのは、黄緑色を今イメージすることと、実際に黄緑色をした物がこの地球上に、あるいは身近に存在しているという事実を確認すること、そしておそらく私はそれらを小さい頃に既に見ているであろう、という推測である。
 実際のところ、実際に見ている可能性は高そうであるが・・・私自身に起こった出来事として事実としての印象と観念との関連付けは非常に難しいことなのである。
 ただ、私たちはイメージとしての黄緑色と、実物としての(例えば若葉とか色鉛筆とか)黄緑色とを指し示したり(イメージしたり)できる、確実なのはそこまでである。
 別に私は印象⇒観念、という因果関係が成立しえないと言っているのではない。ただそれは絶対的真理ではなく、因果関係であるからには、あくまで蓋然性(probability)としての事実関係把握だ、ということなのである。ひょっとして、印象⇒観念、という枠組みに収まらない経験がどこかにあるかもしれない。私たちは赤ん坊のころからのすべての記憶を保持しているわけではないのだ。完全なる恒常的相伴を確かめることは困難、というか不可能であるように思われる。
 知識や思考が印象としての知覚経験のみからもたらされるのかどうか、という問いは、絶対に正しいと言える結論に行き着くことはない。
 そして、経験論の課題として、印象⇒観念、という枠組みはさして重要なことではない。そもそも問い方を間違えているのだ。既に説明したように、ヒュームは因果関係における経験の位置づけを見誤っている。因果関係だけでなく、その他の“哲学的関係”の説明においても同様だ。経験がいかに知識をもたらすかではなく、知識がいかに経験として現れているか、そこが問題なのだ。
 そこを見誤っているから、知識や因果関係や同一性や信念やらが経験からもたらされるときに「習慣」やら「知性」やらというものが“介在”するかのように分析せざるをえなかったのである。

<参考文献>
ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf


2020年5月27日水曜日

純粋経験とは”ゾーン”のことではない

『善の研究』における西田の純粋経験の説明は、互いに相容れない様々な論理がごっちゃになっているため、その文章を全般的に吟味せず部分的に切り取っていけば、それを読む人の都合の良いようにいろいろな解釈ができてしまう。そして、そういった解釈を許すような西田の論理の甘さもある。

精神集中していても、していなくても、思考・判断していても、「私」について考えていても、やはり主客未分である/精神集中と時間感覚
https://keikenron.blogspot.com/2019/05/blog-post_31.html

の記事で既に説明しているが、精神の”状態”に関係なく、経験していることは皆純粋経験なのである。経験が「純粋かどうか」なのが問題なのではなく、「純粋に」ピュアなままに経験を受け取っていこう、これが純粋経験論なのだ。このあたり広く誤解されているし、西田自身がひどくブレてしまっている(実際に会って指摘したいくらいである)。

念を押しておくが、「ありのまま」とは物自体を見て取るとか、そういった仮想概念を「ありのままの状態」「本来の状態」とか見なすのではなく、あくまでそこに何か見えた、それを「リンゴ」と呼んだ、そのリンゴが「赤い」と思った(実際に思ったのならば)・・・そういった具体的経験の事実をただただ見ていく、ということなのである。

話は戻るが・・・純粋経験とは、精神集中、あるいは競技などしているときに入り込むような”ゾーン”の状態やら、というふうに限定されるものではないのだ。集中しているかどうかと主客未分とは全く別の問題なのであって、別に気分が散漫な時でさえ、私たちの経験として「自己」「我」というものが現れることなどないのである。

別にゾーンに入って、自信に溢れていて力はみなぎっているのに冷静・・・といったふうないつもと違う状態であることと、純粋経験であるかどうかとは全く別の問題なのである。

さらに言えば「私」のことについて考えている時でさえ、そこに現れているのは「私」という言葉と、それに伴う何らかのイメージやら、あるいは映像や鏡に映った人の顔やら、そういった具体的な視覚的経験(あるいは情動的感覚なども現れているかもしれない)でしかないのである。そこに「自己そのもの」「我そのもの」を探そうとしても、どこにも見つかることはない。

私たちは鏡に映っている人の顔を「私の顔」と思うだけである。

また、よく見かけるのが、統一したり統一が崩れたりしながらより高次な統一へ進む過程・・・のような説明である。統一しても統一しなくても純粋経験ならば、統一しているか否かは純粋経験であるかどうかの区分とは関係ない、そんなこと普通に考えれば当たり前の話である。この当たり前を”ありのまま”に受け取らず、余計な詭弁を弄して何か生み出そうとするのが多くの西田哲学の研究者の現状であるように思えるのだ。(それこそ「裸の王様」)

そもそも「統一」とは何なのか? 何が統一しているのか? 数学の答えがやっと分かるのは、ただ「答え」となる数字や記号が浮かんできて、達成感と呼ぶこともできそうな何らかのスッキリ感のような情動的感覚が現れている、ただそれだけではなかろうか? 問いの「答え」が見つかることは「統一」なのであろうか? 具体的経験の事実としては、ただ「答え」が現れただけなのである。

後期の西田哲学では矛盾がどうたらとか出てくるが・・・そういう前に、「矛盾」とは何なのか、そこを明らかにする必要がある(どのような具体的経験をもって「矛盾」と呼んでいるのか明らかにするということ)。そのあたりの厳密な検証なしに、ただただ言葉の遊びに陥っている、それが実際のところなのである。

2020年5月24日日曜日

ヒューム『人性論』分析:「同一性」について

ヒューム『人性論』分析:「同一性」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report29.pdf

が出来ました!
あとは「存在」と「経験の位置づけ」に関してまとめれば第一篇の分析は終わりです。

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 本稿は、ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)における「同一性」に関する分析である。
 ヒュームは同一性も「知覚」であると説明しているにもかかわらず、一方で「万物は流転する」のような哲学的常識に縛られ、印象は常に変化・消失し、同じものは現れないという“思い込み”を取り払えないまま同一性について説明しようとして袋小路に入り込んでいるようだ。
 しかし、私たちが「同じだ」と思うのは、ただ“端的に”そう思うのであって、「違う」「変化した」と“端的に”思うのと同じことなのである。私たちがどう見ても「同じだ」と思うとき、そこに「相違」を見出せないとき、そこに「変化」「相違」があるといかに証明するのであろうか?
 本文中で詳細に論じるが、「相違」「変化」を承認しようとするのであれば、「同一性」も同じように承認すべきなのである。「同一性」を根拠づける必要があると言うのであれば、同様に「相違」「変化」も根拠づける必要があるのだ。しかし私が知る限り、哲学者たちは「相違」「変化」「差異」は根拠なしに承認しているのに、「同一性」だけに根拠づけを求めようとする(場合によっては根拠がないと主張したりする)。
 ヒュームだけでなく多くの哲学者たちが同一性について上手く説明できないのは、一方の事実(具体的経験)のみを採用し、他の事実を無視しているためではないかと思われるのだ。まさに次のジェイムズの言葉のとおりである。

 経験論が根本的であるためには、その理論的構成において、直接に経験されないいかなる要素も認めてはならず、また、直接に経験されるいかなる要素も排除してはならない。(W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』岩波文庫、49ページ)

 最後の二章では「人格の同一性」についても論じている。ヒュームが「記憶」に着眼したのは非常に的確であると思う。しかし「同一性」に関するヒュームの不正確な認識がその理論を歪めているので、それらの問題点について指摘しておいた。

 私はこれまで『人性論』に関する以下のレポートを作成しているので、参考にしていただければ幸いである。

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
(抽象観念および言葉の意味、時間・空間、複雑観念、因果関係)

ヒューム『人性論』分析:記憶と想像の違いとは?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report27.pdf
(記憶と想像との違い)

ヒューム『人性論』分析:「信念」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report28.pdf
(信念について)


 なお、本稿における引用部分は上記の『純粋経験の哲学』のもの以外は、すべて『人性論』からのものである。




<目次> ※()内はページ
Ⅰ.「同一性」とは「知覚」、所与として現れる経験(3ページ)
Ⅱ.「同じ」ことを疑うのであれば「違う」ことも疑わなければならない(4ページ)
Ⅲ.「同じ」にもいろいろある(7ページ)
Ⅳ.「人格の同一性」は記憶による(9ページ)
Ⅴ.「自己」「人格」という“実体”はない(11ページ)
<追記>(12ページ)

2020年5月16日土曜日

哲学に創造性は必要ない

ただ経験をそのまま記述するのに創造性は必要ありません。経験として現れないファンタジー世界を構築しようとするから創造性が必要になるのです。

そういったファンタジー的哲学(哲学といってよいのかわかりませんが)であるほど、芸術と親和性が高いようにも思えます。ファンタジーを作り上げることに問題はありませんが、それを”哲学”と呼ぶには違和感を感じてしまいます。


哲学に、具体的事例を用いた説明は必要ですが比喩は必要ではありません。それどころか、むしろ論理の飛躍をもたらすことの方が多いように思えます。

言葉で説明できないことは説明できない、あるいは説明しきれない、と言えば良いだけでです。哲学書で比喩が用いられているときは、気を付けて読む必要があるでしょう。なぜならそこで説明しようとする事柄と比喩として挙げられている事象とが同じことであるのか、異なる要素がそこに紛れ込んでいないのか・・・しばしばそこに論理の飛躍があるからです。

文学的に飾られた哲学書は、特に疑ってかかる必要があると思います。もちろん、哲学理論そのものでない部分において比喩を用いることに関しては特に問題はありません。

哲学は基本的に、芸術や文学のインスピレーションになるようなものではありません。ただ、当たり前のことを当たり前に説明することが、それはそれで癒しになる場合もあるし、人によってはそれがインスピレーションになりえることがあるかもしれませんが・・・


また、たくさん本を読めば「答え」に近づけるかと言えばそうでもないと思います。今の私にとって哲学書や哲学論文は、あくまで「哲学”業界”で問題とされている論点は何か」「哲学者がどのような思考プロセスで理論を作り上げているのか」を知るためのものでしかありません。

哲学はまさに「裸の王様」であると思います(これは比喩)。普通に考えて全く理屈に全く合わない説明であるのに、そこに難しそうな抽象的な専門用語をあてがうことで、一般の人たちが反論しにくいようにしているのです。たくさん本を読むことは、そういった”抽象的な専門用語を用いた理論武装”を強固にするだけのような気がします。

むしろ、そういった武装を取り外して、余計な知識はいったんほったらかしておいて、ただ私たち自身に現れる経験がどのようなものなのか、それを具体的に見直してみることが重要であると思います。まさにそれが哲学という学問における”フィールドワーク”であると言えます。すると、抽象的な理論武装がいかにナンセンスなものであったのかが、明らかになってくるはずなのですが・・・


