先の記事で、『プラグマティズム』において、ジェイムズは「根本的経験論」とプラグマティズムとは論理的な関連がない、と書いていると説明したが、ジェイムズの考え方には変化もあって、積極的に関連づけようともしていたらしい。
ジェイムズ経験論の諸問題(三橋浩氏著)http://www5b.biglobe.ne.jp/~hatigoro/REVIEWS%20on%20WJ-spje00index.html
純粋経験論とは、具体的経験の事実そのものから哲学を構築する試みのことです。哲学史の流れの中に位置づけるとすれば、ヒューム・ジェイムズ・(最初期の)西田幾多郎の系列、そして彼らの「経験論」を究極まで徹底させようとするものです。 ホームページはこちら⇒ http://miya.aki.gs/mblog/
先の記事で、『プラグマティズム』において、ジェイムズは「根本的経験論」とプラグマティズムとは論理的な関連がない、と書いていると説明したが、ジェイムズの考え方には変化もあって、積極的に関連づけようともしていたらしい。
「純粋経験の世界」まだ検証中です。いろいろつっこみたい所はあるのだけど、ジェイムズの説明内容をまだきちんとイメージできていない部分もあるので、じっくり取り組んでいきます。
今日、岩波文庫の『プラグマティズム』を買いました。
ジェイムズは「根本的経験論」とプラグマティズムとは論理的な関連がない、と書いているのだけど、私はそうは思いません。
ジェイムズ自身が提示した根本的経験論の手法によって、プラグマティズムとは何なのか、プラグマティズムという考え方に問題点はないのか、きっちり説明できると思っています。
(根本的経験論の構築において、ジェイムズが提示した手法からジェイムズ自身が逸脱してしまっていることも指摘せねばなりませんが)
ジェイムズ分析にあたって、そのあたりもレポートにまとめていきたいです。
ここまで、ヒューム『人性論』の第一篇「知性について」を分析してきたのだが、最後のレポート(など)で指摘したように、経験から何(原理や原因)によって関係や知識や信念やらがもたらされるのか、と問うのではなく、関係やら知識がいかに経験として現れているのかを明らかにする必要がある。
原理や原因は経験として現れては来ないが、結果として現れる知識や関係というものは具体的経験として実際に現れているものなのである。関係をとりもつ架空の「力」「作用」のようなものを想定して因果的に説明するまでもなく、具体的経験として「関係」というものが実際に現れている、それを説明すれば良いだけなのである。
・・・で、その話の続きとしては、W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』(岩波文庫)第二章「純粋経験の世界」がまさにぴったりという感じだ。
いろいろ引用したい部分はたくさんあるのだが・・・
過度に精妙な精神は、こうした諸事実について考察し、それがいかに可能になるかを問うことによって、結局、直接の知覚的経験に代えて概念から成る多くの静的な事物をつくり上げてしまうことになる。(ジェイムズ、56~57ページ)
経験論は事物を永久に分離したままにし、合理論は絶対者や実体、その他何であれ彼らが採用しうる架空の統一の作用者によって、この空隙を埋めようとする。(ジェイムズ、57ページ)
連接と分離は、すべての出来事においてともに生じている現象であり、われわれが経験を額面どおりに受け取るならば、ひとしく実在的なものとして説明されなければならない。(ジェイムズ、57ページ)
・・・同一性であれ変化であれ、連続性であれ断絶であれ、様々な”関係”というものは、具体的経験として現れているのであれば、それを選り好みすることなく、平等に具体的経験として説明する必要があるのだ。
この問題に関しては、ジェイムズはヒュームより一歩先を進んでいることになる。
ただ、ジェイムズ自身、「抽象的な話をすることと混同しない」(ジェイムズ、55ページ)で”具体的”経験を説明できているのか・・・と言えば怪しい部分も多い。概念図・イメージ図と具体的経験とを混同してはいないだろうか?
