2019年12月31日火曜日

理論があって経験があるのではなく、経験があって理論がある ~「観察の理論負荷性」の問題点

「観察の理論負荷性」の問題については、時折ふれてはきましたが、今回きちんとした形にまとめてみました。

理論があって経験があるのではなく、経験があって理論がある
~「観察の理論負荷性」の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report24.pdf
・・・科学哲学における「観察の理論負荷性」に関する議論の問題点を指摘したものです。具体的には①「観察」という行為における言語と経験との位置づけに関する誤認、②理論あるいは因果関係とは何か、経験におけるそれらの位置づけに関する誤認、という論点から分析しています。理論(因果)とはアポステリオリなもの、経験がまずあって理論はそれら経験の事後的因果構築により導かれるものなのです。


<目次> 

Ⅰ.「観察」とは何か

Ⅱ.観察の積み重ねの結果としての全体像を観察の前提として扱う誤謬

Ⅲ.言葉と経験との関係は、究極的に理論・論理で説明できないところへ行きつく

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Ⅰ.「観察」とは何か

では、

伊勢田哲治著「新科学哲学の主要人物の生い立ちと哲学」
http://ocw.nagoya-u.jp/files/45/sp_note07.pdf

Ⅱ.観察の積み重ねの結果としての全体像を観察の前提として扱う誤謬

では、

住政二郎著「質的研究の科学性に関する一考察」『より良い外国語教育研究のための方法』外国語教育メディア学会 (LET) 関西支部 メソドロジー研究部会2010 年度報告論集30:30~44ページ
http://www.mizumot.com/method/sumi.pdf

を分析しています。

2019年12月21日土曜日

「作用」の問題/「理論負荷性」の問題

佐藤春吉「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(中)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/4、2014年、15~34ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-4_02-02.pdf

・・・を読んでいる最中である。やはり「法則」と「因果連関」の理解がおかしいと思う。「作用」を”査定”する、といっても、それはヴェーバーの一方的な決めつけ以上のものにはならないはずである。なぜなら「作用そのもの」をいくら探しても見つかることがないからだ。

結局事象Aが生じれば事象Bが生じる、という経験の繰り返し以上のものにはならない。因果連関をいくら細かく突き詰めていっても、この事実は変わらない。ヒュームの言う「近接」「継起」においてより厳密に突き詰めることはできる。しかしそれでもそこに「作用」というものの存在を見つけることはできないのである。

それを「法則」と呼ぼうが「因果」と呼ぼうが、結局は事実関係なのであって、経験から乖離した「法則」「因果」というものなどありえないのだ。経験により支持されていないものはあくまで「仮説」「想像」であるにすぎない。

*************

理論負荷性という考え方の問題点を指摘したいのだが、分析するのに(現時点で)丁度良い資料はないか・・・と探してみたら、伊勢田哲治「新科学哲学の主要人物の生い立ちと哲学」というものがあった。

科学哲学か・・・何か議論がずれている印象がある。そのずれが何なのか、伊勢田氏の説明をもとに明らかにしてみたい。

理論負荷性や通訳不可能性を訴える人たちに聞きたいのだが、観察の背景に理論があるとか、中世力学における「インペトゥス」とニュートン力学における「運動量」という概念(というより用語)が同じものではない、別の意味をもつ別の言葉だと、言えるのはどうしてだろうか? 何を根拠にそう言えるのであろうか?

・・・要するに、それらも一種の「経験則」なのである。それぞれの人たちの言葉と経験・事象との繋がり、そしてそれらを因果的につなぎ合わせることで、そういった経験則が導かれている。要するに経験の積み重ねなのである。

それらの経験測は、個別の経験がまず出発点にあって初めて築かれうるものなのだ。理論があって経験があるのではなく、(言葉と事象・経験とが繋がる)経験がまずあって、背景にある理論があるのでは・・・と理屈づけられているのである。

理論負荷性を主張する人たちは、次の事柄を混同してしまっている。

①そこに見えているものを「リンゴだ」と思った事実(言葉と経験とが繋がった事実)
②「リンゴ」という言葉の由来
③「リンゴ」という言葉をどのようにして知ったか

・・・②③がいかようなものであれ、あるいはそれらを知っていようがいまいが、①の事実には全く影響がない。関係ないことである。理論負荷性があろうがなかろうが、そのものを「リンゴだ」と呼んだ事実は、疑いようのないものなのである(言葉と経験のつながりが変化することがあるという経験則もまずはその事実から出発している)。その事実が出発点になって初めて「理論負荷性」や「通訳不可能性」の議論が可能となっている。

そして、その判断が”客観的に”「正しい」のかどうかの検証は、また別のプロセスである。

科学哲学において、言葉にまつわる個別的経験と、判断の客観性の問題とが混同されてしまっているのである。






2019年12月11日水曜日

結局はヴェーバーが「因果」というものをどのように把握しているのか、という問題か(「価値」についてはもちろんだが)

佐藤春吉「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/2、2013年、1~21ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-2_02-01.pdf

・・・を最後まで読んだ。

ヴェーバーの場合,『客観性』ですでに,「文化科学的認識は,……自然事象の認識と全く同じ意味で,純然たる因果認識である」と述べられていることから分かるように(OE.,s.189, 96頁),因果連関は因果連関である限り,自然科学も歴史科学も同じだと考えている。この点でリッカートとヴェーバーは,実はその因果性論の探求方向において大きく異なっているのである。(佐藤氏、14ページ)
ヴェーバーは社会科学認識の客観性の根拠を,論理整合性でもなく価値関係の普遍性や客観性でもなく事実認識の客観性すなわち実在世界の因果認識の客観性に求めている。(佐藤氏、17ページ)
・・・このように自然科学と社会科学との共通性を強調しておきながら、自然科学とは異なる因果認識を求めようとしているのは、どういうことなのだろうか、という話なのだ。

要するに、ヴェーバーの「因果関係」および「法則」認識に誤りがある、ということなのだ。

そして、
 ここであらためて論ずる必要のない特定の意味で「主観的」であるのは,決して与えられた解明の「対象」における歴史的「諸原因」の確証ではない。「主観的」なのは,歴史的「対象」の,すなわち「個体」そのものの区割である。何故なら対象を区劃する場合,それを決定するのは価値諸関係であり,価値諸関係による「把握」は歴史的な変化に服するからである。(佐藤氏、17ページ)
・・・とあるものの、選ばれた対象と「価値」なるものとの間に具体的関連を見出すことができるのか、さらに言えば、そこに「価値」というものをいかに見出すことができるのか、ということなのである。また「目的」と「価値」とを混同してはならない。「目的」とは想定された具体的事象・現象のことである。”価値関係”という具体的事象はない、やはり”事実関係”なのである。

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ヴェーバーが「因果」というものをどのように認識していたかについては、佐藤氏の「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(中)」論文でより詳細に説明がなされている。このあたりは『客観性』論文に記されていない部分でもあるので非常に興味深い。

また、(上)論文において、「現実性は因果性と同義」(佐藤氏、9ページ)とあるが、これについては(中)論文でより詳しく扱われているので後日検証したい。ただ、ヴェーバーが、

①実在物かそうでないかは因果的に分類されるということ
②因果性そのものが実在性の”基準”であるという見解

①と②との違いを混同していないか、ということは気になるので、そのあたりじっくり確かめてみようと思う。

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佐藤氏の一連の論文を読んだ上で社会科学における「質的研究」の位置づけは何なのか、という問題について論じるレポートとしてまとめられたらと思う。

2019年11月26日火曜日

法則は現実なのか非現実なのか

佐藤春吉「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/2、2013年、1~21ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-2_02-01.pdf

・・・を読んでいるのだが、やはり佐藤氏の「法則」理解が定まっていない印象を受ける。

無限に多様な現実から恒常的関係を抽出する「法則科学」(佐藤氏、6ページ)
概念における普遍性と非現実的なものを追及するのか,それとも,特殊的なものならびに個別的なもののうちに現実を追及するのか(佐藤氏、7ページ:リッカートからの引用)
・・・「法則」とは現実なのか非現実なのか? 現実から恒常的関係を抽出したからといって、それはやはり現実である。現実的出来事の繰り返しに他ならない。このあたり佐藤氏はあまり気に留められていないようである。

また、「現実」とは特殊的と述べられているが、

リッカートは、「現実」とは経験における直接的な直感内容のことであり,それは無限の見通しがたい多様性の相でとらえられる(佐藤氏、7ページ:リッカートからの引用)
・・・現実は、「特殊的」なのか、「多様性」なのか、このあたりの(リッカートの)ブレに関しても佐藤氏は全く無頓着である。


とにもかくにも、一回性の出来事の記述は、単なる”出来事の経緯の記述”あるいは因果推論・仮説構築以上のものではない。そもそもが、一回性の出来事で客観的に妥当な因果関係が導き出せるのであれば、法則など必要ないではないか。
因果性は,あらゆる認識対象に根源的なカント的な意味での先験的「カテゴリー」であり(佐藤氏、10ページ)
・・・と一方的に宣言したところで、「個性的一回的な質的特性を記述する科学」(佐藤氏、6ページ)に科学的客観性が自動的に付与されるわけではない。
(一応念をおしておくが、因果仮説レベルの理論と高い再現性を有する法則的理解の区別は、その情報の重要性とは別問題である。それが因果推論レベルであれ法則レベルであれ、その情報を必要とする人にとって、必要なものはやはり必要なものなのである。)

佐藤氏の見解にはいろいろ問題点を見いだせるので、とりあえず最後まで読んで具体的に指摘していきたい。

2019年11月20日水曜日

一般的経験論と純粋経験論との違い

経験論(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E9%A8%93%E8%AB%96

・・・より、
経験論(けいけんろん)、あるいは、経験主義(けいけんしゅぎ、英: empiricism)とは、人間の全ての知識は我々の経験に由来する、とする哲学上または心理学上の立場である(例:ジョン・ロックの「タブラ・ラサ」=人間は生まれたときは白紙である)。(引用ここまで)
・・・というのは一般的理解であると思うのだが、経験論を突き詰めていけば、
経験論が根本的であるためには、その理論的構成において、直接に経験されないいかなる要素も認めてはならず、また、直接に経験されるいかなる要素も排除してはならない。(W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』岩波文庫、49ページ)
・・・このことを徹底していけば、

知識が経験に由来するのかどうかではなく、知識そのものが経験であるということ、知識や思考というものが、実際に具体的経験としていかに現れているのか、そこを説明せねばならない

・・・ということになって来るのである。知識の由来とは、因果的問題である。そんなことを問う前に、因果関係とは何かを明らかにする必要があるはずである。(「タブラ・ラサ」の問題は、経験論の重要問題ではない、という話を、ヒューム『人性論』の印象⇒観念のコピー理論と絡ませながら、後日説明しておきたいと思う)

******

先日NHK教育で西田の『善の研究』の解説をしていた。『善の研究』は様々な思想や哲学者の理論の断片がきちんとまとまらないままつめこまれているため、どこを強調するかによって、けっこうどうとでも言えてしまう部分がある。その番組の解説者の説明も西田哲学の説明として間違いであると言えるわけでもない。

ただ、『善の研究』がそれまでの哲学からさらに一歩進んだものであると言えるとすれば、それは「思惟も意志も純粋経験である」としたところだと思う。ならば”判断”も当然思考(あるいは意志)であるはずだから、判断した事実も純粋経験である、ということになるはずである。私は純粋経験の回しか見ていないから、ひょっとして他の回で何かの説明があったのかもしれないが・・・(その回においては)”(言語による)判断を加えたら既に純粋経験ではなくなっている”という、非常にありふれた(しかも実際には具体的経験の説明としては不正確な)解説で終わっていたのが非常に残念であった。(言語についての説明に対しても、私なりに批判を加えたいのであるが、それは別の機会にしたい。ただ、西田が手に持っていたリンゴの絵柄を変化させる映像は具体的経験を歪める、ミスリーディングなやり方、一種のトリックではないだろうか、そこは指摘しておきたい。)

判断したら純粋経験ではない、という考え方と、思考・思惟・判断も純粋経験である、という考え方との板挟みでもがく(?)、それをいかに説明しようかと試行錯誤している、そのため文章の論理そのものが怪しくなってしまっている、その営み(?)が『善の研究』の(人類の哲学研究の歴史における)オリジナリティーであると思うのだ。


<関連記事>
「概念と現実の非合理的裂け目」とは実質的にいったい何のことなのか(「概念」とは何なのか)
https://keikenron.blogspot.com/2019/11/blog-post_9.html

2019年11月13日水曜日

因果関係把握は自然科学も社会科学も原理的に同じであるはず(その2)

昔読んだ、日高普著『社会科学入門』(有斐閣新書)で、社会科学では自然科学のように実験ができないから、かわりに思惟的抽象をするのだ、みたいに書いてあったのだが・・・

先日紹介した、佐藤春吉氏の論文では、

ヴェーバーにあっては,自然科学も歴史科学も因果認識は同一の検証に服する。(佐藤春吉著「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1―」『立命館産業社会論集』立命館大学産業社会学会編・刊、2012年、1ページ)
・・・と説明されている。

自然科学も社会科学も因果認識は同一の検証に服する。因果関係というものは学問分野によりその原理が変化するのではない。対象にかかわりなく因果関係は因果関係なのである。

そして社会科学では、自然科学における理論の客観性(つまり因果関係の再現性)を確保するためのプロセスの一つ、実験が基本的に出来ないわけである(実際にしてしまった事もあったようだが)。

そうであるならば、自然科学のような客観性を確保するのは無理だ、と考えるべきではないのだろうか? それなのに、ないものをでっちあげようとするから、その論理に無理が出てくるわけである。(そして、客観性の程度と、その情報の重要性とは別の問題である、ということも私が強調してきたことである)

自然科学において「思惟的抽象」をしたとき、いったいどのように受け取られるであろうか? それは一般的に言う「仮説」というものではなかろうか? そうであるならば、それは社会科学においても同じことである。

結局のところ、社会科学においては「仮説モデル」に頼らざるをえないことが多くなってくる。あるいは再現性が特定の地域・時代に限定される場合もあろうし、客観性の程度は事例により様々である。

そして、ヴェーバーの言う価値の問題、存在と当為の混同の問題は、別に社会科学に特有なものではない。現代でも、とくに生物学(の一部)で混同が甚だしい。

研究対象の選択も、自然科学であろうと社会科学であろうと、研究者自身が行うものである。そして、その対象を選んだ事実はあるものの、それが「価値」というものといかに関連づけられうるのか、さらに言えば「価値」とは何なのか、そこの具体的検証がヴェーバーにおいて全くなされていないのである。無いものは無いものだから、実際検証しようがないのであるが・・・

このように、因果関係構築の原理において、さらにはヴェーバーの言う価値問題においても、自然科学、社会科学、なんら変わることはないのである。

日高普著『社会科学入門』では、”ユートピア”である理念型を「極限概念」(日高氏、21ページ)と説明しているが、これを具体的に考えれば、こういうこと(※(1)のところ)になってしまうのである。理念型とは机上の空論にすぎない。空想と現実との比較しか出来ない代物で、具体的社会分析の道具になどなりようがないのである。

その上で、社会科学における因果構築プロセスの特色があるとすれば・・・

私が先日説明した「試行錯誤的因果関係構築プロセス」「試行錯誤的な帰納・演繹プロセス」、かっこよく言えば「動的仮説モデル」とでも言えようか・・・そういうものになるのではなかろうか。

分析する社会現象はどんどん変化していく。人間も変わっていく。もちろん変わらない部分もあるだろうが。

そういった変化に応じて、仮説モデルを変更・修正しながら、現状分析、将来予測を続けていく、まさに私たちが日々の生活で自然と行っている因果構築プロセスなのである。



<関連レポート>

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf




2019年11月12日火曜日

因果関係把握は自然科学も社会科学も原理的に同じであるはず

佐藤春吉著「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」『立命館産業社会論集』41/1、立命館大学産業社会学会編・刊、2005年、67~91ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf

・・・分析の続きです。

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『客観性』論文では,この認識の客観性の意味や妥当性の検証問題についての検討が不十分で,その論理構造は不明確なままにとどまっており,主観主義的傾向が強く印象づけられる叙述となっている。しかし,その後ヴェーバーはこの問題の明確化に取り組んでおり,クニース批判論文」と「マイヤ ー批判論文」では,事実認識の検証問題が論じられ,明快な論理によって定式化されることになる。(佐藤氏、77ページ)
・・・確かに『客観性』論文の記述は不十分で、しかもブレが見られる。しかし、実際無理なものを可能なように説明する試みなのだから、説明が混乱してしまうのも仕方ない。

佐藤氏の説明を読んでみると・・・

具体的な思想の開明的「推論」は,……ゴットルの仮定に反して,「自然科学」の仮説と論理的に同様な意味で,たえず「経験」による「検証」を採用することは,一般に自明のことなのである(RK, s.102, p.205)。 (佐藤氏、78ページ)
・・・つまり結局のところ、因果関係の検証は自然科学においても社会科学においても同様である、ということなのだ。ただ少しずれている気がするのであるが・・・「推論」が”「推論」による「検証」を採用する”とはいったいどういうことなのか? 推論に経験が必要なのか? もちろん過去の経験がより正解に近い推論をもたらしうる、ということは経験的に推測はできる。しかし推論は推論、いかに勝手な想像でも、その推論が当たってしまえば(「現実」として現れれば)、それは「正しい」のであり、いかに過去の経験に即して推論したとしても、それが新たな現実により覆されれば、その推論は「間違い」なのである。

つまり客観的可能性の範疇と,それによって可能となる総合的因果帰属とを利用して,因果的な個々の構成分子を遊離し,一般化する事によって,行われる吟味に耐えた場合に始めて因果的遡源は妥当性を獲得するのである(KS, s.279, p.196)。(佐藤氏、78ページ)
・・・因果推論に「客観性」はない。可能性は「推論」でしかない。推論の「因果的遡源」は、事象Aが生じれば事象Bが生じるという具体的経験、そしてその繰り返しでしかないのである。

あえて推論に客観性の尺度を当てはめるとすれば、それは過去におけるその因果関係の繰り返しの度合い・確率である(結局、ヒュームのprobabilityということになる)。過去の経験との同一性・類似性を伴うことなしに推論の客観性を論じることは到底できない。これも自然科学と全く同じである。

結局、因果関係は因果関係であり、それが物理的事象であれ社会現象であれ個人の行為であれ、対象が異なったからと言って因果関係というものの原理が変化するわけではない。ただ客観性の度合い(再現性、恒常的相伴・随伴の度合い)が異なるだけなのである。客観的妥当性の獲得が難しいのであれば仮説で代替するしか他に方法がない、それだけのことではないのか? そして、客観的妥当性の程度の問題と、その研究が重要な課題かどうかの問題は、全く別のことである。

佐藤氏は、
ヴェーバーにあっては,自然科学も歴史科学も因果認識は同一の検証に服する。(佐藤春吉著「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1―」『立命館産業社会論集』立命館大学産業社会学会編・刊、2012年、1ページ)
・・・と説明されているのだが・・・ただ「因果関係」とは何か、そこの根本的問題に関して大きな誤解をされているように思えるのだ。

自然科学も社会科学も因果関係把握に関して”同一の検証に服する”わけである。であるならば「理念型」という自然科学とは異なる手法を用いる必然性は全くないはずである。

説明されるべき「歴史的個体」の選択と形成をそのものの側から想定するところの指導的価値の選択において,歴史家は「自由」なのである。だが,それ以上の過程においては,彼は因果的帰属の諸原理に端的に結びつけられている(RK, s.124, p.256)。(佐藤氏「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」、78ページ)

・・・というのであれば、自然科学においても研究対象の選定において同じことが言えるはずである。

さらに言えば、対象が選ばれた、その事実に対し、そこに「価値」というものが具体的にどのように影響しているのか、それこそ”具体的に”説明などできるのであろうか? その対象が選ばれた事実と「価値」との間に、客観的妥当性を獲得できるような因果関係を見出すことができるのであろうか?