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今はヒューム『人性論』の「存在」に関する分析をしています。いくつかの論点が混同されたまま論が進められているので、そこがヒュームの説明を分かりにくくしています。

2020年5月5日火曜日

ヒューム『人性論』分析:「信念」について

「信念」についてやっとまとめました・・・ここの部分はちょっとややこしかったです。

ヒューム『人性論』分析:「信念」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report28.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「信念」に関するものです。ヒュームは「印象⇒観念」という枠組みに固執するあまり、信念の問題における情念・情動的感覚の位置づけを見誤っている、そのため信念とは何か正確に説明できなかったと言えます。そもそも信念の問題は、「印象⇒観念」という枠組み、あるいは観念の「勢いや活気」というもので一律に説明できるようなシンプルなものではありません。

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<目次> 
Ⅰ.ヒュームの言う信念の“本性”とは?
Ⅱ.ヒュームの思考実験は何を明らかにするものなのか
Ⅲ.印象⇒観念の枠組みだけでは説明できない
Ⅳ.観念の活気や情感・情念の強さだけでは説明できない
Ⅴ.情念は、因果推論の“影響”のみでなく、事実認識を導くものとしても現れる

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これまでに以下のレポートにおいて『人性論』の分析を行っているので、ご興味のある方は参考にしていただければと思います。

ヒューム『人性論』分析:「関係」について 
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
・・・抽象観念および言葉の意味、時間・空間、複雑観念、因果関係について

ヒューム『人性論』分析:記憶と想像の違いとは?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report27.pdf
・・・記憶と想像との違いについて


あとは存在、因果推論における経験の位置づけ(経験論と合理論の論争における論点の問題点も)、自己の同一性で、第一編「知性について」の分析は終わりです。

2020年4月26日日曜日

ヒューム『人性論』分析:記憶と想像の違いとは?

『人間本性論』(ヒューム著、木曾好能訳、法政大学出版局)が今手元にないので、とりあえず抄訳の『人性論』の分析をやっておこうと思います。『人間本性論』そのうち買いたいと思うのですが、値段が・・・

とりあえず、6ページ(本文は4ページ半)の小さなレポートをまとめました。

ヒューム『人性論』分析:記憶と想像の違いとは?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report27.pdf

・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編です(前編はこちら)。因果関係を構成する印象・観念における、記憶の位置づけ、記憶と想像との違いについてのヒュームの説明の問題点を明らかにし、いかに修正すれば実際の具体的経験と齟齬なく説明できるのか論じています。

<目次> ※()内はページ
1.記憶・想像に関するヒューム理論の問題点 (2)
2.記憶と想像の違いとは? (4)
3.想像した記憶、という場合もある (5)

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とりあえず、最初のレポートでは
①抽象観念 ②時間・空間 ③複雑観念 ④因果関係

今回のレポートでは
⑤記憶と想像との違い

についてまとめました。あとは、とりあえず思い浮かぶところでは・・・
⑥因果関係構築・因果推論における「経験」の位置づけの問題
⑦信念
⑧存在
⑨自我・自己同一性

・・・が残っています。まとめられたところから順次公開していきます。


2020年4月17日金曜日

「場」を実体化してはならない(「作用」としても)

因果関係に関する厳密な検証が抜け落ちている・・・
https://keikenron.blogspot.com/2020/03/blog-post_30.html

・・・の記事で、西研著『哲学的思考 フッサール現象学の核心』(ちくま学芸文庫)の感想を少し述べた。

意識を、世界内に存在する体験の場としての「心」ではなく、世界を含む一切の超越物を妥当せしめる場(一切の超越物の存在確信をつくりだす場)としての「超越論的主観性」とみなすこと、これが「超越論的―現象学的還元」と呼ばれるのである。(西氏、213ページ)
・・・このように「場」というものを実体化していまっているのである。西氏はヒュームとフッサールの共通点を強調されているが(もちろん共通する面はある)、しかし、上記記事で私が述べたように、フッサールはヒューム理論に余計なものを付け加えてしまっただけなのである。

ヒュームは「意識」という”場”を出発点になどしていないのでは? あくまで知覚として現れる「印象」と「観念」を出発点にしているのではないだろうか? 

・・・ヒュームは次のように述べている。

心は、異なる諸知覚が引き続いて現れる、一種の劇場である。心の中で知覚は、通り過ぎ、再び戻り、いつの間にか過ぎていき、姿態と状態の無限の変化・多様の内に参加している。いかに、心の単純性と同一性を想像する自然の傾向が我々にあるとはいえ、厳密には、一時点における「単純性」も異なる時点における「同一性」も、心にはないのである。劇場の比喩を誤解してはならない。心を構成するのは、ただ継起する諸知覚だけであり、劇の場面が演じられる場所の想念や、場所を構成する物質の想念は、全くないのである。(ヒューム『人間本性論(人性論)』井上基志訳・青空文庫:第一編・第四部・第六節 人格の同一性について、ウェブアドレスはこちら
・・・ヒュームは、「場所」というものは、物質としてはもちろん想念としても現れることはないと述べている。(だったら、わざわざ「劇場」という比喩をしなくても良かったのだが・・・)

ヒューム自身、そこのところを厳密に考えてはいなかった様にも思える。ヒュームは「心」という言葉をしばしば用いている。しかし「心の観念」「心の印象」については何も論じてはいない(たぶん)。「心」について十分な検証なしに「心」という言葉を漠然と用いてしまっているのではないか(このあたり、後日検証してみる)。

ただ、ヒュームは、彼自身の理論において、「心」という「場所」をその理論構築の要素にはしていないと思う。あくまで「印象」「観念」という「知覚」から理論を構築しようとしているのである。その「知覚」が現れる「場」というものを理論構築の前提になどしていないのである。

一方、フッサールはその「場」(もちろん物理的場所ではない。だからこそ、そんな経験としても現れないものをどうやって根拠づけろというのであろうか?)というものを「超越論的主観性」として積極的に理論の前提としてしまっているのである。

ヒュームは知覚として現れるものから論理を構築しようとした。しかしフッサールはそうでないものから理論を構築しようとしてしまったのである。






2020年4月4日土曜日

因果関係に対する誤解が根本にあると思う

苫野一徳著
「情動所与」の発見とその哲学的意義、および「欲望相関性の原理」の本質的意味
『本質学研究』(7) 、2019年、105~121ページ
https://wesenswissenschaft.files.wordpress.com/2019/08/09_i.tomano07.pdf

・・・の分析である。

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1.因果関係に対する誤解


先日の記事でも説明したが、知覚を身体構造で説明することは「先構成的解釈」(苫野氏、106ページ)ではない。

現前意識を現前意識たらしめている絶対的な究極原因を、わたしたちは確定することができない。(苫野氏、106ページ)
・・・という見解は、「因果関係」に対する誤解に基づいている。因果関係がアプリオリなものではない、ということはどういうことなのか、そこを理解する必要があるのだ。(そして、普通に「原因」で良いのに、わざわざ「絶対的な究極原因」とする必要があるのだろうか?)

知覚的経験の「原因」とは、その知覚経験と、その他の経験とを事後的に結び付けた上で導かれるものである(そしてそこに「恒常的相伴」が見られれば客観性があると思われる)。

(そもそも「現前意識」という具体的経験などどこにもないのであるが)具体的知覚経験の「原因」を探ることは可能なのである。もちろん因果関係は「絶対的」なものではない。

知覚を因果説明することは、決して「先構成的解釈」ではなく、あくまで経験どうしの事後的結び付けによって導かれるものなのである。つまり経験則である。

それは、

現前意識を現前意識たらしめる何らかの「本体」を想定・確定し、そこから一切を判断―断罪―する、悪しき真理主義―独断論―の源泉となるからだ(苫野氏、107ページ)
・・・とはいったい何に対しての警戒なのだろうか? 経験どうしの因果的結び付けは独断論でもないし、悪しき真理主義でもない。

「現前意識」の”背後”にまわる、というのは経験則をアプリオリと取り違える、そういうことなのである。

私たちには脳があって、目でものを見ている、という理解は、「共通了解可能性を著しく欠く」(苫野氏、107ページ)ものであろうか? むしろ一般的理解であるように思えるのだが。

竹田氏・西氏一派の哲学において、因果関係における重大な誤解があるように思われるのである。



2.「本質」など体験されていない


たとえば、今わたしは目の前のグラスをありありと見ているが、このものが確かにありありと「見えてしまっている」ことを、わたしはどうしても疑うことができない。しかも、それが「グラス」という本質的な意味をもって「見えてしまっている」ことを疑うことができない。(苫野氏、106ページ)
・・・本当にそうだろうか? そこに何か見えている。そしてそれを「グラス」だと思った、実際に「グラスだ」と具体的に思ったのであれば、確かに「グラスだ」と思ったのである。しかしそれはあくまで「言葉」として現れた経験である。ただ「グラスだ」という言葉を思い浮かべたのである。それは「本質」ではない。

仮に、その時そこにはない別のグラスを想像したとする。しかしそれはただの具体的なイメージであって、やはり「本質」ではない。

ヒュームは抽象観念の説明において、名辞に対応して現れるのは常に具体的・個別的な観念でしかない(実際には印象の場合もあるのだが)と述べている。具体的経験として確かめてみればよい。言葉に対応するものとして現れるのは、常に具体的・個別的イメージ、あるいは図・写真、あるいは実物としての知覚(ヒュームの言う印象)でしかない。

そこに「本質」なるものなどどこにも現れては来ないのである。



3.情動の位置づけを間違っている


 たとえば花を認識する時、わたしたちはそれを、花としての本質的な意味をもった個物として認識する(個的直観と本質直観)。しかし同時に、わたしたちはそこに、なにがしかの情動性もまた必ず所与されていることを自覚する。(苫野氏、107ページ)
・・・私たちが何かを認識するとき、常に情動性が所与されているであろうか? 強く何か感じる場合もあれば、別に意識さえしないこともあろう。「必ず所与されている」という説明に「共通了解可能性」があるのだろうか?