このあたりきっちり説明しておいた方が良いだろう。
今は、これに併せてソシュールの一般言語学講義も読んでいるのだが・・・やはり言葉の「意味」に関する説明には非常に違和感を覚える。ソシュールの言語論はその出発点から問題を抱えているのではないかと思える。
そのうちきっちり批判的分析をしておきたいと思う。
ヒューム『人性論』分析:経験論における「経験」の位置づけについてhttp://miya.aki.gs/miya/miya_report31.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編です。ヒューム理論における「経験」の位置づけ、「経験⇒原理⇒観念」という分析フォーマットの問題点を指摘するものです。経験がいかに知識や関係(の観念)をもたらすのかではなく、知識や関係そのものがいかに経験として現れているのかを示すことが経験論なのであって、それらをもたらす「原理」「原因」を問うたところで、一元的な回答を得ることなどできないのです。
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本稿は、ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)第一篇分析、主に「経験」というものの位置づけを取り扱うものである。
『人性論』第一篇において「経験論」という用語が用いられているわけではない。そしてヒューム自身「経験」という言葉をそれほど厳密に定義しようとしているわけでもないように思える。しかし、その無自覚が分析のブレを生んでしまっているようにも思えるのだ。
経験論と合理論の論争において、「知識は経験によってのみもたらされるのか」という問いは重要な位置を占めていると思う。「生得(、、)観念(、、)がなにかあるのか」(ヒューム、16ページ)、そういった問いも考慮した上で(そしてそれを否定するためもあって)ヒュームは理論を構築している。
しかし、実のところこれは的外れな議論なのではないか。そもそも「知識」とは何なのか? 知識そのものが「経験」として現れているものなのではないのか?
経験として実際に、具体的に現れているものはすべて経験である。当たり前の話だ。数学の答えを探し、ついに答えにたどり着く過程、現在の状況を把握した上でこれから何が起こるのか推測する過程、そこに飛んでいる鳥を見て「あれは鴨かな?」と思う過程、それらすべてが「経験」なのである。
経験から知識がもたらされる、というのではなく、知識そのものが経験なのである。知識そのものが経験として現れている。
一方、そこに「原理」というものは具体的知覚として現れてはいない。「原理」というものは因果関係に基づくもの、ある現象・ある認識をもたらす仕組みというものを因果的に示そうとするものである。しかも一元的説明に陥ることでしばしば誤謬を生む。しかし、具体的経験として現れるのは知覚と知覚の継起(あるいはその繰り返し)でしかなく、「因果関係そのもの」の観念やら印象を探してもそこに見つかることはないのである。
ところがヒュームの分析手法において、「経験⇒原理⇒特定の観念」という枠組みが常に付きまとっている。しかし、「原理」云々以前に、知識あるいは観念は私たちの経験として現れてしまっているのである(そして現れていないものは現れていないのである)。
因果推論した事実、「空が曇ってきたからもうすぐ雨が降るだろう」と思った事実、これも経験であることに変わりはない。しかし「なぜ因果推論できたのか」という「原因」あるいは「原理」を探したところで、様々な説明が可能ではあるが、一元的因果的説明など出来ようもないのである(このあたりはレポート〔1〕や〔5〕でも論じている)。
ヒュームは「原理」思考から脱することができなかった、そこがヒューム経験論の限界であったと思うのである。
目次 ※ ()内はページ
Ⅰ.「経験」とは何か (3)
1.『人性論』における経験の位置づけ
2.「経験」は「心」に現れるものではない
3.「きずな」「引力」があるから観念が結び合わされるのではなく。観念が結び合わさっている状況が具体的経験として現れている
Ⅱ.ヒュームは因果関係における「経験」の位置づけを見誤っている (6)
Ⅲ.ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論できた「原因」)とを取り違えている (8)
1.因果推論を因果推論によって根拠づけようとしている
2.因果推論の「正しさ」の検証
3.経験論として因果関係・因果推論を説明するとは
Ⅳ.経験がいかに知識をもたらすかではなく、知識がいかに経験として現れているか、そこが問題 (12)
経験論が根本的であるためには、その理論的構成において、直接に経験されないいかなる要素も認めてはならず、また、直接に経験されるいかなる要素も排除してはならない。(W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』岩波文庫、49ページ)
意識を、世界内に存在する体験の場としての「心」ではなく、世界を含む一切の超越物を妥当せしめる場(一切の超越物の存在確信をつくりだす場)としての「超越論的主観性」とみなすこと、これが「超越論的―現象学的還元」と呼ばれるのである。(西氏、213ページ)・・・このように「場」というものを実体化していまっているのである。西氏はヒュームとフッサールの共通点を強調されているが(もちろん共通する面はある)、しかし、上記記事で私が述べたように、フッサールはヒューム理論に余計なものを付け加えてしまっただけなのである。