またさらに言えば、「価値」というものは何なのであろうか? ただ対象を選択した事実がある、そこに「価値そのもの」をいかに見出すことが出来るのであろうか?

「目的」は「目的」である。想定された特定の事象、つまり事実関係でしかない。そこに「価値」というものをどこに見出すことが出来るのであろうか?

「価値」「価値」と皆さん言ってはいるのだが、「価値」というものがいかなるものなのか、”具体的に”検証されたことがあるのだろうか・・・?





2019年11月11日月曜日

試行錯誤的因果関係構築プロセスの行きつく先は・・・

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
 ~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf

・・・で、社会科学は「試行錯誤的因果関係構築プロセス」「試行錯誤的な帰納・演繹プロセス」を避けられない (36ページ~)と説明したのだが、結局のところ、現実の分析⇒仮説モデルの形成⇒さらなる現実の分析⇒仮説モデルの修正(あるいは否定・新たなモデルの形成)⇒さらなる現実の分析、というプロセスがずっと続いていくわけである。

このプロセスは多くの研究者たちにより担われている。ある人が考えた仮説モデルを他の人が現状分析をもとに修正(あるいは否定・更新)していく。もちろん私たちが住むこの世界もどんどん変化していく。

・・・で、AIが発達すれば、新たなデータを取り込みながら仮説モデルを自ら更新・修正していく、動的な仮説モデルというものが作られていくのだろう。実際もうそういうものが特定の分野では出来ているのかもしれない。大勢の研究者たちが知見を受け継ぎながら長い時間かけてしてきたプロセスをコンピュータが一台でしてしまう、そういう話になって来るかもしれない。

社会システム論で言う、自己再帰的なプロセスというものは、具体的分析においては結局そういうことになってしまうのではなかろうか(結局は「意味」ではなく具体的事実の連関)。具体的事象の分析にはパラドクスなどどこにもない(ルーマンのゴタクも分析が洗練されればそぎ落とされていくのだと思う)。ただ仮説モデルに基づき将来を予測し、その結果をもとに仮説モデルを修正する・・・そういったプロセスはAIがあろうとなかろうと、人間が生きている限り続くものなのである。

ただ、コンピュータが獲得できるデータがどこにまで及ぶのかという問題もあるし、そのシステムを最初に作るのは人間、それを監視するのもとりあえず人間である。ただ将来はどのようになるのか分からない。あまり面白いものではなさそうだが・・・

・・・とりあえず今日は想像上のお話でした。

2019年11月9日土曜日

「概念と現実の非合理的裂け目」とは実質的にいったい何のことなのか(「概念」とは何なのか)

佐藤春吉著「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」『立命館産業社会論集』41/1、立命館大学産業社会学会編・刊、2005年、67~91ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf

・・・を最後まで読んだ。後半部分については、「概念」とはいったい何なのか、まずはそれを明らかにしなければならないのでは、という印象を受けた。

1.「概念」とは


「概念と現実との間の裂け目」(佐藤氏、82ページ)
「非合理的裂け目」というアポリア(佐藤氏、83ページ)
実在と概念の間の必然的裂け目(佐藤氏、82ページ)

・・・ここで「概念」とはいったい何なのか具体的に考えてみようと思う。

(1)概念=「仮説」であるとすれば

概念=”ユートピア”としての「理念型」であるならば、(ヴェーバー自身の見解とは異なり)それは実質的に「仮説」「仮説モデル」のことになる。

身近な例で説明するとすれば、「私が以前のように人の意見を聞かず自分の意見ばかり主張していたら今ごろどうなっていただろうか」とか、「彼が以前のように人の意見に流されてばかりいたとすれば、今ごろどうなっていただろうか」とか・・・ 「われわれの文化の、その特性において意義のある特定の特徴を、実在から抽出して、統一的 な理想像にまとめ上げ」(ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』富永祐治・立野保男訳、 折原浩補訳、岩波書店、115ページ)るとは、要するにそういうことなのである。

「手工業」の「理念」について、ヴェーバーは、
さまざまな時代と国の工業経営者の間に散在している一定の諸特徴を、それぞれ一面的に、その帰結にまで高めて、それ自体として矛盾のないひとつの理想像に結合し、それら諸特徴を、この理想像のなかに表明されている思想表現に関係づけるのである。(ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』、114ページ)
・・・と述べている。身近な事例で示せば・・・人に悪口をしばしば言う人たちがいる、その「悪口を言う」という側面を一面的に高めて・・・「人に常に悪口ばかり言えばどういう帰結を伴うか」・・・そういう想像・仮説の世界を構築する、という話になって来るであろう。

このように、「概念」=「理念型」として考えるならば、概念と現実との間の裂け目がある、というのも当然であろう。そしてその「仮説」の妥当性を確かめる術などどこにもない。それは現実とは違う”想像”の世界でしかないからである。「矛盾のない理想像」かどうか、それを確かめる術もない。

あるいは「ユートピア」という考えを外して、単なる「仮説モデル」としてみれば、それは現実と合致していれば「正しい」と判断され、現実と乖離していれば「間違い」だと判断される。ただそれだけのことで、そこに「裂け目」問題などどこにも生じてはいない。


(2)概念=用語(とその意味としての具体的事象・経験)であるとすれば

拙著、

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf

・・・でも指摘しているのだが、「概念そのもの」というものなど実のところどこにも見つけることはできない。ただあるのは「言葉(用語)」そしてそれに対応する何がしかの具体的事象・経験、その組み合わせだけなのである。ヒュームが(抽象観念の説明において)述べているように、名辞に対応して現れるものは常に具体的・個別的観念(実際には印象の場合もあるのだが)でしかない。そこにイデアやら本質やらという代物などどこにも現れてはこない。

「概念」という言葉を吟味なしに用いることは、具体的事実を不明瞭にし現実と乖離した議論へ導く可能性があるのだ。概念が現実を「模写」するなどと考えるのは(これはヴェーバーの見解ではないが)、「概念」というものを実体化して一つの存在物と考えてしまうからなのである。そして「概念」と「現実」が対応するのでもない。あくまで現実として現れる具体的・個別的事象と言葉とが繋がりあうのかどうか、あるいはこれまでにその言葉で呼ばれてきた事象と、新たに現れてきた事象との間に同一性・類似性というものがあるのかどうか、そういう問題に収斂されていくはずである。そこに「裂け目」問題などどこにも生じてはいない。

これも上記拙著で説明したが、問題は「概念と現実との非合理的裂け目」ではなく、言葉と経験とのつながりの究極的な説明できなささ、なのである。

そこに見えるものを「青色」と呼ぶ。あるいは「青色」は何かと聞かれて頭の中で思い浮かべる、あるいは青いものを指し示す。そして、その具体的事象・経験と「青色」という言葉とのつながりは、それ以上論理的に説明できない領域なのである。(そのあたりは上記拙著24~25ページで詳細に説明しているのでここでは説明を省く)

つまりそれは「裂け目」ではなく「論理的説明の不可能性」のことなのである。


2.「実在性」を取り除けばそこに残るのは「言葉」だけ


ヴェーバーもヘーゲルもカントも、あるいは多くの哲学者たちも、「概念」というものを実体化してしまっているのだ。繰り返すが「概念そのもの」というものをいくら探しても見つかることはない。あるのは言葉とそれに対応する具体的事象・経験でしかない。

しかしながら,この種の概念的認識,― われわれの分析的推論的認識作用(das analytishdiskursiveErkennen)―は,抽象によって現実からその十全なる実在性をはぎ取ることにより,そのような認識から絶えずわれわれを遠ざけているのであるが(佐藤氏、83ページ)
・・・「実在性をはぎ取る」とはいったいどういうことなのであろうか? 「実在性」を取り除けば、そこに残るのは「言葉」あるいは「言葉どうしの関係」でしかない。「法則」であれ何であれ、その「法則」が何を示しているのか聞かれれば、具体的・現実的事象を指し示すしかない。つまり、
「概念内容が形而上学的実在として,現実の背後に存在し,またこの現実が数学的諸命題が次々に展開すると類似の方法で,必然的にその概念内容から生じてくる,ということであろう(RK, s.15, p.34-35) 。(佐藤氏、83ページ)
・・・ということではないのだ。概念内容が背後に存在するのではなく、現実(というか具体的経験)が言葉(あるいは言葉どうしの関係)の背後に(というか対応するものとして)存在する、ということなのである。それが見いだせないものは、ただのナンセンスでしかない。

ヘーゲル自身の著作をさらに検証してみる必要はあるのかもしれないが・・・ただ「現実は概念への上昇に当たって」(佐藤氏、83ページ)という事象・現象は具体的事実としてどこにも生じてはいない。事実としては経験・事象が言葉とつながるだけなのである。



<関連する記事>
言葉のトリックと恣意的な因果関係構築
http://miya.aki.gs/mblog/bn2018_07.html#20180702

2019年11月5日火曜日

「法則」について何か勘違いしていないだろうか?

佐藤春吉著「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」『立命館産業社会論集』41/1、立命館大学産業社会学会編・刊、2005年、67~91ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf

・・・を読んでいる最中なのであるが、

歴史学派全般がそうであるように,彼が因果性と法則性とを区別できておらず,因果連関はすべて法則連関をなすものと考えていることが指摘されている(RK, s8, p.23,)。したがって,歴史学派は,法則科学とは別の個性的因果連関の把握を徹底させることができない。(佐藤氏、81ページ)
・・・このあたりもヴェーバー、そして佐藤氏の因果関係に関する誤解が見て取れる。

そもそも個性的因果連関で客観的妥当性が獲得できるのであれば、わざわざ法則を見つけ出す必要がどこにあるだろうか?

個性的因果連関は、ただの因果推論である。それに再現性(恒常的相伴・随伴)が伴うことで、初めて「法則」と呼べるのである。

法則も因果関係であることに変わりはない。それは新たな事実の発見により覆される可能性も有している。法則と因果推論との違いはあくまで相対的なものであり、絶対的な境界が存在しているわけではないのだ。

現実の無限に豊かな諸事実や諸側面を文化意義に即して分析的に取り出し,それら相互の具体的な諸関係と因果連関を確定していくといった,ヴェーバー的個性科学の方法(佐藤氏、81ページ)
・・・では、その因果連関の妥当性はいかにしてもたらされうるのか、という話である。佐藤氏が指摘されているように、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』ではその問題に充分な解答は与えられていない。私が見てもヴェーバーの見解にはブレがみられる。

まぁ、当たり前の話だ。そもそも無理なことをできるかのように説明しようとするからわかりにくい説明になってしまうのだ。因果推論は因果推論、再現性のない因果把握に客観的妥当性など認める術もない。

ただ、佐藤氏が後の論文でこのことについて説明されるとのことなので(そしてヴェーバーもその後の著作でこの問題について言及しているとのことなので)、まずは佐藤氏の後の論文を読んでみようと思う。

歴史の発展法則という観念が自由を毀損する危険性を持つという倫理的実践的問題点(佐藤氏、81ページ)
・・・これも(私が)既に述べたことであるが、「歴史の発展法則」という考え方が事実として正しいのかどうかという問題、そして本当に「正しい」かどうか厳密に検証することなしに(反証事例があるにもかかわらず)それを「法則」と決めつけてしまう問題、科学としてはまずはそこを問わねばならない。

とにもかくにも、佐藤氏もヴェーバーも「法則」について何か勘違いをしていないだろうか?

2019年10月27日日曜日

「抽象的法則」と呼んでいるものの、実際には単なる「仮説的因果モデル」

佐藤春吉著「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」『立命館産業社会論集』41/1、立命館大学産業社会学会編・刊、2005年、67~91ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf

・・・を読んでいるところである。

(私が)何度も指摘しているが、ヴェーバー、そして佐藤氏の「法則」認識には重大な問題がある。

まず,科学の目的について。ヴェーバーにとって,社会科学の目的は,抽象的法則認識では断じてない。個性的現実の個性的な諸特徴の認識こそ,社会科学の目的である。(佐藤氏、75ページ)
・・・そもそもが「抽象的法則認識」とは何なのだろうか? 法則に「抽象」も何もあるのだろうか? 現実と齟齬を来しているとき、それは「法則」と呼べるのであろうか?

 だが,ここで,注意すべきは,ヴェーバーの危機意識は,法則主義によって,科学上の現実認識がねじ曲げられるという認識上の危機意識にとどまるものではないということである。(佐藤氏、76ページ)
・・・つまり、”主義”という名のもとで、「法則」と呼べるに値しない因果推論さえも「正しい」と思い込んでしまうことが問題なのであり、「法則」そのものが問題なのではない。ここを取り違えてはならない。

ヴェーバーは,社会における法則概念,あるいはさらに進めて歴史における発展法則概念が,自由を侵害する性格を内包しているという問題点について,極めて敏感なのである。ヴェーバーは『ロッシャーとクニース』論文のある注で,フォン・ベロウを引用して,「自然研究によってもたらされた,われわれが一般的な自然法則に従属するという理論が,われわれに引きおこすところの人を意気消沈させ鈍らせてしまうような感情」について言及し・・・(以下略:佐藤氏、76ページ)
・・・特定の理論が”人を意気消沈させ”るかどうかは、研究内容の客観的妥当性の問題とは全く関係ないことである。論点がずれてしまってはいないだろうか?
 そして、ここで混同してはならないのであるが、

(1)われわれの生活やら行動が、どれくらい自然法則により説明できるのか、そんなことは現実によって確かめられるだけであって、価値の問題とは全く関係ないことである
(2)問題は、現実と齟齬を来しているにもかかわらず「法則」であると言い張ることであり(マルクス主義は”自称”法則である、と言うこともできる)、それも価値の問題とも全く関係はない

我々の事実認識が、どの程度「法則」化できるのか、そんなこと事実により検証する以外に分かりようがない。これは価値の問題とは全く関係のないことなのである。そして、「法則」というものが現実、つまり私たちの経験により根拠づけられているのである限り、それは「絶対的」なものであると断定しようがない。将来、その「法則」を覆す新たな経験・事象が現れるかもしれないからである。実際、現代においても科学理論というものが次々に、否定・修正・更新されている。
法則認識がはらむ第二の問題は,価値観点の消滅という危機である。この論点は,より明確に自由の問題に直結している。というのも,自然主義的な法則主義的認識を科学の唯一の目標とみなす主張には,科学に,価値理念や価値観点が介在する余地を認めず,社会的諸事象のうちで,普遍的で繰り返し生起する法則的事象こそ知るに値するものであり,観点は議論の余地なくあらかじめ客観的に決定 されいるかのような無批判な理解が隠されているからである。(佐藤氏、76ページ)
・・・ここでも論点の混同が見られる。「法則」に至らない事実認識も、事実であることに変わりはない。上記”法則主義的認識”により切り捨てられるのは「価値」ではなく、因果推論するしかない(ヴェーバーの言葉でいえば)個性的な因果連関、言い換えれば個別的事実関係なのであって、これも価値の問題とは全くかかわりのないことなのである。

そして、学術研究を参考にしたり利用したりする人にとって、何が重要かと言えば、その人の生活にとって今何が必要なのか、あるいは政策を行おうとしている施政者にとって今何が必要か、そういう実践的な理由で決まるのであって、それが「法則(に値するデータが取れている情報)」かどうかではないのである。それが仮説レベルにとどまっていようと、その情報が必要な人にとってはそれが重要な情報なのである。”価値”の問題があるとすれば、そういうことなのではないか? 

ヴェーバーの科学論そのものが、ヴェーバーが主張する理想・理念によって”曇らされたり,ねじ曲げられたり”(佐藤氏、70ページ)している可能性はないだろうか? 理念・理想が、事実関係を見誤らせていないだろうか?


<関連するレポート>
『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf

2019年10月23日水曜日

価値関係の「客観的可能性」とは、あくまで事実関係に基づく「仮説的影響評価」のこと

ヴェーバーに関する佐藤春吉氏の論文を一通り読んでみることにした。今(1)と(4)に目を通しているところである。

(1)「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」『立命館産業社会論集』41/1、立命館大学産業社会学会編・刊、2005年、67~91ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf

(2)「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1―」『立命館産業社会論集』48/3、立命館大学産業社会学会編・刊、2012年、1~18ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2012/48-3_02-01.pdf

(3)「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(下)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1」『立命館産業社会論集』48/4、立命館大学産業社会学会編、2013年、19~39ページ

(4)「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/2、2013年、1~21ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-2_02-01.pdf

(5)「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(中)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/4、2014年、15~34ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-4_02-02.pdf


・・・一貫して言えることは、「因果連関」と「法則」、「価値理念」「文化意義」をより具体的に考える必要があるのでは、ということである。

「自由を脅かす危険をもたらす法則主義的な自然主義的一元論」(佐藤氏、上記(4)論文、2ページ)と言うが、「法則」によってすべてを説明できるかどうかは、個々の研究の積み重ねの結果がその妥当を示すだけであって、ここで「主義」とは、要するに「仮説」のことに過ぎないのである。マルクス理論も「仮説モデル」の一つであるにすぎない。「仮説モデル」は現実と照らし合わせながら検証・否定・修正を続けていくものだ。

「大量現象となっている交換という特徴的な客観的社会関係に付帯している意義」(佐藤氏、上記(3)論文、23ページ)とは具体的に何なのであろうか? 佐藤氏はこのあたりもっと具体的に検証してみる必要があると思われる。・・・意義=影響と考えれば、やはりそれは因果推論、ということになる。そこに「価値そのもの」の現象・事象を見つけることはやはりできないのである。

”特定の現象の「特性」”(佐藤氏、上記(3)論文、23ページ)と言ったところで、それも因果推論による影響評価か、あるいは同一性・差異性の問題、つまり事実関係に収れんしてしまうのである(このあたりは拙著22ページで指摘している)。


**************

(3)「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(下)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1」『立命館産業社会論集』48/4、立命館大学産業社会学会編、2013年、19~39ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2012/48-4_02-02.pdf

・・・において、「文化意義や対象の価値」(佐藤氏、27ページ)とは具体的に何のことを指しているのか、佐藤氏ご自身は説明できるのであろうか? 「文化意義の価値」とは・・・

「研究者の明晰な観点設定の問題」(佐藤氏、28ページ)とは、具体的にどういうことなのであろうか? ”観点を設定する”とは具体的に何をすることなのであろうか?