一応念を押しておくが、「情動」という”精神現象”は実際にはどこにもない。あるのは具体的な体感感覚である。ドキドキしたりわくわくしたり、泣いてしまったり、それらも結局は何らかの具体的体感感覚、体のどこかの部位の感覚的変化なのである(このあたりはジェイムズも述べていることであると思うが)。それらの具体的感覚を「情動」「情動的感覚」と呼んでいるのである。「情動」という用語に問題はないが、それを「精神」という側面から説明するのは間違いなのだ。

もちろん、花を見て、情動的感覚を受け取る、そういうことがあることを否定するものではない。音楽を聴いたり、演奏しているときにそういった感覚を受け取ることが多いことを否定するものでもない。

ただ、そこに花を見て「桜だ」と思ったり、うきうき感を感じたり、それらの具体的経験において、「情動(情緒性)」を”第一義的”(苫野氏、108ページ:竹田氏『欲望論』からの引用)とする根拠はいったいどこにあるのだろうか?

それらはただの具体的経験であり、どれが一義的とかどれが二義的とか決められるものではない。

要するに、

見えたもの⇒「花」「桜」
見えたもの⇒何らかの体感感覚⇒「うきうき感」

こういった経験と言語との関連付けの中で、「桜」という「花」が「うきうき感」を(私にとって)もたらすものである、という”意味付け”がなされる、こういった話であるならば充分納得ができる。

そして、「桜」というものが「うきうきさせるもの」としての”価値”を持つのだ、という説明もできる。”価値”というものに情動というものが関連していることを私も否定してはいない。



4.意味・価値は事実関係に還元される



「桜」を見て「情動的感覚」を受けとったこと、それも”事実”である。その事実関係(情動的感覚を伴う事実関係)のことを「価値」と呼んでいるのである。

わたしの目の前のグラスは、喉の渇きを癒したいという欲望(情動)を所与するかぎりにおいて水を飲む道具としての「意味」を持ち、そしてその目的を達成させうる可能性の強度に応じて「価値」を持つ(苫野氏、110ページ)
・・・「水」とは何かと聞かれ、水そのものを思い浮かべたり、そこにある水を指し示したりする。それら具体的知覚経験やら心像は「水」という言葉の意味である。この言葉の経験との関連付けに関して、そこに「情動所与」は何ら関係していないのである。

「そして水を飲んだら喉の渇きが癒される」というのは過去の経験(あるいは他者からの情報)に基づく因果的経験則、つまり”事実関係”である。この「水は喉の渇きを癒すもの」という因果関係も、「水」というものの(機能的)意味である。ここにも情動所与は何ら関係していないのである。

「喉が渇いたとき水を飲んで心地良かった」という因果認識においては、そこに情動的感覚が関与している。しかしこれもやはり事実関係である。

要するに、上記引用部分における「その目的を達成させうる可能性の強度」とは「事実関係」に他ならない。「価値」と言えども、結局は事実関係に還元されてしまうのである。

目の前のグラスの水をわたしが飲み水として認識するのは、わたしの「喉の渇きを潤したい」という欲望・関心に応じてである、と説明することができる。(苫野氏、114ページ)
・・・というのは、まさに事実関係、「水を飲むと喉の渇きが癒される」という因果関係に他ならないのである。そしてそのものが「水」であるということに関して、そこに情動は関連などしていない。

苫野氏は「欲望相関性」と因果関係を混同しないようにと述べられているが、実際のところやはり因果関係に基づいた推論なのである。

わたしたちは、このグラスの水を飲み水として認識した原因がわたしの「喉の渇きを潤したい」という欲望であるなどということを、絶対的に確かめることなどできない(苫野氏、114ページ)
・・・当たり前のことである。水が飲めるというのは、過去の経験に基づいた因果的経験則である。水が飲めると思った「原因」が”欲望”であるなどど、いったい誰が考えるであろうか? この事例は論点がずれてしまっている。この説明は「われわれの認識の究極原因を確証することはできないのである」(苫野氏、114ページ)という証明にはまったくなってはいない。


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この後も、「原因」について取り違えた説明が延々と続くのであるが・・・



「かくかくしかじかとただ思う」とは具体的にどういう経験であるか、そこが問題なのだが・・・

フッサール著『デカルト的省察』浜渦辰二訳(岩波文庫)についても、そのうち第一省察、次に第二省察、というふうに少しづつ批判的分析をしていきたい。

そこにフッサールがいたら、いろいろ問いただしたいことがあるのだが・・・

哲学を新たに始める者としての私は、真正な学問という想定された目標に向かって一貫して努力するなかで、自分で明証から汲み上げたのではないもの、問題の事象や事態が「そのもの自身」として現前するような「経験」から汲み上げたのではないものについては、いかなる判断も下さず、通用させてはならない、ということだ。(フッサール、36ページ)
・・・というのであれば、

判断することは思念することであり、一般的に言えば、かくかくしかじかとただ思うことである(フッサール、31ページ)
・・・この「かくかくしかじかとただ思う」とは、いったいどのように「思う」のか、具体性がない。実際の経験として”具体的に”何が現れているのか、そこが問題なのだが。

前述定的な判断・明証(フッサール、33ページ)とが、「名指すこと」であり「表象」(われわれにとって何かが対象となること)(浜渦氏の解説、288ページ)であるとは、いったいどういうことなのか? 「名指す」とは具体的にどういう経験なのか、それが「表象」であるとはいったいどういうことなのか? そもそも「表象」というものなどどこにあるのか?

このあたり、具体的経験と本当に合致しているだろうか? ただそこに何か見えているだけであるのならば、フッサールの言う「明証」(=卓越した仕方で判断しながら思念すること:フッサール、31ページ)というものなどになりようがない。(フッサールの言う「明証」は様々な意味合いに受け取れるので混乱を招いてしまっているが)

ヒュームは、「印象」と「観念」の二つだけであると言った(実のところそれに「言葉」も加わるのであるが)。実際のところそれで充分だったのだ。しかしカントはそれに「表象」とか「概念」とか「直観」とか、その他余計なものをたくさん持ってきて、具体的経験と乖離したモデルを作り上げてしまった。

フッサールもこれに引きずられてしまっている。とにかく余計な用語を持ち出しすぎるのだ。先に触れたフッサールの「明証」も、具体的経験の事実に照らし合わせてみれば、ただ言葉と「印象」との繋がり合い、あるいは特定の言葉で言い表される「観念」とそこに見えている「印象」との同一性・類似性の問題に収斂されてしまうのである。

「かくかくしかじかとただ思う」とは、ただ「観念」が浮かんできたのか、あるいは言葉と「観念」とのセットで思い浮かべたのか、あるいは「言葉」のみを思い浮かべたのか、”事態がそのもの自身として”いかに現れているか、つまり経験其物としていかに現れているか、フッサールはもっと厳密に説明すべきであったのだ。

2020年3月30日月曜日

因果関係に関する厳密な検証が抜け落ちている・・・

西研著『哲学的思考 フッサール現象学の核心』(ちくま学芸文庫)を(一部を除いて)あらかた読んだのだが・・・そのうちもういちど読み直してきちんと批判的検証してみたい。

西研氏はヒュームに関してもしばしば言及されていて、フッサール理論への影響などについても肯定的に述べられている。(そのためか、竹田氏や苫野氏の著作を読むときより、心穏やかに読むことができる・・・)

ただ、私の印象としては、ヒューム⇒フッサールという過程において、かえって余計なものが付け加えられてしまっている一方、肝心な「因果関係」についての厳密な考察が置き去りにされている気がするのである。

ヒュームは「意識」という”場”を出発点になどしていないのでは? あくまで知覚として現れる「印象」と「観念」を出発点にしているのではないだろうか? フッサールは「意識」を実体化していないだろうか(「意識」という経験はどこにもない)?

・・・そのあたり、また『人間本性論』に戻って、じっくり読みこんでみようと思う。

(あと、「実存世界」とか「生活世界」と言うものの、「世界」とは何なのか? 私たちはあくまで個別的・具体的経験をしているだけで「世界」を経験しているのではない。「世界」ということばを安易に用いることは避けた方が良いのでは、と思う。この「世界」という余計な言葉が、フッサール理論における経験と科学との誤った関係づけにつながっているように思える。)

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ひさしぶりに『本質学研究』のウェブサイトを見てみたら、

苫野一徳著「『情動所与』の発見とその哲学的意義、および『欲望相関性の原理』の本質的意味」

・・・「情動所与」という言葉を見つけたので、どういうことなのかな・・・ということでちょっと読んでみた。

う~ん、どうだろう・・・

物理的理解、自然科学的理解は「先構成的解釈」じゃないのでは?
「関心相関性」「欲望相関性」の”原理”の方が、むしろ先構成的解釈なのではなかろうか?

ここでも「因果関係」に関する誤解があるのではないだろうか・・・自然科学における因果関係とは、あくまで経験と経験を事後的に関連づけた上で導かれるものである。あくまで経験ありきなのである。それらを皆「仮説」と断定するとはどういうことなのか・・・

一方、「関心相関性」「欲望相関性」という場合、「関心」あるいは「欲望」という具体的経験を探してみても、そんなものはどこにもない(言葉はあるが)。”情動”といえども、結局はなんらかの体感感覚に他ならない(”精神現象”としての情動・感情というものはどこにもない)。しかも私たちが物を見たりするとき、常にそういった体感感覚を感じているだろうか? 感じることもあれば感じないこともある。

情動の継起は背景に後退するだろう(苫野氏、108ページ:岩内章太郎「現象学と欲望論」からの引用)
・・・”後退”していると判断するのであれば、要するに具体的経験として現れないということなのでは?どこにも現れないものが、背後にあると断言できるのだろうか?