心は、異なる諸知覚が引き続いて現れる、一種の劇場である。心の中で知覚は、通り過ぎ、再び戻り、いつの間にか過ぎていき、姿態と状態の無限の変化・多様の内に参加している。いかに、心の単純性と同一性を想像する自然の傾向が我々にあるとはいえ、厳密には、一時点における「単純性」も異なる時点における「同一性」も、心にはないのである。劇場の比喩を誤解してはならない。心を構成するのは、ただ継起する諸知覚だけであり、劇の場面が演じられる場所の想念や、場所を構成する物質の想念は、全くないのである。(ヒューム『人間本性論(人性論)』井上基志訳・青空文庫:第一編・第四部・第六節 人格の同一性について、ウェブアドレスはこちら)・・・ヒュームは、「場所」というものは、物質としてはもちろん想念としても現れることはないと述べている。(だったら、わざわざ「劇場」という比喩をしなくても良かったのだが・・・)
現前意識を現前意識たらしめている絶対的な究極原因を、わたしたちは確定することができない。(苫野氏、106ページ)・・・という見解は、「因果関係」に対する誤解に基づいている。因果関係がアプリオリなものではない、ということはどういうことなのか、そこを理解する必要があるのだ。(そして、普通に「原因」で良いのに、わざわざ「絶対的な究極原因」とする必要があるのだろうか?)
現前意識を現前意識たらしめる何らかの「本体」を想定・確定し、そこから一切を判断―断罪―する、悪しき真理主義―独断論―の源泉となるからだ(苫野氏、107ページ)・・・とはいったい何に対しての警戒なのだろうか? 経験どうしの因果的結び付けは独断論でもないし、悪しき真理主義でもない。
たとえば、今わたしは目の前のグラスをありありと見ているが、このものが確かにありありと「見えてしまっている」ことを、わたしはどうしても疑うことができない。しかも、それが「グラス」という本質的な意味をもって「見えてしまっている」ことを疑うことができない。(苫野氏、106ページ)・・・本当にそうだろうか? そこに何か見えている。そしてそれを「グラス」だと思った、実際に「グラスだ」と具体的に思ったのであれば、確かに「グラスだ」と思ったのである。しかしそれはあくまで「言葉」として現れた経験である。ただ「グラスだ」という言葉を思い浮かべたのである。それは「本質」ではない。
たとえば花を認識する時、わたしたちはそれを、花としての本質的な意味をもった個物として認識する(個的直観と本質直観)。しかし同時に、わたしたちはそこに、なにがしかの情動性もまた必ず所与されていることを自覚する。(苫野氏、107ページ)・・・私たちが何かを認識するとき、常に情動性が所与されているであろうか? 強く何か感じる場合もあれば、別に意識さえしないこともあろう。「必ず所与されている」という説明に「共通了解可能性」があるのだろうか?
わたしの目の前のグラスは、喉の渇きを癒したいという欲望(情動)を所与するかぎりにおいて水を飲む道具としての「意味」を持ち、そしてその目的を達成させうる可能性の強度に応じて「価値」を持つ(苫野氏、110ページ)・・・「水」とは何かと聞かれ、水そのものを思い浮かべたり、そこにある水を指し示したりする。それら具体的知覚経験やら心像は「水」という言葉の意味である。この言葉の経験との関連付けに関して、そこに「情動所与」は何ら関係していないのである。
目の前のグラスの水をわたしが飲み水として認識するのは、わたしの「喉の渇きを潤したい」という欲望・関心に応じてである、と説明することができる。(苫野氏、114ページ)・・・というのは、まさに事実関係、「水を飲むと喉の渇きが癒される」という因果関係に他ならないのである。そしてそのものが「水」であるということに関して、そこに情動は関連などしていない。
わたしたちは、このグラスの水を飲み水として認識した原因がわたしの「喉の渇きを潤したい」という欲望であるなどということを、絶対的に確かめることなどできない(苫野氏、114ページ)・・・当たり前のことである。水が飲めるというのは、過去の経験に基づいた因果的経験則である。水が飲めると思った「原因」が”欲望”であるなどど、いったい誰が考えるであろうか? この事例は論点がずれてしまっている。この説明は「われわれの認識の究極原因を確証することはできないのである」(苫野氏、114ページ)という証明にはまったくなってはいない。
哲学を新たに始める者としての私は、真正な学問という想定された目標に向かって一貫して努力するなかで、自分で明証から汲み上げたのではないもの、問題の事象や事態が「そのもの自身」として現前するような「経験」から汲み上げたのではないものについては、いかなる判断も下さず、通用させてはならない、ということだ。(フッサール、36ページ)・・・というのであれば、
判断することは思念することであり、一般的に言えば、かくかくしかじかとただ思うことである(フッサール、31ページ)・・・この「かくかくしかじかとただ思う」とは、いったいどのように「思う」のか、具体性がない。実際の経験として”具体的に”何が現れているのか、そこが問題なのだが。
情動の継起は背景に後退するだろう(苫野氏、108ページ:岩内章太郎「現象学と欲望論」からの引用)・・・”後退”していると判断するのであれば、要するに具体的経験として現れないということなのでは?どこにも現れないものが、背後にあると断言できるのだろうか?