具体的研究において、どうしているのか、それを振り返ってみるだけで良いのだ。

・何について調べるか、対象の選択
・その対象が何に影響されているのか、あるいは何にどのように影響しうるのか
・調べた上で研究者自身がどうしたいのか、あるいは誰にどうさせたいのか

・・・それぞれ全く別の問題であることが分かる。その事象を研究対象と定めた「理由」と、その対象の事実関係とは全く別の事柄である。その「理由」を探る因果関係構築作業と、研究対象にまつわる事実関係を探る因果関係構築作業は、全く別の仕事なのである。

”経済的に解釈することの『一面性』と『非現実性』”(佐藤氏、28ページ)についても、一面性=非現実、というヴェーバーの取り違えにすぎない。

因果関係とは、あくまで個別的事象と個別的事象との関係構築であり、「一面的」(というよりは個別的)関係構築の積み重ねであるにすぎない。それらは具体的経験・現象として現れているからこそ、因果構築できるのであり、それは”現実”そのもの以外の何物でもない。

(私が)繰り返し述べているが、ヴェーバーの言う「直接に与えられた実在」「混沌」「汲みつくすことのできない豊かさ」を持つ「実在」の方が、”抽象”概念なのである。ヴェーバーのこのひっくりかえった認識が、理念型というものの理解を面倒なものにしているのである。

佐藤氏は、ヴェーバーの「農業の利害」の分析を引き合いに出して「価値関係」(佐藤氏、30ページ)の説明をされているが、これもまったく具体的分析になっていない。

”「農業」とその「利害」をめぐる錯綜する諸価値関係の詳細な分析”(佐藤氏、30ページ)とはいったいどういうことなのであろうか?

・特定の政策が特定の人々にどのような経済的(あるいはそれ以外の)影響を与えうるか、あるいは実際に与えているか
・利害を有する人たち自身が、事実をどのように分析し、どのように(言語として)意思表示しているのか、あるいはいかなる行為をとっているのか

・・・こういった具体的事実を丁寧に調べていくこことで、初めて「利害関係」がいかに現れているかが明らかになってくるのではないだろうか。

「可能的価値観点」(佐藤氏、31ページ)は、あくまで「推論」である。そういった利害関係があるかもしれない、という推論を思いつくかどうかは、確かに研究者自身の人生経験、「生活経験」(ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』富永祐治・立野保男訳、 折原浩補訳、岩波書店、90 ページ)によるものである(因果的に考えれば)。しかし、具体的事実として、現実として、そのものが見出せなければ、推論もただの「妄想」となってしまう。

意味解釈、価値分析は、有意な価値関係を発見し確定する価値関係のいわば「客観的可能性」の研究である。(佐藤氏、31ページ)

・・・価値関係の「客観的可能性」とは、あくまで事実関係に基づく「仮説的影響評価」のことなのであって、価値関係が「確定」されたわけではない。仮説と現実とを取り違えてはならないのである。

「鋭い概念形成」(佐藤氏、30ページ)とは、実質的には、より正確な「仮説モデル」形成のことなのである。



2019年10月19日土曜日

まずは「価値」「意義」「実在」「法則」(そして因果)とは何かの議論が必要

佐藤春吉著「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1―」『立命館産業社会論集』立命館大学産業社会学会編・刊、2012年、1~18ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2012/48-3_02-01.pdf

・・・をざっと読んでみた。その2も含めてもう少しじっくり読んでみるつもりだが、とりあえず現時点においていくつか指摘しておきたい。全般的に言えることは、「実在」「法則」とは何か、「価値」「意義」とは何か、そこを突き詰めることなしには、議論そのものが空虚なものになってしまうであろう。

(1)科学は実在世界とは違うものなのか? 「法則」は実在世界から乖離したものなのか?

私は、ヴェーバーの見解は「直接に与えられている実在」と「抽象」との取り違えがなされていると述べた。「実在世界の汲みつくしえない豊かさ」(佐藤氏、2~3ページ)とはいったい何なのであろうか? 科学実験の際の、個別的具体的実験過程は、具体的経験、経験としての実在(それが必ずしも”物体”である必要はなかろう)ではないのか?

私たちの具体的経験は常に個別的・具体的なものである。それが「汲みつくしえない豊かさ」を持つものなのか、「混沌」なのか、そんなことその具体的経験は何も語ってなどいない。「汲みつくしえない豊かさ」「混沌」というものは具体的経験そのものではない。そこから想像的に考えられた”概念”なのである。つまり「汲みつくしえない豊かさ」「混沌」は「実在」そのものであるとは言えないのだ。むしろ、具体的経験から導かれた想定概念、仮説概念なのである。

”抽象”というのは「世界」「社会的なもの」「混沌」の方であり、具体的・個別的、一面的事象の方がむしろ「直接に与えられた実在」なのである。

そして、繰り返すが科学は実在とは違うのであろうか? 「法則」とは現実と乖離したものなのだろうか? 現実を常に適切に説明できているからこそ「法則」たりえるのではないか?

まず(「法則」「個性的因果連関」とを別論理として取り扱う)ヴェーバーの因果論そのものを批判的に検証する必要があるのだ。


(2)「価値」「意義」とは何か?

佐藤氏はリッケルトの価値論について論じているが、果たして価値が「文化客体自身に付着している」とは具体的にいかなる状態のことを指しているのか? 付着している「価値」とはいったい何なのか? そこの分析が全く欠落してしまっている。

もちろんヴェーバーの見解のように、価値が客体に付着しているという見解に批判的な場合においても同様である。

「価値」とは何かの議論が欠落したまま、「理論的価値関係」(佐藤氏、7ページ)と呼んだところで、それがいったい具体的に何のことを指しているのか、不明瞭なのである。

佐藤氏は、「価値」というもの、それ自体を疑うことなしにただただ前提してしまっているのではないか。

そもそも、研究を行う場合、その対象を定める必要がある。選別するのはあくまで具体的対象であり、価値や意義ではない。具体的対象を選定すれば、それに影響を及ぼす具体的要因を探す必要があるから、当然そこでまた選択(あくまで仮説構築ではあるが)する必要がある。ただそれだけのことである。

その対象に影響を及ぼしうると考えられるものに「意義」があり、影響を及ぼさないであろうと考えられるものは「意義」がない、そういった具体的事実関係なのであって、そこに価値というものが入り込む余地などどこにもないのである。

その対象を選んだ研究者の気持ちというものを想像することはできる。しかし、それは研究手法とは全く別の問題である。



・・・これら基本的用語(「価値」やら「概念」やら、あるいは「法則」「因果連関」)の具体的検証なしに、リッケルトやヴェーバー、あるいはその他の学者たちの見解を比較検討したところで、「実在」を取り違えた宙に浮いた”存在論的”議論にならざるをえないであろう。


<関連レポート>
『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
 ~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf

2019年10月14日月曜日

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析 ~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解

レポート書きました(PDFファイルにまとめたので過去の記事は削除しました)。やっとです。実質10年くらいかかりました・・・

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
 ~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解

http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf

・・・『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)第II部(55ページ以降)、因果関係・法則に関するヴェーバーの見解、そして理念型に基づいたヴェーバーの方法論の問題点を指摘するものです。

論点は次の四つです。

(1)「意味」「意義」とは何か:意味・意義(あるいは関心)が先にあって、事実認識がなされるのはなく、事実認識が先にあり、そこから意味・意義が解釈されているのである。ヴェーバーの認識はこの点においてひっくりかえっている。

(2)ヴェーバーは法則と因果関係(因果連関)とを全く別物として扱っている:法則は現実の具体的事象と合致するからこそ法則たりえるのであって、“抽象的”な法則というものはありえない。法則とは、あくまで再現性の非常に高い因果関係のこと、恒常的な随伴・相伴によって検証されないものは因果推論でしかない。

(3)ヴェーバーは、事象を一面的に抽出すればおのずと因果関連が所与としてもたらされているかのように錯覚している。すべての事柄が無数の因果によってつながっているという認識が、それぞれの因果関係の科学的検証以前に前提されてしまっている。

(4)与えられた実在と抽象との取り違え:私たちに直接に与えられているのは、個別的・具体的(ヴェーバーの言葉でいえば「一面的な」)経験・事象・現象であり、「社会的なもの」「農業」「生活」というのはそれらから導かれた“抽象”概念なのである。ヴェーバーはそれら“抽象”概念の方を「直接に与えられた実在」としてしまい、具体的に表れている個別的事象の方を“抽象”と取り違えてしまっているのである。「理念型」が現実と異なるものであるという見解は、この取り違えからもたらされていると言える。そもそもが「理念型」を支える論理の妥当性は、現実と照合することによってしか確かめることができないのである。

*********

<目次> ※()内はページ
はじめに (2)
Ⅰ.意味・意義・目的論 (6)
1.「意味」とは何か (6)
2.目的論(あるいは意味・意義の問題)は結局、事実関係・因果関係に還元される (8)
Ⅱ.ヴェーバーの「法則」「因果関係」に対する誤解 (11)
1.ヴェーバーは「関心」の問題と「正しさ」の問題とを混同している (11)
2.「法則」も「具体的な因果連関」も因果関係であることは同じ (14)
3.因果関係は個別的関係であるから、分析が一面的にならざるをえないのは当然 (15)
4.「本質的」かどうかと「法則」であるかどうかは全く別の問題 (17)
5.「法則」とは違う“個性的な因果連関”というものの妥当性の根拠は何なのか? (20)
6.文化は価値理念か? (23)
7.事実関係と価値理念との間の因果関連を確かめる術など、どこにもない (24)
8.心理学やら脳科学やらの理論が社会現象のどの側面をどの程度説明できるのかどうかは、あくまで具体的事例分析の積み重ねの「結果」がその妥当を示すだけ (25)
Ⅲ.理念型における認識の転倒 (27)
1.“思考によって構成される”ものが“矛盾のない宇宙”であるといかに確かめることができるのか (27)
2.理念型における論理の妥当性はいかにして確かめられうるのか(1) (28)
3.理念型における論理の妥当性はいかにして確かめられうるのか(2) (30)
4.「直接に与えられた実在」とは何なのか ~「直接に与えられている」ものと、抽象されたものとの取り違えが、まさにヴェーバーの「理念型」 (32)
5.社会科学は「試行錯誤的因果関係構築プロセス」「試行錯誤的な帰納・演繹プロセス」を避けられない (36)


2019年10月3日木曜日

科学に関しては問題はない

御坊哲さんのブログ
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan

の、

〇〇力とはなにか?
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan/entry-12527577937.html

・・・の記事に関して、もう一つ付け加えておこうと思う。

科学と哲学にはやはり違いがあると言わざるを得ないような気がする。力は科学的には実在であるが、哲学的には推論による構成物でしかない。科学者は「万有引力があるからリンゴが落ちる。」と言うが、哲学者は「リンゴが落ちるから、科学者が『万有引力がある。』と言うのだ。」と言うのである。(御坊哲氏のブログより引用)
・・・という見解はまさにそうなのであるが、さらに具体的に考えてみれば、「力」とは言うものの、一定の時間にどれくらいの重さのものを動かすことができるのか、という具体的な物の動き(あるいは動かせるであろうという予測)として表さざるをえないのである。

結局、科学的分析といえども、「力そのもの」「力という実在」として分析しているわけではないのだ。つまり科学的分析においては(それが間違いではない限り)私たちの経験と齟齬を生じるようなことはない。

時間についても、結局は地球や太陽の動き(位置関係の変化?)や水晶振動子や電波(電磁波)の周期という具体的事物の“動き”に行きつくのである。

「重さ」についても、バネばかりの伸びやら特定の金属の歪みやら、そういった何かの動きにより測定されている。

「力」や「時間」を実在のように説明したところで、科学的分析においては究極的には具体的物の動きへ行きついてしまうのである。

・・・むしろ問題なのは、人文系(とまとめて良いのだろうか?)の人たちに、「力」あるいは「作用」、さらには「時間」「意味」「意思」「欲望」、そういったものを実体化する傾向があることではなかろうか。(「物」としてではなくても、現象や出来事として実体化させることもあるのではなかろうか)

「欲望」「意思」と「行為」との因果関係は成立するか、とか、「(唯一の)生きる意味は何だ」とか(この問いは「意味」をイデア的に考えてしまう錯誤の一つである)、具体的経験として現れない概念を、あたかも実体として存在しているかのように分析しようとしてしまうのである。(私たちは「関心」あるいは「欲望」に応じてものを見ているという見解もこういった錯誤の一つである)

科学と哲学とは相反するものではないし互いに矛盾するものでもない。哲学は科学の手法がいかなるものなのかを説明するものであり(もちろん非科学的な思考について説明するものでもある)、科学と異質な世界を表現(これも漠然とした表現ではあるが)するものではないのだ。


2019年9月22日日曜日

「イージープロブレム」に関する研究に「主観的意識体験」が既に含まれている

御坊哲さんのブログ
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan

で「意識のハードプロブレム」について見解を求められた(のかな?)のだが、チャーマーズにはあまり関心なかったし、だいぶ前にたまたまテレビに出てたのを見たのだが、”「意識」が「意識」を見て・・・”という無限進行みたいな話をしていたので、「あぁ、これはダメだ」と思ったのを覚えている。

意識の階層構造みたいなものは、あくまで仮説モデル・想定モデルであって、事実としてそんなものが現れているわけではない。多くの哲学者が想定モデルばかり見ていて事実として実際に現れている具体的経験を無視している現実・・・(システム理論関連の人たちもこういった傾向がある)

・・・そのあたりのことについては、以下のレポートでも説明している。

自己言及はパラドクスではない ~ ニクラス・ルーマン著・土方透/大沢善信訳『自己言及性について』(ちくま学芸文庫)、「訳者あとがき」(土方透著)の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report18.pdf

・・・話が逸れてしまったが、これまで「意識のハードプロブレム」に関して論じたこともなかったし、チャーマーズの書籍やら論文を読んだわけでもないので、今回はとりあえずウィキペディアを参考に考察してみたい。本当はチャーマーズの本かなにか読んだ方が良いのだろうけど、時間の無駄になってしまいそうなので・・・

ウィキペディア(意識のハードプロブレム)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%A0

・・・私は、次の二点(+1)について指摘してみたい。

(1)「イージープロブレム」で見逃されているもの
(2)「因果関係」とは何かという問題

おそらくチャーマーズが陥っている「意識の階層構造」的な想定モデルが、事実としての因果関係の問題を見誤らせているようにも思える。

実験者が見た脳、そして実験装置が示した波形やら何やらも、結局「主観的意識体験」(ウィキペディアの表現に従えば)であることに変わりはない。因果関係構築において、被検者が感じる感覚も、実験者が見るデータの値も、同列に扱われる事象なのであって、そこに階層構造的な要素はどこにもないのである。


*************************


(1)「イージープロブレム」が既に「主観的意識体験」を含んでいる


「イージープロブレム」とは次のようなものだそうだ。

物質としての脳はどのように情報を処理しているのか、という形の一連の問題を指す(イージー・プロブレムにおいては、上向き矢印で表現されている部分は扱われない)。医学、脳科学、生物学の分野で現在なされている研究というのは基本的にイージー・プロブレムについてである。(ウィキペディアより)
・・・「上向き矢印」の問題とは、「ハードプロブレム」、「主観的な意識体験(クオリア)とは何なのか、それは脳の物理的・化学的・電気的反応とどのような関係にあるのか、またどのようにして発生するのかという問題」(ウィキペディアより)なのであるが、ここでイージープロブレムにおける研究において既に「主観的な意識体験」が含まれていることが見逃されてしまっている。

「物質としての脳」が「情報を処理している」ということは、結局、私たちの「主観的な意識体験」(特定の情報を処理した事実、例えばあるものを見て「リンゴだ」と判断・説明した事実)と呼ばれるものとの照合があって初めて理解できるものなのである(なぜこんな当たり前のことを多くの哲学者が理解できないのだろうか・・・)。

ウィキペディアに掲載されている「意識のやさしい問題」の図においては、

「刺激(入力)」⇒「脳」⇒「反応(出力)」

と説明されているが、それだけでは脳の電気的反応性しか説明できていない。それがどういった機能を有しているか、どういう働きをしているのかどうかは、その刺激や(電気的?)反応が起こっている状態と、その時、人間にいかなる感覚が生じているのか、その関連づけがあって、初めて「痛み」を感じる脳の部分、「不安」を感じる脳の部分、という同定が可能になるのである。


(※「主観的意識体験」とはあくまで対象と私とが別個にあり、私が対象を見て、それが私自身に「見えている」という世界観を前提としたものである。)


(2)「因果関係」とは何かという問題


科学的分析、科学理論構築とは、結局のところ因果的関連づけ、事象Aが生じたら事象Bが生じる、という経験、そしてその繰り返し(再現性)の追求である。

あるいは、A⇒Bという単純な因果関係でないとしても、特定の事象Bが生じるためにいかなる条件が必要なのかを問うているわけである。それが仮に量子力学と関連があろうとなかろうと、結局ある事象と事象との関連づけであることに変わりはない(いかなる論理であろうと事象どうしの関連づけであることに変わりはない)。

そして、忘れてはならないことは因果関係はア・プリオリではない、ということだ。

結局、私たちの経験として何らかの感覚が現れてきた、そしてその感覚が生じた原因やら条件を問うとき、別の何らかの経験との関連づけを試みるのである。

被検者の脳のある部分が活性化した⇒被検者に特定の感覚が現れた

そういった関連づけをしながら「原因」「条件」を特定していくのである。「原因」とはそういうものなのである。因果関係をいくら精緻化・細分化しても、結局は事象と事象との関連づけ以上のものにはならないのである。

「物質としての脳がなぜ主観的な意識体験を持つのか」(ウィキペディアより)という問いも、結局は、

物質としての脳の働き⇒人間に現れる特定の感覚

・・・として関連づけしていくしかない。結局イージープロブレムに収斂してしまうのである。

そしてどこまでも事象Aが生じたら事象Bが生じた・・・そういった繰り返し以上のものにはならない。そこに因果関係を生じさせる”何か”というものをいくら探しても見つかることはない。どこまでも事象と事象との関連づけの連鎖以上のものにはならないのである。



(3)扱われていない問題


そして、イージープロブレムに関する研究・実験において、実験者は被検者自身の感覚そのものを体験することはできない。あくまで被検者の自己申告、たとえば言語表現に頼らざるを得ない。

実験者は被検者の言葉や動き、行動を頼りに、その言葉と実験者自らの経験との関連づけから、その「主観的な意識体験」を理解していくしかないのである。(また、被検者に意識があるかどうかは、あくまで被検者の自己申告と実験者の観察による推論的理解で判断されるであろう)