このあたり、西田の「統一的或る者」「統一力」「同一の形式・構造」を思い出してしまう。



2020年3月21日土曜日

手法が同じなのに結論が全く違うのは・・・

西研著『哲学的思考 フッサール現象学の核心』(ちくま学芸文庫)についてなのだが・・・出発点というか手法においてはかなり私と共通するものがあるにもかかわらず、結論は全く異なるものになってしまっている。

みずからの体験じしんに問いかけることがもっとも根源的である(西氏、45ページ)
・・・結局、私たちは自らの経験の外には出られない。理論構築に使える情報はそれしかないのである。このあたりの見解に関しては、私もまったく同意するものだ。

そして、哲学理論の客観性というものは、

各人が各人の意識のありようをみずから確かめては報告しあうことによって、”意識一般に共通する記述”をつくりあげようとする営み(言語ゲーム)(西氏、94ページ)
・・・言語を介して、おのおの各人がその言語(による説明)を読んでそれを自らの経験として確かめる、そのプロセスにおいてはじめて”客観性”というものが見出されるのである。”言語ゲーム”という表現は誤解を招く可能性があるとは思うが、おおまかな内容に関しては、私も同意する。

なぜ近代哲学者の努力と成果がほとんど省みられなくなってしまったのか、という問いに対して、

より本質的には、近代哲学者たちの解明が必ずしも意識体験の反省的記述になっていなかったからだ(西氏、127ページ)

カント理論に対しても、

 その自然科学の普遍妥当性の基礎づけは、いかにも人工的である。直観のもつ時間・空間的形式と概念との「合成」による説明は、私たちがみずからの体験を反省しつつ「なるほどそうなっている」と確かめることができるようなものではなくなっている。それは一種の「組立図式」であり、そうかなと思えばそうも思えてくるし(怪しめばいくらでも怪しくなる)ようなものなのである。(西氏、128ページ)
・・・まさにそうである。哲学者がよく陥る罠というか、経験そのままではなく、いつのまにか”仮説モデル”(組立図式)を勝手に作り上げてそのモデルを分析してしまっているのだ。そのために、実際の私たちの経験と齟齬を来してしまっている。

哲学が一般の人に理解しがたいのは、その多くが読者自身の経験と合致しないからだと思うのだ。結局、概念どうしの関係として理解するしかない。それらの関係、それらの関係を示した「組立図式」を見出すことで”理解した”と思うかもしれない(実際、カント理論はそういう理解しかできない)。しかし、それらが現実としての経験・体験と合致しているのか・・・本当はそこが問題になるはずなのである。

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出発点となる手法に関してはとくに異論はない。しかし西研氏の理論における問題点は、

(1)「問い」そのものの問題、とくに因果の問題
(2)(カントと同じく)経験・体験を正確に説明できているか

この二つかな、と思う。哲学が学問の基礎・根拠について考えるものであるならば、「因果」の問題は避けて通れない。しかし西研氏の理論において(さらにはその他多くの哲学者たちにおいても)因果の問題がずれた形でしか扱われていないのである。

要するに「なぜ」と問うとは、どういうことなのか、因果関係の根本から問わねばならないのにもかかわらず、そこが全く抜け落ちてしまっているのである。「物理的な決定論的世界」(西研氏、134ページ)について議論する前に、因果関係とは何か、そこを究極まで突き詰める必要があるのだ。そこをほったらかしにして、「なぜ」と問い続けたところで、「基礎づけ」「根拠づけ」がなされたことにはならないのではなかろうか。
(因果関係について突き詰めていないから、志向性という因果的仮説を”疑いえないもの”として取り違えてしまうのである)

生の意味と価値をなぜ人は求めるのか(西氏、39ページ)
・・・哲学として考えるのであれば、まずは「なぜ」というものの”正体”を(体験から)明らかにする必要があるのだ。そして、上記(2)に関連するのだが、「意味」とは何か、「価値」とは何か、そこを問う必要がある。さらに言えば「動機」とは何か、「意志」とは何か・・・それらは「言葉」としてはある。しかし私たちは何をもって「意味」と呼んでいるのか、「動機」「意志」と言うものの、「動機そのもの」「意志そのもの」は経験・体験として実際に現れているのか、さらに根本から問う必要があるのだ。

他にも「コギト」というものが具体的体験・経験として実際に現れているだろうか? そんなものどこにあるのだろうか?
「我」について疑いえないというのであれば、「他者」も同様に疑いえないのではなかろうか? 「我」という経験はどこにも見いだせない。しかし「他者」はそこに見えている。むしろ「他者」の方がより確実なものではないのか?・・・と主張することさえできるのだ。

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主観の哲学は、何かの存在を客観的に証明しようとするのではなく、何かの存在の確信の成立の仕方を問うものなのである(デカルトはまだ「証明」しようとしいるが、ヒュームになると「確信成立」のみを自覚的に問題にするようになる)。(西氏、96ページ)
・・・ヒュームからさらに”因果的”理解を加えようとするのは、哲学的考察としては適切ではないと思う(進歩というより後退)。「構造」とは何か(これも因果的関係づけにほかならない)、「仕組み」とは何か、「作用」とは何か、まずはそこから明らかにすべきであって、「成立の仕方」という問いの答えは恣意的な仮説にならざるをえないのである。

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西研氏が経験・体験を正確に記述できていない箇所は、他にもたくさんあるが、後日、具体的に説明していこうと思う。

例えば・・・「完全な三角形はいわば頭のなかにしか存在しないものだ」(西氏、93ページ)と言うが、そもそも”完全な三角形”を頭のなかに描くことなどできるのだろうか?


2020年3月15日日曜日

言葉と知覚・印象の関係と、因果関係との混同

 一ノ瀬氏は、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)に掲載されている、「原因と結果と自由と」において、

「Rさんは日本人女性である」という理解と、「Rさんは日本人である」という理解との間の関係のように、原因結果ではなく、単に論理的な関係でも、観念についての「私たちの事実」としては、「近接」、「先行」、「恒常的な相伴(恒常的連接)」を満たしていまい、ヒュームの枠組みだと原因結果になってしまうのではないか(一ノ瀬氏「原因と結果と自由と」、19ページ)

・・・と説明されているが、これは明らかに言葉の意味の問題と因果関係の問題との混同である。そこに印象として現れている人が「Rさん」であり「日本人」であり「女性」なのである。これはあくまで言葉と印象・観念の関係の問題であり、「近接」「先行」「恒常的な相伴(恒常的連接)」とは全く別の関係であると言える。さらに言えば「論理的な関係」でさえも結局は言葉と印象・観念の関係へ還元される、ということでもある。
 「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」においても、

「恒常的連接」というのは、その意義からして、「タイプ」の概念がなければ成立しない。そして、「タイプ」とは抽象観念にほかならない。しかるに、ヒュームの考えでは、抽象観念とは、類似の対象を同一の名前で呼ぶという習慣が確立することによって、名前を聞くとそれらの対象のどれか特定の観念が想像によって想われてしまう、という存立構造をもつものであった(T20)。すぐに気づくように、こうした抽象観念の存立構造とは、「心の決定」による因果関係以外の何ものでもないだろう。つまり、名前と特定の観念との間に、「原因」の第二の定義に基づく因果関係が現れているのである。(一ノ瀬氏、247ページ)

・・・これも言葉と印象・観念の関係と、因果関係とを混同している見解である。言葉と印象・観念との関係は、具体的には、

ある事象⇒A(言葉)と呼んだ
別の事象⇒Aと呼んだ
さらに別の事象⇒Aと呼んだ

・・・という具体的経験の積み重ねである。これらはあくまで事象間の「同一性」「類似性」の問題である。それぞれの事象は全く同じかもしれないし違うかもしれない。同じものを何度も見てAであると確かめる場合もあろうし、様々なものを見て、これもAだ、あれもAだと思う場合もあろう。
 「三角形」として思い浮かぶ図形が同じ場合もあろうし、違う場合もある。ある図形を「三角形だ」と思ったが、三辺の長さが全く違うものも「三角形」だと思うのである。
 因果関係における恒常的連接はこういった同一性が成立した上で認められうるものとなる。

同一性の問題については『人間本性論』(木曾好能訳・法政大学出版局)第四部第六節「人格の同一性について」の前半部分(285~293ページ)で詳細に論じられている。ただ、これらはあくまで後付けの説明であり、まずは「同じ」と思った経験があり、その“理由”は事後的因果的説明であるにすぎない。

2020年2月24日月曜日

「統一的或る者」批判 ~西田幾多郎著『善の研究』第二編 実在の分析

新しいレポート書きました。
『善の研究』第二編まとめました。
初心者向けではないので・・・そこはすみません。
最後の章では時間論や自己同一性の問題も取り扱っています。


「統一的或る者」批判 ~西田幾多郎著『善の研究』第二編 実在の分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report26.pdf

・・・『善の研究』第二編 実在の分析です。純粋経験論の立場から言えば、「力」があって事象・現象の推移があるのではなく、現象・事象の推移がまずあって、そこから「力」というものが仮想されているということなのです。「力」を実体化しそれを経験の根拠づけに用いてはならない、「力其物」(さらには「作用其物」「意志其物」)というものは純粋経験として現れることがないからです。しかし西田は「統一的或る者」「統一力」という仮想概念により純粋経験を説明しようとしています。

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<目次>
1.知識と情意とは“統一すべき”なのか?
2.「心其物」「意識其物」は純粋経験ではない
3.思惟が“独立自全の活動”であるということ=「思惟の根柢にも常に統一的或
る者がある」ということにはならない
4.問題は因果律をアプリオリと捉えること
5.「無限」が純粋経験として現れているだろうか?
6.「情意」とは何か?
7.「同一の形式」は虚構、そもそも「意志其物」が純粋経験ではない
8.「統一的或る者」は西田自身が言う「力とか物とかいうのは説明のために設
けられた仮定」そのもの
9.経験の推移や関係づけを説明するのに「一の意識」を前提とする必要はない
10.「超越する不変的或る者」を前提しなくても思惟のプロセスとしての純粋
経験はただひたすら現れてくる


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純粋経験の体系性 (佐野之人著)
日本哲学会、第78回大会(2019年首都大学東京)一般研究発表

・・・を読んでみたが、仮にこういった研究者と出会って話をしてみても果たして会話が成立するだろうか・・・? 文章とそれに対応する経験との関係から導き出される論理、それを無視した上で宗教的感覚を求めるというのであれば。。。そこにもう議論の余地はなさそうだ。
 純粋経験論とは、読者がそれぞれの経験を確かめながら検証していくものである。それは自らの宗教的関心の深さに関わりなく、現れてくる経験なのである。
我々が『善の研究』を読むとき、我々はすでに、そうしてつねに純粋経験のうちにあるのであるが、そのことはさしあたり分からない。(佐野氏:著者)
・・・ということはありえない。その読んでいる事実、見えている文字、そこで浮かんでくるなにがしかの感覚やら心像やら言葉やら、そういったことすべてが純粋経験なのである。ただそれだけのことだ。それがありのままの事実でない、というのであれば、いったい何がありのままなのであろう? それが反省であろうとなかろうと、経験として現れたものは現れたものなのである。そしてそれを言語表現した、それさえもありのままの事実である。(西田は言語表現も純粋経験であることを見逃している
 佐野氏の言われる「体系性」とは(西田の言う「体系」もそうであるが)、結局のところ、純粋経験ではなく、構成された仮想概念なのだと思う。具体的経験の事実ではなく、恣意的に構成された概念モデルを分析して導かれているのではないかと思われる。(哲学者がよく陥る落とし穴である。根本的経験論のジェイムズでさえそうであった。)
 純粋経験論は、各々が言語表現と自らの経験との関連づけを確かめながら、著作(たとえば『善の研究』)の正しさを検証していく。読まれながら個人個人により検証されることで初めてその客観性というものが見出されるのである。(哲学はそうしていくしかない)