みずからの体験じしんに問いかけることがもっとも根源的である(西氏、45ページ)・・・結局、私たちは自らの経験の外には出られない。理論構築に使える情報はそれしかないのである。このあたりの見解に関しては、私もまったく同意するものだ。
各人が各人の意識のありようをみずから確かめては報告しあうことによって、”意識一般に共通する記述”をつくりあげようとする営み(言語ゲーム)(西氏、94ページ)・・・言語を介して、おのおの各人がその言語(による説明)を読んでそれを自らの経験として確かめる、そのプロセスにおいてはじめて”客観性”というものが見出されるのである。”言語ゲーム”という表現は誤解を招く可能性があるとは思うが、おおまかな内容に関しては、私も同意する。
より本質的には、近代哲学者たちの解明が必ずしも意識体験の反省的記述になっていなかったからだ(西氏、127ページ)
その自然科学の普遍妥当性の基礎づけは、いかにも人工的である。直観のもつ時間・空間的形式と概念との「合成」による説明は、私たちがみずからの体験を反省しつつ「なるほどそうなっている」と確かめることができるようなものではなくなっている。それは一種の「組立図式」であり、そうかなと思えばそうも思えてくるし(怪しめばいくらでも怪しくなる)ようなものなのである。(西氏、128ページ)・・・まさにそうである。哲学者がよく陥る罠というか、経験そのままではなく、いつのまにか”仮説モデル”(組立図式)を勝手に作り上げてそのモデルを分析してしまっているのだ。そのために、実際の私たちの経験と齟齬を来してしまっている。
生の意味と価値をなぜ人は求めるのか(西氏、39ページ)・・・哲学として考えるのであれば、まずは「なぜ」というものの”正体”を(体験から)明らかにする必要があるのだ。そして、上記(2)に関連するのだが、「意味」とは何か、「価値」とは何か、そこを問う必要がある。さらに言えば「動機」とは何か、「意志」とは何か・・・それらは「言葉」としてはある。しかし私たちは何をもって「意味」と呼んでいるのか、「動機」「意志」と言うものの、「動機そのもの」「意志そのもの」は経験・体験として実際に現れているのか、さらに根本から問う必要があるのだ。
主観の哲学は、何かの存在を客観的に証明しようとするのではなく、何かの存在の確信の成立の仕方を問うものなのである(デカルトはまだ「証明」しようとしいるが、ヒュームになると「確信成立」のみを自覚的に問題にするようになる)。(西氏、96ページ)・・・ヒュームからさらに”因果的”理解を加えようとするのは、哲学的考察としては適切ではないと思う(進歩というより後退)。「構造」とは何か(これも因果的関係づけにほかならない)、「仕組み」とは何か、「作用」とは何か、まずはそこから明らかにすべきであって、「成立の仕方」という問いの答えは恣意的な仮説にならざるをえないのである。
「Rさんは日本人女性である」という理解と、「Rさんは日本人である」という理解との間の関係のように、原因結果ではなく、単に論理的な関係でも、観念についての「私たちの事実」としては、「近接」、「先行」、「恒常的な相伴(恒常的連接)」を満たしていまい、ヒュームの枠組みだと原因結果になってしまうのではないか(一ノ瀬氏「原因と結果と自由と」、19ページ)
「恒常的連接」というのは、その意義からして、「タイプ」の概念がなければ成立しない。そして、「タイプ」とは抽象観念にほかならない。しかるに、ヒュームの考えでは、抽象観念とは、類似の対象を同一の名前で呼ぶという習慣が確立することによって、名前を聞くとそれらの対象のどれか特定の観念が想像によって想われてしまう、という存立構造をもつものであった(T20)。すぐに気づくように、こうした抽象観念の存立構造とは、「心の決定」による因果関係以外の何ものでもないだろう。つまり、名前と特定の観念との間に、「原因」の第二の定義に基づく因果関係が現れているのである。(一ノ瀬氏、247ページ)
我々が『善の研究』を読むとき、我々はすでに、そうしてつねに純粋経験のうちにあるのであるが、そのことはさしあたり分からない。(佐野氏:著者)・・・ということはありえない。その読んでいる事実、見えている文字、そこで浮かんでくるなにがしかの感覚やら心像やら言葉やら、そういったことすべてが純粋経験なのである。ただそれだけのことだ。それがありのままの事実でない、というのであれば、いったい何がありのままなのであろう? それが反省であろうとなかろうと、経験として現れたものは現れたものなのである。そしてそれを言語表現した、それさえもありのままの事実である。(西田は言語表現も純粋経験であることを見逃している)