そういった言葉と経験との関連づけが広く共有されているからこそ、上記のイージープロブレム的研究が成立するのである。しかし自らが思い浮かべる「青」と他の人の「青」とが同じかどうか確かめる術はない。しかし同じものを見て皆が「青」と答えることができるし、「青」という言葉とそれに対応する視覚的経験との関連づけが私にあり、その関連付けに基づいた様々な付随する事象やらとの関連づけが自らにあり、そういった経験則的知識と他者の言動に齟齬がない限りは、「青」という言葉と経験との関連づけが間違っていないと考えることができるのである。



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科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法
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言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
  ~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report22.pdf

形態学も因果関係に基づいている
https://keikenron.blogspot.com/2019/06/blog-post_26.html

2019年8月18日日曜日

現況

今、ヒューム『人性論』じっくり読みなおしているところです。
信念に関しても、やはり「言葉」を無視しているために話がややこしくなっていますね。
そして「印象」というものを「事実」と置き換えてみると、より分かりやすくなるかと。

因果関係は「想像」ではなく、あくまで「事実関係」であるということ。


2019年8月3日土曜日

「偶有性」に関する詭弁

社会学が「何かありそうもないという不確実性の感覚」に基づいて成立しているのだとすれば、社会学は倒錯した論理に基づいた学問ということになると思う
https://keikenron.blogspot.com/2019/08/blog-post.html

・・・の続き。大澤真幸著『社会学史』(講談社現代新書)の序章について、さらに二点指摘しておく。

1.社会秩序とは何かが明確ではない


秩序とはいったい何なのか?「秩序」という抽象的な用語で具体的対象がぼやかされてはいないだろうか? 因果関係は具体的な出来事・事象の間に成立するものである。それがいったい何を指しているのか、その「秩序」というものが具体的事象としていかに現れているのか、そこを明確にした上でなければ、いくら因果推論をしたところで宙に浮いた議論となってしまう。


2.「偶有性」に関する詭弁


「〇〇はいかにして可能か」という問題が出てくるときには、「現にそれがあるのに、それが奇跡的に見える」ということが重要です。それが説明を要さない自明のものに見えてしまったら、探求の対象にはなりません。現にある(あるいはすでにあってしまった)社会秩序なのに、それがあることが不確実だったように見える。そういう感覚を社会学では、重要な用語として「偶有性(contingency)」と言います。(大澤氏、21ページ)

・・・私たちが何かをみて「あれ?」と感じたり、不思議に思ったりする。あるいは不安感を抱いていろいろ調べたりすることもあるだろう。物事を探求する契機となる(と因果的に考えられる)好奇心やら違和感やら不安感やら(の情動的感覚)、それらがなぜ生じたのか? ・・・結局それらも因果推論であることに変わりはない。

そういった物事を疑問に思う「原因」というものを特定しようとして、それを明確に指摘などできるのであろうか? もちろん因果推論は可能ではあるが。

その「原因」が「それがあることが不確実だったように見える。そういう感覚」であるという確証はいったいどこにあるのだろうか?

「他でもありえた」というのはあくまで”後付け”の理屈にすぎない。「他でもありえた」から疑問に思ったと断言できるのか? その後付けの理屈が物事を疑問に思う「原因」であると証明された事実はどこにもないのである。

大澤氏の見解においてルーマンの言う「区別」というものが常に前提になっているように思われるのであるが、これは後付けで反対概念(と思われるもの)を持ち出し、その間に検証する術もない因果関係を恣意的に断定するものなのである。

このことについて、拙著

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf

・・・でも説明している。

「変化」と呼べるためには「変化しないもの」がどうしても必要となる、「不動の視点」が必要であるという見解である。一見もっともなことのようにも思える。
 しかしこのような考え方は、因果関係そのものをエポケーできていないことから生じるものである。具体的経験の事実(つまり現実性のレベル)から言えば、転倒している考え方なのだ。
 どういうことなのかというと・・・「動いている」と感じているのは、ただ見えたものに対し「動いた」と思った、ただそれだけのことなのである。なぜ「動いたと思ったのか」その「理由」を問う、ということは事後的に経験と経験との関係を構築し「理由」として理解するというプロセスなのである。現実性レベルの事実としては、ただあるものが見えて「動いた」と思った、ただそれだけなのだ。ふと「動いた」と思ったもののすぐ傍を見てみたら「動いていない」。そこに「違い」を見出したのである。では、そのすぐ傍にある「動いてない」ものがあるから「動いた」と思うことができたと言い切れるのだろうか? 因果関係は常に可疑的である。そうかもしれないしそうでないかもしれない。
 「静止しているものがある」から「動いている」と分かる、という見解は、こういった一連の経験を関係づけた上で事後的に導かれる経験則・因果推論にすぎないのだ。そして、それはただ「動いている」と「動いていない」との“関係”を示しているだけであって、「動いている」「動いていない」とは何か、という問題の答えに全くなっていないのである。
 では、「動いている」とは何か? 「動いていない」とは何か? 「動いている」と「動いていない」との違いは何か? ・・・そんなこと、”論理”では説明できないのだ。つまり、実際に動いているものを見せて「これが動いているものだ」として具体的に示すしか方法がないのである。流れているものを見せて「流れているものだ」と示すしかない。あるいは、笛でドの音の次にレの音を出して「音が変わった」と説明するしかないのである。
 言葉と(言葉の意味としての)経験との繋がりは、究極的に論理で説明できない場所へ行き着く。青とは何か、と聞かれても、実際に青い色を指し示すしかない。あるいは自分で青い色を思い浮かべるしかない。青色を波長で説明できるかもしれない。しかしその分析には、実際に青色と人々が認める具体的事物があり、それを測定した上で波長との関係が見出せるのである。しかも波長とは何か、と聞かれればやはりそれも具体的な波形を描いたりして示すしかない。言葉の意味に対する説明を細分化・精密化したり厳密な定義を与えたりすることはできる。しかしそれらも究極的には論理で説明不可能な言葉と経験との繋がりへたどり着いてしまうのである。
 しかし論理で説明できないからといって、経験と言葉が繋がった事実、目の前のものを見て「リンゴだ」と思った事実は疑いようのない「現実性」を持つものなのである。(そして、それが客観的に正しいというのは実在性のレベルの話である)
 そもそも経験を論理で説明することが間違いなのだ。経験から論理が導かれるのであって、論理によって経験が説明されるのではない。(宮国、8~9ページ)


2019年8月2日金曜日

社会学が「何かありそうもないという不確実性の感覚」に基づいて成立しているのだとすれば、社会学は倒錯した論理に基づいた学問ということになると思う

今は、ヒューム『人性論』を少しづつ、何度も読み返しているところである。先日、澤田氏の論文を読み直して、自分なりに言いたいことはあるのだが、それを形にする前にヒュームの文章をさらにじっくり読み直しておこうと思う。

ヒューム研究と同時に、大澤真幸氏の『社会学史』(講談社現代新書)も少しづつ読んでいるところである。大澤氏の見解にはやはり同意できない。そして彼の見解は社会学という学問が持つ根本的問題点を明らかにしている面もあるのでは・・・とも感じるのである。
「現に起きていることが、現に起きているのに、どこかありそうもない」という感覚がないといけない。「なぜこんなことが起きてしまったのか」と。現に起きているわけだから、そのこと自体は否定しようもないのですが、その起きているものについて、何かありそうもないという不確実性の感覚をもたないと、社会学にはならないのです。(大澤氏、17ページ)
・・・そもそもが社会学者たちが「何かありそうもないという不確実性の感覚」をどれくらい共有しているのか謎なのであるが、こういう考え方自体が社会学の倒錯した一面を表しているのではないかとも思えるのだ。

一応ことわっておくが、これはよく言われる「生きづらさ」とは違う。「生きづらさ」は現実に起こっている事柄に対する不適応の問題であり、現実に起こっていることそれ自体への疑いではないからだ。

それではどういうことなのかというと・・・現実の出来事がまず先にあって社会理論はその事実どうしの関係構築(因果関係)により導かれるはずであるのに、(一部の?)社会学においては現実の出来事を見る前に、その現実から乖離した理論・論理が先行してしまっている、ということなのではなかろうか。(ただこの見解を社会学研究全般に適用してしまって良いのかどうかについては保留しておく。しかし一部の社会学に当てはまることは確かであると思う。)

現実の出来事の方が実際に現れている事実であるのに、頭の中で論理を駆使して勝手につくり上げた仮説的理論(論理)体系の方が「本当」の世界であるかのような倒錯に基づいているのではなかろうか。

人間社会は本来はこうあるはずであった、とある人が考えたとしても、それが現実と齟齬を来していれば、疑われるのはその人の理屈の方である。また、論理に基づいた仮説構築はあくまで「仮説」であって、”物差し”や”基準”ではない。繰り返すが、その仮説が事実と齟齬を来していれば、その仮説を修正する必要があるのだ。

さらにシンプルに言えば、経験→論理(論理は経験の一部)であるはずが、論理→経験(経験の前に論理が先立っている)という倒錯が生じてしまっている、ということなのである。「規則のパラドクス」や「理論負荷性」もこういった錯誤の一種であると言える。規則やパースペクティブは、経験の積み重ね、因果的関連付けによって事後的に導き出されるものであって、経験の事実は、それらの理論・理屈に先立って現れてくるものなのである。規則やらパースペクティブは、リンゴにまつわる様々な経験を因果的につなぎ合わせて初めて明らかになるものであって、目の前のものをただ「リンゴだ」と思った事実、ただそれだけでは規則やパースペクティブに関して何も伝えてはいないのである。

また、「矛盾」とは、あくまで言語表現を指し示すものが経験として現れることがない、ということである(例えば、四辺が等しい三角形、丸い四角、平面上で交わる平行線・・・など)。ところが、一部の社会学者たちは、現実そのものがパラドキシカルなものであると誤解してしまっているのだ。現実問題に論理的パラドクスなどどこにもない。大澤氏に関連する論文や、システム理論に関連する文献を読んでいて、それらの錯誤を感じざるを得ないのである。


・・・社会科学であろうが自然科学であろうが「因果関係」とは何かの議論なしには始まらないはずである。ところがヒュームの議論はほとんど無視されたまま、恣意的な因果推論が検証もなく理論化されてしまっている。

さらに、ソシュールの言語学やデリダ哲学などが、社会科学をさらに混迷させてしまったのだと思う。

また、人文系の学問において、単なる因果仮説を「意味」の問題にすり替えることによって、科学的客観性の検証を免除されるように思われてはいないだろうか?「意味」は学問の基盤にはなりえない。「意味」を前提としてはならない。「意味」とは何か、まずは厳密に検証される必要があるのだ。(仮説構築が科学的研究にならないと言っているのではなく、仮説は仮説であるという自覚が重要だ、ということである。)



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「生きる意味」の問いにまつわる問題点
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価値・理念について議論するとはどういうことなのか
~「なんのための」社会学か? の批判的検証を中心に
http://miya.aki.gs/miya/shakaigaku1.pdf

2019年7月21日日曜日

「生きる意味」の問いにまつわる問題点

生きる意味とは何か、という問いに対し、意味はあるとかないとか、その問いと同じレベルで考えているようではいつまで経っても堂々巡りから抜け出せないと思うのだ。

まずは、以下の問題について答える必要があると思う。

1.「意味」とは何か
2、「意味」とは唯一のものなのか

・・・これらのことを明らかにすることなしに意味があるとかないとか議論したところで、様々な見解がただ出てくるだけで、議論が堂々巡りするだけではなかろうか。

哲学者側における問題点としては、イデア的な考え方が「意味」の問題の解決を阻害しているように思えるのだが・・・具体的に説明してみよう。



1.「意味」とは何か


「意味」とされるものには(1)言葉の意味(2)機能的意味の二種類がある。それらを混同してはならない。

(1)言葉の意味(言葉と経験の関係)

「リンゴ」「美」「鈴木さん」それら言葉が指し示すもののことである。結論から言ってしまえば、言葉の意味とは、常にそれに対応する具体的・個別的事象・経験であって、「リンゴ」という言葉に対応する唯一のイデア的なもの、「美」という言葉に対応する唯一のイデア的なもの、では決してないのである。

そこに見えているものが「リンゴ」であり、また別の場所で見たものも「リンゴ」である。もちろんそれらの間の共通点を見出すことはできる。たとえば「赤色」という共通点(青りんごもあるが、ここは一つの例えとして・・・)を見出したとして、その「赤色」は何か、と問われれば、赤い絵の具の赤、リンゴの赤、画用紙の赤・・・というふうに、やはり具体的事物を指し示すしかないのである。

つまり言葉に対応する唯一のイデアのようなものに到達することはなく、どこまでも言葉とそれに対応する個別的・具体的事象、経験との関係としてしか「意味」というものは現れることはないのである。

「美」や「善」という抽象的概念においても同様である。「美」という言葉を表す唯一のイデア的なものなどどこにも見つからない。「美しいもの」は何だろう・・・と想像してみたところで、浮かぶのは具体的な景色やら絵画やら人物やら、あるいはその時感じた情動的感覚やら・・・やはり個別的・具体的事象あるいは経験でしかない。「善」とは何か、と考えてみたところで、具体的行為やらそれに対して感じる気持ちやら、やはり具体的事象・出来事・経験でしかない。「美」「善」とは何か話し合ってある程度の共通点を見出すことは可能であるが、完全一致するとも限らない。「美」「善」という言葉に対応する「意味」は各々の個別的・具体的経験としてしか現れないのであるから、当然のことであろう。繰り返すが、共通点は見いだせる。しかし「美のイデア」「善のイデア」など終ぞ見つかることはない。



(2)機能的意味(因果関係)

食べ物を食べて生物は生きている、ある商品の需要が急増して価格が上昇した、太陽の光をうけ光合成しながら植物は生きている、溶岩は火山の噴火によりもたらされた・・・そういった原因・結果の関係、つまり因果関係に基づいた機能としての意味である。

太陽の光は植物が生きるのに役立っている(必要である)、食べ物は生物が生きるのに役立っている、商品の需要が価格の上昇に関わっている、火山活動によりもたらされた土壌が農業の役に立っている(あるいは火山灰が農業に損害を与えた)・・・というふうに特定の出来事を成立させるために必要であった、その要因になった、そういった特定の事象の成立に対する機能を、「意味」として呼ぶことがある。

私がその部屋の掃除をしているから皆が快適にその部屋を使うことができている、とか会社から給料を貰えたから自分用のパソコンを買えたとか、そういった日常的に考える機能的意味もやはり因果関係に基づいている。

ある行為をいくらがんばってもそれが結果につながりそうもない時、「こんなことして意味があるのか」と考えてしまったり、他人から言われたりするかもしれない。

因果関係には、(科学的)客観性があるものと、ないものとがある。客観性がない因果推論は「正しい」と断定できるものではないのだが、だからといって「間違い」と断定もできないものも多い。

因果関係の(科学的)客観性とは、事象の繰り返し(いつ見てもそうである・誰が見てもそうである)によってもたらされている。しかし私たちの日常生活において、そういった繰り返しを見いだせない事象、あるいはわざわざそれらを調査しようとも思わない些細な出来事も多いのではなかろうか。(また、科学的理論においても100%の再現性を持つものなどほとんどないのではなかろうか)

つまり、日常的に私たちが機能的意味として考えるものは、客観性があるものもあれば、客観性を持たないただ主観的な憶測であるものも含まれている。自分が「意味がある」と思っていても、実際はそうではない可能性もあるのだ。

・・・そして、ここで理解してほしいことは、機能的意味というものも、具体的な事象・具体的経験に基づいた因果把握によりもたらされるものであって、たとえそれが科学的客観性を有さないことがあるにせよ、具体的事象に基づいた推論であることに変わりはない。つまり、具体的経験から離れた抽象的な「意味」というものが存在しているわけではないのだ。

もちろん(実際には因果関係が見いだせなくても)「意味」があったと思い込むことも可能である。そのことによって気持ちが落ち着いたり前向きになれたりすることもある。ただ、そういう場合においても、事実として言えることは、「思い込む」ことが「気持ちの落ち着き」をもたらした、という因果関係、「思い込んだ」ことに機能的意味があったということ、言えることはそこまでである。



2、「意味」とは唯一のものなのか


(1)言葉の意味について

多くの哲学者たちの間では、プラトン(ソクラテス)の時代から、「美そのもの」「善そのもの」というイデア的なものがその言葉の意味として考えられる傾向がある。あるいは特定の言葉に対応する唯一の「本質」としての意味というものがある、と考える人たちもいるのではなかろうか。

「リンゴ」という言葉に対応する、唯一のイデア、あるいは本質・・・個別の具体的な経験(視覚的経験など)を超越した、何者かがあって、それが「リンゴ」という言葉と対応する「意味」であるかのような誤解がまかり通っているように思えるのである。

しかし、そのようなものどこを探しても見つかることはない。「リンゴ」という言葉に対応するものは、常にその時その時に現れる個別的・具体的経験(具体的感覚、あるいいは個別的心像)でしかない。このことは各々が、自らの具体的経験を振り返ったり実際に試してみれば明らかになるであろう。唯一のイデアのようなものは、いくら探しても現れない。自らが「リンゴ」を代表するものを想像してみたところで、やはりそれも個別的・具体的なリンゴの心像でしかないのだ。

つまり言葉の意味とは、常に個別的・具体的経験としてしか現れないのである。これは先に述べたが「美」「善」という抽象概念においても事情は同じである。


(2)機能的意味について

機能的意味は、どの事象について考えるかによって、つまり特定の視点があって初めて特定できる。

人間についてのみ考えてみても、他の人がかかえていた荷物を代わりに運んであげて「助かった」と言われたら・・・私が荷物を運んであげたことでその人が助かった、ということで私が荷物を運んであげたことが「機能的意味」を持っていたと言える。

養老孟司著『唯脳論』(筑摩書房)45~47ページで鎌倉時代の九相詩絵巻が紹介されていたが、あのように死者が野ざらしにされてしまった場合も、微生物がそれによって生きることができたわけで、微生物にとって人間の死が機能的意味を持っていたと言うこともできる。別に死ななくても、お腹の中で乳酸菌やら様々な菌が生活(?)しているわけで、それらの菌の生存から考えれば、人間の日常生活は機能的意味を持っているとも言える。

人は生きながら様々な影響を別の人やら生物やらに与えているわけで(もちろん死も様々な人に影響を与えているだろう)、それらの個別の事象に視点を移せば、さまざまな機能的意味を持っていると言うこともできるのである。

・・・つまり、機能的意味においても、そこに「唯一の意味」を特定できるものではない。人は様々な影響を良くも悪くも他者に与えながら生きている。自分自身で特定の役割を重要視することはできる。しかしそれが「唯一の生きる意味」と決めつけることもできないのである。(もちろん思い込むことはできるが)

ただ、一般的に人々が「生きる意味」を問うとき、微生物の生存に役立ったという答えをされても満足できないのではないだろうか?