2020年2月16日日曜日

所与性と他者性との混同(つづき)

『人間知性研究』(ヒューム著、斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局)に掲載されている、一ノ瀬氏の解説、「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」(226ページ~)の分析・・・

(※ヒュームからの引用は、『人間本性論』ヒューム著、木曾好能訳、法政大学出版局)

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ヒュームが、「教育」における繰り返しや刷り込みによって一定の信念を得ることを因果推論とほぼ同一視している点からも強く確証される。ヒュームはいう、「教育というのは人為的原因であって自然的原因ではない……けれども、それは実際は、習慣と繰り返しという、原因から結果に向かうわれわれの推論の場合とほとんど同じ基礎の上に構築されているのである」(T117)。教育によって得られた知識が、他者によって与えられたという、他律的な側面をもつことは否定しようがない。(一ノ瀬氏、250ページ)
・・・ヒュームは教育による繰り返しが、日常的な因果把握と同じような効果をもちうることを説明したのであって、それは因果把握に他者性が必須であるということではない。他者性とは、あくまで因果関係の客観性において問題になることなのである。
 (先の記事で説明したように)文章で書く上では、自己・他者というものを前提としている。「私の」経験というふうに説明せざるをえない。文章で記すということは、他者の見解を確かめ信念の客観性を確かめるプロセスでもあるからだ。しかし、具体的経験としては、それはあくまでただの経験、それが「私」のものかどうかは、あくまで後付けの説明でしかないのである。

ヒューム因果論の深底部には、因果性が成立する場は他者へと絶え間なく反転していく、というモチーフが脈々と息づいている。しかし、この議論の構造から明らかなように、こうした考え方は強力に自己否定的である。少なくとも、自己否定という暗闇にきわどく接しているといえる。したがって、ヒュームの因果論は、自己破滅の危機を胚胎した、危うい綱渡りめいた、暗示的なものにならざるをえない。本質的にそうならざるをえないのである。(一ノ瀬氏ページ)
・・・これは既に述べたように、他者性と所与性とを取り違えている上での見解であると言える。
 印象・観念という経験(「経験」とは何かということに関してヒュームにも誤解があるのだが、それについてはこちら)、そして因果性を認めていくプロセス・・・それらを説明するのに「自分自身」をあらかじめ措定しておく必要がない、あくまで経験が推移していくプロセスとして記せばよい、そういうことなのである。(ただし「心の決定」はヒューム自身のブレであるが)
 経験はただ現れてくるもの、それが自己から出たものなのか他者から出たものなのか、ということなど、事後的な解釈でしかない。個別の経験はそんなことなど何ら示してはいないのである。
 経験論とは、一ノ瀬氏の言われるような”自己破滅”というものなどとは縁のないものなのだ。
〔ほかの人はどうであれ〕私に関する限り、私が「自己」(myself)と呼ぶのにもっとも深く分け入るとき、私が見つけるものは、常に、熱や冷、明や暗、愛や憎、苦や快など、あれやこれやの個々の知覚である。私は、いかなるときにも、知覚なしに自己を捉えることが、けっしてできず、また、知覚以外のものを観察することも、けっしてできない。(ヒューム、286ページ)
・・・これは”自己破滅”なのではなく、”事実”なのだ。ヒュームだけでなく、私においてもそうである。

(後に続く・・・)


2020年2月11日火曜日

所与性と他者性との混同

『人間知性研究』(ヒューム著、斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局)に掲載されている、一ノ瀬氏の解説、「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」(226ページ~)を少しづつ読み進めている。

「他者の視点」(一ノ瀬氏、248ページ)とあるが・・・一ノ瀬氏は経験の所与性と他者性とを混同している部分がある。

経験はただ現れるもの、それを表現として”強要されたもの”(一ノ瀬氏、249ページ)と説明することもありうる。その所与性を他者性と取り違えているようなのだ。

もちろん、経験論の哲学を文章として綴るとき、他者の視点を考慮しているかといえば、(私の場合は)もちろんそうである。これまでの私の経験から、自らの日常的知覚経験が他者とそうずれてはいまいと思いながら書いているのである。

しかし、哲学としてそれを言語として綴る場合、それはあくまで私自身の経験として述べているだけであって、その哲学の”客観性”とは、究極的には他者の同意(の言葉)というものがあって確認されるのである。そしてその客観性も、結局は自らの経験として現れるものである。

私としては、結局は他者も同意せざるをえないであろうと確信した上で文章を綴っている。ヒュームも同様であろうと思う。

そういう意味で、文章を書くときは常にそれを読む他者というものが想定されているのである。

そういう客観性における他者の視点の問題と、自らの具体的経験がいやおうなしに(理屈などおかまいなしに)ただ現れるという”所与性”とを混同してはならないのである。

所与性を因果的に理解しようとしてしまう・・・ということは、要するに因果関係をエポケーできていない、ということなのである。

西田は因果律をエポケーできていない

木村美子著
西田幾多郎の場所論とカントの「物自体」--西田の『反省的判断の対象界』を手がかりにして
立命館文學 (618), 254-241, 2010-10
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/618/618PDF/kimura.pdf

・・・分析の続き(一応これで終わりです)。

**************

西田の理論には、先に~ありきがありすぎて、その根拠が見当たらない(直接的経験、純粋経験として現れていない)ものが多すぎるのである。

芸術・道徳・宗教⇒歴史的世界⇒自然界、というふうに順番に目的付けがされている(木村氏、247ページ)という根拠もどこにもない。西田自身の個人的嗜好を一般化されても・・・という感じである。

また普遍(一般)・特殊、主語・述語に関する議論(253ページ)においても、「一般者」というものが、直接的経験として現れているのかと言えば・・・そんなものどこにもない。このあたり西田はヒュームの因果論を中途半端に引用するだけで、ヒュームの抽象観念論を厳密に検証せずすっとばしてしまっている。

********

また、西田は因果律をエポケーできていない。

『直接に与へられるもの』の冒頭は以下のようなものである。
(早稲田大学の二―ルス・グュルベルク・ホームページ内、
http://www.f.waseda.jp/guelberg/publikat/unmgegj2.htm
からの引用)

直接に与へられたものとは如何なるものを云ふのであるか。我々は此問題を論ずるに当つて、先づその意味を明にせねばならぬ。既に与へられると云へば、何物かに対して与へられるといふことでなければならぬ。こゝに与へられるといふのは、我に対して与へられると云ふ意味である。
・・・”所与”とはただただ現れているもの、それは「誰に」とか「どこに」とかそういったものを前提はしていない。西田は「それを受け取る者があるから経験を受け取ることができる」という因果的理解から離れられないでいるのである。

西田は『善の研究』において「統一的或る者」というものを”直覚すべき者”(西田幾多郎『善の研究』岩波文庫 、61ページ)として前提してしまっているが、果たしてその根拠などどこにあるのだろうか?

西田は「統一的或る者」として次のように説明している。

しかるに一つの物が働くというのは必ず他の物に対して働くのである、而してこれには必ずこの二つの物を結合して互いに相働くを得しめる第三者がなくてはならぬ、例えば甲の物体の運動が乙に伝わるというには、この量物体の間に力というものがなければならぬ、また性質ということも一の性質が成立するには必ず他に対して成立するのである。例えば色が赤のみであったならば赤という色は現われ様がない、赤が現われるには赤ならざる色がなければならぬ、而して一の性質が他の性質と比較し区別せらるるには、両性質はその根柢において同一でなければならぬ、全く類を異にしその間に何らの共通なる点をもたぬ者は比較し区別することができぬ。かくの如く凡て物は対立に由って成立するというならば、その根柢には必ず統一的或る者が潜んで居るのである。(西田『善の研究』岩波文庫、91~92ページ)
・・・一方、西田はヒュームを参照しながら次のように説明しているのである。

普通には因果律は直に現象の背後における固定せる物其物の存在を要求する様に考えて居るが、そは誤である。因果律の正当なる意義はヒュームのいった様に、或る現象の起るには必ずこれに先だつ一定の現象があるというまでであって、現象以上の物の要求するのではない。一現象より他の現象を生ずるというのは、一現象が現象の中に含まれて居ったのもでもなく、またどこか外に潜んで居ったのが引き出されるのでもない。(『善の研究』75ページ)
・・・つまり「統一的或る者」とは西田自身が言う「力とか物とかいうのは説明のために設けられた仮定」(『善の研究』76ページ)そのものなのである。

あるものを見て「赤色だ」と思ったその事実が直接的に経験として現れているだけで、「黒色」があるから「赤色」があるとかそういった”因果関係”は果たして検証されうるのであろうか? 「赤色だ」と思う事実の前に、その”原因”として「黒色だ」とか「青色だ」と思った経験が恒常的相伴しているだろうか?

つまり、

在るものは、なにかに相対してはじめて在ると言い得るのであって、単に対を絶したものは在るということもできない。(木村氏、245ページ)
・・・という見解も、全く根拠を持たないものなのである。直接的経験、所与の経験としては、ただ「そこに在る」と思った事実であって、そこに「無」というものが対であるとか、そんなことは後付けの理屈付け、思慮分別、仮説でしかないのである。

・・・本論文の分析は、とりあえずここまでにしたい。要するに「場所の論理」は純粋経験から逸脱したもの、ということなのだ。


何が所与の直接的経験であるのか(所与に自由もなにもあるわけがない)

木村美子著
西田幾多郎の場所論とカントの「物自体」--西田の『反省的判断の対象界』を手がかりにして
立命館文學 (618), 254-241, 2010-10
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/618/618PDF/kimura.pdf

・・・分析の続き。

**************

「カントが形而上学として排斥したのは、我々の経験界を構成する範疇を知的所与なくして超経験界に押し進めることであった」(3-496)。そこでカントにおいては経験界における「所与の範疇」(Kategorie der Gegebenheit)は知覚に限定され、思惟と知覚の両作用の統一によって自然界が成立するのであるが、しかし西田の考えによれば、所与の範疇は知覚のみに限られず、作用の意識としては意志の意識も知覚の意識と同様、直接の所与である。それは知覚より一層具体的な所与である。「同様に直接的、ここが重要である。そうしてここのところが、カントの立場をもっと大きく開き広めようとしたところである」と西谷は指摘する。(木村氏、249ページ)
・・・これが純粋経験というもの、経験というものは”所与”として、ただ現れるものなのである。しかし・・・

西田は次のように述べている。「意識とはどこ迄も直接でなければならぬ、何らかの意味において対象化せられたものは意識ではない。心理学的意識の如きは意識せられたものに過ぎない」(3-497)。「直接」とは、直接経験のことであり、自己がそこで成り立つ最も根源的なところである。(木村氏、249ページ)
・・・ここで見逃されていることがある。それは上記の”対象化”それこそが”思惟”である、ということなのである。思惟が直接的であるということは、対象化したという事実、それこそが直接的な”所与”である、ということなのだ。

科学的な実験、観察も具体的・直接的な経験であり、科学理論といえども、それが何かと問われれば、やはり具体的事象と事象の関係とでしか表現しようのないものなのである。

もっとも当時の”心理学”がどこまで”科学的”であったかどうか(あるいは科学的手法に基づいていたかどうか)は疑わしいものであるのだが・・・

直接的な経験としての「感覚」がある。一方、”背後”にあるという場合、それは既に直接的ではない。むしろそれこそが西田自身の言う「意識せられたもの」なのではなかろうか?