ヒュームが、「教育」における繰り返しや刷り込みによって一定の信念を得ることを因果推論とほぼ同一視している点からも強く確証される。ヒュームはいう、「教育というのは人為的原因であって自然的原因ではない……けれども、それは実際は、習慣と繰り返しという、原因から結果に向かうわれわれの推論の場合とほとんど同じ基礎の上に構築されているのである」(T117)。教育によって得られた知識が、他者によって与えられたという、他律的な側面をもつことは否定しようがない。(一ノ瀬氏、250ページ)・・・ヒュームは教育による繰り返しが、日常的な因果把握と同じような効果をもちうることを説明したのであって、それは因果把握に他者性が必須であるということではない。他者性とは、あくまで因果関係の客観性において問題になることなのである。
ヒューム因果論の深底部には、因果性が成立する場は他者へと絶え間なく反転していく、というモチーフが脈々と息づいている。しかし、この議論の構造から明らかなように、こうした考え方は強力に自己否定的である。少なくとも、自己否定という暗闇にきわどく接しているといえる。したがって、ヒュームの因果論は、自己破滅の危機を胚胎した、危うい綱渡りめいた、暗示的なものにならざるをえない。本質的にそうならざるをえないのである。(一ノ瀬氏ページ)・・・これは既に述べたように、他者性と所与性とを取り違えている上での見解であると言える。
〔ほかの人はどうであれ〕私に関する限り、私が「自己」(myself)と呼ぶのにもっとも深く分け入るとき、私が見つけるものは、常に、熱や冷、明や暗、愛や憎、苦や快など、あれやこれやの個々の知覚である。私は、いかなるときにも、知覚なしに自己を捉えることが、けっしてできず、また、知覚以外のものを観察することも、けっしてできない。(ヒューム、286ページ)・・・これは”自己破滅”なのではなく、”事実”なのだ。ヒュームだけでなく、私においてもそうである。
直接に与へられたものとは如何なるものを云ふのであるか。我々は此問題を論ずるに当つて、先づその意味を明にせねばならぬ。既に与へられると云へば、何物かに対して与へられるといふことでなければならぬ。こゝに与へられるといふのは、我に対して与へられると云ふ意味である。・・・”所与”とはただただ現れているもの、それは「誰に」とか「どこに」とかそういったものを前提はしていない。西田は「それを受け取る者があるから経験を受け取ることができる」という因果的理解から離れられないでいるのである。
しかるに一つの物が働くというのは必ず他の物に対して働くのである、而してこれには必ずこの二つの物を結合して互いに相働くを得しめる第三者がなくてはならぬ、例えば甲の物体の運動が乙に伝わるというには、この量物体の間に力というものがなければならぬ、また性質ということも一の性質が成立するには必ず他に対して成立するのである。例えば色が赤のみであったならば赤という色は現われ様がない、赤が現われるには赤ならざる色がなければならぬ、而して一の性質が他の性質と比較し区別せらるるには、両性質はその根柢において同一でなければならぬ、全く類を異にしその間に何らの共通なる点をもたぬ者は比較し区別することができぬ。かくの如く凡て物は対立に由って成立するというならば、その根柢には必ず統一的或る者が潜んで居るのである。(西田『善の研究』岩波文庫、91~92ページ)・・・一方、西田はヒュームを参照しながら次のように説明しているのである。
普通には因果律は直に現象の背後における固定せる物其物の存在を要求する様に考えて居るが、そは誤である。因果律の正当なる意義はヒュームのいった様に、或る現象の起るには必ずこれに先だつ一定の現象があるというまでであって、現象以上の物の要求するのではない。一現象より他の現象を生ずるというのは、一現象が現象の中に含まれて居ったのもでもなく、またどこか外に潜んで居ったのが引き出されるのでもない。(『善の研究』75ページ)・・・つまり「統一的或る者」とは西田自身が言う「力とか物とかいうのは説明のために設けられた仮定」(『善の研究』76ページ)そのものなのである。
在るものは、なにかに相対してはじめて在ると言い得るのであって、単に対を絶したものは在るということもできない。(木村氏、245ページ)・・・という見解も、全く根拠を持たないものなのである。直接的経験、所与の経験としては、ただ「そこに在る」と思った事実であって、そこに「無」というものが対であるとか、そんなことは後付けの理屈付け、思慮分別、仮説でしかないのである。