・・・要するに「人の役に立てているかどうか」を問うている場合が多いのではなかろうか。自分は誰かの役に立てているか、誰かに良い影響を及ぼしているのか。その場合においても、人は様々な影響を人々に与えている。自分自身でそのうちの特定の役割のみを重視・強調することはできる。しかしそれはただ「そう思い込んだ」だけであり、視点を変えればまた別の機能的意味が見いだせてしまう。

ちなみに、具体的事象・経験として現れない抽象的概念を生きる意味として挙げたところで、それが本当に機能的意味を有しているか、因果関係を見出すことができない限りは確かめようがない。どこまでも憶測以上のものにはならない。意味の問題を抽象的に議論したところで解決を見ることがないのはそのためである。



3.「意味」とは具体的・個別的経験に基づくものであって、そこから離れた「意味」というものはない


ここまで述べてきたように、言葉の意味であれ機能的意味であれ、具体的経験に基づいていることに変わりはない。主観的に「思い込む」ことはできるが、それは意味が「思い込み」によってもたらされることとは違う。一方で「思い込む」ことが何らかの効果をもたらすとすれば、「思い込む」ことに(機能的)意味があるということにはなる。ここを混同してはならない。

いずれにせよ、「意味」が具体的事象・経験に基づくものである以上、そこに唯一のイデア的なものなど見いだせない、「意味」をそのようなものとして見てはならない、ということなのである。

「意味」をイデア的なものと見なしている間は「生きる意味」の問いに対し堂々巡りする他はないであろう。



<関連レポート>


「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
  ~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report22.pdf

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf



2019年7月14日日曜日

芸術的・文学的ナンセンスは、論理的矛盾が厳然とした事実としてあるからこそ成立する

(※ 2019年7月18日に1の部分を修正しました)

続 壺 齋 閑 話
http://blog2.hix05.com/

の、

比喩とレトリック
http://blog2.hix05.com/2019/07/post-4547.html

・・・の記事について、私の見解を述べておこうと思う。レトリックと論理との関係という興味深いテーマである。

※ 壺齋散人氏と私との見解のずれは、「論理」とは何なのか、あるいは「論理的」とはどういうことなのか・・・これらに関する見解の違いも関係していると思われるが、「論理」についてはそのうち野矢茂樹著『論理学』東京大学出版会、の分析をしながら詳細に説明していくつもりである。現時点においては、

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

・・・で論理とは何かについて説明している。


1.因果=論理、比喩・暗喩=非論理、という決めつけはおかしい


念をおしておくが、私は

因果的思考=科学的思考、ではない
https://keikenron.blogspot.com/2019/07/blog-post.html

・・・の記事において、壺齋散人氏の因果関係に関する見解の問題点を指摘したのである。因果=論理、比喩・隠喩=非論理という見方は一面的で、因果関係に関する誤解に基づいたものなのである。

因果推論にも非論理的なものが多いし、論理的かどうかも定かではない因果推論をしながら、私たちは日々生活している。

一方、比喩もそこに何らかの「論理」というものがあるからこそ成立している、ということなのだ。

そして、論理的とは何か、非論理的とは何か、そこを取り違えてはならない、ということである。

因果関係というものそれ自体を「論理」と呼べるかもしれない。
しかしその「論理」というものが、実際に因果関係が(恒常的相伴という形で)客観性を有していると認められるからこそ「論理」として成立しうる。

そして、たとえば「私に仕事がないのは芸能人の〇〇が私を呪っているからだ」とか、知り合いでもない人を自分の境遇の「原因」と考えるような思考を”論理的”であると呼ぶだろうか? 確かに因果関係(因果推論)ではある。しかしこういう客観性・必然性を持ちえないような因果推論を論理的と呼ぶのか、ということである。

因果関係だから論理的なのではなく、因果関係が「正しい」から論理的なのである。そして因果関係が「論理」として成立するのは、「正しい」因果関係というものが具体的事実として認められるからこそなのである。

つまり、「論理」と「論理的」というのは意味合いが少し違う、ということでもある。上記の因果推論の事例は「おかしな論理」と呼ばれるかもしれない。しかし「論理的」ではない。

一方、比喩にしてみても、「このリンゴは鋏のようだ」とか、関連性も類似性も見いだせないようなものを「比喩」とは呼ばないであろう。ただ、比喩とは様々な背景があり、いかなる形で類似性を見いだせるかは、時と場合により変化してくる可能性もある。「このリンゴはあなたの心のようだ」という比喩は、シチュエーションによっては成立しうるであろう(後で説明するが壺齋散人氏の言われる換喩や提喩の部類に入るかもしれない)。

ただ、いずれにせよ、そこに共通性、類似性、関連性が見出せなければ比喩として成立することはないのである。


2、比喩にも論理がある


直喩にしろ隠喩にしろ、あるものと別のものとを、属性の共通性に基づいて比較するという働きからなっている。(壺齋散人氏)
・・・つまりそこに何らかの論理性が認められるからこそ比喩が成立する、ということなのである。

そして換喩と提喩も因果関係に基づいている。そして、それが成立するためには、当然そこに何らかの論理性が認められるのである。ただその因果関係の科学的客観性がどれくらい認められるか、そこの保障はないのであるが・・・場合によっては一部の人たちの思い込みで本当に正しいのか分からない場合もありうるが。ただその場合においても、とりあえず一部の人たちの間ではそうであると思われている事柄なのである。

ただ、もし壺齋散人氏が言われるように、(特定の業界?において)ナンセンスも比喩に含まれているとすれば、比喩には論理的なものとナンセンスの両方がある、ということになる。

しかし、壺齋散人氏が示された聖母マリアに関するレトリックの事例は、比喩というものが成立しているからこそ成り立つナンセンスではないだろうか。

そしてナンセンスを比喩に含めることには少々問題があるのではないだろうか。ナンセンスが比喩に基づく場合があるとしても、あくまでも比喩は比喩、ナンセンスはナンセンス、別物ではないか、と思うのだが。

・・・ということで、次にナンセンスについて論じてみる。



3.芸術的・文学的ナンセンスは、論理的矛盾が厳然とした事実としてあるからこそ成立する


私は前回の記事では、(壺齋散人氏が今回の記事で説明されているような)ナンセンスな表現が新たな想像をもたらす、そういう事例については説明していなかったので、その問題についてここで述べてみよう。

論理的なナンセンス、つまり「矛盾」とは、言語表現に対応する経験がどこにも見つからないということである。「丸い三角」「四辺が等しい三角形」そういった言語表現に対し、それに対応する事象・事物を見つけることができない、想像さえできない、そういうことである。

誰かがわざと矛盾的言語表現を用いた文章を書き、それを読んだ人が何らかの不思議な感情やら感覚やらを持ったり、あるいは何らかの想像をかきたてられた、そういう可能性はもちろんある。

しかし、それはそこに「論理的な矛盾」というものが厳然たる事実として認められたうえで成立している(だからこそナンセンスと呼ぶのである)。そして、そこに現れた想像やらは、あくまでその言語的矛盾の問題とはまた別の事象なのであって、そこにおいて論理的矛盾が「解消」されたりするわけではない。

オノ・ヨーコさんの作品を見たときのことだが、4本のスプーンが並べてあってそれに「THREE SPOONS」と説明が書かれているものがあった。私は芸術は疎い方なので、その作品に関する評論をここでする気はないのだが・・・私自身、おもしろい、いろいろと想像を掻き立てられるなぁと感じた。

しかし、それはそこに実際に4本ならべられているスプーンと「3本のスプーン」という言語表現ととが「矛盾」しているからこそ成立する芸術なのである。「3本のスプーン」と書かれているのに、そこに4本のスプーンがある。どう見てもおかしい。おかしいからこそ、「ひょっとして実際にはないものが私には見えているのではないか」と自分の視覚というものを疑ってみたり、あるいは様々な物語、たとえば「誰かがいたずらでこっそり1本足したのだ」とか別の物語を作ってみたり、その他さまざまな想像が浮かんでくる。

4本のスプーンが並べられているところに「FOUR SPOONS」とタイトルを付けたところで、そこに何の物語やら感覚も生まれない。ナンセンスの効用というものはそういった想像を生み出すところにあると思う。しかし、何度も言うようだが、そこに「矛盾」というものが厳然と存在しているからこそ、その芸術が成立しうるのである。(反対に、ナンセンス的表現ばかりの場所で一つだけ正しい表現に基づく作品を提示したら、それはそれで芸術的何かになりうるかもしれないが)

(壺齋散人氏の説明からは内容的に少しずれてしまうが)
そこにおいて、ポストモダン的な説明、あるいはソシュールの言語学的な説明は詭弁でしかない。そこにシニフィエとシニフィアンの関係における「恣意性」などどこにもないのだ。「THREE SPOONS」とそこに見える4本のスプーンとは、やはり言葉と意味の関係としては確かに食い違っているのである。その厳然たる経験の事実がそこにあるからこそ、ナンセンス的表現による様々な想像というものが成立しうるのである。

そして(繰り返しになるが)新たな想像・発想によって、その矛盾が解消されたり消えてなくなったり乗り越えられたりするのではない、矛盾は矛盾としてそのままある。



4.間違った表現の方が感情・情動を引き起こしやすい


ここからは因果的分析、仮説的分析である(しかしちゃんと調べれば恒常的相伴が認められると思うのではあるが)。

正しい文章は当たり前の事実を説明しただけであって、私たちはただ普通にすらすら読んでしまうことが多い。一方、矛盾した文章表現は、それを読んだときに違和感などの情動的感覚を引き起こしやすくなるのではなかろうか。

ただのリンゴを机に置いて「リンゴだ」と説明したところで、当然すぎて何も感じないであろう(リンゴだ食べたくてしょうがない場合はそうでもなかろうが)。

一方、その時「これはサツマイモだ」などと説明したら、それを聞いた人は「それはおかしいだろ!」とツッコミを入れたり、口に出さないまでも何らかの違和感のような情動的感覚を抱くであろう。

つまり、正確な表現よりも間違った表現の方がより強い感覚を引き出す可能性がある、ということなのだ。矛盾した表現はより人目をひきやすい、より多くの注目を集める一つの手段であると言えるのかもしれない。

逆説的なことを書けば興味を引かれる。人目を引く。その後で最後にちょっと正しいことを書けば、それがなんだか”深淵な”真理のように思えてくるかもしれない。

そういった文章的トリックというものもありえよう。ただ、そういう演出によってもたらされた何らかの感覚、あるいは想像というものは、確かにそれはそれで一つの事実、私たちにもたらされた新しい経験であることには変わりない。それは否定できないものである。

ただ哲学などの学問においては、その文章的トリックに引きずられず、事実は事実として具体的経験は具体的経験としてありのままにとらえる必要があると思うのだ。

2019年7月6日土曜日

因果的思考=科学的思考、ではない

続 壺 齋 閑 話
http://blog2.hix05.com/

の、

因果的思考と隠喩的思考
http://blog2.hix05.com/2019/07/post-4536.html

・・・の記事に関して、

「因果的思考が科学的な思考と言えるとすれば、隠喩的な思考は文学的な思考」(壺齋散人氏:ブログ著者)

・・・という見解は因果関係の説明としてはあまりに問題があるので、一応指摘しておく。


1.必然性がないから推論なのである


ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_6.html

因果推論するのに必然性あるいは恒常的相伴は必要ない
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_24.html

・・・の記事でも(私は)述べているが、まさに上記のタイトルどおり、ヒュームは因果関係が「必然性」を持つとはどういうことなのかという問題と、なぜ因果推論できるのか(因果推論の原因)の問題を混同、あるいは取り違えている。それゆえに説明が混乱を来してしまい、さまざまな解釈が可能な文章になってしまっているのだ。

よくよく考えてみてほしい。推論に必然性があるわけがない。必然性があったら推論ではない。当たり前の話である。


2.科学のみが因果関係ではない


たとえば、
「そこでは人間に対して腹を立てた動物は病気を送り込み、人間の見方である植物が薬を供給して応戦すると解釈され、「胃病と足の痛みは蛇、赤痢はスカンク、鼻血はリス」 等々・・・のせいにされる。」(『レヴィ=ストロース 構造』現代思想の冒険者たち 20 、渡辺公三著、講談社: 228ページ、アメリカ合衆国南東部のインディアンの事例) 
 ・・・これらは、

動物が腹を立てる→病気を送り込む
植物=薬→病気の応戦する(病気を治癒する)
蛇→足の痛み・胃痛
スカンク→赤痢
リス→鼻血

・・・というふうに、やはり因果関係による物事の把握であることにかわりはない。宗教、呪術、占い、その他科学以前の様々な世界把握も、やはり因果関係の把握のそれぞれのやり方なのである。

あるいは「あの人は私が嫌いだから私にだけプレゼントをくれなかったのだ」とか「字がきれいな人は心もきれい」だとか、そういった必然性とは無縁の因果推論をしながら、私たち(?)は生活している。間違いかもしれないし、場合によっては正しいかもしれない、恒常的相伴(随伴)も見いだせないが、正しいか間違いかも確かめようがない(あるいは確かめるほどのことでもない)事柄も多いのである。(「字がきれいな人は心もきれい」というのは誤りであるとは思うが・・・そもそも「心がきれい」の定義があいまいである)

「因果関係についての判断は、科学を支えている」(壺齋散人氏)という見解はもっともであるが、「因果的思考とは、因果関係が論理学の土台をなしているという意味で、論理的な思考と言ってよい」(壺齋散人氏)と断定して良いのだろうか? 必然性、あるいは科学的客観性のない因果推論を、私たちは日常的に行っているのである。それが”論理的”なものなのか、それさえも分からないような因果的”判断”もあるのだ。

つまり、因果関係⇒論理的、という壺齋散人氏の見解は事実に即していない。要するに、その因果関係が具体的経験として実際に現れている(そしてそこに恒常的相伴・随伴が認められる)ことが「客観的に正しい」、つまり論理的なことなのである。


3.比喩も論理である


壺齋散人氏は比喩を「非論理」としている。果たしてそうであろうか?

「主語に内在する属性の共通性にもとづいて、AとBとを結びつける思考を隠喩的思考と呼びたい」と壺齋散人氏は述べられているが、比喩・隠喩も、結局は、AとBの属性の共通性、あるいはAとBとの類似性という、類似・同一という関係(ヒュームはこれらの関係は経験によって知らされるとしている)に収れんされるのである。

属性の共通性、あるいは類似性が認められないような場合は、比喩・隠喩として成立しようがないのである。(それこそ”非論理”である)

つまり、「因果的思考が科学的な思考と言えるとすれば、隠喩的な思考は文学的な思考」(壺齋散人氏)という見解は、あまりに雑、恣意的な分類であると言わざるをえないのである。隠喩が科学的だとは言わないが、少なくとも論理にかかわる問題であるとは言えるのだ。


4.「思考」とは何か


「人間の思考の基本的かつ最小の単位は判断である」(壺齋散人氏)という根拠はいったい何なのであろうか? そもそも「判断」とは何なのか?

「思考」と一言で言うものの、実際にはさまざまな事象として現れる。そしてその境界は非常にあいまいなのである。

何かイメージが湧いてきて、それらが様々な形で組み合わさったり変化したりする場合、それは「思考」なのだろうか? 想像と思考との区別はどこにあるのだろうか?

机に何か置いてあるのが見えて「リンゴだ」と思ったとする。これは「思考」なのだろうか? 一般的にこれも「判断」であると思うのだが・・・「現代の記号論理学は、人間の判断を五つの最小単位にパターン化している。否定、連言、選言、条件法、同値である」と壺齋散人氏は述べられているが、「リンゴだ」という判断は五つのうちのどれにも当てはまらない。そもそも私たちの思考が「記号論理学」に基礎づけられていると思うこと自体が勘違いなのである。

それらの判断が「正しい」かどうか本当に”論理的”であるかどうかは、結局その言語表現が実際の経験・事象と対応しているかどうかで”判断”されるものなのである。


5.蓋然性はprobabilityの訳、要するに確率的なもの


ヒューム自身の説明とは離れてしまうのであるが、

因果推論はしてみたものの、その推論が正しいかどうかはそれが具体的事象として実際にそうなるかどうかで決まる。「雲が立ち込めてきたから雨が降るだろう」と推論したとして、実際に雨が降ればその推論が正しかったことになるし、雨が降らなかったら間違っていたことになる。

昔、天気予報はよく外れていたが、理論(要するに因果関係の連鎖)を精緻化することで、今は前よりもよく当たるようになったとする。先日テレビで見たのだが、昔の天気予報の的中率と現在の的中率を比較して、現在の方が向上していると説明されていた。つまり、現在の方がより「正確」な推論をできる確率が高まっている、ということなのだ。

私たちは、日常的なことでも、(今良い事例が思い浮かばないのだが)まずこうやってみて、うまくいかなかったから、やり方を少し変えてみて、今度はうまくいった・・・しかし同じようにやっていてもあるとき失敗してしまった、今度は別の要素を修正してみたらうまくいった・・・というふうに試行錯誤を重ねながらより正確に将来予測できる因果推論のモデルというものを構築していく。

もちろん、試行錯誤さえ必要ないくらい明白な因果関係もある。火に手を近づければ熱く感じる、とかそういった事柄である。

恒常的相伴(随伴)が獲得できるプロセスに程度の差はあれ、このようにして因果関係の必然性というものはもたらされていくのである。

それは未来の出来事とは限らない。古文書などを探し新たに見つけた事例なども、それが過去の出来事であったとしても、その人にとっては新たな経験であることに変わりはない。



<関連記事・レポート>


ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
・・・ヒュームの因果関係に関する見解の問題点を指摘しています。

ヒュームは因果推論における「経験」の位置づけを見誤っている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post.html

ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_6.html

2019年6月29日土曜日

ボサノバメタル!!

ボサノバとロックを融合させるのは難しそうだけど、どこかでやってる人がいるのでは・・・と検索してみたら、私の予想をはるかに上回る、ボサノバメタルのバンドがブラジルにありました!

Chega de Saudade (Ao Vivo)


Huaska - Foi-se


これはおもしろい!