つまり西田の言う「実在的統一力の発言として自ら働く」(木村氏、249ページ)「意志の働き」とは直接的経験ではなく、西田自身の言う”思慮分別”の産物(要するに仮説的概念)ということなのだ。

意志というものは、西田自身が説明しているように、

意志といえば何か特別なる力がある様に思われて居るが、その実は一の心像より他の心像に移る推移の経験にすぎない、或る事を意志するというのは即ちこれに注意を向けることである。この事は最も明にいわゆる無意的行為の如き者において見ることができる、前にいった知覚の連続のような場合でも、注意の推移と意志の進行とが全く一致するのである。 (西田幾多郎『善の研究』岩波 文庫 、41~42 ページ)
・・・「意志」というものを示そうとしても、結局は「一の心像より他の心像に移る推移の経験」とか「或る事を意志するというのは即ちこれに注意を向けること」としか説明しようがないのである。「意志」という「特別なる力」(西田『善の研究』41ページより)というものを見出すこともできないのだ。(それなのに統一力とかいう直接的経験でないものを持ち出そうとするのは西田自身の誤りと言う他はない)

そもそも所与に自由もなにもない。また「意志そのもの」は直接的経験として現れない。あるかどうかわからないものに自由かどうかとか判断のしようもないのである。



2020年2月9日日曜日

純粋経験を物自体と同じと考えた時点で西田哲学は破綻している(そもそも逆の考え方だから)

NHKで『善の研究』の説明をしていて、そこでは言葉でとらえてしまったら、それは純粋経験ではない、というような説明をされていた。

純粋経験においては、そういう見方をされる人たちも多いようだ。

これでは純粋経験と物自体とが混同されてしまう。物自体は感知できるかできないか、というような議論に陥ってしまう。(修行すれば感じれるとかそういう議論になりかねない)

また、それでは思惟・意志・知的直観も純粋経験である、という説明と齟齬を来してしまうのである。(それを無理やり統合しようとするから変な詭弁・屁理屈へ陥ってしまう)

経験に純粋経験であるものとそうでないものとの区分があるわけではないことは、以下の記事で説明した。経験とはすべて純粋経験なのである。西田自身、そうであると言ったりそれとは違う説明をしたり、まったくもってふらふらしているのである。
https://keikenron.blogspot.com/2020/02/blog-post.html

西田自身、正確に理解できていなかったように思われるのだ。そのため西田自身の説明が非常にあいまいで、未自覚、不徹底であったため、あたかも純粋経験が物自体であるように考えられてしまうのだ。

実際、以下の論文を見るかぎり、西田自身が純粋経験と物自体とを混同していた節がある。

木村美子著
西田幾多郎の場所論とカントの「物自体」--西田の『反省的判断の対象界』を手がかりにして
立命館文學 (618), 254-241, 2010-10
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/618/618PDF/kimura.pdf

・・・まだ少ししか読んでいないが、『善の研究』以降において、だんだんと従来の西洋哲学に取り込まれてしまい(ヒュームやジェイムズは除く)、本来カントとは相容れるはずのない純粋経験論とおかしな融合をしてしまったのではなかろうか。

惜しむらくは、京都学派の中に純粋経験を理解できるような人たちが皆無だったことだ。



経験論ということを理解していればモチーフ云々という論点が必要だとは思わないのだが・・・

『人間知性研究』(ヒューム著、斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局)に掲載されている、一ノ瀬氏の解説、「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」(226ページ~)分析の続き・・・

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しかるに、では、ヒュームはどのような観点から固有の因果論へと至ったのだろうか。ヒューム因果論を促した最初のモチーフは何だったのだろうか?(一ノ瀬氏、237ページ)
・・・私には、この問いが非常に不自然に感じられる。ヒュームは『人間本性論』の序章で次のように述べている。(以下、木曾好能訳、法政大学出版局より引用)

人間の学が他の諸学の唯一の堅固な基礎を成すように、人間の学そのものに与えうる唯一の堅固な基礎は、経験と観察(experience and observation)に置かれねばならない。(ヒューム、7~8ページ)
われわれに可能なもっとも一般的でもっとも完成された諸原理に対しては、それらが事実であることをわれわれが経験すること以外にそれらの原理の根拠を示し得ないということを、知るからなのである。この、或ることが事実であることの経験こそ、ただの普通人にとってはそのことの根拠にほかならず、また、どれほど特殊でどれほど異常な現象に対しても、あらかじめ調べる必要もなくすでに見出されている根拠なのである。(ヒューム、9ページ)
いかなる学いかなる技術も、経験を越えて進むことはできず、この権威(経験)に基礎をもたないような原理を確立することはできないのである。(ヒューム、9ページ)

・・・ヒュームは経験に基礎を置く、という手法を採用すると決めているのである。つまりヒュームの因果論とは、一般的に私たちが因果関係があると認めるとき、そこにどのような経験が実際に具体的に現れているのか、ということから説明される、ということなのである。
 もちろん(デザイン論証のような)仮説的イメージがあった可能性は否定できない。しかしそれは、私たちの具体的経験によって根拠づけられるのかどうか確かめられるべきものであって、デザイン論証というものがヒューム因果論の基礎のように扱われてはならないのである。
 先の一ノ瀬氏の問いに戻るが、「どのような観点から固有の因果論へと至ったのだろうか」と問うこと自体がおかしな話なのだ。ヒュームは自らの経験を観察した上で因果論を構築したのである。あえて「観点」というのであれば、それは経験論的観点である。繰り返すが、それはデザイン論証のようなものにより根拠づけられるのではなく、具体的経験により根拠づけられるものなのである。
 そしてそのヒューム因果論が“ヒューム固有”のものなのか、それは一ノ瀬氏ご自身、そして当然私もであるが、一人ひとりが自らの経験を観察した上で確かめるものなのである。そうすれば、ある程度のズレはあるにせよ、ある程度共通したものが見いだせるのではなかろうか。
 一ノ瀬氏は、経験論という手法そのものを無視した上でヒュームを理解しようとされているように思えてならないのだ。そしてその姿勢は他の現代のヒューム研究者たちにも共通しているように思えるのだが・・・

2020年2月7日金曜日

心像と心像との関係が論理?

『人間知性研究』(ヒューム著、斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局)に掲載されている、一ノ瀬氏の解説、「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」(226ページ~)をとりあえず最後まで読んでみようと思う。

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

・・・で既に指摘しているのであるが、ヒュームも(抽象観念のところ以外では)言葉の位置づけを全く無視して話をしてしまっている。そのために論理が混乱してしまっているのだが、言葉をきちんと具体的な経験としてその位置づけを認めてやりさえすれば、複雑観念の問題にしても、非常にすっきりした形で事実をきちんと説明できてしまうのだ。

以下の一ノ瀬氏の説明も、言葉の位置づけを無視しているために、よくよく分析してみればおかしな話になってしまっているのだ。

因果の基本性は、いま引いたヒュームの言にあるように、あくまで「事実の問題」つまりは経験的知識に関してであって、それと区別された「観念の関係」(Relationship of Ideas)つまりは論理的知識にまでは及ばないのではないか、という疑問が提出されるかもしれない、しかしそれは違う。というのも、ヒュームは、『人間本性論』第一巻第四部第一節「理性に関する懐疑論について」において、観念の関係の典型例である算術の計算などに照らしながら、観念の関係も真には事実の問題でしかないと論じているからである。(一ノ瀬氏、236ページ)
・・・ヒューム自身に混同が見られるので一ノ瀬氏が誤解されるのも仕方ない部分もあるのだが・・・そもそも「観念」とはいったい何であろうか?

「思考や推論の際の勢いのないこれらの心像」(土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』12ページ)あるいは「思考や推論に現れる、それら印象の生気のない像」(木曾氏訳『人間本性論』13ページ)のことである。英語で言えばfaint images、しかし実際のところfaintであろうがなかろうがimageはimage、(「心」を前提としているような誤解を生んでしまう可能性はあるのだが)心像(あるいは像)のことなのである。

そこで問いたいのだが、心像と心像との関係が論理なのであろうか?