「カントが形而上学として排斥したのは、我々の経験界を構成する範疇を知的所与なくして超経験界に押し進めることであった」(3-496)。そこでカントにおいては経験界における「所与の範疇」(Kategorie der Gegebenheit)は知覚に限定され、思惟と知覚の両作用の統一によって自然界が成立するのであるが、しかし西田の考えによれば、所与の範疇は知覚のみに限られず、作用の意識としては意志の意識も知覚の意識と同様、直接の所与である。それは知覚より一層具体的な所与である。「同様に直接的、ここが重要である。そうしてここのところが、カントの立場をもっと大きく開き広めようとしたところである」と西谷は指摘する。(木村氏、249ページ)・・・これが純粋経験というもの、経験というものは”所与”として、ただ現れるものなのである。しかし・・・
西田は次のように述べている。「意識とはどこ迄も直接でなければならぬ、何らかの意味において対象化せられたものは意識ではない。心理学的意識の如きは意識せられたものに過ぎない」(3-497)。「直接」とは、直接経験のことであり、自己がそこで成り立つ最も根源的なところである。(木村氏、249ページ)・・・ここで見逃されていることがある。それは上記の”対象化”それこそが”思惟”である、ということなのである。思惟が直接的であるということは、対象化したという事実、それこそが直接的な”所与”である、ということなのだ。
意志といえば何か特別なる力がある様に思われて居るが、その実は一の心像より他の心像に移る推移の経験にすぎない、或る事を意志するというのは即ちこれに注意を向けることである。この事は最も明にいわゆる無意的行為の如き者において見ることができる、前にいった知覚の連続のような場合でも、注意の推移と意志の進行とが全く一致するのである。 (西田幾多郎『善の研究』岩波 文庫 、41~42 ページ)・・・「意志」というものを示そうとしても、結局は「一の心像より他の心像に移る推移の経験」とか「或る事を意志するというのは即ちこれに注意を向けること」としか説明しようがないのである。「意志」という「特別なる力」(西田『善の研究』41ページより)というものを見出すこともできないのだ。(それなのに統一力とかいう直接的経験でないものを持ち出そうとするのは西田自身の誤りと言う他はない)
しかるに、では、ヒュームはどのような観点から固有の因果論へと至ったのだろうか。ヒューム因果論を促した最初のモチーフは何だったのだろうか?(一ノ瀬氏、237ページ)・・・私には、この問いが非常に不自然に感じられる。ヒュームは『人間本性論』の序章で次のように述べている。(以下、木曾好能訳、法政大学出版局より引用)
人間の学が他の諸学の唯一の堅固な基礎を成すように、人間の学そのものに与えうる唯一の堅固な基礎は、経験と観察(experience and observation)に置かれねばならない。(ヒューム、7~8ページ)
われわれに可能なもっとも一般的でもっとも完成された諸原理に対しては、それらが事実であることをわれわれが経験すること以外にそれらの原理の根拠を示し得ないということを、知るからなのである。この、或ることが事実であることの経験こそ、ただの普通人にとってはそのことの根拠にほかならず、また、どれほど特殊でどれほど異常な現象に対しても、あらかじめ調べる必要もなくすでに見出されている根拠なのである。(ヒューム、9ページ)
いかなる学いかなる技術も、経験を越えて進むことはできず、この権威(経験)に基礎をもたないような原理を確立することはできないのである。(ヒューム、9ページ)
因果の基本性は、いま引いたヒュームの言にあるように、あくまで「事実の問題」つまりは経験的知識に関してであって、それと区別された「観念の関係」(Relationship of Ideas)つまりは論理的知識にまでは及ばないのではないか、という疑問が提出されるかもしれない、しかしそれは違う。というのも、ヒュームは、『人間本性論』第一巻第四部第一節「理性に関する懐疑論について」において、観念の関係の典型例である算術の計算などに照らしながら、観念の関係も真には事実の問題でしかないと論じているからである。(一ノ瀬氏、236ページ)・・・ヒューム自身に混同が見られるので一ノ瀬氏が誤解されるのも仕方ない部分もあるのだが・・・そもそも「観念」とはいったい何であろうか?