2019年6月26日水曜日

形態学も因果関係に基づいている

片付けしていたら、久しぶりに『唯脳論』(養老孟司著、筑摩書房)が目にとまってしまった。それにしても、つっこみどころ満載である・・・

大森荘蔵氏は「無脳論」というもので反論を試みたようだ。少々残念である。その論文を読んだわけではないが、タイトルからして論点がずれてしまっている。

とにもかくにも、科学的知見から哲学を説明しようとするのは循環論法なのである。科学理論がどのようにして見つけられているのか、その観察・実験プロセスを全く無視した上で、科学理論があたかも所与のものであるかのように扱ってしまっているのである。

養老氏も研究の現場にいただろうに、そのあたりの経験についてまったく無頓着なのである。
自然科学は因果関係を追及すると、多くの人が、しばしば誤解しているからである。原因と結果も、もちろんある種の対応関係だが、これは先行する出来事と後に生じる出来事との間の、時間を含んだのっぴきならない対応関係である。形態学は、こうした時間的な過程であっても、つねに「時間を除いた」対応関係としてのみ捉える。なぜなら、形には、時間性はないからである。これに関する詳しい議論は、むしろ前著『形を読む』(培風館)を参照されたい。したがって唯脳論は、「心の原因としての脳」を扱うのではない。心の示す機能に「対応するもの」としての脳、あるいは脳という構造に対応するものとしての「心という機能」を扱う。これは対応関係であるから、論理的にも因果的にも、前後はない。その意味では、ここで言う唯脳論とは、基本的には形態学である。(養老氏、38ページ)
・・・これもひどい話である。具体的経験として現れる現象と脳との働きとが、具体的にどう連動しているかを、一回一回、具体的に繰り返し実験して確かめているのである。脳のある部分に電極が発生している、あるいは活性化?しているとき、その人には特定の感覚が現れている、脳の特定の部分を取り除かれると人の特定の機能が失われる、そういった具体的経験の積み重ねから形態学としての科学理論がもたらされているのである。

やはり因果関係なのだ。

因果関係として理論化されてしまえば、単なる言葉と言葉の関係に見えるから、その理論には時間という要素が外されてしまっているように思える。しかしその理論を具体的事例として検証すれば、やはりそこに時間性というものが現れてくる。


<関連記事>
科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_20.html

2019年6月24日月曜日

なくしてしまった・・・

大森荘蔵関連の論文はまだ2本しか読んでいないのだが・・・今のところの印象としては、彼の一元論は経験論として示される”事実”としての主客未分とは言えないような気がしている。どうしても論理が先に来てしまう、仮に彼が経験主義の立場であると言われているとしても、それは経験論とは違うのではないか・・・そういう気がしてしまうのである。

そのうち彼の本を読んで検証してみたい。

****************

ヴェーバーの『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』を久しぶりに読もうと思ったら・・・なくしていることに気づいてしまった。どうしよう・・・しばらく探してみてからどうするか考えよう。

大澤真幸氏の『社会学史』を近くの書店で見つけてついつい買ってしまったのだが・・・序章を読んで、モヤモヤしてしまった。根拠の薄弱な断定が多い・・・どうしても、本当にそうなのか? そうでない事例も挙げられるのではないか・・・という疑念が拭えないのである。

最後まで読み切る自信がないが・・・気が向いたときに少しづつ読み進めてみる。

「意味的理解」「機能的理解」について、もっと慎重になる必要があるのではなかろうか。「意味」とは何か、「動機」「意志」「意図」とは何か、さらには因果関係とは何か・・・




2019年6月22日土曜日

「アプリオリに対象を考察」という言語表現は矛盾している /推論とは?

澤田和範著「ヒュームの因果論における必然性の観念について」『哲学論叢』38、2011年、 61~72ページ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173207/1/ronso_38_061.pdf

・・・を、再び読んでいるのであるが・・・

1.「アプリオリに対象を考察」という表現自体が「矛盾」

 我々は一方の対象の印象が心に現れると、もう一方の対象の観念を思い浮かべる。これが因果推論である。この推論はアプリオリに対象を考察しただけでは不可能であり、経験がそれを可能にすることがわかる。すなわち、二対象が「恒常的随伴」の関係にあるのを経験して初めて、因果推論は起こる(T 1.3.6.3)。(澤田氏、62ページ)
・・・これおかしくないだろうか? 「対象を考察」したのである。つまり何等かの心像=観念(あるいは少なくともその観念を指し示す名前・言葉)が出て来ることが推論なのである。つまり対象を考察すること自体が「経験」なのではないか? 

要するに、「アプリオリに対象を考察」という言語表現そのものが「矛盾」なのだ。

※ ちなみに上記T1.3.6.3において上記澤田氏の説明に該当する部分は以下のとおりである。
近接と継起だけでは、二つの対象が因果関係にあると断定するのに十分ではない。いくつかの実例において二つの対象の関係が維持されることを認知して始めて、因果関係を断定できるのである。(井上基志訳『人間本詳論』青空文庫<UR>https://www.aozora.gr.jp/cards/002033/files/59405_66194.html
Contiguity and succession are not sufficient to make us pronounce any two objects to be cause and effect, unless we perceive, that these two relations are preserv’d in several instances. (Online Library of Liberty<URL>https://oll.libertyfund.org/titles/hume-a-treatise-of-human-nature
・・・ここでは「推論」とは述べられていない(pronounceである)。あくまで恒常的相伴(随伴)と必然性との関連性が検討されているのである。(ただ、『人(間本)性論』の別の箇所においては、上記澤田氏のような解釈をもたらすような説明がなされていることも事実ではあるが)

2.「推論」とは?


ヒューム研究者が(さらにはヒューム自身も)因果推論について論じるとき、そもそも「推論」とは何か、厳密な検証が抜け落ちている。
 いったい、推論とは、いかなる種類のものでも、比較すること、つまり、二つ、もしくはそれ以上の対象が互いに外に対して持つ恒常的、もしくは恒常的でない関係を見いだすことにほかならない。ところで。この比較には三つの場合がありうる。比較される対象がともに感覚機能に現れている場合、どちらも現れていない場合、一方だけが現れている場合、がこれである。
 このうち、対象がともに感覚機能に現れていて、同時に関係もそこに示されているときには、これを推論と呼ぶよりはむしろ知覚と呼ぶ。この場合には、思考は少しも働かず、もっと正しく言うと、いかなる能動的な作用もなく、ただ感覚器官を通じて印象を受動的に受け容れるだけである。したがって、この考え方によると、同一、および時間や場所の関係についてどんな観察をしようと、これを推論として受け取ってはならないのである。というのは、これらの観察のどれにおいても、対象の実在を見いだすために、あるいは対象間の関係を見いだすために、感覚機能に直接現われるものを心が超え出てゆくことはあり得ないからである。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、42ページ)
一つの対象の存在あるいは活動から、なにか別の存在あるいは活動がそれに続いて起こったのだ、もしくはそれより先にあったのだと確信させる、そういう結合を生み出すのは、因果性(だけなのである。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、42ページ)
・・・「対象がともに感覚機能に現れていて、同時に関係もそこに示されている」のを推論とは呼ばない、というのはもっともな説明ではある。しかし因果関係に関して、ヒュームの見解にはブレがあるようにも思える。必然性があると判断された因果関係と、必然性が見つからないがとにかく因果推論した場合との違いが見逃されているようにも思えるのだ。推論についてより厳密に考えて見ると、次のような状況が考えられる。

①ある現象が現れているが、その現象が引き起こしうる結果、あるいはその現象の原因が見つからない、想像もつかない状態
②ある現象の結果あるいは原因を(観念=心像)として想像はするがそれが見つからない場合(あるいは言語表現のみの場合もありうる)
③結果・原因ともに具体的経験として現れているが、ただそれらが原因・結果であると見なしただけ
④結果・原因ともに恒常的相伴(随伴)が認められる場合

・・・とくに④はもはや推論とは呼ばないであろう。「対象がともに感覚機能に現れていて、同時に関係もそこに示されている」事例であるように思えるのだが・・・③については場合によって推論とみなされたりそうでなかったり、その境界はあいまいなような気がする。(また、ヒュームは私たちが日常的に試行錯誤しながら因果推論を積み重ね、更新していくケースなどについて考察すべきであったとも思う。)
二対象が「恒常的随伴」の関係にあるのを経験して初めて、因果推論は起こる(T 1.3.6.3)。(澤田氏、62ページ)
・・・とあるが、恒常的随伴の関係にあるのであれば、既に「推論」とは言えないのではなかろうか。


2019年6月16日日曜日

言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない ~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析

萬屋氏の論文の分析をレポートにまとめました。私的言語批判や意味の使用説の問題点について指摘しています。

※ 引用される場合は、出典を明記してくださるようお願いいたします。

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言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析

 本稿は、萬屋博喜氏著「ヒュームにおける意味と抽象」『哲学』第63号、日本哲学会、知泉書館、2012年4月、297~311ページ
・・・におけるヒューム理解の問題点を明らかにすると同時に、萬屋氏が依拠する「私的言語批判」それ自体が誤解であることを指摘するものである。
 萬屋氏のヒューム理解は、経験論の根本ともいうべきその方法論、
この人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は、経験と観察とにおかれなければならない。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、9ページ)
・・・を全く無視した上で、ヒュームの見解が私的言語批判を免れていることを証明するためにヒュームの説明を恣意的に引用・解釈しようとしている。そうではなく、上記経験論の手法に基づき、ヒュームの文章を検証した上で、私的言語批判そのものが無効であることを示す必要があったのだ。


<目次>

Ⅰ.そもそも私的言語批判に正当性があるのか?(2ページ)
 1.私的言語批判そのものの「正当性」
 2.そもそも経験論とは何なのか
Ⅱ.言葉の意味は、常に名辞と個別的観念・印象の関係として現れる(5ページ)
 1.「すべての」鳥とはいったい何なのか? 
 2.他者の言語理解を、言語使用のやり方で判断すること=「意味の使用説」とはならない
Ⅲ.ヒュームは「意味の使用説」を支持しているわけではない(7ページ)
<付録:私的言語批判に関するその他のコメント>(12ページ)

2019年6月14日金曜日

ヒュームは「意味の使用説」を支持しているわけではない

萬屋博喜「ヒュームにおける意味と抽象」『哲学』第63号、日本哲学会、知泉書館、2012年4月、297~311ページ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2012/63/2012_297/_pdf/-char/ja

・・・を一応最後まで読んだ。私なりの結論として、ヒュームが「意味の使用説」を採用していたという萬屋氏の見解には全く同意できない。萬屋氏の恣意的な解釈であるように思える。

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※ 本記事で引用しているのは、萬屋氏の論文を除けば、以下の通りです。
ヒューム著『人間本性論(人性論)』井上基志訳、青空文庫
URL:https://www.aozora.gr.jp/cards/002033/files/59405_66194.html
David Hume, A Treatise of Human Nature (1896 ed.) [1739]  (Editor:Lewis Amherst Selby-Bigge)
URL:  http://oll.libertyfund.org/titles/hume-a-treatise-of-human-nature
ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社
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萬屋氏は以下のように説明されているが・・・
「原因」や「結果」という抽象名詞には、「原因と結果についてのわれわれの判断をそれによって規制すべき一般規則」、例えば「原因と結果の間には恒常的連接がなければならない)(T1.3.15.5)という使用パターンが存在しており、その人の因果判断における「原因」という抽象名詞の使い方は、このパターンにおける「原因」という抽象名詞の使い方は、このパターンに反するもので偽なるものとして判定される。(萬屋氏、308ページ)
・・・しかし、これらの「一般規則(genera rules)」が経験からもたらされているというヒュームの主張は無視されている
(T1.3.15.5)
この原理は経験から由来し、我々の哲学的推論の大部分の源泉である。というのは、ある明白な実験によって何かある現象の原因や結果を発見したとき、我々は直ちに観察の結果を、同様の種類の全ての現象にまで拡張し、因果関係の最初の観念が由来する恒常的な反復を待たないからなのである。(ヒューム著『人間本性論(人性論)』井上基志訳、青空文庫)
This principle we derive from experience, and is the source of most of our philosophical reasonings. For when by any clear experiment we have discover’d the causes or effects of any phanomenon, we immediately extend our observation to [174]every phanomenon of the same kind, without waiting for that constant repetition, from which the first idea of this relation is deriv’d. (上記翻訳部分の原文)

・・・哲学的関係は「経験によって知らされる」ものなのである。
 ヒュームによれば、賢人は会話の主題が学問的か日常的かに応じて訂正の手続きを変える。前者の主題には、「観念の関係(relations of ideas)」(T1.3.1.1)に関する命題か「事実(matters of fact)」(T1.3.1.1)に関する命題が関わる。こうした主題では、その命題を表す判断において抽象名辞が正しく使用されているかどうかで、その「真偽(truth or falsehood)」(T3.1.1.9)が決定される。例えば、「宵の明星と明けの明星は同一である」という判断は、賢人によって「同一性」という抽象名辞が正しく使用されていると判断されれば、真であると見なされる。(萬屋氏、308ページ)
・・・T1.3.1.1.部分において、「観念の関係」「事実」という言葉を見つけることは出来ないのだが・・・とりあえずその問題は置いておいて、「真偽(truth or falsehood)」(T3.1.1.9)に関して、ヒュームの説明を引用してみる。

(T3.1.1.9)
Reason is the discovery of truth or falshood. Truth or falshood consists in an agreement or disagreement either to the real relations of ideas, or to real existence and matter of fact. Whatever, therefore, is not susceptible of this agreement or disagreement, is incapable of being true or false, and can never be an object of our reason. Now ’tis evident our passions, volitions, and actions, are not susceptible of any such agreement or disagreement; being original facts and realities, compleat in themselves, and implying no reference to other passions, volitions, and actions. ’Tis impossible, therefore, they can be pronounced either true or false, and be either contrary or conformable to reason.
理性は真または偽を見いだすことである。ところで、真偽は観念の間の実際の関係との一致または不一致にか、それとも実際の存在や事実との一致または不一致にか、そのいずれかにある。したがって、このような一致または不一致を容れる余地のないものはすべて真あるいは偽であり得ず、けっして理性の対象とはなり得ない。ところで、明らかに、情念、意志作用、行為には、そのような一致とか不一致を容れる余地はない。これらは、それ自身で完結する原初的な事実、現実であり、ほかの情念、意志作用、行為とのかかわりをなんら含んでいないからである。したがって、これらが真とか偽とか宣告されたり、理性に反したり理性と合致したりすることはあり得ないのである。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、187ページ)
・・・つまり、「真偽(truth or falsehood)」は、「観念の間の実際の関係との一致または不一致にか、それとも実際の存在や事実との一致または不一致にか」によって決まるのである。ヒュームは「観念」が真偽に必要ないとは述べていない。これは明らかである。

上記の萬屋氏の文章において、観念の関係が学問的な主題における真偽にかかわっていると述べられているではないか。抽象名辞が正しく使用されているかどうかの判断も、結局は「観念の間の実際の関係」によって決まってくる、そういうことなのである。
われわれは「シーザー」は元老院で三月十五日に殺されたと信じている。それは、歴史家たちの証言がまさしくこの時、この場所でその事件が起こったと決める点ですべて一致しており、それをもとにしてこの事実が立証されているからである。ところで、この場合、ある符号、文字が記憶か感覚機能かどちらかに現れており、そしてさらに、この符号がある観念を表す記号として使われてきたことを思い出す。・・・(中略)・・・特に言うまでもないと思うが、かつてすでに得られた結論あるいは原則をもとにして、これらが最初に生じたときの印象にあらためて頼らなくてもわれわれは推論できるのであるが、それはしかし、ここに述べた説に対する正当な反論にはならない。なぜなら、かりにこうした印象が記憶からすっかり消え去ったと仮定しても、印象が生み出した確信はなおそのまま残りうるのである。したがって、原因と結果に関する推理がすべてもとをたどればある印象から引き出されることはやはり真実であるからである。それは、ちょうど、論証の確信はつねに観念の比較から起こるが、たとえ比較が忘れ去られたあとで確信が存続しうるにしても、そのことに代わりはないのと同じことである。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、49~50ページ)
・・・私たちは「印象」に頼らなくても推論できる。しかし、結局(印象により引き出された)観念を比較することで論証するのだ、とヒュームは述べているのである。私たちは文献を読む。そこには文字しか書かれていない。しかしその文字から「観念」が引き出されるのである。

私たちは訓練により、言葉(数字・記号含む)の関係のみで算数・数学の答えを導き出すことができる。しかし、それらの究極的な根拠も、言葉と印象・観念との関連づけに遡るのだ。訓練によって印象・観念に頼らず判断できることが、言葉の意味が印象・観念ではないということにはならないのである。

さらに、「日常的」な会話においても・・・
(T1.3.13.14)
誰かが公然と侮辱するにせよ陰険に軽蔑をほのめかすにせよ、いずれの場合も直接的に(テレパシーのように)その人の感情や意見を知覚するのではなく、ただ(言葉などの)記号によって、即ち、記号の効果によってのみ、知覚できるようになるのである。それならば、これらの二つの場合の間の唯一の違いは記号に存し、公然とした感情の発露においては、一般的で万人共通な記号を使用し、秘かな仄めかしにおいては、より珍しく一般的でないような記号を使用する。この事情の効果は、即ち、目下の現存する印象から未だ現存していない観念へと動いている想像力は、関連性が一般的で万人共通な方が、より珍しく一般的でない方よりも、いとも簡単に推移を為し、その結果として、より大きい勢いで対象(の観念)を心の中に作り出すのである。それゆえに、感情の率直な告白が仮面を脱ぎ捨てることと呼ばれ、意見の秘かな暗示がベールで覆い隠すことと言われる、と観察できる。一般的な関連性によって産み出される観念と、一般的でない関連性から生じる観念との相違は、印象と観念の間の違いにも例えられよう。想像におけるこの違いは、感情に適している効果があり、しかも、この効果は別の要因によっても増大される。怒りや軽蔑の秘かな仄めかしは、相手に対してまだ配慮が有り、直接に罵倒することを避ける、ということを示している。このことは、隠された皮肉の不愉快さを減じる。しかし依然としてこのことは、同じ原理(観念の強度)に依存している。何故なら、もし観念が、単に暗示されただけのときに、明示されたときより弱くないのならば(強度の差が無いならば)、それは決して、他の明示方式の記号よりもこの暗示方式の記号の方が、相手に対してより多くの配慮を続けるとは思われないのである。(ヒューム著『人間本性論(人性論)』井上基志訳、青空文庫)
Whether a person openly abuses me, or slyly intimates his contempt, in neither case do I immediately perceive his sentiment or opinion; and ’tis only by signs, that is, by its effects, I become sensible of it. The only difference, then, betwixt these two cases consists in this, that in the open discovery of his sentiments he makes use of signs, which are general and universal; and in the secret intimation employs such as are more singular and uncommon. The effect of this circumstance is, that the imagination, in running from the present impression to the absent idea, makes the transition with greater facility, and consequently conceives the object with greater force, where the connexion is common and universal, than where it is more rare and particular. Accordingly we may observe, that the open declaration of our sentiments is call’d the taking off the mask, as the secret intimation of our opinions is said to be the veiling of them. The difference betwixt an idea produc’d by a general connexion, and that arising from a particular one is here compar’d to the difference betwixt an impression and an idea. This difference in the imagination has a suitable effect on the passions; and this effect is augmented by another circumstance. A secret intimation of anger or contempt shews that we still have some consideration for the person, and avoid the directly abusing him. This makes a conceal’d satire less disagreeable; but still this depends on the same principle. For if an idea were not more feeble, when only intimated, it wou’d never be esteem’d a mark of greater respect to proceed in this method than in the other.
・・・相手の感情や意見を受け取るのは、確かに記号やその効果によってである(’tis only by signs, that is, by its effects)。この場合のsignとは、言語表現などの記号だけでなく、手ぶり・身ぶりなども含むのであろうか・・・? ただ、いずれにせよ、それらの光景自体が「現存する印象(present impression)」なのである。しかし、そこから観念が生じるということを、上記の文章でヒュームは明言している。そして、相手の配慮の有無に対する判断も、やはり観念の強度に依存しているのだと、述べているのである。

・・・萬屋氏の言われる「徳の基準」(萬屋氏、308ページ)についても、同様のことが言えるであろう。

学問的であれ日常的であれ、その判断の「真偽」や「適切さ」には、やはり観念・印象が関わっている、これはヒュームが今更言わなくても経験的事実なのである。
ヒュームにとって、観念は人間と動物が共に行うことのできる推論において使用される心的イメージであり、幼児や動物の思考を説明するのに不可欠な役割を担っている。(cf. T1.3.16.8)しかしだからといって、われわれは言葉の意味を観念に求める必要はない。なぜなら、言葉を用いて適切に推論できているかどうかを判断するためには、他者の前で実際に証明を書いたり口頭で説明したりして確かめてもらう他ない、とヒュームは考えていると思われるからである。(萬屋氏、309ページ)
・・・これまでの私の説明で、この萬屋氏の見解がヒュームの実際の文章と乖離していることが分かっていただけるであろうか?