話がおかしくなるのは、言葉が無視されているからである。因果関係において、事象(印象・観念)との関係が構築される前に、まずは印象・観念と言葉(名辞)との関係が構築されている必要がある。まずはそれら印象・観念が何らかの言葉で呼ばれている、その事実を前提とした上で、観念と観念の関係について説明する必要があるのだ。

その前提のもとで話を進めると・・・観念と観念との関係は別に事実関係である必要はない。おとぎ話でも良いのだ。想像における(事実としてはありえない)因果関係でも全く良いのである。

そして、ここで一ノ瀬氏が言われる「事実」とはいったい何なのであろうか? このあたり一ノ瀬氏は何か誤解している部分があるのかもしれない(もう少し検証してみる)。

因果関係の事実関係としての必然性は、究極的には印象に辿れるという信念に基づいている(そして恒常的相伴が必然性、ということになる)。ヒュームは観念は印象の写しであると言っているが、それはあくまで”単純観念”に限定されているはずである(しかも常に写しであると断言できるのか?)。

そのあたりについては、因果推論するのに必然性あるいは恒常的相伴は必要ないの記事で説明している。

2020年2月6日木曜日

やはり違和感・・・

今日、図書館で『人間本性論』(ヒューム著、木曾好能訳、法政大学出版局)を借りてきて、解説の「抽象観念」(451ページ~)のところを読んでいるのだけど・・・

分析に、余計な論理学的論理が入り込んだり、〇〇主義とかが入り込んだりして、論点がどんどんずらされている印象だ。

ヒュームを読むとき、論理学的論理を前提にしてはならない。自分の経験としてどうなっているのかを確かめる必要があるのだ。

私が常日頃感じていることであるが・・・哲学者は経験論がどうも苦手のような気がする。

********

『人間知性研究』(ヒューム著、斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局)に掲載されている、一ノ瀬氏の解説、「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」(226ページ~)も読んでいるのだが、ヒュームを読むからには言語論的転回の影響をすべて取り去った上で、とにかく経験そのものを追っていく必要があると思う。

言語使用の事実についてのこうした認識を基盤としてどうしても確保したいならば、「基礎づけ」という作業さえもが再びよみがえるかもしれない。確かに、対象に関する認識ではなく、言語使用に関する認識へという議論場面のシフトはあるにせよ、そしてそのシフトに伴う重大な変容は間違いなくあるにせよ、全体としての問題の構造は以前とまったく同じままなのである。(一ノ瀬氏、232ページ)
・・・この見解も私的言語批判を引きずっているような印象だ。(ただ、私がここで指摘した論点に通じる部分もあるが)

一ノ瀬氏もそうであるが、現代におけるヒューム研究は「経験論」という手法を無視した上で、よくわからない論理による分析がなされているような気がしてならないのである。分析哲学やら論理学やらをいったん捨てた上で自らの経験から構築していくのが経験論である。なんだかヒュームを現代的な分析哲学のコンテクストの中に位置づけようとする目論見を感じるのだ。

自らの経験を哲学の材料にしてはならない、そういった暗黙の了解があるような気がするのである。そもそも「客観性」というものでさえ、各々の経験の積み重ねとして見いだされるものなのである。客観性を前提にしながら哲学を構築するのは不可能である(パラドクスに陥るだけ)。そうではなく、自らの経験をもとに、「客観性」があると思われる状況とはいかなるものなのか、そこを明らかにする必要があるのだ。客観性というものも結局は経験によりもたらされるものなのである。

すべては経験、知識も経験として現れるし(経験としてしか現れない)、思惟や意志と呼ばれるものも具体的経験として現れるものなのである(思惟そのもの、思念そのもの、意志そのものの経験はどこを探してもないのだが)。

もちろん私は、「心のなかの観念」とか心理的な基礎づけというようなかつての道具立てを再び用いるべきだ、といっているのではない。(一ノ瀬氏、232ページ)
・・・これも私たちの具体的経験を基礎づけに使うべきではない、という方向に向かってしまっては話にならない。

実際の科学の現場ではどうだろうか? 研究者自身の観察に基づいて理論が構築されているのである。実験も実験者自身の観察があって成り立っている。

哲学理論と、既に(科学として)具体的に遂行されている事実(ここで誤解なきように・・・あくまで科学理論構築のプロセスという事実のことであり科学理論の正しさのことを言っているのではない)、その間に齟齬が生じたとき、どちらが「正しい」のか・・・それは当然事実の方である。事実と齟齬を来している哲学理論は、やはり「間違って」いるものなのだ。

哲学はその「事実」をおかしな理屈で歪めようとして、結局パラドックスに陥っている。パラドキシカル云々言う前に、哲学者は「パラドクス・矛盾とは何か」をきちんと説明せねばならないのである。(そしてそのヒントはヒュームの著作の中にある)
(ここ数日、ちょっとづつ読んでいるルーマンの『自己言及性について』土方透/大澤善信訳、ちくま学芸文庫、を連想しながら・・・)

さらに言えば、「心」があってその中に「観念」が現れるのではない。まずは「観念」(心像)があって、そこから因果的に「心」というものが想定されているのである(しかし実際には「心そのもの」という具体的経験は終ぞ現れることはないのだが)。


2020年2月5日水曜日

違和感だらけだ・・・

ヒューム研究学会
第29回例会(2018/11/19 update)
https://sites.google.com/site/humeforumjapan/archives
合評会資料
澤田和範「萬屋博喜氏の『ヒューム—因果と自然』の批判的検討」
https://drive.google.com/file/d/1X2nXtExJvBV4---iJl6ZaYlGqOg3Y2Qz/view

・・・などに目をとおしていたのだが、

普通に考えてみて、因果推論の正当性は、その推論が実際に当たるかどうかで決まるのでは? と思うのだが・・・

空を具合を見て「これから雨が降るだろう」と考えて、それが正当かどうかは、雨が実際に降るかで決まる。事実で検証されない推論は究極的には正当化しようがないものである。

ただ、過去において同じような場合には同じような結果が生じるという、経験則を適用できそうな、似通った状況であれば、正しいだろう、と目星をつけることはできる。
しかし究極的には正当化されてはいない。それこそprobabilityの世界である。

そして、因果推論した「理由」というとき、
(1)なぜ因果推論できたのか
(2)因果推論を正しいと思う根拠
(3)因果推論が実際に正しかったと判断する根拠

これらを混同してはならない。ヒュームも混同しているように思える。(1)は答えようがない(どうとでも言える)。因果関係とは何かという問題を因果関係で説明するのは、それこそ無限後退、ナンセンスの極みである。(しかしヒューム自身このあたり混同が見られる)

恒常的相伴が問題となるのは、まさに(2)の場合なのである。そして既に述べたように、因果推論の正当性は、その推論が実証されて初めてもたらされるものである。(3)に恒常的相伴は関係ない。当たればよいのである。しかしその因果推論が普遍的に適用できるという保証は与えられない(信じるのは勝手だが)。

・・・もう少しじっくり読んで、そのうち分析してみたい。

******************

次に「意味」についてであるが、

『人性論』の抽象観念の一文を引用した上で、澤田氏は次のように述べられている。

もし名辞が個別観念に「意味」を与えると言うヒュームが、ここで語や文の、あるいは命題の意味について語っているのだと言うなら、その人は意味の理論を何か根本的に誤解しているのだと思われる。(澤田氏、7ページ)
・・・澤田氏の見解に反して、その文は、まさにヒュームが「意味」について述べた部分なのである。言葉の意味というものは言葉がなければ現れようもない。あたり前の話である。言葉の意味は言葉だけで説明できるものでも当然ない。言葉と経験(観念や印象)との繋がりによって初めて生まれるものである(ヒュームは観念についてしか言及していないが)
根本的な誤解をされているのは澤田氏であるように思われる。(萬屋氏の見解にも問題はあるが)

ヒュームが言っていることは、抽象概念とは言うものの、実際に「意味」として現れるものは個別的観念でしかない、ということなのである。これは論理ではない。自らの経験としてどうなっているのか確かめてみるものなのである。

実際(おおまかにいえば)ヒュームの言うとおりになっていると思う。

2020年2月2日日曜日

純粋経験とは

純粋経験というのは、
経験に純粋なものと純粋ではないもとがあるとか、そういった区分・分類のことではなくて(西田の『善の研究』での説明が混乱しているためそう受け取ってしまう人が多い)、
経験を”純粋なまま”(まさにpureなままに)受け取ってみよう、ということなのです。

経験を、(たとえば観察の理論負荷性とか、アスペクトがどうとかとか)いろんな理屈をいったんほったらかしておいて、「思考」とか「判断」とか「意志」とか、そういった様々な生活の局面において、実際に具体的に現れている経験は何なのかを捉えていくことなのです。

判断したら純粋経験ではないとか、言語化したら純粋経験ではないとか、そういう人がいたら、それは純粋経験について全く勘違いしているのです(こういう勘違いもよく見られます)。

そうではなく、判断したことが純粋経験、言語化したことが純粋経験なのです。そしてその時、例えば判断という生活の局面において、具体的経験としていったい何が現れてきているのか、それを説明することが純粋経験論なのだと言えます。

純粋経験は言語化できない、という人もいそうですが、それも勘違いです。何らかの感覚を経験して、それを言語化した、それが純粋経験です。経験のすべてを言語で言い尽くせないということと、経験を言語で説明した事実があるということを混同しているのだと言えます。



2020年1月29日水曜日

規則が意味を成り立たせているのではなく、言葉の意味(言葉に対応する具体的経験・事象)がまずあって規則はそこから見出される:ヴィトゲンシュタイン的言語観への批判 ~ 橋爪大三郎著『「心」はあるのか』分析

規則が意味を成り立たせているのではなく、言葉の意味(言葉に対応する具体的経験・事象)がまずあって規則はそこから見出される:ヴィトゲンシュタイン的言語観への批判 ~ 橋爪大三郎著『「心」はあるのか』分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report25.pdf


本稿は、橋爪大三郎著『「心」はあるのか』(ちくま新書)の分析を通じて、橋爪氏の(さらにはヴィトゲンシュタイン的な)言語観の問題点を指摘するものである。
橋爪氏の思考過程、とくに言葉の意味に関する見解には根本的な誤謬があるように見受けられる、おそらくそれは橋爪氏がしばしば引用されているヴィトゲンシュタインに共通するようにも思われるのだ。
経験的事実がまずある。そして事実関係として説明できる出来事が既にあるのにもかかわらず、それを無視して不可思議な論理が先立ってしまうのである。ある生き物が「人間」と呼ばれている。その事実が先にあって、その定義(ルール・規則)はその人間と呼ばれているものを観察・分析した上で導かれるものだ。言葉と具体的経験・事象との関係がまずある。そのものを「青」と呼ぶ事実が先にあって、はじめて青色とは何か(例えば青色の波長がどうとか)という分析が可能になる。波長があって青色があるのではなく、青色があって波長の説明が可能になるのだ。
橋爪氏・(そしておそらく)ヴィトゲンシュタインともに、この順序を間違えているのだ。経験の前に論理があるのではない。論理というものは経験から導き出されるものなのである。

*********

<目次> ※()内はページ

1.「心」はあるのか、という問いは結局何を問うているのか(3)
2.「私」の存在も「他者」の存在と同じく確かで不確かなもの(4)
3.言葉が先とか心が先とかではなく、言葉と具体的経験(感覚など)との対応関係が成立しているかどうか(6)
4.事実認識の客観的「正しさ」は医者と患者の二人だけでもたらされるものではない(8)
5.すべてを言い尽くせないことと、定義ができないこととは違う(10)
6.言葉の意味は論証するものではない(12)
7.規則・ルールは“背後”にではなく事象・経験そのものから見いだされる(15)
8.私的言語批判は無効である(17)
9.倫理に単一の「原理」「原則」はない(20)
10.「構造化」と言うものの、実際には言葉による分類と因果関係把握(21)
11.言葉に対応するのは「世界」ではなく具体的経験:橋爪氏の『論理哲学論考』についての説明に関して(22)
12.「定義」の前に、直示できる事実が先にある:橋爪氏の「言語ゲーム」についての説明に関して(24)
13.言語ゲームは実際の成り行きを無視した空想上の別世界(27)
14.「内的視点」「外的視点」と、事実と規範の区分は別問題(28)
15.「信頼」の根拠を一元的に説明することはできない(29)
16.意志・感情という“精神現象”が具体的事象・経験として現れることはない(32)
17.様相観念(35)
<参考までに>(36)