言語使用の事実についてのこうした認識を基盤としてどうしても確保したいならば、「基礎づけ」という作業さえもが再びよみがえるかもしれない。確かに、対象に関する認識ではなく、言語使用に関する認識へという議論場面のシフトはあるにせよ、そしてそのシフトに伴う重大な変容は間違いなくあるにせよ、全体としての問題の構造は以前とまったく同じままなのである。(一ノ瀬氏、232ページ)・・・この見解も私的言語批判を引きずっているような印象だ。(ただ、私がここで指摘した論点に通じる部分もあるが)
もちろん私は、「心のなかの観念」とか心理的な基礎づけというようなかつての道具立てを再び用いるべきだ、といっているのではない。(一ノ瀬氏、232ページ)・・・これも私たちの具体的経験を基礎づけに使うべきではない、という方向に向かってしまっては話にならない。
もし名辞が個別観念に「意味」を与えると言うヒュームが、ここで語や文の、あるいは命題の意味について語っているのだと言うなら、その人は意味の理論を何か根本的に誤解しているのだと思われる。(澤田氏、7ページ)・・・澤田氏の見解に反して、その文は、まさにヒュームが「意味」について述べた部分なのである。言葉の意味というものは言葉がなければ現れようもない。あたり前の話である。言葉の意味は言葉だけで説明できるものでも当然ない。言葉と経験(観念や印象)との繋がりによって初めて生まれるものである(ヒュームは観念についてしか言及していないが)。
独我論は、他者や世界が存在するように見えるというところまでは認めるのですが、それらは自分自身(私)の存在ほど自明ではないので、存在しないかもしれないと懐疑して、結局存在しないと結論してしまいます。(橋爪氏、39ページ)
独我論者を論破しようとするとできない。「何を言ってもだめだ、お前は存在しないんだから」と決めつけられてしまいます。(橋爪氏、39ページ)・・・果たして自分自身(私)の存在は他者の存在よりも自明なことなのだろうか? 感じている五感やら情動的感覚やら聞こえる言葉やら、それらはただそれだけが現れているだけであって、そこに「私」というものなどどこにも見つけられない。「自分」というのはどこにあるのだろうか?
「心」とは何かというと、他者が存在して、わたしと同じように精神活動を行っているという確信なのです。あくまで確信ですから、証明することはできない。他人の頭のなかを除くわけにはいきませんから、行動しかわらかない。(橋爪氏、38ページ)・・・結局、橋爪氏の問題意識は他者が私と同じように感じているという確信の根拠(あるいはそれがあるのかないのか)なのであるが、ここで橋爪氏は、
自由意志がないのなら、こういうことがしたいと思うことすらできないということになります(橋爪氏、26ページ)・・・「こういうことがしたい」と言語表現できること自体が自由意志の証明にはならない。
命名説では、世界には「水」という実体と「お湯」という実体がなければならないのですが、英語で考えてみると「water」という言葉しかありません。言葉が実体を反映すべきものだとすればおかしなことになります。(橋爪氏、88ページ)・・・英語にもhot waterとcold waterがあるのでは? (まあ、感覚やら想像上のものにも名前は付けられるから、わざわざそこに「実体」を持ち出す必要はないとは思うが)
新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...