萬屋氏は、ヒュームの説明を無理やり「意味の使用説」として解釈するのではなく、私的言語批判そのものの誤りをヒュームの見解をもとに指摘すべきであったのだ。

2019年6月10日月曜日

「すべて」とは何なのか? (言葉の意味は常に名辞と個別的観念・印象の関係として現れる)

萬屋博喜「ヒュームにおける意味と抽象」『哲学』第63号、日本哲学会、知泉書館、2012年4月、297~311ページ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2012/63/2012_297/_pdf/-char/ja

・・・をだいぶ読み進んだが・・・ヒュームの説明を部分的に取り出して、分析哲学の文脈と整合的であることを示したところで、(繰り返すが)以下の経験論の手法そのものを無視してしまっては何にもならないのである。
この人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は、経験と観察とにおかれなければならない。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、9ページ)
・・・前記事に続き、また二点指摘しておきたい。(まだまだ他にもあるのだが、『人(間本)性論』の本文を吟味しながら検証していきたい。)

1.そもそも「すべての」鳥とはいったい何なのか? 


具体的経験として現れているものが「すべて」であって、抽象概念が「可能的に現れる」ものまで網羅する必要があるのだろうか?

名辞に対応して個別的観念が現れる。観念(さらには印象)に応じて名辞が現れる。「言葉の意味」とは、常に言葉と経験(個別的観念・印象)の関係として現れるのである。

「すべて」の鳥と言ったところで、「可能的に現れる」と思われた次の鳥も、やはり具体的・個別的な印象・観念として現れるのみである。

つまり、どこまでも具体的・個別的な”名辞と観念・印象との個別的関係”としてしか、現れることがない。抽象概念と呼ばれるものであっても、具体的経験としては、そうとしか現れない、これが事実なのだ。

私たちが「三角形」について説明するときも、やはり個別的・具体的な三角形を描いて見せるしかない。それがその時点における「代理」あるいは「代表」とはなっている。

しかしその個別的三角形が、他の三角形を「包摂」しているのかというと、そういうわけでもない。次に現れるのは、また別の大きさや線の長さを持った個別的三角形なのである。
しかし実を言うと私は、一般観念を説明する共通の方法によって、一般観念の不可能性について証明した先の記述に主要な信頼を置く。我々はこの論点について、新しい体系を確かに捜さなければならないが、私が提案したもの以外には無いことは明白である。もし観念が本性上、個別的でかつ同時に有限の数ならば、ただ習慣によってのみ、観念はその代表において一般的になることができ、また、代表の下でその他の無限の観念を含むことができるのである。(ヒューム著『人間本性論(人性論)』井上基志訳、青空文庫「第七節 抽象観念について」よりURL:https://www.aozora.gr.jp/cards/002033/files/59405_66194.html
・・・「有限」ならば「無限」の観念を含むという説明はよくわからないが・・・観念とはどこまでも「個別的」なものなのである。そして上記の説明は、萬屋氏の言う「すべて」の否定になっていないだろうか?


2.他者の言語理解を、言語使用のやり方で判断すること=「意味の使用説」とはならない


意味の使用説の問題点については、前記事でも触れたが、

「客観性」「公共性」というものでさえ、主観的判断、究極的には”経験と言葉との繋がり”へと還元されてしまう
http://miya.aki.gs/mblog/bn2017_09.html#20170905

・・・で指摘している。

ヒュームが、”「ソクラテスは人間である」という判断や述定において「人間」という抽象名辞を使用できることが、「人間」という抽象名辞の意味を理解することだという考え”(萬屋氏、303ページ)に基づいていたのかどうか、後日、本文を読んで確かめてみようと思う(少なくとも「「抽象観念について」の節ではそのようなことは述べていないと思うのだが・・・)。

いずれにせよ、他者が言葉を理解しているのか判断するためには、(その言葉が指し示すもの、そのものがお互いの目の前に存在していない限りは)その人がその言葉をいかに用いるか、その言葉に関連していかなる行為・あるいは反応をするか、によって判断するしかない。

しかしそれは「意味の使用説」の根拠にはならない。他者の言葉の使用に関して「正しい」かどうか分かるためには、自分自身がその言葉の意味、つまりその言葉が何を指し示しているのか、具体的観念あるいは印象として示すことができなければならないからである。

いずれにせよ、萬屋氏のヒューム理解は分析哲学へ引き寄せすぎている印象だ。

2019年6月9日日曜日

「実物ーコピー」という見解は「二元論」なのではなく、因果関係の問題

大森荘蔵氏の『時は流れず』が気にはなっているが、その前にヒュームとジェイムズをなんとかまとめておきたい・・・

先日、以下の論文を見つけて、ざっと読んでみた。

近藤正樹著「イメージの復権を求めて--大森哲学批判」『芸術』 (22)、1999年、75~82ページ
http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou22/kiyou22_07.pdf

・・・は、ヒュームが示した問題の一つ、「想像と記憶の違いは何か」という事にも関連しているようだ。

大森氏の説明は一見荒唐無稽であり、論文著者である近藤氏の批判ももっともなものであるようにも思える。しかし、(いくつかの根本的な誤りはあるにせよ)実際の具体的経験に関して、大森氏が重要な指摘をしていることも確かなのである。そこは見逃さないようにしたい。

想起するとき、それが実体験であろうと夢であろうと、既にそのオリジナル(と思わしき)「経験」がどこにもない、見つけることができない事実、そこにあるのはただ思い起こされた(現れた)具体的感覚(見えるもの・聞こえるもの・感じるもの)、あるいは言葉でしかない事実。

経験一元論として、大森氏の見解のどこに問題があったのか・・・上記近藤氏の論文を読む限りにおいて、次のようなことが考えられる。

(1)経験”ありのまま”について説明しようとはするものの、そこに「条件」を持ち込んでしまった。条件に合っていようがいまいが、具体的に経験したのであればそれは具体的経験である。経験があって、条件(規則)が導かれる。経験の前に「条件」があってはならないのである。
(2)「実物ーコピー」という見解は「二元論」なのではなく、因果関係の問題。(具体的経験がまずあり⇒「人がものを見て意識にイメージが現れる」というのはそこから導かれる因果的説明であって、それが逆になってしまうと二元論)
(3)「言語的命題」と「知覚的想像」との組み合わせが「過去」なのであり、言語的命題のみで過去が成立するわけではない(言語だけで説明しようとするから「トートロジー」(近藤氏、77ページ)と指摘されてしまう。イメージを「過去」の出来事として説明できること、あるいは言葉で記された記録から具体的イメージへ辿ることができること(※ このあたりヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、49~50ページでも不完全な形で触れられている)、つまり言語と知覚(知覚とまとめてしまって良いのかわからないが)双方が関係していると言える。
(4)「過去内整合性」とは因果関係による経験則との合致のことであって、「整合説」も結局は「対応説」に還元されてしまう。

・・・ある人の写真と、写真に写った人の実物とをその場で見比べれば、それが正確に「写し」であることが明確に分かるであろう。私たちは、(凸)レンズで物が大きく見えることを具体的経験として知っている。ロラン・バルトらの議論(近藤氏79~80ページ)も、普通に考えれば非常に的外れである。

私たちは、「外部―水晶体―ガラス体―網膜―視神経―大脳」という一連の仕組みを文字としても、「言語的了解(思考的了解)を助ける図解」(近藤氏、98ページ:大森氏「言語的制作としての過去と夢」からの引用)としても経験しているし、それらメカニズムすべてではなくても、目をつぶれば物が見えなくなることくらいは経験で知っているし、今それを試すこともできる。他者が物を見ている状況をおそらく毎日見ているし、その人と私が同じ人間で同じような体の構造をしていることも知っている。

これら過去の経験から導き出された因果関係を経験則として知っているからこそ、自らの行為をその因果連鎖に委ねながら生活することが出来ている。

もちろん因果関係は可疑的である。本で読んだ知識が間違っているかもしれない。あるいはこれから起こる出来事が、これまでの経験則を変更させてしまう可能性を否定することはできない。しかし、この可疑性を経験則そのものの否定ととらえてはならない、経験則は経験則として既にある(そして常に思い起こすことが出来るし、場合によっては試すこともできる)。そして通常はこれらの経験則に応じて私たちは行動している、そのことも事実なのである。


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それと、近藤氏は「絵画」の問題を提示されているが(近藤氏、80ページ)、これは「過去」の問題、「コピー」の問題とは、全く別の事柄ではなかろうか?

「イメージ」の問題と言われればそうなのであるが・・・近藤氏の「イメージ」観にも問題がある。

フッサール・金田氏の言われる「像客体」(近藤氏、80ページ)というものは、「現前的に現出し、しかも仮象(Schein)である」(近藤氏、80ページ)そうなのだが・・・これこそおかしな話である。「現前的に現出」(しかも仮象)とは単なる”言葉の遊び”でしかない。

経験されているものはされている、経験として現れていないものは経験されていないのである。それだけだ。絵を見て、私たちは”何か”を感じることがある。言葉で言い尽くせないが”何か”を感じるのである。それは違和感のようなものであれ、打ち震えるような感じであれ、高揚感のような感じであれ、具体的感覚には違いないのである。それら情動的感覚、あるいは体感的感覚、さらにはその絵を見て思い浮かぶ情景、イメージ、具体的出来事、何でも良い。感じたものは感じたものであって、それが言語化されようがされまいが、具体的経験には変わりない。

具体的に感じなかったのであれば、それは感じなかったのである。「言語化」できるかできないかは、またその後の話なのである。

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<関連レポート>

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf

2019年6月2日日曜日

そもそも私的言語批判に正当性があるのか?

萬屋博喜「ヒュームにおける意味と抽象」『哲学』第63号、日本哲学会、知泉書館、2012年4月、297~311ページ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2012/63/2012_297/_pdf/-char/ja

・・・の最初の三分の一を読んだところであるが、この論文の是非を判断するために、まず二つの事について触れておかねばならない。

(1)私的言語批判そのものが正当なものなのか
(2)そもそも経験論とは何なのか


1.私的言語批判そのものの「正当性」


私的言語批判の問題点は、

「客観性」「公共性」というものでさえ、主観的判断、究極的には”経験と言葉との繋がり”へと還元されてしまう
http://miya.aki.gs/mblog/bn2017_09.html#20170905

・・・において、私が既に指摘している。私的言語批判は、

・自分自身がその言葉について理解したと思ったその根拠
・他の人がその言葉について理解したと判断する根拠

・・・この違いを無視してしまっているのだ。自らにおいては言葉と特定のイメージやら感覚とが繋がり合っている。一方、他者がいかなるイメージを描いているかなど、私は知る由もない。しかし、その人がその言葉を用いるやり方、その言葉から連想する言葉、あるいはその言葉にまつわるその人の行為、それらを見た上で、その人が本当に理解しているのかどうかある程度判断することはできる。

・・・ではその判断基準の根拠はそもそも何なのだろうか? 結局のところ、自らがその言葉と具体的経験(イメージやら感覚やら)とを関連づけることができているからこそ、さらにはその言葉・経験に付随する様々な出来事が(イメージであれ感覚であれ)具体的経験として自分自身において理解できているからこそ、他者の言語使用やら言語にまつわる行為の正当性が判断可能となるのである。

さらに言えば、他者の行為を理解する、とはいかなることであろうか? これも結局は、その人を観察した時の「(ヒューム的)印象」、そして「怒っている」「喜んでいる」という「言葉」との関連づけなのであって、結局は名辞と観念・印象との関係へ還元されてしまうのである。

「意味の使用説」と呼ばれるものも、究極的には「言葉の意味=言葉に対応する経験」説へ還元されてしまうのだ。結局は経験へ行き着くのである。

萬屋氏は以下のように説明されているが・・・
意味の観念説に対しては、以下の常套的な批判が向けられることになる。すなわち、もし意味の観念説が正しいのであれば、異なる話者同士の会話における相互理解という事象が不可解なものとなってしまう、という批判である。その批判の骨子は、次のようになる。例えば、二人の話者が猫の生態について会話しているときに、両者が「猫」という言葉で相互の意味するところを理解しているのであれば 、両者は「猫」という言葉で同じことを意味していなければならない。では、なぜ両者は「猫」という言葉で同じことを意味できるのか。ここで、各々の話者の心的イメージとしての観念に頼っても無駄である。なぜなら、話者の心的イメージは、他人が直接確かめられないものだからである。このようにして、伝統的な解釈によるヒュームの見解は、異なる話者同士の会話における相互理解という事態を不可解なものとしてしまうことになる。(萬屋氏、299ページ)
言語を介した「感情の交流」における相互理解の可能性を強調している。そのため、もしヒューム自身が意味の観念説を採用しているとすれば、以上の批判はヒュームにとって深刻なものとなろう。(萬屋氏、299ページ)
・・・その前に、萬屋氏はその”常套的な批判”が経験に則して「正当」なものなのか、そこから検証すべきであったのだ。

私とあなたが相互理解できたと思うとき、私の思い浮かべる「猫」の像とあなたの思い浮かべる「猫」の像とが完全一致せねばならないだろうか? そんな必要はないし、そもそも確かめようがない。しかし、私・あなたともに、「猫」という”名辞”とそれに対応する何がしかの観念(心像)あるいは印象というものが”セット”としてそれぞれに現れている(あるいは現れうる)、それ故に、お互いに「理解できた」と思えるのではなかろうか。

お互いに思う「猫」があり、その猫の性質やら、猫にまつわる物語やら過去の経験やら、それらを言語でお互いにやりとりし合いながら、それぞれの「猫」のイメージのズレに気づいたり修正したりすることも可能なのである。

つまり意味の観念説は「異なる話者同士の会話における相互理解という事態を不可解なもの」になどしないのだ。


2.そもそも経験論とは何なのか


萬屋氏をはじめとして、竹中氏、豊川市、澤田氏らの研究は、経験論的手法を全く無視した上で、ヒュームの言葉が分析哲学的文脈の中で”整合性”を持ちうるかどうかという検証に終始してしまっている印象を受ける。

経験論として最も重要である、以下の”経験論的手法”そのものがほとんど無視されてしまっているのである。
この人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は、経験と観察とにおかれなければならない。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、9ページ)
・・・いかに論理を駆使したところで、具体的経験として明確に現れている事実があれば、それを否定しようがないのである。
 どんな一般的名辞を用いるときでも、われわれは個物の観念を形作るのだということ、その際、これらの個物を残らず取り上げるのはほとんど、というよりけっしてできないということ、そして、取り残された個物は、その場の事情が必要とするときにはいつでも、それを呼び起こす習性によって代理を勤められるだけであるということ、これらは確かなことである。かくして、これが抽象観念、および一般的名辞の本性であり、そして、前に述べた逆説と思われること、すなわち、ある観念がその本性は個別的なのに、表現作用は一般的であるということも、このようにして説明されるのである。(ヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社:29~30ページ)
・・・それが一般名詞であろうと抽象名詞であろうと固有名詞であろうと、その”名辞”に対応するものは、常に個別的観念(あるいは個別的印象)である、それは私的言語批判というものがあったとしても、厳然とした事実なのである。そして観念=心像である。

各々確かめてみれば良い。抽象名詞であろうと、固有名詞であろうと、一般名詞であろうと、それは何か、と問われれば、具体的事物・事象を示したり、思い浮かべたりするしかないのである。

部分・全体、あるいは上・下、という”名辞”においてでさえ、それらは何なのか、具体的に示そうとすれば、特定の物や図形を持ってきたり描いたりした上で、その物における何が部分・全体なのか、何が上・下なのか示すしかないのである。(※ そのあたりは、拙著、「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf)で詳細に説明しています)

この”事実”を無視した上で、いくら論理を駆使したところで、それは何の根拠にもなりえないのだ。



・・・萬屋氏のこの論文については、300ページ以降においても、指摘しておかねばならない問題点がある。しっかり検証しておきたい。

2019年5月31日金曜日

精神集中していても、していなくても、思考・判断していても、「私」について考えていても、やはり主客未分である/精神集中と時間感覚

(※ 2016年5月26日の記事に少し書き足したものです)

<「私」について考えていても主客未分>


以下、西田『善の研究』の冒頭部分である。
経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。(西田幾多郎著『善の研究』岩波文庫、17ページ) 
・・・この表現では、「判断」が加わってしまったら既に純粋経験ではないように思われてしまう。しかし西田は『善の研究』第一編において、知覚のみでなく、思惟・意志・知的直観も純粋経験であることを示そうとしているのである。多くの研究者たちがこの”矛盾”を整合的に説明しようと試みてきたが、矛盾は矛盾、ここは西田の誤りと見なすのが正解なのである。

要するに「判断」が加わったとしても、そこに「私」というものなどどこにも現れていない、一般的に「思惟」「思考」と呼ばれている経験においても、実際に何が経験として現れているのか・・・”具体的”に説明すれば良いのである。結局、そこには見えているもの・聞こえているもの・感じているもの、あるいは浮かんでいるイメージ、そして「言葉」、そういった具体的事象でしかない。そこには「私」「自己」というものなどどこにも現れてなどいないのである。

さらに言えば、「私」について考えているときでさえ、そこに”自我”というものなど現れてはいない。これも具体的に試してみれば良い。現れてくるのは、写真などに映された像、鏡に映された像、感じている感覚(情動的感覚なども)、(記憶として浮かんできた)情景やらその他の五感、そしてそれらを説明する言語、そういった具体的経験でしかない。それらはやはり「(観念的)自己」ではない。

鏡や写真に写っている像と、自ら感じている触感などの感覚、その他さまざまな経験とを因果的につなぎ合わせた上で、それを「私」と呼んでいるのである。

「私は考える」と思ったとしても、そこには「私は考える」という「言葉」と、具体的なイメージやら感覚しか現れていない。そこに観念的自己・自我などどこにも見つけることができないのである。