2020年1月26日日曜日

「私」の存在も「他者」の存在と同じく確かで不確かなもの

橋爪大三郎著『「心」はあるのか』(ちくま新書)の分析をしている。今は本書の重要部分である言語ゲームのところについてまとめているところである。

今日は、レポートの一部を掲載しておく。

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 橋爪氏は独我論について次のように述べられているが・・・
 独我論は、他者や世界が存在するように見えるというところまでは認めるのですが、それらは自分自身(私)の存在ほど自明ではないので、存在しないかもしれないと懐疑して、結局存在しないと結論してしまいます。(橋爪氏、39ページ)
 独我論者を論破しようとするとできない。「何を言ってもだめだ、お前は存在しないんだから」と決めつけられてしまいます。(橋爪氏、39ページ)
・・・果たして自分自身(私)の存在は他者の存在よりも自明なことなのだろうか? 感じている五感やら情動的感覚やら聞こえる言葉やら、それらはただそれだけが現れているだけであって、そこに「私」というものなどどこにも見つけられない。「自分」というのはどこにあるのだろうか?
 独我論者たちは、他者の存在を疑うのであれば、私自身の存在さえも疑う必要があるのだ。 感覚は確かにある。しかしそれはただの感覚である。(私のものであろう)手が見える。しかしそれは他者が見えるのと同じく単なる視覚である。結局距離感の問題だけであって、それが「私」の体であるとか「他者」の体であるとかいう判断は、どちらも同じくらい確かで同じくらい不確かなものでしかないのだ。
 「私」の顔は自分で見ることはできない。しかし他者の顔は見ることができる。私の顔は鏡で見たり写真で見たりと、間接的にしか見ることができない。「鏡を見ればそこに映るのは自分である」とか「カメラは景色をそのまま写し取ることができる」とかそういった因果的経験則に基づいて初めて確認することが出来るものである。
 そこに人(と呼ばれる人)がいて、実際動いたり話をしたりしている。私の名前を呼んで話しかけてもくる。目を閉じても声は聞こえてくるし、時折触れてくるものがある。目を開ければやはりそこに人がいる。避けようのない経験的事実がそこにあるのだ。
 それら経験に基づく因果的理解のもと、「私」がいて「他者」がいる。そして次々に現れてくる感覚は身体を持つ「私」が受け取っているもの、とこれまた因果的理解がなされている。
 つまり、具体的経験から辿っていけば、「私」がいて感覚を受け取っているのではなく、まず感覚があり、それを(身体を持つ)「私」が受け取っているのだ、という理解はあくまで事後的因果的理解である、ということなのだ(私の体の一部は動かそうと思った時に動かせるとか、それらも因果的理解である)。
 
「心」とは何かというと、他者が存在して、わたしと同じように精神活動を行っているという確信なのです。あくまで確信ですから、証明することはできない。他人の頭のなかを除くわけにはいきませんから、行動しかわらかない。(橋爪氏、38ページ)
・・・結局、橋爪氏の問題意識は他者が私と同じように感じているという確信の根拠(あるいはそれがあるのかないのか)なのであるが、ここで橋爪氏は、

① 私自身にも「心」というものはあるのか(そして「心」とは何を指しているのか)
② 他者は私と同じように感覚を受け取っているのか、あるいは思考しているのだろうか

・・・①と②の問題を明確に分離できていないようにも思われる。

2020年1月23日木曜日

「心」「精神」「意志」という具体的事象はないが、「心ある」「心ない」「精神集中している」「意志が強い」という表現に対応する具体的事象はある

橋爪大三郎著『「心」はあるのか』(ちくま新書)に関するレポートを書いているところである。まず「心」はあるのか、という設問に対する回答をした後に、橋爪氏のウィトゲンシュタイン的言語観の問題点を指摘していく予定。

この本の中では、事実として誤っている認識がしばしばみられる。とりあえず今日は二つ示しておく。

自由意志がないのなら、こういうことがしたいと思うことすらできないということになります(橋爪氏、26ページ)
・・・「こういうことがしたい」と言語表現できること自体が自由意志の証明にはならない。

命名説では、世界には「水」という実体と「お湯」という実体がなければならないのですが、英語で考えてみると「water」という言葉しかありません。言葉が実体を反映すべきものだとすればおかしなことになります。(橋爪氏、88ページ)
・・・英語にもhot waterとcold waterがあるのでは? (まあ、感覚やら想像上のものにも名前は付けられるから、わざわざそこに「実体」を持ち出す必要はないとは思うが)

今日はもう時間切れなので、大したことは書けなかったが・・・レポートでは細かく分析していくつもりだ。

「心そのもの」という実体はない、控え目に言えば、そのようなものは未だ発見されてはいない。そしてなぜか「心」という言葉がある。

また、哲学的に「心がある」というとき、いったいどういう状態を指しているのか、そのあたり突き詰めていけば・・・結局のところ(その個体が)クオリアを受け取っているのかどうかというところに行きつくのではないか、とも思われる。

ただ「心ある人」とか「心が優しい」とかそういった表現に対しても具体的事象が確かにある。このあたり表現によって指し示すものが違ってくることもある。


「心そのもの」はない、「精神」というものもない(こちらもどうぞ)、「意志」というものもない。具体的事象としてそういうものなどどこにも見つけることはできない。

しかし、「心がある」「心ない」「精神集中している」「精神がたるんでいる」「意志が強い」という表現は具体的事象として示せるのである。


2020年1月17日金曜日

ウィトゲンシュタイン的な言語観はきっちり批判しておこうと思う

橋爪大三郎氏の『「心」はあるのか』(ちくま新書)では、しばしばウィトゲンシュタインが引き合いに出されている。橋爪氏の言語観はウィトゲンシュタインとほぼ重なるであろうと思われるのだが・・・

事実(経験)がそこにあって、それは論理では覆らない。
論理や根拠を見つけられなくても、事実は事実なのである。
経験的事実を何かによって根拠づけるのではない。経験的事実が根拠になるのである。
それ以上は「言表不能=思考不能」(橋爪氏、93ページ)というのはそういうことなのだ。

事実は事実として認めなければならないのに、
事実の前に変な理屈が先に来ている。
根拠さえ薄弱な理屈が先に来て、事実として現れている経験が全く無視されてしまっているのである。(このあたりの認識の倒錯は大澤真幸氏にも見られる)


また、私的言語批判が無効であることは、

言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
  ~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report22.pdf

・・・で既に説明している。

また、橋爪氏の因果観にも重大な問題がある。
このあたりきっちり批判しておく必要があろう。

社会学が科学であるというのであれば、恣意的な因果観は排除する必要があると思う。独断的な因果推論と客観的な因果関係把握との混同を避けるためだ。


<参考までに>

理論があって経験があるのではなく、経験があって理論がある
~「観察の理論負荷性」の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report24.pdf


2020年1月16日木曜日

知識がどこから来るのか、ではなく、知識がいかに経験として現れているのか

経験論と合理論の論争に決着がつかないのは、問い方を誤っているからだ。

知識がどこから来るのか、という問いそのものが因果関係を前提としている問いなのである。そうではなくて、

知識というものが経験としていかに現れているか、その由来を問うとはどういうことなのか・・・まずはそこから問わねばならないのである。

私たちの知識が生まれながらに備わっているものなのか、あるいは経験に依存せずに"作用する"知識の要素のようなものがあるのか、あるいはすべての知識が生まれた後に経験や教育によりもたらされるものなのか・・・議論したところで、両方の事例が考えられそうである。あるいは絶対的にそうであると断定できるのか、非常に怪しいものである。

そうではない。上記のような設問に対し、私たちはどのようにしてそれを検証しようとするであろうか? やはり過去の自らの経験の記憶を辿るのではなかろうか? あるいは、ある人たちの持つ知識とその人たちの過去の経験との関連を探ったりするのではなかろうか?

・・・そういった検証プロセスも結局は経験と経験との関連づけなのである。

因果関係というものが”なぜ”生じるのか、と問うのではない。
そんなことを問う以前に、私たちが因果推論した事実が既に経験として現れているではないか。雲がたちこめてきて「雨が降るな」と因果推論した、その事実が経験としてある。推論した、推論できた「理由」というものは、まずは推論した事実が経験として現れている、そこを前提とした上で、その他様々な経験をさらにつなぎ合わせ推論していくのである。


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今年は、ヒュームをじっくり検証したい。上記の問題点もそうであるが、さらにその他のヒュームの見解の問題点を明らかにしながら、経験論というものが、結局は哲学の終着点であることを示したい。

ヴェーバー関連については、

佐藤春吉「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(中)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/4、2014年、15~34ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-4_02-02.pdf

・・・も、とりあえず最後まで読んだ。佐藤氏の見解には様々なものが混同されているように思われるし、ヴェーバーも”事の具体的経緯”を「作用」と取り違えているように思われるし、いろいろと指摘したいことがある。

佐藤氏の一連の論文の分析を一つのレポートとしてまとめるかどうかは、まだ決めていないが・・・ヴェーバーの因果関係に対する誤解というものをきっちり指摘しておかねば、とは思っている。

また、昨日なにげなく橋爪大三郎氏の『「心」はあるのか』(ちくま新書)をパラパラとめくってみて・・・言語ゲームの説明について、指摘したい箇所がいろいろあって、これらも形にしておいた方が良いかな・・・とも思った。「机」とそれが指し示すもの(例えば様々な机の絵)が既に繋がりあっているという事実、橋爪氏ご自身がそのことを前提として説明をしているのに、その厳然たる事実がスルーされている・・・

なぜ哲学者の皆さんは、こういった初歩的な論理的問題・欠陥を指摘しない(できない)のであろうか・・・?

重要なことは、”哲学的思考に呑み込まれない”ことであると思う。職業的哲学者、あるいは哲学愛好者の方々に言いたいのだが・・・まずは「哲学的常識」を疑ってほしいのだ。


実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...