つまり、純粋経験から離れることなどできない、常に主客未分である。ウィトゲンシュタインが形而上学的自己などないと述べているが、まさにそのとおりなのである。


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<精神集中していても、していなくても主客未分>


そして、多くの西田哲学研究者たちが勘違いしている事なのであるが・・・

精神集中していないということは、
注意があちこちに移ってしまうことである。
勉強しているのに、ついついテレビを見てしまったり、ラジオを聞いてしまったり、そういうことである。

このとき勘違いしてはならないのだが、
あくまで注意は勉強、テレビ、ラジオ、というふうに向かっているということなのだ。
そこに純粋経験の事実そのままとしての「自己意識」というものなどない。

つまり精神集中していなくても、純粋経験の事実としては主客未分であるのだ。

これは精神集中していても同じことである。
精神集中しているということは、例えば他のことに気持ちを奪われることなく、勉強している、ということである。
客観世界における理解においては、ただただ一つの対象に向かい続けている状態なのであって、「主客合一」という現象とは無関係なのである。

ただ、他のことについて考えている余地がないから、もちろん「私自身」について考えることもない。それ故に主客合一という言葉がなんだか説得力を持っているような気がしているだけなのだ。

以下の西田の説明、
たとえば一生懸命に断岸を攀ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の 如き、全く知覚の連続 perceptual train といってもよい( Stout, Manual of Psychology, p.252 )。また動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うて居るのであろう。これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡と を保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら 後者を惹起しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない。これを瞬間的知覚と比較するに、注意の推移、時間の長短こそあれ、その直接にして主客合一の点にお いては少しの差別もないのである。特にいわゆる瞬間知覚なる者も、その実は複雑なる経験の結合構成せられたる者であるとすれば、右二者の区別は性質の差ではなくして、単に程度の差であるといわねばならぬ。純粋経験は必ずしも単一なる感覚とはかぎらぬ。心理学者のいうような厳密なる意味の単一感覚とは、学問上分析の結果として仮想した者であって、事実上に直接なる具体的経験ではないのである。 (西田『善の研究』20~21 ページ) 
 ・・・を読むと、集中しているときが純粋経験で、集中が途切れたときに純粋経験から「離れて」しまうように思えてしまう。しかし、私が、

純粋経験から「離れる」ことはできない
~西田幾多郎著『善の研究』第一編第一章「純粋経験」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report13.pdf

・・・で指摘したように、西田は、純粋経験における「一事実」の定義をしただけだったにもかかわらず、その 「一事実」から「他の事実」への「変化」を、「純粋経験を離れる」と誤認してしまったのである。これがおそらく『善の研究』における(西田自身の)最大の誤解、この誤解がその後の論理の混乱を招いているのだ。

 あるものをじっと見ていたが、ふと時計を見たとする。それは経験の事実の「変化」であって、純粋経験から「離れた」わけではない。あくまで時計を見ているだけである。
 テレビの番組を何気なく見ていたが、あるときハッと気が付いて、「あそこに映ってるのは近所に住む〇〇さんだ!」と叫んでしまったとする。これも単に叫んでしまったという経験の事実(あるいは何らかの情動的感覚やらも伴っているかもしれない)が現れた、それだけのことに過ぎないのである。

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<精神集中と時間感覚>


精神集中は主客合一の問題というより、むしろ時間感覚の問題であるように思われる。上記の西田の説明からも分かるように、集中しているとき、あるいはただ魅入られるようにそのものを眺めてしまったとき、それは純粋経験の「一事実」なのであって、それらは客観的時間概念(過去・現在・未来、あるいは時・分・秒、瞬間といったもの)などにより事後的に分割・分析する以前の「一事実」なのである。さらには、”心理学者のいうような厳密なる意味の単一感覚”に応じて事後的に分析・分割される以前の「一事実」なのである。

事後的に、記憶を頼りにその経験を分析して「ドの音からレの音に変化していた」とか「赤色から青色に変化していた」と変化を認め、そこに経験の変化があったのだ、と説明することはできる(要するに厳密なる意味の単一感覚)。しかしそれはあくまで「事後的」分析である。

しかし「変化している」「推移している」と具体的に分析しないでただ集中しているような場合、やはりそれは「純粋経験の一事実」なのである。このあたりの違いはあくまで”主観的”なものであり、明確な指標により区分できるものではない。ただそう思ったのだったらそういうことなのだ。

私が、

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
来栖哲明著「西田幾多郎『善の研究』における純粋経験について」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report10.pdf

・・・において、既に述べてきたことであるが、純粋経験においては「時間」という経験の事実などどこにもない。ただ経験の「変化」を「認めた」、その「変化」を「時間」と呼んでいるだけ、ということである。
視覚だけではない、あらゆる感覚、情動など、様々な経験の変化を「時間」と呼んでいるのである。そして特定の物体の変化に周期性を見出し、時間という概念を当てはめているのだ。

集中している時は時間感覚がない。具体的に言えば、純粋経験の「一事実」から他の「一事実」への”変化”がない。しかし集中が途切れて別のものに気持ちが移るようになったとき、気が付けば朝だったはずが日が暮れているとか、周囲の物の変化(客観的時間とみなされる)との兼ね合いで、「時間が経つのが速く感じる」とか「遅く感じる」とかいう”主観的”時間感覚がもたらされるのではないだろうか。

これらのことを考え合わせると、

大人になってから時間が経つのが速いと感じるようになるのは、
大人になってからの方が集中力がついているからではないだろうか。

よく(?)、子どもの方が物事に夢中になれる、ように言われるが、実際には子どもは大人に比べ、注意散漫で一つのことに集中して取り組むことができない。
大人の方がより物事に「夢中に」なっている、ということが言えるのかもしれない。

竹田氏は、『エロスの世界像』(竹田青嗣著、講談社学術文庫)で次のように述べられている。
 何らかの努力を維持しつつ耐えること、それが実存的な意味での時間性の源泉である。言い換えれば、「砂糖が水に溶ける」その自然科学的プロセスが時間の本質なのではない。砂糖水を飲もうとする「欲望=身体」が、それが溶けるのを待つこと、自分の欲望の「ありうる」に耐えること。ここに「時間性」の本質が存在するのである。(竹田氏、250ページ)
・・・これまでの私の説明から、この竹田氏の見解は非常に的外れなものであることがわかっていただけるであろうか? そもそも「欲望」というものが具体的経験として実際に現れているだろうか?

2019年5月23日木曜日

見えているものはやはり見えている

山口西田読書会
私は今何を見ているのか
http://yamaguchi-nishida.org/sanoblog/906

・・・からの引用である。
例えば今目の前に青いマーカーがありますよね。でも「青を見ている」と言ってしまうと、もう青は見ていません。だって判断してますから。見てはいない。でも判断できるんだから、何も見ていなかったわけじゃない。何を見ていたのかな?「青を見ている」の「青」は言葉だから、言葉を見ていたの?(佐野氏)
・・・これはいくらなんでもひどい詭弁ではないだろうか? 誰も反論しないのが不思議でならない。

そこに見えているものを「青」と言語表現した、視覚経験と「青」という言語が繋がった、その経験を「判断」と呼んでいるのであって、”言葉を見ていたの?”とはあまりにひどい論理の誘導である。「事実其儘」はどこに行ったのだろうか?

「判断」していても、見えているものはやはり見えているのである。「青だ」と判断したとたんに見えているものが消えてなくなるのだろうか?


2019年5月14日火曜日

理念型としての「純粋経験」!

里見軍之著「純粋経験について」『待兼山論叢』第33号哲学篇(1999) 、1~13ページ
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/9361/mrp_033-001.pdf

・・・というのをたまたま見つけたのだが、(まだ読み始めたばかりであるが)
理念型としての「純粋経験」(里見氏、1ページ)
・・・という表現には正直たまげた。ここでヴェーバーか! 経験論における純粋経験とは全くかけ離れた考え方である。純粋経験が理念・・・

ただ、様々な哲学者による経験、純粋経験の位置づけを知るにはそれなりに参考にはなりそうだ。

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一般的に、哲学者は経験論的思考が非常に苦手な人たちのように見受けられる。というか経験論的・具体的思考の否定、抽象的思考=哲学、のように勘違いしている節がある。経験論者でさえちょっと油断すると、すぐに抽象的思考へ向かってしまいがち、抽象概念のいじくりまわしに陥ってしまうのである。

ジェイムズでさえ、経験を額面どおり受け取ると言いながら、結局は抽象的思考へ進んでしまったし・・・「理念型」と捉えられても仕方ない面があるのも事実である。

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そういえば、ヒュームの因果関係の分析もできたし、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』後半部分の分析の準備も整いつつあるかもしれない。


2019年5月12日日曜日

印象⇒観念の関係とは、ある観念(心像)が浮かんできたとき、それが特定の経験の記憶として同定できるかどうか、ということに集約される

(今日はあわてて書いたので、文章が少し変かもしれません)

ヒューム『人性論』の分析をどのように進めていくか、いろいろ考えているのだけど、様々な問題が、それぞれ関連し合っているので、どこからどう攻めたものか、なかなか難しいところがある。

『人性論』は難解な言葉が使われていないから、一見読みやすそうに思えるかもしれないが、ヒューム自身の見解のブレもあって、実際のところはけっこう読み進めるのが難しいのである。そして掘り下げると様々な哲学的問題がかかわっていることに気づくはずだ。(ヒューム研究に携わる人は別にして)巷の読者はけっこう雑に読んでしまっている印象がある。

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ヒューム『人性論』の第一巻における重要な問題点は、とりあえず思いつくところを挙げてみると、

①印象⇒観念、の関係(複写理論・コピー理論)
②時間と空間
③抽象観念とは
④関係とは(因果関係含む)
⑤記憶と想像の違い
⑥信念とは
⑦ 情念と印象・観念とのかかわりあい・・・⑥と関連して
⑧存在とは

・・・といったところだろうか。拙著(ヒューム『人性論』分析:「関係」について)では②③④について書いたものである。

ここのところ考えているのは、複写理論・コピー理論を掘り下げていけば、⑤⑥⑦の問題も関連して扱えるかな・・・ということである。

複写理論・コピー理論については、

澤田和範著「ヒュームの因果論における必然性の観念について」『哲学論叢』38、2011年、 61~72ページ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173207/1/ronso_38_061.pdf

豊川祥隆著「ヒュームの関係理論再考―関係の印象は可能か―」『イギリス哲学研究』 39(0)、日本イギリス哲学会、2016年、67~82ページ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sbp/39/0/39_2016_0067/_article/-char/ja

・・・でも触れられているが、よくよく掘り下げて考えてみると、澤田氏・豊川氏とは全く別の論点が浮かび上がって来るのである。これについては後日じっくり論じてみたい。

複写理論について、念頭に置いておかねばならないのは、

(1)複写理論・コピー理論も結局は「因果関係」である。因果関係であるから恒常的相伴以上の必然性を見いだすことはできない。また複写理論を因果関係の根拠づけに用いることはできない。因果関係で因果関係の根拠づけをすることになるからである(循環論法)。
(2)単純観念が浮かんできたとき、そのオリジナルとなる印象は既にどこにも見つけることはできない。以下の西田幾多郎の指摘がまさにそういうことである。
記憶においても、過去の意識が直に起ってくるのでもなく、従って過去を直覚するのでもない。過去と感ずるのも現在の感情である。抽象的概念といっても決して超経験的の者ではなく、やはり一種の現在意識である。(西田幾多郎『善の研究』岩波文庫、17ページ)
・・・つまり印象⇒観念の関係とは、ある観念(心像)が浮かんできたとき、それが特定の経験の記憶として同定できるかどうか、ということに集約されるのである。

そこで、記憶と想像との違い、という問題が関連してくる。そしてその答えは、ヒューム自身がシーザーの事例で示しているように、特定の時間と関連づけてその観念を説明できるかどうか、つまり実際に起った事実として認められるかどうか、という問題になって来るのである。(時間のみでなく、空間的位置づけも問題になって来る)

(ということは、想像した事実があれば、それも「事実」なのであって、ある事象が生じれば特定の想像を呼び起こすという因果関係も成立しうる)

・・・今日は時間切れなので、このあたりで。

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<「類似原理」は確かめようがない>

豊川氏は次のように説明されている。
コピー原理は、「初めてわれわれに現れるすべての単純観念は、それに対応し、それが正確に表象するところの単純印象に由来する」(T.1.1.1.7)と定式化される。この原理は、単純印象と単純観念の間に成立する二つの関係を示している。第一に、ある単純印象と単純観念は、内容的に類似する。例えば、青の単純印象と単純観念は、われわれに現れる鮮明さの点で異なるだけで、その内容は同一である。この関係性を、「類似原理」と呼ぶことにしたい。また第二に、ある単純観念が生じるためには、その内容を共有する単純印象が先に現れている必要がある。青を観念として思い浮かべるためには、あらかじめ青が印象として知覚されていなければならない。この関係性を、「先行原理」と呼びたい。そしてコピー原理は、「第一原理」(T.1.1.1.12)と言われているように、ヒューム哲学にとって極めて重要であり。他の体系の批判の際に盛んに用いられている。(豊川氏、69ページ)
・・・上記の「類似原理」は確かめようがない。あるいは「類似」を確かめるためには写真に撮ったり、音なら録音したり、そういった因果関係に依存した事実把握に依らざるをえない、ということである。さらに、実際にそれが自分がそのときに撮影したのかどうかも、記憶の観念(心像)に基づかざるをえない。しかもそのときの「印象」など既にどこにも残っていないのである。

さらに言えば、「黄色」の単純観念がもたらされるために、その「印象」をどこに辿れというのであろうか・・・? 個人的にそんなこと覚えてなどいない。黄色のものをあちこちに見出すことはできる。しかしそれがどの「印象」に由来するのかなど確かめようがないのである。結局、黄色のものを見たことのない人と黄色のものを見たことがある人とを比較した上で因果的に、印象と観念との関係を導きだすしかないのである。





2019年4月24日水曜日

因果推論するのに必然性あるいは恒常的相伴は必要ない

澤田和範著「ヒュームの因果論における必然性の観念について」『哲学論叢』38、2011年、 61~72ページ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173207/1/ronso_38_061.pdf

・・・を読み始めた。

そもそもの話なのだが、因果推論するのに「必然性」を伴う必要があるのだろうか?
必然性がないと因果推論できないのだろうか?

私たちは、日ごろから必然性などおかまいなしに因果推論している。因果推論が「正しく」なければ因果推論できないのか? そんなことはない。皆さん根拠があろうとなかろうと勝手に因果推論している。(ただそこで間違ってならないのだが、因果推論したことが事実である、ということは、因果律がア・プリオリであるということではない。)

その因果推論が「正しい」のか「間違いなのか」・・・それは新たに現れる事実により確認されるのである(”新たな”事実とは、これまで知らなかった過去の経験である可能性もある)が・・・そこで初めて「恒常的相伴」が問題となって来るのだ。

そしてヒュームがここで「印象」を持ち出しているのは、因果関係の「正しさ」は事実によってもたらされるのであって、「想像」によってもたらされるのではない、ということなのである。そこでヒュームが想像と記憶との違いは何か、と問う意義があるのだ。

ただ・・・ヒューム自身、因果推論した「理由」と因果推論の「正しさ」(=客観性=恒常的相伴)の検証の問題とを混同しているため、論理に混乱を来してしまったのである。
 我々は一方の対象の印象が心に現れると、もう一方の対象の観念を思い浮かべる。これが因果推論である。この推論はアプリオリに対象を考察しただけでは不可能であり、経験がそれを可能にすることがわかる。すなわち、二対象が「恒常的随伴」の関係にあるのを 経験して初めて、因果推論は起こる(T 1.3.6.3)。経験を考慮に入れることによって、我々は 恒常的随伴という新たな関係を発見できたのである。ところが、この関係の発見によっても事態は好転しない。恒常的随伴は「どんな新しい観念もけっして発見できず、ただ精神の対象を多数化することができるだけで、拡大することができない」(ibid.)からである。必然性の観念は依然として見つからない。(澤田氏、62ページ)
・・・因果推論は、”二対象が「恒常的随伴」の関係にあるのを経験して初めて”起こるのではない(澤田氏はまずここを指摘すべきであったのだが)。因果推論とは、ただ未知の事象を因果的に推測した具体的経験であるに外ならず、その未知の事象が実際に経験として現れることでその推論が「正しい」と確かめられるまではその「正しさ」「必然性」は確保されることがないのである。

推論に必然性をいくら探しても見つからないのは当然なのだ。
さらに言えば、因果推論の「原因」「理由」を探しても、結局それも「因果推論」にならざるをえない。(つまり”無限後退”であるが、澤田氏の言われる”無限後退”がこのことに関連しているのかどうかは、後日、論文の後半部分を読んで判断したい。)
我々は外的対象において、必然的結合を知覚することはできない。我々は外的対象間の必然性を信じるために、精神の被決定に訴えることになる。しかし、「この精神の被決定の 印象とは対象 Aの印象の現前が対象 Bの観念の現前の原因であるという、したがって、対 象 A の印象が対象 B の観念と必然的に結合しているという印象に他なら[ない]」(木曾, 1995, 531頁)。そうだとすれば、厄介なことに、この対象 Aの印象と対象 Bの観念との必 然的結合に関しても、事態は外的対象間の必然的結合の場合と変わらない。「我々の内的知覚の間の結合原理は、外的知覚の間の結合原理と同様に、知的に理解できず、経験によ って知る他には知りようがない」(T 1.3.14.29)とヒューム自身が認めているからである。(澤田氏、64ページ)
・・・澤田氏の指摘はもっともであろう。複雑観念に関して、ヒュームは「きずな」「穏やかな力」「引力」という用語を持ち出している。しかしこれは明らかにヒューム自身のブレである。
今度は、その知覚間の必然的結合を「その知覚の知覚」間の、別の新たな精神の被決定で説明してしまおう。これがヒュームの戦略だというわけである。
 しかし、このような議論では、問題を先送りにしただけで、観念の起源を説明し切れないことは明らかであろう。(澤田氏、64ページ)
・・・必然性の「観念」などどこにあるのか、という問題もあるのだが。あるいは経験論においては、恒常的相伴がまさに必然性そのものなのである。科学的客観性も恒常的相伴(再現性)に他ならない。
ヒュームが、一方で、「精神の被決定を感じる」と主張しながら、他方で、外的対象間にも内的知覚間にも必然的結合を知覚できないと主張していることに鑑みれば、無限後退説はヒュームの因果論の避けがたい破綻を捉えているように見える。しかし、これはあまりに破壊的な解釈である。この解釈から、ヒュームを救い出すことはできないだろうか。(澤田氏、65ページ) 
・・・果たして澤田氏はこのあとどのような論理に持っていかれるのか? 明日以降の楽しみ(??)にしておこうと思う。


<関連するレポート・ブログ記事>

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

ヒュームは因果推論における「経験」の位置づけを見誤っている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post.html

ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_6.html

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...